第1部-境界の海-第7話

「じゃあな」

 そう言って手を振る雄輔に、衣緒も顔をほころばせて手を振り返す。

「また明日ね」

 自転車のペダルに足を乗せ、もう一度振り返るとにこっと笑う。そうして自転車を漕いでゆく後ろ姿を見送ると、衣緒は吐息をついた。結局、今日も図書室で長いこと話し込み、一緒に熊谷駅まで下校した。これは、自分にとってはもう自然なことだ。何故かと聞かれれば、一緒にいて心地いいから、としか答えようがない。だが、友人たちには自然なことではなく、特別なことに見られることに衣緒は戸惑いを隠せなかった。

 やってきた電車に乗り込み、窓に流れる田園風景を眺めながら雄輔との会話を思い返す。夏休みの予定などはあまり話さなかった。話題のほとんどは、野球部が夏の高校野球大会県予選に敗退したことだ。

「今年は一年生が少ないらしくてさ、来年大変だろうなぁ。それに、うちの学校って野球部よりもラグビー部の方が強いじゃん。グラウンドが使いにくかったり、苦労してるみたいだぜ」

 野球をやめたとは言え、自分の学校の野球部には関心があるらしく、目を輝かせて語る雄輔の表情に引き込まれながら耳を傾けた。そんな風に熱中できる何かがあることに憧れを感じるのかもしれない。思えば、自分は特にこれといった趣味も打ち込めるものもない。得意とすることもない。衣緒は、自らの脆い足許を今更ながら自覚した。

(根無し草か)

 ぼんやりと口の中で呟く。幼い頃、自分に向けて放たれた言葉。大きくなってからその言葉の意味を知り、ぶつけようのない怒りでしばらく感情を持て余したことを覚えている。だが、悔しい思いをしていながら、今も自分は根無し草のままではないのか。衣緒は目を伏せると溜息をついた。

 やがて電車を降り、いつもと変わらない麦畑を横目に、ゆっくりと家路につく。そろそろ夏休みが始まる。皆とテーマパークへ行く日が待ち遠しい。だが、それ以外にこれといった予定はない。伯母一家とのバーベキューだって実現するかどうかもあやしい。それでも、父にどこかへ連れて行ってくれとせがむのも憚られた。もう、子どもじゃないんだし。衣緒はそう自分に言い聞かせた。

 そんなことを考えながら自宅へ戻る。玄関には父の靴があった。

「ただいまー」

 制服のネクタイをゆるめながらリビングへ向かい、ぎょっとして立ち尽くす。何も置かれていないテーブルを前に、カッターシャツ姿の父が座り込んでいる。大学から帰ってそのままなのだろう。思い詰めた表情で俯いた父に、衣緒は俄かに不安になった。

「どうしたの……?」

 恐る恐る声をかけると、草平は思い出したように席を立つ。

「――ああ、ごめん。ぼーっとしてた。お帰り」

「大丈夫?」

「……うん」

 どこかぎこちない返事。陰のある表情に衣緒はますます心配になる。そんな娘の胸中を知ってか知らずか、草平はキッチンからグラスとポットを持ってくる。

「衣緒。今日はご飯だけ炊いて、お惣菜買ってきたんだ。いいかな」

「うん。いいけど、どうしたの」

 娘の不安そうな声色に、草平もようやく観念したように息をつく。

「……なぁ、衣緒。悪いけど、ご飯の前に大事な話があるんだ」

 大事な話。その不穏な響きに衣緒は顔を強張らせた。

「いや、怒ったりしない。そういう話じゃない」

 娘の表情に慌てて言い添える。そして、座るように椅子を指し示す。衣緒は黙って椅子を引き、親子は向き合って席についた。草平は麦茶を注いで衣緒に手渡し、自分も喉を潤した。それから息をつくと両手をテーブルの上で組む。

「……どこから話すべきかな」

 そう呟き、しばらく組んだ指を見つめていた草平だったが、やがて意を決したように顔を上げる。

「まず、父さん衣緒に謝らなきゃならない」

 衣緒は眉をひそめたまま見つめてくる。

「今まで、おじいちゃんとおばあちゃんの話をしてこなかったな。……ごめん」

 そう言って軽く頭を下げる父に、衣緒は慌てて身を乗り出す。

「どうしたの――。何かあったの」

「いや、二人とも元気だよ」

 まさに今日、祖父母の存在に思いを馳せたばかりだ。衣緒は落ち着かない表情で父の言葉を待った。

「衣緒のおじいちゃんとおばあちゃんは、福井にいる」

 それは何となく理解していた。父が福井で生まれ育ったことは知っていたからだ。

「……やっぱり、最初から説明しよう。父さんは福井で生まれて福井で育って、福井の大学で働いていたんだ」

 衣緒は黙って頷いた。

「もう、十六年前か。衣緒の母さんと出会って、すぐに衣緒が生まれた」

 祖父母だけでなく、母も出てくるとは。衣緒は、話の展開に緊張を隠せなかった。そんな娘の様子に気付いた草平は、グラスを指さして麦茶を飲むよう促した。言われるままに冷たい麦茶で口を湿らす。そして、溜め込んでいた息を吐き出すと、目で先を促す。

「今まで話したように、衣緒を生んだ母さんは姿を消してしまった。母さんの行方も探したけど、父さんは生まれたばかりのおまえを優先した。おじいちゃんたちには、おまえが生まれて一年してから報告したんだ」

「一年?」

 思わず口走るが、草平は少し苦しげな表情で頷いただけだった。

「いろんな人にお世話になりながら、あっという間に過ぎた一年だった。落ち着いてから、おじいちゃんとおばあちゃんと、幹恵おばさんに報告したんだ。当然……、父さんは怒られた」

 しばし口をつぐみ、固い表情で組んだ手を見つめる父を衣緒は黙って見守った。ベランダから、紫に近い茜空の明かりがテーブルを長く染める。クーラーの作動音がやけに部屋に響く。草平は唇を湿してから再び口を開いた。

「その頃、おじいちゃんは中学校の校長先生をやっていた。いわゆる昔ながらの人だ。堅物で、融通の利かない生真面目な性格で、父さんは激しく責められた」

「どうして」

 衣緒が震え声で訴える。泣き出しそうに揺れる瞳に見つめられ、草平は痛ましげに眉を寄せる。

「結婚もしていない男女が子どもを作ることはふしだらなことだという考えだったんだ。それに職業柄、片親の子どもが辛い目に遭っていることを誰よりも知っていたからね。しかも、父さんはその頃から教師だった。学生にものを教える立場でありながら、そんな不品行なことは許されない」

「でも」

 必死で反論しようとする衣緒だが、言葉が続かない。草平は優しい微笑を浮かべると、ゆっくり頷いた。

「……ごめんな。悪いのは父さんなんだ。仕方ない」

「悪くないよ……!」

 涙が混じる声で訴える衣緒。

「父さんは……、悪くない……!」

 囁くような、絞り出すような衣緒の言葉に、草平は目頭が熱くなった。

「……ありがとう、衣緒」

 そこで大きく息を吐き出すと、草平は背筋を伸ばして居住まいを正した。

「結局、父さんはおじいちゃんに絶縁されて、家を出た。福井の大学も辞めて、東京に仕事を探しに出たんだ」

 衣緒は、顔から血の気が引いてゆくのをはっきりと感じた。自分が生まれたことでそんな壮絶なやり取りがあったなんて。父のせいではない。自分のせいではないか……! 震えが止まらない両手をぎゅっと握りしめ、父の瞳を見つめる。

「仕事を探す間、幹恵おばさんの家に世話になってね。おばさんや敦生おじさんや智樹くんには本当に感謝しているよ。衣緒の面倒をみてもらったしね」

 その話も少しは聞いていた。だが、あまりにも小さかった自分は覚えていない。時々、敦生や智樹から「あの頃の衣緒ちゃんはいい子にしていて、全然手がかからなかったよ」などと声をかけられることがある。

「福井にいた時のように、父さんの専門である近代文学で教職を探していたんだけど、なかなか見つからなくてね……。そんな時、今の大学の学長から声がかかったんだ。学長は、父さんが福井時代に発表していた論文や雑誌の原稿を読んでくれてね。うちへ来てくれと言ってくれたんだ」

 草平は懐かしそうに表情をゆるめた。

「思わず聞いたよ。自分でもいいんですかって。そうしたら、罪を犯しているかのような考えはやめなさい、と言ってくれたんだ」

 目を見開く衣緒に、草平も嬉しそうに頷く。

「君は何も悪くない。立派に子育てをしながら生きる道を探しているじゃないか、と言ってくれてね。それで、今の東京崇敬大学に再就職できたんだ。学長がいる限り、父さん今の大学でがんばるよ」

 学閥や大学の人間関係に苦労をしながらも、務めている大学に誇りを持っていることは衣緒も普段から感じていた。それには、こんな経緯があったのか。草平はグラスに残っていた麦茶を飲み干した。

「それで……、こうして衣緒と熊谷で暮らして十三年ほどになるかな」

 衣緒は小さく息をつくと、上目遣いに父を見つめ、恐る恐る声をかける。

「……それっきり、福井には帰っていないの?」

「うん。一度も帰っていない。……帰っていないんだけど」

 草平はおもむろに身を乗り出し、娘の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「……衣緒。この夏休み、福井に行かないか」

 思いがけない言葉に、衣緒は口を半開きにして父親を凝視した。

「……父さん」

「今日、思い切って電話したんだ。おじいちゃんの家に。高校生になった衣緒に会ってほしいって、お願いしたんだ。そしたら、おばあちゃんは電話口で泣いて喜んでね」

「お、おじいちゃんは」

 慌てた様子で畳みかける衣緒を安心させるように頷いてみせる。

「おじいちゃんは留守でいなかった。だけど、おばあちゃんが説得するって言ってくれたよ。衣緒……。一緒に、福井に行ってくれるか」

「行きたい!」

 ついに衣緒の瞳から涙がぽろぽろと零れだす。

「会いたい……。おじいちゃんとおばあちゃんに、会いたい……!」

「うん」

 草平は席を立つと衣緒の頭を胸に押し付けた。衣緒は咽び泣きながら父の背を抱きしめる。

「……ごめんな、衣緒。今まで寂しかったよな」

 父の言葉に黙って頷く。母や祖父母について教えてくれと何度もせがんだ幼い頃を思い出す。寂しかった。皆には当たり前のように存在する母や祖父母が、自分にはいない。それでもいつしか、父がいるだけでいいと思うようになっていった。優しくて強い、穏やかな父と一緒にいれば何も怖くない。寂しくなんかない。そう言い聞かせて暮らしてきた。

「でもな」

 父の声に顔を上げる。草平は少し緊張した面持ちで言葉を続けた。

「ひとつ、ちゃんと言っておきたいことがある」

 衣緒は体を起こすと首を傾げて父親を見上げた。

「父さんは、衣緒が生まれて良かったと思っている」

 草平は娘の柔らかな髪をそっと撫でながら言葉を継いだ。

「時々喧嘩もしながら、こうしてふたりで泣いたり笑ったりして暮らせることを、いつも感謝している。衣緒、ありがとうな」

 衣緒の表情が、見る見るうちにくしゃくしゃにほころんでゆく。そして、黙って再び父に抱き着く。これまで言いたくて言えなかった言葉をようやく伝えられた。それだけで心が軽くなった。草平はほっとした表情で衣緒の背を撫でる。小さくて柔らかな背中。大きく成長しても、それでも娘はこんなにも小さい。これからも、変わらずこの背を守ってゆくのだ。

「……それとな。もしもおじいちゃんが会ってくれなかったとしても、福井には行こう」

「うん」

 まだ鼻をすすりながら衣緒が頷く。そんな娘に、草平は慎重に囁いた。

「父さんな、おまえに福井の海を見せたいんだ」

 海。衣緒は息を呑んで父を見つめた。ずっと憧れていた、海。いつか行きたい、見たいと切望していながら、恐れも抱いてきた、海。大好きな父と、見に行ける。

「……いいの? 父さん」

「ああ。福井の海は綺麗だぞ」

 衣緒の表情が喜びと戸惑いが混じる様子に、草平は力強く肩を撫でた。

「一緒に行こう、な」

「うん」

 茜色の西日に染まった顔で、衣緒は大きく頷いた。が、ふと目を伏せる。

「……ねぇ、父さん」

「うん」

 呼びかけたものの、衣緒はなかなか口を開かない。

「どうした」

「……父さんは」

 顔を伏せたまま、低い声でゆっくり問いかける。

「父さんは、母さんのこと、好きだったの?」

 娘の問いに、一瞬言葉を失う。胸に浮かぶのは、月光を浴びて岩礁に寝そべる彼女の姿。草平は息をつくと膝に手を突き、腰を屈めて娘の顔を覗き込んだ。

「――好きだったよ」

 衣緒は大きな瞳を上げた。まだ涙で揺れる瞳。

「……今でも?」

「うん。……今もね」

 その返事に安心したように目を細めると、衣緒は再びすがりついてきた。


「買ってきたよー!」

 そう言って机に取り出した旅行雑誌に皆が歓声を上げる。表紙には浦安のテーマパーク、イマジン・シーが大写しに載っている。

「夏休み限定イベント満載!」

「テンション上がるー!」

 友人たちに混じって、衣緒も目を輝かせて雑誌を覗きこむ。

「それから、皆のパスポートはうちのママがオンラインで予約したから、当日はチケットブース並ばなくていいよ!」

「さすがユキ。毎年浦安に行ってるだけあるわ」

「でも、子どもだけで行くの初めてだから楽しみ!」

 皆それぞれ弾ける笑顔で雑誌のページをめくる。

「これこれ。このシアターなんか、さくらん絶対に気に入ると思う」

「へぇ」

 衣緒が嬉しそうに身を乗り出した時。机に掛けた鞄が短く震える。メールだ。鞄からスマートフォンを取り出すと、あっと声を上げる。

「父さん」

 その言葉にひとりが感心したような表情になる。

「さくらんって本当にお父さんと仲がいいよね。あたし、親父のメアドなんか知らない」

「そうなの?」

 驚いた様子で聞き返す衣緒に、本人は真顔で頷く。

「仲がいいのはいいことよ。大事にしなよ」

「おまえこそな、みっち」

 友人に突っ込まれ、みっちは神妙に頷く。

「あの加齢臭とは妥協できんわ……」

 わっと笑い声が上がる中、衣緒も笑いながらスマートフォンの画面をタップする。と、彼女は思わず目を見開いて画面を覗き込む。『授業中だったらごめん』という、父らしい言葉から始まる長い文面。

『おばあちゃんから連絡があって、おじいちゃんは会ってくれるらしい。ただ、家には上げてもらえないから、福井市内で食事をしようということになった。父さんや衣緒が魚介アレルギーだということはもう伝えてある。それから、泊まるところだけど、父さんが昔お世話になった民宿があるからそこに泊まりたいんだ。ホテルじゃなくて悪いんだけど、大丈夫かな』

 メールを読み進める衣緒の目が細められ、表情が柔らかくほぐれてゆく。良かった。祖父母に会える。何より、絶縁状態だった父とも会ってくれる。許してくれるかはまだわからないが、歩み寄ることはできるはずだ。自分も、「おじいちゃん、おばあちゃん」に会えば「家族」と呼べる人が増える。「普通」の女子高生に近付ける。衣緒は満ち足りた表情でスマートフォンから顔を上げた。


 その日の放課後。授業が終わると衣緒は真っ直ぐ熊谷駅に向かった。隣接したショッピングモールに入ると、暑い中早歩きでやってきた体をひんやりとした空気が包む。目指すのは書店、旅行コーナー。

「あった」

 思わずそう呟きながら書棚に向かう。夏休み直前とあって、テーマパークや世界遺産、温泉といった特集の雑誌や本が平積みされている。その中で、各都道府県を取り上げたコーナーに向かう。だが、探すものが見当たらない。

「おかしぃなぁ……」

 人差し指で背表紙を追うが、どこにも「福井」の名が見えない。仕方なく、北陸を特集した雑誌を手にする。表紙を開くと、まず温泉の名が目に飛び込む。宇奈月、和倉、そして、芦原あわら。温泉が有名な地方なのか。衣緒は父が故郷について語りたがらないため、これまで福井を深く知ろうとはしなかった。父が話したくない場所を知ることは禁忌に触れるような心持ちになったのだ。そのせいか、目に触れる情報のひとつひとつが新鮮でとても貴重なものに見える。衣緒は食い入るように雑誌を覗き込んだ。温泉の他にも東尋坊、九頭竜湖、永平寺といった景勝地もある。そして、

(恐竜博物館?)

 巨大な銀のドームの写真に、「福井は恐竜の化石の宝庫!」とある。恐竜の化石が多く発掘されているのか。面白そうだ。できれば行ってみたい。衣緒は顔をほころばせながらページをめくった。

(青葉山?)

 衣緒が通う高校と同じ名の山の写真が載っている。なだらかな稜線が美しく、「若狭富士」と紹介されている。綺麗な山だ。見られるだろうか。しかし、一言に福井と言っても思った以上に広い。すべてを巡るのは無理だろうか。父が泊まりたいと言っていた民宿はどこにあるのだろう。そんなことを考えながらページをめくっていると。

 衣緒の指が止まる。桜色の唇が少し開き、食い入るように紙面を凝視する。

「……にんぎょ」

 声に出して呟いてみる。この響きが脳裏を巡り、繰り返し胸に響く。

 そのページは、「海水浴場人魚の浜」を紹介したものだった。小浜市の市街地にほど近い海水浴場。美しい砂浜が緩やかな曲線を描き、白い波が打ち寄せている。

『小浜市には人魚にまつわる八百比丘尼の伝説が残っており、ここ人魚の浜海水浴場を始めとして、人魚をモチーフにしたものが多く見かけられる』

 説明文の下に、海水浴場の近くにある公園の写真も掲載されている。それは、うら若い乙女のブロンズ像。岩に腰かけ、しとやかに腕を持ち上げたその下半身は、魚だ。美しく重なった鱗。優雅に跳ね上げられたひれ。濡れた髪を背中に流した可憐な乙女が物憂げな眼差しを投げかける様に、衣緒の脳裏にあの言葉が蘇る。


海にゐるのは、

あれは人魚ではないのです。

海にゐるのは、

あれは、浪ばかり。


 中原中也の詩に詠われた、冷たい波が洗う北の海。時折衣緒を襲う、暗い海の夢。強烈な磯の香りに包まれながら、闇から伸びる手に足首を掴まれ、尚暗い海へと引きずり込もうとする、あの手。未だ目に焼き付けてはいない海へと、呑まれようとするあの夢。どうして、この人魚はあの夢を思い出させるのか――。

 と、いきなり肩を叩かれ、衣緒は短い悲鳴と共に雑誌を床に落とす。破裂しそうな胸。彼女は真っ青な顔で背後を振り返った。

「……ご、ごめん」

 そこには、手を上げたまま固まった里村雄輔がいた。

「……里村くん!」

 ほっとしたように声を漏らすと、思わず泣き笑いのような表情を浮かべる。

「びっくりした」

「ごめん、そんな驚くとは思わなかった」

 どこかおろおろした感じでもう一度謝る雄輔に軽く唇を尖らすと、落とした雑誌を拾い上げる。

「北陸?」

 手にした雑誌を覗き込む雄輔に、嬉しそうに身を乗り出す。

「うん。夏休みに父さんと福井に行くの。福井って父さんが生まれ育ったところなの」

「へぇ。福井か」

 明るい表情でページをぱらぱらとめくる衣緒を、雄輔は少しほっとした様子で見守る。

「父さんがね、一緒に海を見に行こうって。それと、福井でおじいちゃんとおばあちゃんに会えるんだ。初めて会えるの」

 珍しくはしゃいだ感じでまくし立てる衣緒に雄輔が「初めて?」と問いかける。その言葉に、衣緒は我に返ったように現実に引き戻された。そして、顔を強張らせると小さく呟く。

「……うん。今まで会ったことなかったの。父さん、おじいちゃんに絶縁されてたんだってさ。……私が、生まれたせいで」

 一瞬の間を空け、雄輔は眉をひそめると強い口調で言い放った。

「そんなこと言うな。おまえのせいじゃないだろう」

 思いがけない言葉に衣緒は目を見開いて相手を凝視した。雄輔は真顔で真っ直ぐ射すくめてくる。そうして見つめ合っているうちに、衣緒がわずかに恐れるように眉をひそめた瞬間。雄輔ははっとして身を引く。

「あ、ごめん、ちょっと、言い過ぎた……」

 が、衣緒は黙ったまま顔を横に振る。雄輔は安心したように息をつくが、表情をゆるめると言葉を続ける。

「生まれてきたのは佐倉のせいじゃないし、お父さんのせいでもないだろう? そんなこと言っちゃ駄目だ。お父さんだって、おまえのせいだなんて思ってないよ」

「……でも」

 それでも寂しげに呟く衣緒に、雄輔は腰を屈めて顔を覗き込んでくる。

「お母さんのせいでもないぞ」

 お母さん。その言葉に衣緒は思わず顔を伏せる。

「……どんな事情があったか俺は知らないけどさ。生まれてきた方は絶対に悪くない。もちろん、親の方だってさ。絶対、何か理由があるわけだろ。誰かが悪いのかもしれないけど、一方的に悪いってことはないよ」

 力強い言葉に胸が詰まる。感謝の言葉を伝えたいが、顔を上げる勇気がない。

「……俺ん家もさ、母さんと伯母さんがじいちゃんの相続を巡って喧嘩別れしたせいでいとこと会えなくなってさ」

「えっ」

 驚いて目だけ上目遣いに見上げる。雄輔は苦笑いを浮かべながら肩をすくめる。

「特に仲が良かったわけじゃないけど、もう会えないと思ったら寂しいもんだぜ。その喧嘩別れだって、俺が聞く限りどっちにも非があるんだけど、やっぱりどっちにもそれなりの理由があってさ」

 まだ俯き加減の衣緒を見やってから、雄輔は小さく息をつく。

「だからさ、母さん常々俺たちに言うもんな。何があっても兄弟仲良くしておけって。本当にそう思うよ」

 仲睦まじい理想の家族像に思えた雄輔の家族にも、哀しい歴史があった。皆、辛い思いを抱えて生きているのだ。誰も悪くない。その言葉が少しずつ、確実に胸に染み入ってゆく。

「それにさ、今回会ってくれるんだろ? じいちゃん」

「うん」

 衣緒はようやく顔を上げた。が、その切れ長の黒目が涙で揺れている様子に雄輔は狼狽えて後ずさる。

「さ、くら。え、泣いて――」

「泣いてないよ」

 そう言ってにっこり笑うと、目尻から水晶のような涙がぽつりと浮かぶ。

「会ってくれるんだもの。……感謝しなくちゃね」

 涙を滲ませながらも必死で笑顔を作ろうとする衣緒がいじらしい。雄輔は胸がきゅうとしめつけられた。

「――そうだよ。それにさ、可愛い孫に会えるわけだろ? じいちゃん絶対楽しみにしてるって。お父さんも仲直りできるチャンスじゃねぇか」

 仲直りのチャンス。その言葉に衣緒の頭が冴え渡ってゆく。

「……そっか。チャンスか」

「おうよ」

「責任重大だね、私」

 少し緊張した顔つきで呟く衣緒に雄輔は胸を張り、得意げな表情で声を上げる。

「野球で言えば、三点ビハインドの九回裏二死満塁の打席ってとこだな」

「全然わかんない……」

「あー……、ごめん」

 申し訳なさそうに囁く衣緒に雄輔は思わず天を仰ぐ。彼はどこまでも野球で頭がいっぱいのようだ。だが、そうやって自分を励ましてくれる雄輔の優しさに、衣緒は心が温かく満ちてゆく。しばし頭をひねっていた雄輔はぽんと手を打つ。

「そう。野球にはさ、ピンチの後にはチャンスあり、って言葉があってさ」

「ピンチの後には、チャンスあり」

「うん」

 雄輔はきらきらした眼差しで言い含める。

「ピンチを凌いだ後は必ずチャンスがくる、っていう意味でさ。お父さんは絶縁されて、大変な時期があって、守りに入ってたと思うんだ。それを今から攻めに転じるわけだろ。これはチャンスだよ。佐倉がきっちりリリーフしたら完璧さ」

 衣緒は嬉しそうに微笑むが、雄輔は慌てて言葉を継ぐ。

「あ、リリーフってのは、救援って意味な」

「うん。それは何となくわかる」

 その言葉に雄輔も微笑を浮かべる。そして、握り拳を作ると胸許まで持ち上げた。衣緒が首を傾げると、「タッチ」と囁く。彼女が見よう見真似で拳を上げると、その白く細い手首に雄輔が自らの手首をこつんとクロスさせる。

「がんばれよ」

 その一言に、それまで涙で揺れていた瞳が生気に溢れた光で満ちる。雄輔の手は温かかった。まるで、父のように。

「うん」

 衣緒は力強く頷いた。

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