第1部-境界の海-第8話
その翌日。衣緒の高校は終業式を迎えた。衣緒たち女子は浦安イマジン・シー計画の最終確認に余念がなく、大いに盛り上がっていた。
「あたし絶対チュロス食べるんだからね! あとポップコーンも! 全種類制覇!」
「わかったわかった。誰も止めやしないから」
終業式を終え、体育館から教室に戻りながらはしゃぐ友人らを衣緒はにこにこ笑いながら見守る。
「さくらんもしっかり下見しておかないとね」
「え、何が」
「ほら、里村くんと行く時のためにさ」
「……だから、違うってば」
ネタにされていると感じながらも、きっちりと否定する衣緒。だが、思わずちらりと男子の集団を見やる。男子は男子で色々と盛り上がっているようだ。
「里村、神宮までどうやって行くの」
「信濃町まで電車。一時間半あれば行けるよ」
「親父が広島戦見たいって言っててさ」
野球観戦の話か。衣緒はくすりと笑いをこぼした。
教室に戻ると、担任から夏休み中の注意事項が延々と挙げられる。
「いいか。夏休みだからって羽目を外し過ぎるんじゃないぞ。青葉高校の一員だって自覚を持った行動に努めるように。以上だ」
皆が笑顔で「はい!」と答え、歓声と共に席を立つ。
「じゃあさくらん、また近くなったらメールするね」
「うん。よろしく」
「じゃあねー!」
友人たちに笑顔で手を振り、ふと後ろを振り向く。と、こちらを向いている雄輔と目が合う。
「あ」
雄輔は照れ隠しのように髪を掻く。
「里村くん、夏休み中の図書室って?」
「一応、司書の先生はいるけどさ。図書委員はいないよ」
その言葉に衣緒は少し肩を落とす。
「じゃあ……、里村くんもいないんだ」
「……うん」
少しどぎまぎした様子で口をつぐむ雄輔。
「じゃあ、何冊か本借りていこうかな」
「おう。行こうぜ」
途端に明るい表情になると、雄輔は衣緒と連れだって廊下に出た。下手をすれば、一カ月半は会えなくなるのだ。その前に、図書室でしっかり言葉を交わしておきたい。そう思う自分に雄輔は思わず赤面する。
(俺、やっぱ好きなのかな……)
そんなことを考えながら、衣緒の艶やかな黒髪が風に揺れる様を見つめつつ、雄輔は肩を並べて図書室に向かった。
同じ頃、草平は所属する学会の定例会に出席していた。都内の大学のキャンパスで個人発表に耳を傾け、それが終わると懇親会に向かう面々を見送る。
「佐倉先生は懇親会ご参加されないんですか?」
「ええ、ちょっと今日は早めに帰らなければならないので」
本当は懇親会が苦手なだけなのだが、今日は衣緒が終業式で早く帰ってくる。だからなんとなく自分も早く帰宅したかった。手早く資料をブリーフケースに仕舞い、講堂を後にする。福井旅行の計画も立てなければ。仰浜の民宿、青松館へ電話すると酒井の妻が驚きの声を上げて喜んでくれた。青松館にも足を運ばなくなって十五年は経つ。長の無沙汰を詫びなければなるまい。衣緒にまた熊谷銘菓を買ってきてもらおう。そんなことを考えていると。
「佐倉先生」
聞き覚えのある声に振り返り、思わず表情をほぐす。
「藤木先生」
「また懇親会をずる休みするおつもりですか?」
そう言って茶目っ気たっぷりに微笑む藤木に苦笑を漏らす。
「ずる休みとは人聞きが悪い」
「でも、わかりますよ。私も懇親会は苦手ですから」
学会はどうしても年配の男性が中心の集まりだ。藤木のような三十代の女性はまだまだ少ない。それだけでも目立つのに、下手にちやほやされるのも嫌なのだろう。藤木は恐らくそういう女性だ。今日の彼女は夏らしい麻の白いパンツに、ベージュのカットソー。ネイビーの五分袖ジャケットがきりっとした印象だ。小粒のパールのピアスが耳朶に控えめに光るのを見て、彼女がピアスホールを開けていることを初めて知る。
「昼間からお酒の席に出るのも苦手ですしね」
「あれ。藤木先生はいける口だと聞いているけど」
「そんな!」
顔を赤くして反論する藤木に笑い声を上げる。声を上げて笑う草平をあまり目にしたことがなかった藤木は、思わずその笑顔に引き込まれるようにして見つめる。そして、思い出したように表情を引き締める。
「そうだ、佐倉先生。今日は……、お時間あります?」
その言葉に、さすがの草平も察しがつく。脳裏に浮かんだのは、衣緒の表情だった。娘と共にあの浜辺へ向かう決心を固めた矢先。少し良心が咎めるが、藤木の気持ちも無駄にはしたくない。
「ええ、大丈夫ですよ」
「でしたら、今日こそご馳走させてください。一度食べに行って美味しかったフレンチのお店があるんです」
どこか熱っぽい表情で口説いてくる藤木に、草平は腹をくくると微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
その返事に、藤木の顔が嬉しそうに明るく華やぎ、朱に染まる。
「ありがとうございます……!」
そういうわけで、ふたりはキャンパスを後にすると小田急線で南新宿へ向かった。駅を出ると入り組んだ狭い路地に入ってゆく。洒落た小さなレストランやカフェが並ぶ通りを、草平が興味津々な様子で見上げる。
「さすが。お洒落なところをよくご存知だ」
「友達とランチに行くのが楽しみなんです。息抜きにもなりますし」
草平は、藤木が横浜に新しい文学館を作るために東奔西走していることを思い出した。雰囲気の良い場所で美味しいものを食べることが、英気を養うことにつながっているのだろう。
「ここですよ」
そう言って明るい笑顔で振り返る藤木が指さす先に、小さな白い扉が。その手前にイーゼルが置かれ、洒落た飾り文字でpetite terrasseとある。
「楽しみです」
「ええ。気に入っていただけると思います」
自信満々に答えると、藤木が扉を押し開く。と、薄暗い店内がふたりを迎え入れる。
「いらっしゃいませ」
白いエプロンを腰に巻いた若いウェイトレスが静かに出迎える。
「何名様でしょうか」
「ふたりです。テラス使えます?」
「はい。大丈夫ですよ」
ウェイトレスは穏やかに微笑み、「こちらです」とふたりを奥へ導く。小さなテーブルと椅子が並ぶ店内を通り抜け、もうひとつ現れた扉を開く。と、白く弾けた視界が広がり、草平は目の上に手を翳した。やがて眩い光に慣れた目が捉えたのは、明るい陽光を集めた緑が滴る中庭だった。思わず「ほう」と声を上げると、藤木が「こっちですよ」と呼びかける。石畳のテラスに白いパラソルが咲き、テーブルに影を作っていた。
「隠れ家レストランですね」
「素敵でしょう」
向かい合って座ると、先ほどのウェイトレスがレモンのスライスを浮かべたピッチャーとグラスを持ってやってくる。
「本日のカジュアル・コースはこちらです」
そう言ってメニューを示され、ふたりが身を乗り出す。
「先生、どうします」
「ちょっと待って……」
そう呟きながら胸ポケットから眼鏡を取り出すと、その仕草に藤木が目を瞠る。コースの内容は、サラダに野菜のポタージュ。魚なら鯛のムニエル。肉ならビーフソテー。草平に、選択の余地はなかった。
「……僕は肉で」
「私は魚で」
「かしこまりました」
ウェイトレスがメニューを下げていくのを見送ると、藤木が草平を振り返る。
「佐倉先生、眼鏡でしたっけ」
草平は眉根を寄せると苦笑を浮かべた。
「老眼鏡ですよ」
その一言に、あっと声を上げそうになるが、藤木は口許に手を添えて囁く。
「最近はリーディンググラスって言うんですよ……!」
「そうなの?」
笑いながら聞き返すと眼鏡を外す。
「何でもかんでも、お洒落な横文字にごまかす時代になってしまったね」
「でも、良くお似合いですよ、眼鏡」
少しはにかんだ表情で言われ、草平は眼鏡に目を落とした。
「娘が選んでくれたんですよ。今年はデミ柄が流行りだって。今の子はべっ甲とは言わないんだね」
「ああ、確かに。デミ柄って言いますね。でもお嬢様に選んでいただくなんて素敵ですわ。仲がよろしいんですね」
そう言われて、草平は思い出し笑いをこぼす。
「そう。あの後、娘に怒られて」
「え?」
目を丸くする藤木に、グラスに一度唇をつけてから言葉を継ぐ。
「藤木先生のお誘いを断ったと報告したら、女性のお誘いを断るなんて最低だとなじられました」
思いがけない言葉に藤木が驚く。そして、やや困惑の表情で声をひそめる。
「喧嘩なさったのですか?」
「いえ。一方的に僕がやられましたよ。それに、僕が晩御飯を作らなきゃと言ったのが気に入らなかったようで。ひとりで晩御飯ぐらい食べられるって、お冠でしたよ」
思わずくすりと笑う藤木だったが、すぐにきょとんとした表情で首を傾げる。
「お嬢様、おいくつですか」
「十五です。高一です」
「あら、それは……、怒られますね」
肩をすくめる藤木に、草平は笑いながら頷く。
「お嬢様、お名前は何と仰るのです?」
問われて答えようと口を開く。が、藤木の笑顔を目にしてはっと言葉を呑みこむ。黙り込んだ草平にまじまじと見つめられた藤木は、口許に指先をやった。
「あ、失礼いたしました。余計なことを……」
「いや、いいんです」
溜め込んでいた言葉を口から解き放ち、小さく息をつく。
「衣緒と言います。『衣ころも』に、糸偏の……『緒いとぐち』です」
「あぁ」
藤木が感嘆の吐息を漏らす。
「良いお名前ですね。漢字も響きも素敵」
そして、細い人差し指でテーブルをなぞり、「衣緒」と書いてみる。
「何より、一目で読めるお名前が一番ですよ。私なんて、ほとんどの人に名前を読んでもらえなくて――」
「小枝さえさん?」
不意に名を呼ばれ、藤木は弾けるようにして顔を上げた。その顔はやがて見る見るうちの紅潮し、顔が赤くなったのを隠すように咳払いをすると、こくりと頷く。
「……はい。皆、『こえだ』って読むんです」
「それは残念だ。女性らしくて、優しいお名前なのに」
草平は気の毒そうに眉をひそめた。共感してもらえたことが嬉しかったのか、上目遣いに見つめていた藤木は控えめに微笑むと小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
それきり会話が途絶え、ぎこちなく視線を下げてしまった藤木に草平は所在無げにグラスを手にする。と、ちょうどよくサラダが運ばれてくる。
「いただきます」
両手を合わせてフォークを手にする藤木は、いつもの元気が戻っていた。草平は人知れずほっと息をついた。
「ドレッシング美味しいですね」
「ええ」
そんな他愛もない会話が続き、ポタージュが運ばれ、やがてメインディッシュがやってくる。
「いい香り」
顔をほころばせると藤木は銀のフォークを手に取り、ムニエルを切り分ける。香草が散らされ、照りのある鯛。しかし、薄い衣から鱗が透けて見える様を見た草平は思わずごくりと唾を呑みこんだ。やがて、フォークで刺された鯛は綺麗にルージュが引かれた唇に吸い込まれてゆく。草平は、その流れをじっと目で追っていた。
「美味しい」
嬉しそうに目を細める藤木。
「魚、お好きなんですか」
思ってもない言葉が口から飛び出し、草平ははっと口をつぐんだが、藤木の方は特に気にせず肩をすくめてみせる。
「何でも食べますよ、私」
「……そう」
「ただ、魚ってなかなか家で料理できないので、できるだけ外ではいただくようにしています」
そう言って藤木はにっこり微笑み、ムニエルを頬張った。
目の前に自分より十五も若い健康的な女性がいるというのに、草平の脳裏に浮かんでいるのはあの人魚だった。いや、藤木が「こちら側」で生きる美しい女性だからこそ、人魚を思い出したのかもしれない。記憶に残る彼女は蒼白の肌で、薄紫の唇。人形のように整った顔立ちは、文字通り浮世離れした美しさだった。だが、切れ長でありながらくっきりとした目許は野生的な生命力に満ちていた。その危うい不均衡さが、あれだけの美しさを見せつけたのか。
それに比べ、今食事を共にしている藤木は「人」としての生命力に溢れている。色艶の良い肌。きらきらと光を弾く黒眼。柔らかな髪。好感を与えるナチュラルなメイクは、彼女の魅力を充分に引き出している。そして、その晴れやかな笑顔は人に活力を与えた。藤木といると、「こちら側」にいるという実感を持てた。
次いで草平は娘の面立ちを思い返した。衣緒は成長するにつれてますます母親に似てくる。どこか他者を寄せ付けない強い眼差し。それに反比例するように病弱そうな色白の肌と細い体。だが、そんな娘も年頃の無邪気な表情を見せる時がある。里村雄輔を語る時だ。娘を「こちら側」に引き止めるために今必要なのは、自分ではなく、彼なのかもしれない。
やがて、思い出したように自らも食事を口に運ぶ。濃厚なソースを絡めた牛肉のソテーに、藤木が「美味しそうですね」と声をかける。
「うん。美味しい。いいお店に連れてきてもらった」
「次はぜひ、お嬢様と」
そう言って微笑む藤木に、草平も穏やかな微笑を浮かべた。
「そうだな、連れて来たら喜ぶかな」
草平のその言葉に、藤木は少し寂しそうに息をつく。
「羨ましいですわ。私、実家の父とはそこまで仲良くないですもの」
「うん? そりゃ……、うちはふたりきりの生活だしね……」
思わずそんなことをこぼすと、藤木は少し眉をひそめて見つめてくる。そして、恐る恐る口を開く。
「お嬢様、高校生でいらっしゃるんですよね? 失礼ですが、そのお歳だとお父様を避けるお子さんも多いでしょうに……」
草平は苦笑を漏らしながら頷いた。
「よく言われますよ。うちは仲がいい方だって。良すぎるぐらいだって。……でもね」
そこで重い溜息を吐き出す。
「やっぱり、女の子だから難しいところもあって。どう扱っていいかわからないことも多いんです。だから、甘やかしていないか、時々不安になるんですよ」
言ってしまってから、草平は少し後悔した。子育てにおける不安をこうして他人に漏らすのはいつぶりだろう。衣緒を育てることに後ろめたさなどない。だが、不安はいつでも胸にわだかまっている。それを、誰かにこぼすことはあまりしたくなかった。だが、
「大丈夫ですよ」
きっぱりとした言葉に目を上げる。少しの間真顔で見つめてきた藤木は、やがて微笑んで肩をすくめた。
「女性のお誘いを断っちゃ駄目、なんてはっきりと窘めてくれるようなお嬢様ですよ。しっかりなさっていますわ」
草平は、目が覚めるような思いで藤木を見つめた。道は間違っていない。そうやって背を押してくれる言葉だった。強張っていた肩から心地よく力が抜けていく感覚に、思わず表情がほどける。
「……ありがとう、藤木先生」
その一言に、藤木の頬が再び赤く染まる。
「い、いえ、すみません、差し出がましいことを……」
しどろもどろに呟くと、藤木は慌ててグラスの水を飲み干した。
藤木とランチを共にした後、草平は夕方になる前に最寄り駅まで帰り着いた。そのまま自宅に向かおうとした時、胸のスマートフォンが震える。画面を見ると、姉からだ。
「もしもし」
「草平、今いい?」
草平は辺りを見渡し、駅舎の壁際まで移動する。
「いいよ」
「母さんから聞いたわ。福井に帰るんですって? 大丈夫なの?」
ああ、心配してわざわざ連絡をしてくれたのか。草平は軽く天を仰いだ。
「うん。驚かせてごめん。ちょっと色々考えて……、一度帰ってみることにした」
電話の向こうでは小さく、だが長い溜息が聞こえる。幹恵が心配している様子が手に取るようにわかる。
「いつかは帰ってほしいと思っていたけど、こんな急に……」
草平はスマートフォンを握り直し、壁に寄りかかって駅前の雑踏を眺めた。仕事帰りの勤め人たちが、まだ蒸し暑さが残る通りをゆく。夕飯の準備だろうか。どこからか甘辛いソースの香りも漂ってくる。
「うん……。衣緒も大きくなったしね。父さんたちに会わせたくて」
「あの子には話したの?」
「うん。経緯いきさつも全部話した。衣緒はおじいちゃんおばあちゃんに会えるって、楽しみにしている」
そこまで話して、草平は表情を固くすると体を起こした。
「……父さんはどうしてる?」
「母さんの話では、最初こそぶつくさこぼしていたみたいだけど、今はそわそわしているらしいわ。嬉しいのよ、きっと」
姉はそう言うが、本当は不安で仕方がなかった。自分は許されなくていい。だが、衣緒を受け入れてくれるのか。それだけが気がかりだった。
「……母さんはともかく、父さんが衣緒にどう接してくれるのか……」
「馬鹿ねぇ。父さんもいい歳した大人なんだから。可愛い孫に会えるのよ?」
それでも無言を貫く弟に、幹恵は声を高めて叱咤した。
「しっかりしなさい。衣緒はあんた以上に不安で緊張しているのよ。あんたがどっしり構えておかないで、どうするの」
昔からしっかり者で頼りになる姉の力強い言葉に、微笑が浮かぶ。
「……そうだね。うん。がんばるよ」
姉との通話を切り上げると、足早に自宅へ向かう。衣緒はもう帰っているだろう。
「ただいま」
玄関の灯りにほっとしながら靴を脱ぐ。
「おかえり」
リビングに入ると、制服から着替えた衣緒がキッチンから出てくる。
「あのね、お隣の渋沢さんがゴーヤーくれたんだ。おひたしでいい? チャンプルーはこないだ食べたし」
「ああ、いいね」
毎年この季節になると、隣家から毎週のように差し入れがある。今年もシーズン到来か。笑いながら手にした紙袋をテーブルに置くと、衣緒が目を丸くして身を乗り出す。
「ああ、今日例の藤木先生とランチに行ってきてね」
藤木と聞いた衣緒の表情が瞬時に強張り、草平は言葉を失った。眉は険しく寄り、ほんの少し目を眇め、上目遣いに凝視してくる娘に思わず気圧されたように唾を飲みこむ。が、彼女は先を促すように紙袋を指差した。
「……うん。フレンチレストランだったんだけど、とっても美味しいところだったんだ。それで――、そこの自家製ドレッシング売ってたから、お土産に」
「ふぅん」
聞き終えるや否や背を向けてキッチンへ向かう衣緒に、草平は慌てて後を追う。
「――おい」
シンクに向かった衣緒は半月切りにしたゴーヤーをザルに上げ、棚から調味料を出すところだった。その細い背が心なしか尖って見える。
「……衣緒」
心配そうに呼びかける。と、衣緒は両手を腰に当ててくるりと振り返った。眉間に皺を寄せ、激しい眼差しで上目遣いに睨み付けると唇を尖らす。
「父さんだけずるい。私も連れてってよ」
その言葉に、草平は狼狽えたように笑った。
「――ああ、行こう。どうせなら夜に行こう。衣緒も、そろそろコース料理の食べ方を習ってもいい年頃だ」
努めて明るく提案するが、草平は不安げに娘の返答を待った。すると、衣緒の唇の端がきゅっと上がる。
「やった。約束よ」
草平はほっと息をつくと頷いた。衣緒は微笑んだまま再びシンクに向かう。ゴーヤーに塩を振り、揉み込んでから少々危なっかしい手付きで沸騰した鍋に入れてゆく。その様子を見守りながら草平はもう一度溜息をついた。
やはり、自分が女性と会うのは嫌なのだろうか。聞くのも嫌なら黙っていた方が良かったか。だが、娘に隠し事はしたくない。やましいことではないからこそ、こちらから報告はしておきたい。それは、自己満足に過ぎないのだろうか。そんなことを考えているうち、シンクに流された茹で汁が白い湯気を吹き上げる。湯通ししたゴーヤーに流水をかけながら、衣緒は腰を曲げると足首に左手を這わせた。草平はぎくりとして息を呑んだ。彼女の白く細い指が足首を掻く。やがて右手に持った菜箸を置き、両手で掻きむしる。
「……衣緒、やめなさい」
草平は、震える声で呼びかけた。
その日の、晩。
ドアに掛けられた陶器のプレート。有機的な蔓草模様に囲まれた「IO」の飾り文字が夜目にうっすら映る。しばし中の様子をうかがってから、草平はそっとドアを開いた。薄暗い部屋の片隅に、間接照明のスタンドが温かな明かりを灯している。葡萄を模したステンドグラス。衣緒の高校進学祝いに姉夫婦がくれたものだ。部屋の奥のベッドに、タオルケットを掛けて横になった娘の姿がある。草平はしばしその場に立ち尽くし、やがて躊躇いがちに歩み寄った。
クーラーの作動音の他は何も聞こえない室内。衣緒は横向きで眠り、静かに寝息を立てている。ほんの少し開いた唇に、かすかに眉を寄せた寝顔。頬にかかる黒髪を掻き揚げてやるが、目を覚ます気配はない。草平は息をつくと腰を屈め、膝を突いて手を伸ばした。思わず顔を歪めながら、慎重にタオルケットをめくる。ハーフパンツの裾から、すらりと伸びた細い足が薄暗がりに白く浮かぶ。草平は少し眩しそうに目を眇め、足首に顔を寄せた。と、ほのかに上品な薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。一度出した手を止め、躊躇ってからそっと手のひらで撫でてみる。足首はしっとりと潤っていた。眠る前にロザリーを塗ったのだろう。だが、肌の表面はそれでもややでこぼこした感触がある。クリームを塗る前はかなり荒れていたのだろう。草平の眉間に深い皺が刻まれる。
幼い頃、保育園や幼稚園に通っていた頃は、触っただけではっきりと鱗の感触がわかるほどだった。あまりにもひどく掻きむしると鱗が大量に剥がれ落ち、深い傷を作った。その度に草平は傷に大きめの絆創膏を貼り、タイツや長めの靴下を穿かせて隠した。そのため、預け先の職員たちから虐待を疑われることになったが、それは衣緒自身が皆の前で足を掻きむしることで疑いは晴れた。
衣緒の体は、常に鱗が浮き出ていたわけではない。保育園などで友達と喧嘩をしたり、遠足で興奮した夜などに決まって鱗は現れた。思えば、幼少時に鱗が現れなかったのは姉の家に世話になっていた時だけだ。保育園や幼稚園と違い、静かで落ち着いた環境だったせいだろうか。そして、成長するにつれて怒りの感情を抑制できるようになり、鱗が現れることもなくなっていった。やはり、体の異変は感情の起伏に左右されていたのだろう。では、ここ数日の異変は何故だ。
と、不意に衣緒が寝返りを打ち、草平はぎくりとして身を引いた。小さい呻き声と共に息を吐き出し、仰向く娘に草平は顔をしかめる。眉を寄せた寝顔は先程よりも苦しげな表情だ。草平は思わずその額に手のひらを当てる。少し熱い。熱があるのだろうか。心配そうな表情で柔らかな頬をゆっくり撫でる。やがて、脇に伸びる細い腕に目を移す。そっと手首を持ち上げ、ほっそりとした指を摘まむ。指と指の間には――、膜はない。思わず溜め込んだ息を吐き出す。生まれた直後には水掻きもあったのだ。
草平は改めて衣緒の寝顔を見つめた。やがていつしか口許を歪め、目を細めて頭を撫でる。幼い頃は、毎晩のようにこうして寝顔を見守りながら夜を明かした。そしてそれは、薄暗く、苦い思い出も蘇らせた。
男手ひとつで必死に子育てをしていたあの頃、毎日が戦いだった。思いもしない問題が次から次へと降りかかり、どうしようもない現実に行く手を阻まれ、未来を悲観した。自分たちを守り、助けてくれた存在も多いが、解決できなかった問題の方が多かったように思える。そうして、がむしゃらに日々を送る中でふと立ち止まった時、死を思ったことが幾度かある。眠っている衣緒を抱き起こし、海へ行こうと思った夜。ふたりで、海へ帰ろうと思ったのだ。だが、それを思い留まらせたのは、皮肉なことに衣緒が宿した人魚の面影だった。
幼い頃の衣緒は、母親譲りの野性味溢れる娘だった。それは、草平の手のひらにおさまり切れないほどの瑞々しい生の輝きだった。この光を、この手で消していいのか。その思いが、草平を我に返らせた。そして、ここまで大きく育てたというのに――、
「とう、さん」
突然の声に草平は飛び上がるようにして顔を上げた。衣緒は瞼を閉じたまま、小さく唇を開いていた。気のせいか呼吸も乱れているように感じる。
「……どこ」
「……衣緒?」
恐る恐る顔を寄せる。眉間の皺を深めさせ、衣緒は顔をゆっくりと振った。
「とうさん、どこ……、とうさ……」
思わずその手を掴む。と、衣緒は口をつぐんで黙り込んだ。
「……衣緒」
そっと呼びかけ、頬を撫でる。それきり衣緒は沈黙した。が、その寝顔は徐々に安らかなものへと変わってゆく。草平は押し殺した溜息を吐き出した。衣緒の寝息が規則正しくなるまで、草平は娘の手を握りしめ続けた。
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