第1部-境界の海-第6話
仕事を終え、駅から自宅へ向かう草平。日が落ちてもなお蒸し暑い。まとわりつく熱気に辟易しながら喉許の汗を拭う。
「ただいま」
やっと玄関まで辿り着き、ドアを開けるとリビングから「おかえり!」と元気のいい声が返ってくる。と同時に、煮込んだ野菜の匂いに顔をほころばせる。
「あれ、いい匂いだ」
制服にエプロン姿の衣緒がキッチンから出てくる。
「玉ねぎのスープ作っておいた。それと、スパニッシュ・オムレツ焼くよ」
草平はネクタイをほどきながら笑いかけた。
「どうしたどうした。何かいい事でもあったのか」
父の言葉に嬉しそうに微笑むと、衣緒はソファに置いておいた紙袋を掲げる。
「見つけちゃった」
そう言って袋からクリームの容器を取り出す。薔薇の花弁を象った容器に草平はあっと声を上げる。
「ロザリー?」
「そう! 熊谷駅前の雑貨屋さんにあったの!」
草平は懐かしさに微笑を浮かべながら容器を受けとる。
「まだ製造してたのか。よく見つけたな」
「うん。たまたま、帰り道で見つけたんだ」
しばし容器を見つめていた草平だったが、思い出したように顔を上げる。
「高かっただろう。父さん出すよ」
「え、いいの?」
草平は鞄から財布を取り出すと千円札を三枚取り出す。
「これは衣緒にとって薬みたいなものだからな」
「うん……。家に置いておくだけで安心する」
そして、ちょっと眉をひそめて申し訳なさそうに囁く。
「ごめんね。これ、結構高いクリームだったんだね」
そんな娘を安心させるように微笑むと、目を細めて当時のことを思い出す。
「これを初めて買った時のこと覚えてるよ。大宮のデパートで見つけたんだ。幹恵おばさんに相談したら、無添加で天然ものを使ったクリームがいいって言われたんだけど、無添加で天然ものっていっぱいあるんだよ。途方に暮れてねぇ」
そして、懐かしそうな表情でロザリーの容器を指でこつこつと叩く。
「それで、デパートの化粧品売り場に行ってみたんだ。そしたらそこのお姉さんが親身になって聞いてくれてね。小さい子なら薬だと思うと嫌がるだろうから、綺麗になれる魔法のクリームだと言ったら喜んで使ってくれるんじゃないかって。これならいい香りだし、容器も可愛いし」
「へぇ……!」
父の説明に衣緒の表情が明るく輝く。なんて素敵な店員さんなのだろう。
「期待通り、衣緒が喜んでくれてよかったよ」
「使い終わったら玩具箱にしたもんね」
「二個目を買いにいったら、別のお姉さんが奥様にプレゼントですか? って聞いてきてさ」
そんなこともあったのか。衣緒は少し驚いた顔つきになる。
「面倒だから、そうですって言ってラッピングしてもらったよ」
「ふぅん」
鼻を鳴らしながら衣緒はロザリーを取り上げた。そして、思い出したように微笑を浮かべる。
「そうそう。小さい時にこれを父さんが買ってくれたんだって言ったら、里村くんがセンスいいねって。父さんと同じこと言ってたよ」
「へぇ。里村くんと一緒に買いに行ったんだ」
途端に、衣緒の顔が見る見るうちに紅潮してゆく。肌が白いから余計に目立つ。あまりに正直な反応に草平が笑いながら娘の肩を叩く。
「父さん嬉しいよ。中学に比べて友達も多いし。そうやって仲のいい子がいるのはいいことだよ」
「……うん」
顔を赤くしたまま、素直にそう呟く。そして、友達という言葉に思い出したように身を乗り出す。
「そうだ、父さん。……あのね、夏休みなんだけど」
「うん?」
冷蔵庫からお茶を出しながら振り返る。
「皆と江ノ島に行くのをやめて……、浦安のテーマパークにしようって話になったんだけど……」
そこで口をつぐみ、心配そうに眉をひそめて父をじっと見つめる。
「……海のテーマパークも、駄目……?」
不安でいっぱいの眼差し。小柄な衣緒が一層小さく見える。江ノ島を巡って喧嘩をした時も、泣き出しそうな顔で必死に訴えていた。こんな表情をさせてしまった。草平は慌てて娘に歩み寄った。
「大丈夫だ。ええと、イマジン・シーだっけ?あそこは評判いいからな。むしろ浦安なら安心だ」
衣緒の表情が少しずつほぐれ、ほっと息をつく。
「入園料いくらぐらいかな」
「パスポートって言うんだよ。学割で……、五千円ぐらいなんだけど」
五千円。わざと両目を見開いて驚いてみせるが、すぐに笑って頷く。
「わかった。じゃあ、えっと、パスポート代と、交通費と昼ご飯までは出すから。それ以外はお小遣いから出しなさい」
衣緒はびっくりした顔つきで身を乗り出す。
「えっ、そんなにいいの」
「いつもは無理だよ。夏休みだから特別にな。だから、ほら、あれは自分で買いなさい」
「あれって?」
草平は両手で丸い形をジェスチャーで示す。
「ほら、耳みたいな。頭に着けるやつ」
その説明に衣緒がおかしそうに吹き出す。
「カチューシャね」
「カチューシャって言うのか」
草平は笑いながら通勤用のカッターシャツを脱ぐとTシャツに着替える。
「里村くんも行くのか?」
「い、行かないよ。クラスの女子とだけ」
「そうか」
雄輔の名を耳にすると、脳裏に様々なことが思い出される。衣緒は、晩酌の用意をする父をじっと見つめた。
「……里村くんに家族の写真、見せてもらったんだ」
不意に呟いた娘を振り返る。どこか頼りなげにその場に佇んでいる衣緒に草平は眉をひそめた。
「……お母さんはとっても綺麗な人で、お父さんも優しそうで、弟さんがいるの。……皆でバーベキューしてて、楽しそうだったな」
沈んだ表情。そして、羨ましさよりも、純粋に寂しさを訴えかける声色に戸惑う。これまでも、これからも、自分たちはこうしてふたりで食卓を囲み、時を過ごしてゆく。それがこれ以上ない幸せだと信じている。だが、自分たちには決して届かない幸せの形を持っている人々がいる。そのどうしようもない事実を、少しずつ目の当たりにしてゆくのだ。少し迷ったが、やがて草平は静かに口を開いた。
「智樹くんが帰ってきたら、おばさんとおじさんも呼んで、バーベキューやろうか」
「うん」
少しだけ明るい表情で顔を上げた衣緒に、ほっとする。気を取り直して食器を棚から出し始めた衣緒だったが、ふと手を止める。
「――ねぇ、父さん」
「うん?」
振り返ると、衣緒は皿を抱えたままじっと見つめてきた。かすかに眉を寄せ、大きく見開いた瞳に、草平は思わず黙り込む。
「……いつか、いつかでいいからさ。父さんと、海を見に行きたいな」
囁くような哀願。草平は言葉をなくして立ち尽くした。真っ直ぐ射すくめてくる眼差し。何か言いたげにかすかに震える唇。草平はごくりと唾を呑みこんだ。やがて衣緒はにっこりと微笑んだ。
「お風呂沸かしてくるね」
草平は我知らず胸許のシャツを握りしめ、キッチンを出ていく衣緒を見送った。
翌日。登校した衣緒は真っ先に友人たちの許へ駆け寄った。
「ひめちゃん、うちの父さん浦安行ってもいいって!」
「本当に?」
皆が喜びの声を上げ、ハイタッチを交わす。
「良かった! 皆で行けるね!」
「確か夏休み限定のパレードがあるはずだよ!」
すぐにテーマパークの話題となり、衣緒も嬉しそうに皆の情報に耳を傾ける。こんな風に友達とどこかへ遊びに行くというのは初めてだ。だが、話を聞いているうちに段々顔を固く強張らせていくことになった。
「えへへー。うち実は、じいちゃんばあちゃんたちとも浦安に行くんだ」
「あ、うちも四国からじいちゃんたちが遊びに来るから東京に連れてってあげる予定」
皆が楽しそうに家族との予定を披露してゆく中、ひとりが衣緒を振り返る。
「さくらんは?」
思わず言葉が詰まる。まったく悪気のない、無邪気な笑顔の友人たち。衣緒は動悸を感じてスカートの裾を握りしめる。が、咄嗟に口を開く。
「――おばさんたちと、バーベキューしようか、って」
「いいねー! BBQ!」
「肉食べたーい!」
皆は盛り上がるが、衣緒はどうしても引きつった笑顔になってしまう。だが、この華やいだ盛り上がりに水を差すようなことはしてはならない。衣緒は必死に自制した。我慢しなさい。怒っては駄目――。すると、彼女の異変に気付いたひとりが慌てて話題を変える。
「そういえばさ。B組の桐絵ちゃんも彼氏と東京に遊びに行くんだってさ。『タワー巡り』するって」
「へぇ。例のハーフの彼氏?」
「彼氏、何かの大会で優勝してたよね。すごいわー」
話題が隣のクラスの生徒に変わり、衣緒は人知れずほっと息をついた――のも、束の間。
「彼氏と言えば……! さくらん!」
ひとりがいきなりしゃがみ込んだかと思うと、衣緒の耳許で囁く。
「里村くんとどっか行くの?」
予想外の不意打ちに衣緒は顔を真っ赤にして言葉を失う。
「そうだそうだ! どこか遊びに行くの?」
他の友人たちも一緒になって囃し立て、気を遣って話題を変えた友人がまたもやはらはらした様子で視線を彷徨わせる。
「べ、別に……。そ、そういう関係じゃないし……」
「でも仲いいじゃん! お似合いだって!」
これも、悪気はないのだろう。だから始末が悪い。衣緒は必死に手を振って否定する。
「確かに仲はいい方だと思うけど、図書室で一緒になるぐらいだし……。向こうに悪いよ」
だが、皆はしたり顔で腕組みをすると肩で衣緒を小突く。
「嘘だぁ。あっちもかなりさくらん意識してると思うなー!」
「この夏休みに急接近するしかないね!」
「だ、だから、そんなんじゃないって……」
すっかり困惑しきった様子で呟きながらも、衣緒はちらりと視線を向ける。眼差しの先には、同じように仲のいいクラスメートたちと話し込んでいる雄輔の姿が。ゲームの話で盛り上がっているらしい。
相変わらず、人懐っこく無邪気な笑顔。頼りがいのある、包容力を感じさせる体格。彼の笑顔を見つめていると、胸がちくりと痛む。確かに、雄輔の穏やかな人柄は嫌いではない。むしろ好意を持っているのは事実だ。だが、その笑顔や優しさは、明るく朗らかな家庭で育まれたものだと思うと、この手が届かないほど遠くの存在のように感じてしまう。衣緒は目を伏せると小さく息をつく。家族と仲の良い雄輔のことだ。きっと、この夏休みも家族で旅行でもするのだろう。健在であれば、祖父母の家を訪れるのかもしれない。
おじいちゃん。おばあちゃん。
口の中でそっと呟いてみる。自分のおじいちゃんとおばあちゃんは、どんな人たちなのだろう。
その頃、草平も同じように思いを巡らせていた。大学の研究室。資料が壁を作る机に向かい、眉間に皺を寄せて虚空を見つめる。
「いつか、父さんと海を見に行きたいな」
昨夜の衣緒の囁きが頭を離れない。草平は目を閉じると額を押さえた。
「あの子、我慢してるわよ」
姉の言葉も蘇る。そうだ。これまで衣緒には散々我慢させてきた。思春期の衣緒は周囲からの異物を見る視線に耐えられず、感情を爆発させることもあった。それでも、次第に我慢することを覚えていった。我慢することで周囲と摩擦を起こすことなく過ごせることを身を以って知った衣緒は人付き合いも上手になり、高校では友人にも恵まれた。里村雄輔という、特別な異性の友人ができたことも大きいだろう。衣緒は、社会性を持つ「人間」として生きていける。そう思えた。その矢先の、体の異変。何故今になって、幼い頃のように鱗が剥がれ落ちるようになったのか。これまで溜め込んでいた、負の感情が溢れ出てきたのだろうか。
ゆっくり立ち上がると、窓に向かう。青々とした木々が校舎を包み、眼差しを上げれば強烈な陽射しが苛む。やがて目を伏せ、シャツの胸ポケットから眼鏡を取り出す。スクェア型の細いレンズ。シャープなメタルフレーム。耳に掛ける部分はべっ甲。衣緒に連れられた眼鏡店で一緒に選んだ「お洒落な老眼鏡」だ。
「うん。絶対こっちがいい。今年はデミ柄が流行りだし、父さんにもぴったりだよ。かっこいい」
衣緒は得意げに説明してくれた。仲睦まじい自分たちの様子に、店員からも「羨ましいですね」と声をかけられた。ふたりで紡ぐ何気ない日常。それは、草平にとってはかけがえのない宝石のように煌めく宝物だ。
もう、限界かもしれない。
胸の内でそう呟く。思春期を終え、人との繋がりを求め始めた衣緒は、今から人間として生きていこうとしている。海を見たいという欲求は、その分岐点を表しているのかもしれない。眩しい陽射しに背を向けると再び机に向かう。机に投げてある大きな手帳を取り上げ、表紙を開く。そこには、古い写真があった。
桃色の柔らかなおくるみに包まれた赤ん坊を抱く自分。薔薇色の頬が愛くるしい赤ん坊は一心不乱に眠っている。その赤ん坊を見つめる草平。細められた目は笑っているようにも、泣いているようにも見える。姉の幹恵が撮ったものだ。今から十五年前の写真なのに、写真の自分は今と変わらないほどずいぶんと老け込んでいる。落ちくぼんだ目。削げ落ちた頬。その表情のひとつひとつが、目まぐるしく、激しい動乱の日々を胸に去来させる。
「馬鹿者!」
耳を刺す罵声。草平は苦しげに目を閉じた。
「何を考えとる! 母親はどうした! どこにおる!」
「わからない。俺も探している」
目の前で仁王立ちした父の怒声に、草平は震えながらも言い返した。父の足許には、顔を覆って咽び泣いている母。草平の後ろでは、赤ん坊を抱いた姉幹恵。怒鳴り声に赤ん坊は顔を真っ赤にして泣き声を上げ、幹恵は困惑しながらも優しくあやしている。
「満一歳だと言うたな」
父は怒りで目を血走らせたまま詰問した。
「この一年、何をしとった!」
「もちろん、この子の母親を探していた。でも正直、この子の面倒をみるので精いっぱいだった」
「恥っさらしが……!」
鼻に皺が寄るほど顔を歪めて吐き捨てた父に、草平はきっと目を上げる。
「この子は俺の子だ。だから俺が育てている!」
「ちゃがちゃが言うな!」
父が罵声を張り上げるたびに母は声を上げて泣き崩れ、草平はせつなげに息を吐き出す。そんな息子に、父は容赦なく怒鳴りつけた。
「おまえは、生んだばかりの乳飲み子を捨てるような女と関係を持ったんか! 情けないにも、程がある……!」
そのことについては言い返せない草平は唇を噛みしめた。が、苦しげな表情で父を見上げる。
「だけど、俺は父親としてこの子を育てなくてはならない」
「ふざけるあばさけるな! 本当におまえの子かもわからんのに!」
父の言葉に顔を歪める。
「この子は俺の子だ。間違いない。俺と同じAB型だし、確かに……、彼女が生んだ俺の子だ」
「だから、その女を連れてこい!」
「連れてきたからってどうなる……!」
両者の不毛とも言える激しい言い争いに、幹恵は強張った表情で見守るしかない。そして、腕の中で泣き止まない赤ん坊に目を落とす。その場のただならぬ空気を体全体で感じ、必死に助けを乞うかのように泣き続ける赤ん坊。幹恵は思わずその小さな額を撫でる。
「母親が見つからんのなら、赤ん坊は施設に預けろ」
父の放った言葉に、草平だけでなく幹恵も息を呑んで顔を上げる。
「父さん! 子どもを捨てた母親を責めておきながら、俺には子どもを捨てろと言うのか!」
「綺麗事を言うな!」
一段と声を張り上げた瞬間。
「やめて、父さん」
冷静な幹恵の声に父はぎくりと体を震わせた。幹恵は強い眼差しを向け、はっきりとした口調で言い放つ。
「この子が怖がっているわ。この子には何の罪もないのだから」
その言葉に、父は怒りに満ちた表情ながらも溜め込んだ息を吐き出した。母も顔を上げ、不安げに泣き声を上げ続ける赤ん坊を呆然と見つめる。
「……おまえは」
幾分落ち着いた声色ではあるものの、父は尚も問い詰めた。
「おまえは独りのままその赤ん坊を育てるつもりか。母親の知れない赤ん坊を! それが、仮にも教壇に立つ者がやることか!」
草平は額の汗を拭った。
「……大学には、もう辞表を出したよ」
「何だと……!」
「この子を育てるために、一からやり直すつもりだ」
「草平……!」
母が真っ青な顔つきで囁く。草平は目を伏せ、絞り出すようにして言葉を続ける。
「……人並みの家庭を作れなかったことは残念だ。でも、この子の父親になったことは後悔していない」
その言葉が終わるか終らないか。父は拳を固めると息子の顔を殴りつけた。
「草平!」
「父さん!」
赤ん坊を抱いたまま幹恵が腰を浮かす。母は倒れ込んだ息子を抱き起すと震える手で頬を撫でつける。草平は顔を歪めながらも黙ったまま口を押さえる。指先に鮮やかな血が広がる。
「出て行け……!」
父は歪めた口から吐き捨てた。
「二度とこの家の敷居を跨ぐな!」
母と幹恵が呆然とする中、草平は黙って立ち上がった。そして、姉の腕から赤ん坊を抱き上げるとそのまま玄関へ向かう。
「待ちなさい……! 待ちなさい、草平……!」
取り乱した様子で追いかけてくる母に、「母さん、ごめん」と呟く。
「父さんのこと、頼んだよ」
「おまえ……!」
靴を履き、玄関の扉を開くと冷たい寒風が唇の傷を刺す。腕の中の赤ん坊に目を落とすと、ジャケットで風が当たらないよう覆い隠す。
「草平」
不意に呼びかけられたかと思うと、幹恵が脇を通り抜け、車へ向かう。
「どこまで行くの。送っていくわ」
「……姉さん」
ドアを開けると、早く乗るよう示される。
「この寒さじゃ、その子が風邪をひくわ」
草平は申し訳なさそうに唇を歪め、身を屈めると車に乗り込んだ。
「……駅まででいいよ」
「これからどうするの」
手早くシートベルトを着け、発進させる。草平は、まだぐずっている赤ん坊の頭を優しく撫でた。騒がしい状況から抜け出せたことは理解できたのか、赤ん坊は草平に甘えてすがりついてくる。
「父さんの言うとおり、福井にはもういられない。東京で職を探すつもりだよ。こんな自分でも、雇ってくれる学校があれば……」
「それなら」
ハンドルを握り、前方を向いたまま幹恵が冷静な口調で呼びかける。
「再就職先が見つかるまでうちに来なさい」
「でも」
驚いて顔を上げるが、姉は凛とした横顔のまま言葉を継ぐ。
「今回も、うちの人がそう言って送り出してくれたのよ。もしものことがあれば、うちで面倒を見ようって。智樹がもう少し小さければ難しかったかもしれないけど、あの子ももう六年生だし」
淡々と語る姉に、草平は言葉を失って項垂れた。両親を絶望させ、姉一家に大きな負担をかける。事の重大さがやっと骨身に染みてくる。だが、これは始まりに過ぎない。
「……ごめん、姉さん。本当にごめん……」
「草平」
助手席で声を詰まらせる弟を一瞥する
「ひとつ教えて。その子の母親は、本当にどこにいるのかわからないの?」
草平は力なく頷いた。
「手がかりも、心当たりもないの?」
「……もう無理だ。二度と会えないと思っている」
「どうして――」
そこまで口にして、幹恵は諦めたように溜息をつく。
「わかったわ。もう、そのことは聞かないわ」
その言葉に、草平は安堵の吐息をつく。疲れ果て、げっそりと痩せこけた弟の横顔に不安そうに眉をひそめるものの、幹恵は気分を変えるように明るく呼びかける。
「この子の名前を聞いていなかったわ。女の子でしょう?」
「ああ……」
草平もほんの少し口許をゆるめると顔を上げる。
「いお。衣緒という名前にした」
「またえらく可愛らしい名前にしちゃって」
幹恵はそう冷かしながらも、弟の腕の中で寝息を立て始めた姪を見やる。
「いい子じゃない。しっかり育てるのよ」
姉の励ましに、草平は表情を引き締めて頷いた。
あれから、十四年。あっという間の十四年間だった。思えば、ここまでこれたのは様々な助けがあったからこそだ。すべての人に感謝しなければ。これまで真っ直ぐ育ってくれた衣緒にも。
そこまで考えて、草平は目を見開いた。そうか。「その時」が来たのかもしれない。これからも衣緒とふたりで平穏な暮らしを続けるために、ずっと心の中でくすぶり続けていた問題と向き合う時が来たのだろう。
彼は席を立つと本棚から若狭国妖拾遺集を取り出した。もう何度読み返したか知れない。すっかり諳んじたその部分を、もう一度瞳に焼き付ける。
人魚の娘は麗しく育ち、噂は遠くまで広まりてゆきき。噂は侍の耳へ届きて、やがて仰浜へ戻りてきたり。侍は、人魚に瓜二つの娘に驚きし。
「汝の母はいづこなり」
娘は答へたり。
「我は捨て子なり。知らず」
この娘は人魚とは関わりはなからむ。我がものにせむ。
我が子と知らず、人魚の娘を手籠めにしようとした侍は娘を育てた人魚たちに食い殺される。伝説の域を出ない悲劇だが、「妖あやかしの合いの子」は現実に生まれたのだ。自分の娘として。その身としては、この悲劇は決して他人事ではない。後悔する前に、行動を起こさなければなるまい。彼は机の上に投げ出してあったスマートフォンを手にした。アドレス帳を開き、しばし液晶を見つめる。そしてかなりの時間迷った挙句、通話ボタンを押した。呼び出し音が続く間、草平の鼓動が少しずつ早まってゆく。思わず目を閉じ、スマートフォンを握る手に力を込める。と、呼び出し音が途切れる。草平は目を見開くと顔を上げた。
「――もしもし」
かすれた声で呼びかける。
「母さん、草平です」
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