第1部-境界の海-第10話
十時三五分。それぞれの思いを抱えた飛行機は、無事に小松空港に降り立った。到着ゲートを潜った衣緒が思わず声を上げる。
「あ、涼しい」
「涼しいと言っても三十度あるよ」
気温を示した電光掲示板を見ながら苦笑を漏らす父に、衣緒が顔を振る。
「でも、熊谷より涼しい」
「熊谷と比べちゃいけないな」
そう言いながら、草平は階段を指差した。
「衣緒。せっかくだから展望デッキ行ってみよう」
言われるままにふたりで展望デッキへ上がる。夏休みということもあって、なかなかに人が集まっている。滑走路などは羽田に比べると随分こぢんまりとしているが、衣緒は目の前に広がる山並みに歓声を上げた。
「わぁ、すごい! 山綺麗!」
「そうだね」
山並みを包む青空には、明るく輝く入道雲がいくつも浮かぶ。どこまでも続く山並みを目で追う娘に、草平が声をかける。
「見てごらん、あそこ」
眼差しを向けると、そこには威圧感のある灰色の飛行機が並んでいる。物々しい空気に衣緒が眉をひそめる。
「あれって……、戦闘機?」
「そう。小松空港は自衛隊の基地と共有なんだ。日本海で領空侵犯があると、ここからスクランブル発進するんだ」
「ふぅん……」
毎年さくら祭で訪れる熊谷基地で自衛隊の雰囲気には慣れていたつもりだったが、それでもやはり戦闘機を目にすると緊張する。周りではちびっ子、特に男の子たちがかっこいい戦闘機にはしゃいでいる。
しばらく飛行機を眺めていた親子は、やがて空港を出ると福井方面へ向かうバスに乗り込んだ。
「思ったより冷房がきいてるな。衣緒、寒くないか」
「ボレロ持ってきてるから。父さんは?」
「父さんは大丈夫」
座席に腰を下ろし、ボレロを着込んでから微笑みかける。
「父さんの言うとおり、羽織るもの持ってきて良かった」
が、衣緒は思わず口をつぐんだ。ついさっきまで明るかった父親の顔付きが固く強張っている。心なしか、顔色も青い。
「父さん」
娘の声に振り向くと、心配そうに見つめられる。
「……大丈夫?」
「――ああ、大丈夫だよ」
そう言って笑うが、どうしても顔が引きつったように見えるのだろう。草平は娘に不安を感じさせまいと、大きな手で髪を掻き撫でた。乱れた前髪の下で、衣緒も柔らかな微笑を浮かべるが、それでも不安の色がありありと見える瞳に草平は胸が締め付けられた。あと一時間もすれば福井に辿り着く。両親と、衣緒の母親から逃げるように去った、福井へ。
高速バスは快調に走っていった。衣緒は車窓から流れゆく広い平野を飽きることなく眺め続けている。朝から何度も乗り換えを繰り返し、親子共に疲れているはずなのに、衣緒は多少の興奮から、草平は緊張と不安で眠ることができなかった。親子は黙りこくったままバスに揺られていたが、時折衣緒が目にしたものを父に尋ねていた。
やがてバスはインターを降りた。このまま向かうは福井駅東口。否が応でも故郷の地は近づいてくる。市内に入ると、懐かしい風景と見知らぬ建築物が入り混じる街並みが広がる。十五年も経てば街は変わる。草平は胸騒ぎを感じながら街並みを目で追う。
「綺麗な街」
衣緒がぽつりと呟き、「ああ」と返す。やがて、車内アナウンスが終点を告げる。バスは福井駅東口のターミナルで停車した。
「大きな駅だ」
衣緒は少しわくわくした顔つきでバスから降りた。駅を見上げてから周りをきょろきょろと見渡す。そんな娘に少し遅れて、ボストンバッグを手にした草平がバスから降り立つ。溜め込んだ息を吐き出し、目を細めて辺りを眺め渡す。
自分たちのように大きな荷物を抱えた家族連れやカップルの姿が多い。そして、綺麗に垢抜けた駅舎を見上げる。自分が知っている駅ビルと違う。さすがに立て替えたらしい。更に、来年の北陸新幹線開業に向けたポスターを目にして「あぁ」と声を漏らす。ようやく長野新幹線が北陸とつながるのか。と、そこで思わず胸が詰まる。こんなにも時間が過ぎてしまったのか。不意に襲われた焦燥と情けなさ。草平は顔を歪めて目を伏せた。懐かしいはずの故郷にとって、自分は異物だった。覚悟はしていたが、この衝撃は胸の奥深くまで染み入ってゆく。草平は、先ほどから鳴りやまない脈打つ鼓動にごくりと唾を呑みこんだ。そして、溜め込んだ息を大きく吐き出してから顔を上げ――、
「お腹空いたなぁ」
いつもと変わらない、娘の声。
「お昼食べる前に何か食べちゃおうかな。ねぇ、福井って美味しいお菓子あるの?」
衣緒は駅舎に貼ってあるポスターを興味津々な様子で眺めながら呼びかけてくるが、それどころではない草平は返事ができなかった。
「おじいちゃんたちまだかな。ねぇ、ケータイの番号は?」
そう言って見上げてきた衣緒は、父のただならぬ表情に言葉を失った。そして、にわかに不安そうな顔つきになると父の視線を追い、後ろを振り返る。
草平の眼差しの先に、一組の老夫婦がいた。男性は暑い最中にも関わらず、糊のきいた真っ白なシャツに紺色のネクタイをきっちりと締め、チャコールグレーのスラックスを履きこなしている。女性の方は淡いベージュのツーピース。地味だが上品な装いは懐かしい感情を掻き立てた。ふたりとも真っ白な髪が風にそよぎ、ただ黙ってその場に佇んでいる。その表情はわずかに強張っているようにも見えた。深く刻まれた皺。ひそめられた眉。それでも、期待が込められていると信じたい眼差し。草平はゆっくりと足を踏み出し、老夫婦の元へと歩み寄った。衣緒が黙って小走りで追う。老夫婦の前までやってくると、草平はボストンバッグを足許へ置いた。
「……父さん、母さん」
どうしても声がかすれてしまう。草平は両手をぐっと握り締めると深々と頭を下げた。
「ただ今、帰りました」
父親の姿に、衣緒も同じように頭を下げる。そして、顔を上げてもまだ父は頭を下げたままだ。衣緒は怖々と父と祖父母を見比べた。
「……草平」
老人の口から名が漏れ出る。草平はようやく顔を上げた。
「お帰り」
老女の声は柔らかく、温かだった。衣緒は少しほっとした様子で父を見上げる。だが、父の顔は先程よりもむしろもっと引きつっているようにも見えた。
「あなたが衣緒ちゃんやね」
言われて振り返ると、祖母は目尻を下げて笑いかけた。
「ああ、可愛いおぼこいねぇ。こんなに大きゅうなって……」
言葉の途中から涙声になり、口を覆う。衣緒は居住まいを正すともう一度頭を下げた。
「衣緒と言います。……初めまして」
「初めてじゃないんよ」
初めてではない。衣緒は口をつぐんで祖母を見つめた。
「あなたがまだ赤ちゃんだった時に会っとるんよ。もちろん覚えとらんよねぇ」
そして、祖母は祖父を仰ぎ見た。
「ほら、お父ちゃん。あんたも声掛けてあげてや」
言われて祖父は少し気恥ずかしげに顔をほころばせた。
「……こんにちは。佐倉
「美恵子です」
祖父母は几帳面に一礼した。衣緒はほっとした様子で表情をゆるめた。良かった。優しそうな人たちだ。
「お腹空いたでしょう。ちょっとここから離れてるんやけどね。タクシーで行こっせ」
「店、決めてあるの?」
まだ緊張を感じさせる声色で尋ねてくる息子に、美恵子が頷く。
「予約しとるよ。『水仙里』にね」
「水仙里!」
父の声に衣緒がびっくりして振り返る。
「そんな高いところに?」
「馬鹿たれ」
少し呆れたように声を上げる息子に樹が野太い声で言い返す。
「孫が遠くから来るんじゃ。変なところへ連れていけるか」
有無を言わさぬ迫力に思わず衣緒が体を固くする。そんな孫に気付いた美恵子が夫の袖を引っ張る。
「お父ちゃんたら、またそんな言い方して。この子が怖がっとるやないの」
ぎくりとしたのは樹だけではなかった。樹と草平は気まずそうに顔を見合わせた。衣緒がまだ乳飲み子だった頃、互いに言い争いをしていた自分たちに幹恵が放った「この子が怖がっているわ」という言葉を思い出したのだろう。
「ごめんね、衣緒ちゃん。おじいちゃんは怒っとるんじゃないんよ。こういう言い方しかできん人でねぇ」
「あ、大丈夫です……」
衣緒は笑顔を取り繕うと父を見上げる。
「知ってるところ?」
「……うん。昔からある有名な懐石のお店だよ」
「懐石料理……!」
驚く孫に美恵子が説明を付け加える。
「若い子に懐石はどうかとも思ったんやけど、せっかくなら福井の美味しい料理を食べてもらおうと思ってねぇ。予約する時に魚介は使わないように頼んであるから安心してね」
「はい……、ありがとうございます!」
四人は駅前のロータリーからタクシーに乗り込むと、郊外へ向かった。隣に座った美恵子は、窓から見える様々なものをひとつひとつ孫に説明してやり、衣緒も興味深そうに話に聞き入った。
「ほら、あそこに走ってる汽車がえちぜん鉄道って言ってね、永平寺まで行けるんよ」
「永平寺……、聞いたことあります」
対する男たちは黙ったままだ。樹の方は孫が福井の街並みに興味を示している様子に満足しているようだったが、草平の方はまだ緊張感を漲らせたまま俯いている。時々窓に目をやり、懐かしい風景に目を細めるだけだ。
タクシーは三十分ほどすると小高い山の麓までやってきた。
「古墳……」
看板を見つけた衣緒が思わず呟く。
「そう。この山は古墳がいくつかあるんよ。春は桜が綺麗でね」
少し奥へ入ると山門のように立派な門構えが見えてくる。タクシーはその門の前で停車した。
「さ、着いたよ」
太い柱を組み合わせた、屋根の着いた大きな門。そこに豪快な筆遣いで「水仙里」と墨書してある。緑に囲まれた大きな日本家屋。美しくも時の流れを感じさせる古い屋根瓦。苔むした庭石。懐石料理の店というよりも、由緒ある寺にしか見えない。衣緒は圧倒された様子で辺りを見渡した。
「すごい……」
「美味しいところだからね」
一行が門を潜ると、中年の和服の女性が出迎える。
「いらっしゃいませ、佐倉先生。お久しぶりです」
樹は笑って頷いた。
「先生?」
「おじいちゃんは中学校の校長先生をやっていてね。ここの女将さんは教え子なんよ」
祖母の解説に衣緒は父の言葉を思い出した。中学校の校長をしていた祖父は厳格な性格だと。
女将の案内で四人は離れの座敷へと案内された。飴色に磨き上げられた廊下に面した中庭は、緑が美しい池や灯篭が配され、真夏の昼だというのに辺りはひんやりとしていた。緑や土に囲まれているからだろうか。
「どうぞ。すぐにお持ちいたしますね」
そう言うと女将は一旦座敷から引き下がった。衣緒は居心地悪そうに座敷を見渡す。
「……すごいところだね、父さん」
「うん」
はしゃぐこともなく、だが目にするものに興味を持って目を輝かせる孫を祖母は目を細めて見守っている。一方、父と向かい合って座った祖父は黙って茶を啜っている。そんなふたりを見やり、よく似ている、と衣緒は思った。ふたりとも派手さはないが清潔感のある着こなしで、口数は多くない。祖母の面影も伯母を思い出させた。本来は家族仲は良かったのだろう。と、そこまで思って衣緒は顔を強張らせた。やはり、その仲の良い家族を乱したのは自分だったのではないか。雄輔は自分のせいではないと言ってくれたが、それでも自らの立場を思うと心苦しい。
「お待たせいたしました」
控えめに声がかけられ、和装の女性たちが膳を運んでくる。食欲をそそる良い香りと共に、品のいい器に綺麗に盛られた料理の数々に衣緒が目を丸くする。
「つるむらさきの胡麻和え、菊花とシメジのお浸し。永平寺の胡麻豆腐。湯葉のお吸い物でございます」
上品に小ぢんまりとした盛り付けに衣緒は思わず量が足りるか心配になるが、とりあえず両手を合わせる。
「いただきます」
皆も手を合わせて箸を取る。まずは椀を手にし、吸い物の湯葉から食べてみる。次いで胡麻豆腐。ねっとりとした濃厚な味が口に広がる。衣緒の顔に微笑が咲く。
「美味しい」
草平は「そうだね」と小さく呟いた。
「良かったわぁ。口に合って」
安心したような口ぶりの祖母に微笑みながら頷く。
「衣緒ちゃんは高校生だったっけ。学校は楽しい?」
箸を下ろすと衣緒は頷いた。
「はい。友達もたくさんできました」
「そう、良かったわぁ」
孫の言葉にいちいち嬉しそうに頷く美恵子は、それからも質問を繰り返す。
「勉強はがんばってる?」
「勉強は……、苦手ですけど、がんばっています。歴史と現代国語が好きです」
「ああ、草平と同じだ。ねぇ、草平」
「うん」
言葉数少なく返す父を見ると、あまり箸が進んでいないようだ。少し不安そうな表情になった衣緒に再び美恵子が声をかける。
「本はよく読むの?」
「あ、はい」
慌てて祖母に向き直る。
「ミステリーとか歴史小説が好きです。クリスティとか、ドハティとか――」
「日本の文学は読ませとらんのか」
不意に上がった野太い言葉に衣緒は石のように固まった。
「父さん」
たまらず草平が鋭い声を上げ、美恵子と衣緒は眉をひそめて顔を見合わせる。座敷に緊迫した空気が流れる。
「いい本は薦めるけど、無理強いはしないよ。自分が興味を持った世界を広げていけばいい」
「お父ちゃん」
納得していない表情の夫に美恵子が袖を引っ張る。草平は、すっかりおびえた表情をしている衣緒に声をかけた。
「衣緒、最近読んだ本をおじいちゃんに教えてあげなさい」
「あ――」
途端に表情を明るくした衣緒が祖父に身を乗り出す。
「中也です。中原中也!」
孫の弾んだ声に樹も目を見開く。
「クラスメートに薦められて、初めて詩集を読んでみたんです。独特なリズム感と言葉の響きが印象的で、詩もいいなって思いました」
美恵子もここぞとばかりに調子を合わせる。
「ああ、中也はいいわねぇ。どの詩集?」
「『在りし日の歌』です。これを機に、他の詩集も読んでみようかなって」
美恵子は嬉しそうに何度も頷くと夫を振り返り、「お父ちゃん」と呼びかける。樹は顔をしかめると「うむ」とだけ唸った。衣緒がそっと父を見上げると、父は申し訳なさそうに微笑を浮かべる。衣緒はほっと息をついたが、少し困った表情で唇を引き結ぶ。このままでは駄目だ。仲直りなどできない。父が一大決心をして十五年ぶりに故郷に帰ってきたのだ。何としても仲直りさせなければ。
「ピンチの後にはチャンスあり」
脳裏に雄輔の言葉が響く。そうだ。これはチャンスだ。衣緒は背筋を伸ばすと、思い切って話しかけた。
「――おじいちゃん」
孫の呼びかけに樹は目を見開いて顔を上げる。
「校長先生の前は、何の先生だったんですか?」
妻や息子の突き刺さるような視線に居心地悪そうに咳払いをすると、樹は生真面目に答えた。
「国語の先生だったよ」
「国語。父さんと一緒だ」
衣緒は嬉しそうに目を輝かせた。
「だから本にはこだわりがあるんですね。おじいちゃんが国語の先生だったから、父さんも文学の研究をするようになったんだね」
草平は少し気圧された感じで頷く。そして、思わず父を振り仰ぐ。孫が必死に自分たちの仲を取り持とうとしている。それにようやく気付いた樹が神妙な面持ちで衣緒を見つめていた。孫の思惑を察した美恵子も笑顔で身を乗り出す。
「ほうよ。おじいちゃんは本をたくさん持っていたから、お父さんも小さい頃から本が好きでね。ほやから国語が大好きだったんよ」
「やっぱり」
衣緒は顔をほころばせると声を弾ませた。
「うちも、父さんの本でいっぱいなんです。だから、私も国語とか歴史とかが好きになって……。父さんと、おじいちゃんのおかげですね」
草平は思わず父を仰ぎ見た。樹も黙って見返してくるが、その眼差しからはもはや不機嫌さは失せ、微笑ましげな温かさに満ちている。
「衣緒ちゃんは将来何になりたいの」
「まだ、はっきりとは決めていないけど……、父さんみたいに研究する仕事がいいです」
その言葉に草平は驚いて箸を置く。
「……そんなの、初めて聞いたぞ」
「初めて言ったもん」
ちょっと得意げな顔つきでそう返す衣緒に、草平の表情がようやく和らぐ。そこで再び料理が運ばれてくる。生麩の田楽、焼き茄子のあん掛け、そして、華やかな盛り付けの赤ずいきす このちらし寿司。衣緒は早速ちらし寿司を頬張る。
「美味しい。福井って美味しいものばかりだね」
明るい表情で箸を進める衣緒に、大人たちの顔つきが穏やかになってゆく。草平が父に眼差しを向けると、彼は黙ったまま力強く頷いた。その様子を目にした美恵子はほっと安堵の息をつく。だが、美味しそうにちらし寿司を食べていた衣緒だったが、やがて足をもぞもぞと動かし始めた。
「ああ、衣緒ちゃん。足痛いんやろ。長い間おちょきんして」
「おちょきん……?」
不思議そうな顔つきで繰り返す衣緒の隣で、草平は思わず胸が詰まった。
「……正座のことだよ」
「へぇ。おちょきんって言うんだ。可愛い」
先ほどから耳にする両親の福井弁が、故郷に帰ってきたという実感を強くする。それからは和やかな空気に満ち、衣緒も祖父母との会話を楽しんだ。やがて膳が下げられ、最後に甘味が饗されると聞いた衣緒が腰を上げる。
「ちょっとトイレ……」
すると、料理屋の女性が「ご案内いたしますよ」と声をかける。
「ああ、衣緒ちゃん」
座敷を出ようとする孫に美恵子が呼びかける。
「ここは元々お寺でね、お庭がとっても有名なの。見ておいで」
言われて衣緒は庭に目をやった。確かに見事な日本庭園だ。
「はい。ちょっと見てきます」
そう言って廊下をゆく衣緒を見送り、その姿が見えなくなった頃合いを見計らった樹が「草平」と呼びかける。振り向いた草平に、机の下から厚みのある封筒を取り出す。
「……持ってけ」
その封筒が銀行のものだと気付いた草平が顔を歪める。
「どういうことだ、父さん――」
「勘違いすんな」
上擦った声を上げる息子に樹は鋭く制する。
「おまえにやるんやない。あの子にだ」
草平は言葉を失って父を凝視した。父は昔と変わらない鋭い眼光で見つめてきた。
「……あの子がこれからの人生で壁にぶち当たった時に、こんなもので解決できるなら使え」
まだ困惑が隠せないまま草平は差し出された封筒を見つめる。
「はよう仕舞え。あの子が戻ってくる」
それでもまだためらう草平に樹は封筒をぐいと押し付ける。
「……父さん」
呆然と項垂れる草平に、美恵子が身を乗り出して囁きかける。
「おまえ、まだ独りなのかい」
「うん。……お付き合いしている人もいないよ」
「そう……」
申し訳なさそうな表情で封筒をボストンバッグに押し込む草平を樹が黙って見守る。
「じゃあ、本当にひとりであの子を育てたんやね……。いい子やないの。安心したわ」
「俺ひとりじゃないよ」
溜息交じりに呟く。
「姉さんや義兄さんには本当に助けてもらった。他にも、色々と。……母さんや、父さんにもね」
ぎくりとした表情の母に草平が笑いかける。
「姉さんを通じて、衣緒にたくさん服を送ってくれたね、母さん。父さんも、姉さんから衣緒の様子をよく聞いてくれてたって。……本当にありがとう」
父は口許を歪めて黙り込み、母は目頭を押さえて背を丸めた。その姿に、両親の「老い」を見た草平は胸が締め付けられるのを感じた。こんなにも長い間、故郷を留守にしていたのかと。
「……心配で心配で……。おまえが本当に、あんな小ちゃな子を育てられるんかって……」
鼻を啜りながら呟く母に、草平は膝の上で手を握りしめて俯いた。
「でも本当に、ええ子に育ってて良かったわ……。ねぇ、お父ちゃん」
そう呼びかけられ、樹は「ああ」と低く唸る。
「――父さん、母さん」
不意に声を上げると、草平は座布団から畳へ降り、両手を突いた。突然のことに両親が息を呑んで凝視する中、草平は深々と頭を下げた。
「……すいませんでした……!」
はっきりとした口調で言い切る。静かな座敷に母の咽ぶ息遣いしか聞こえない。やがて、低い溜息が漏れ出る。
「……もうええ」
角が取れた穏やかな声音。草平は恐る恐る顔を上げた。そこにいたのは、厳しい表情こそ変わらないが、柔らかな眼差しの父がいた。
「これまで以上に、しっかりやれ」
「……はい」
草平は、こみ上げてくるものを感じながら大きく息を吐き出した。その時、美恵子が座敷の外へ目を向けて身を乗り出し、皆がその視線を追う。
庭に広がる池の淵に面した廊下で、スマートフォンを構えた衣緒の姿があった。何度かシャッターを切り、やがて座敷に向かって笑顔で手を振る。清楚なワンピースが風にそよぐ様に美恵子は顔をほころばせた。
「本当におぼこい子やわ。ええ子やし」
やがて座敷に戻ってくると、衣緒はスマートフォンの画像を父に見せる。
「素敵なお庭。ほら、この灯篭可愛い」
「そうだね」
親子が睦まじく会話する様子を樹と美恵子は安堵の表情で見守る。そのうちに、座敷に甘味が運ばれてくる。
「葛饅頭でございます」
「わ、美味しそう」
衣緒は嬉しそうな声を上げたが、草平はぎょっと顔を引きつらせた。涼しげな半透明な餅に餡が透けて見える。それは草平に「寒天質の塊」を思い出させた。だが、そんなことに構う風もなく、衣緒は笑顔で葛饅頭を頬張る。
「美味しい。あっさりしてる」
孫の喜ぶ姿に目を細めていた美恵子は、思い出したように鞄を引き寄せた。
「ほや。衣緒ちゃんにお土産を用意してたんよ」
「えっ」
口をもぐもぐさせながら口許を手で覆う。美恵子は鞄から小さな手提げ袋を取り出し、孫に手渡す。
「開けてごらん」
衣緒は期待に満ちた表情で受け取ると手提げ袋に手を差し入れる。手にしたのは薄い箱。ゆっくりと蓋を開けると、衣緒が思わず「わぁ!」と歓声を上げる。
「綺麗……!」
そこに現れたのは、冷たい光を弾く天然石のブレスレットだった。喜びに満ちた顔で見上げてくる娘だったが、草平は息を呑んで石を凝視した。
真っ赤な血を思わせる濃い紅の石。こっくりとした深い色合いの赤石が三粒ずつ並び、間に滑らかな光沢の白い石が配されている。血のような赤は、あの晩人魚の腰に張り付いていた緋縮緬を脳裏に浮かび上がらせた。草平は目を逸らせず、じっとブレスレットを見つめた。
「綺麗ですね。カーネリアンですか?」
「ああ、さすが女の子だ。よう知ってるね。でも、カーネリアンとはちょっと違うの」
そう言って美恵子は赤い石を指さした。
「これは赤瑪瑙と言ってね、もとはカーネリアンなんやけど、カーネリアンを焼いて真っ赤に仕上げてあるんよ。こっちの白い石は白蝶貝。これも綺麗やろ?」
衣緒は興味深そうに目を見開いてブレスレットを手に取った。飴玉のようにつやつやと光る赤い石に、衣緒の表情が華やぐ。
「いい色……」
「福井は越前地方と若狭地方からできてるんやけど、若狭には昔からこの赤瑪瑙の細工が有名なんよ。赤瑪瑙の置物なんかはもう流行らないやろうけど、こういうブレスレットなら若い子が身に着けてもいいかねぇと思って」
「とっても綺麗です。着けていいですか」
「ええ、着けて」
早速左の手首に通すと、嬉しそうに父を見上げる。だが、衣緒の白い肌にまとわりつく赤い石はどうしても血の雫にしか見えない。草平は黙って頷いてから、母に「ありがとう」と囁く。
「ありがとう、おばあちゃん。大事にします」
「ああ、気に入ってもらえて良かったわ」
「あ、そうだ」
衣緒は思い出したように席を立ちと、ボストンバッグの隣に置いたトートバッグを取り上げる。
「これ、熊谷のお土産です」
そう言ってお菓子の箱を差し出す。
「五家宝といって、もち米と黄粉のお菓子です」
「わぁ、嬉しいわぁ」
美恵子は満面の笑みで菓子折りを受け取る。
「お父ちゃん」
妻の呼びかけに、樹も表情をゆるませる。
「……ありがとうな」
衣緒はほっとした様子で微笑んだ。
「とっても美味しいお菓子なので。きっと気に入ってもらえると思います」
「ありがとうねぇ、衣緒ちゃん」
やがて甘味も食べ終え、お茶を済ませると四人は女将に見送られて店を出た。再びタクシーに揺られて福井駅まで戻ると、ターミナルに降り立つ。
「今日はこれからどうするの」
「仰浜に行く。昔世話になった民宿に泊まることになってる」
母の問いに草平が答え、美恵子は「そう」と少しだけ寂しそうな表情で呟く。が、気を取り直して笑顔に戻ると衣緒の手を取る。その手は小さくて皺だらけだったが、とても柔らかく、温かだった。衣緒も思わず力を込めて手を握り返す。
「今日はよう来てくれたね。会えて本当に良かったわ」
「はい、ありがとうございます」
衣緒もはにかんだ表情で答える。美恵子が「お父ちゃん」と呼びかけると、樹はいかつい表情を和らげさせた。
「……衣緒」
初めて名前を呼んでもらえた。衣緒の顔がぱっと華やぐ。
「はい」
「……次は家へ来なさい」
その言葉に目を見開き、慌てて父を振り仰ぐ。草平も言葉を失って立ち尽くしている。
「また来い」
短く告げられ、草平の表情が歪む。思わず目頭が熱くなるのを感じながら黙って頷いた。
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