第1部-境界の海-第5話

「信じらんない」

 我が家での食卓。仏頂面でなじる衣緒に、草平は困り切った顔付きで言い返す。

「そう言うなよ。父さんだっていきなりお誘いを受けるなんて思わなかったし」

 それでも、衣緒は軽蔑したように横目で睨み付けてくる。

「女性からのお誘いを断るなんて最低……」

「衣緒」

「しかも、私の晩ご飯を作らなきゃなんて、どれだけ小さい子なの」

 それはそうだ。思わず言葉を失う草平だったが、やがて口許をゆるめると手にした箸で皿を指す。

「でも、帰ってきてよかったよ。今日はおまえの唯一の得意料理、ゴーヤーチャンプルーだからな」

「父さん!」

 途端に顔を真っ赤にする衣緒に笑い声を上げると、草平はゴーヤーを口に運ぶ。衣緒は料理が苦手だ。その原因は草平にあった。草平が何でも作れるからということもあったが、何より衣緒に包丁を持たせたくなかった。それは、病院で衣緒の体を診せることを極力避けたかったためだ。だから、医者である義兄の敦生にちょっとした健康診断を受けさせるのも、実は内心不安でいっぱいだった。

「でも美味しいよ。上手になった」

「……がんばる」

 ちょっと落ち込んだ様子で呟く衣緒に草平は慌てて身を乗り出す。

「大丈夫だ。美味しいよ」

 だが、衣緒は少し沈んだ表情で父を見返した。

「……その人、いい人なの?」

「え? 藤木先生?」

 こくんと頷く娘。

「うん。横浜の大学の先生でね。いい先生だよ。まだ三五だっけな。学生からも人気があるみたいだ。文学館を作るのにがんばっていてね」

「ふぅん」

 尋ねておきながら気のない返事の衣緒に、怪訝そうな眼差しを向ける。

「……どうした?」

 言われて顔を上げる。

「……ねぇ、父さん」

 眉をひそめ、憂いを帯びた瞳にぎょっとする。衣緒は時折、母親と同じ眼差しを見せる。あの晩、浜辺で出会った人魚と同じ眼差しを。

「やっぱり、私がいるから?」

「何が」

「私がいるから、結婚しないの?」

 恐る恐る、ゆっくり問いかける衣緒に草平は息をついた。箸を置き、身を乗り出すと真正面から娘の瞳を見つめる。

「衣緒」

 たしなめるように呼びかけると、衣緒は少しだけ口許を歪めて居住まいを正す。

「何度も言うように、今は父さん誰とも付き合う気がないよ。もしも、付き合いたい人ができたらちゃんと報告する。約束するよ」

 真剣な眼差しでゆっくり言い聞かせる。だが、それでも不安そうに瞳を揺れさせる娘を安心させるように、微笑を浮かべて言い添える。

「報告というより、相談かな。どちらにしろ、おまえにはちゃんと話すよ」

 その言葉に安心したのか、ようやく衣緒の表情が和らぐ。

「うん」

 親子はそれから黙って食事を続けた。本当はもっと聞きたいことがあるのかもしれない。だが、聞いてくるまではそっとしておこう。草平はそう考えた。

 結婚か。

 彼は箸を止めると、在りし日の出来事を思い返した。あれは衣緒が中学一年生の頃。ゴミ箱に入っていたプリントを見つけたのがきっかけだった。

「衣緒、何で早く言わなかったんだ。土曜日に参観日があるなら、学会に欠席届出したのに」

 中学のセーラー服に着替えた衣緒は振り向きもせず、「別にいいよ」と言い放つ。

「いいことないだろう。父さん行きたかったぞ」

「いいよ」

 突き放すように強い口調で繰り返す娘に口をつぐむ。衣緒は眉を寄せ、口を尖らせてじっと見つめてくる。

「……皆、来るのはお母さんなんだから」

「衣緒」

 顔色を変えると娘に歩み寄る。

「おまえ、もしかしていじめられてるのか」

「いじめられてないって言えば安心する?」

 棘のある尖った声に、草平はかっとなった。

「衣緒!」

 思わず太い声で一喝するが、衣緒は鞄を背負い、「行ってくる」とだけ呟いて玄関に向かった。

 その日は、大学に着いてからも草平は心が晴れなかった。小学校低学年の頃は姉が参観日に行っていたことがあったが、そのうち「父さんに来てほしい」と言ってくれるようになった。しかし、中学生になってからはまだ一度も行っていない。中学がどんな様子なのか気になる草平は、できれば参観日に参加したかった。だが、思春期に入ってからは娘との距離感が掴めずにいた。

 昼時。食欲が湧かないまま学食へ行き、コーヒーだけ飲む。どうすればいいだろう。もやもやとした思いを抱えながら学食を後にした時。ポケットの携帯電話が震える。衣緒だろうか。慌てて電話を引っ張り出すと画面を開く。液晶に「衣緒」と表示される。メールだ。そこには一言、「さっきはごめん」とあった。

 瞬間、草平は右手で口許を押さえた。目に涙が滲む。あの小さな体に、どれだけの負担をかけているのか。どれだけ苦しい思いをさせているのか。全て自分のせいだ。なのに、自分は何もしてやれない。娘は大人になってゆく。それに甘えているだけじゃないか。溢れる涙がこぼれないよう、天を仰ぐ。父親として、衣緒にしてやれることは何だ。一生、考え続けるのだ。

 そんなこともあった。

 草平は、ありし日の出来事を思い出しながら、食事を続ける衣緒を見守った。すると、衣緒は腰を丸めて手をテーブルの下に伸ばした。

「まだ痒いのか」

 眉をひそめて尋ねると、衣緒は顔をしかめて頷いた。

「今使ってるクリーム、あんまり効かない……」

 不快そうに足首を掻く衣緒に、草平の胸がすぅと冷たくなっていく。先日、床の上に落ちていた、虹色に光る鱗。それは、海水に浮かぶ寒天質の塊を脳裏に浮かび上がらせた。灰色の鱗に覆われた魚体の下半身と、ピンクの小さな頭。ゼリービーンズのようにふっくらとした腕に、小さな握り拳がぴくぴくと動いていた。草平は思わず茶碗を持つ手を下げ、箸を握る手で額を押さえる。

「……父さん?」

 娘の心配そうな声色に顔を上げる。弧を描く美しい眉がひそめられ、黒目がちの切れ長の瞳にじっと見つめられる。

「大丈夫?」

「……ああ」

 溜め込んだ息を吐き出し、グラスの麦茶を飲み干す。

「夏バテじゃないの? 気を付けてよ」

 衣緒の言葉にふっと微笑む。

「ちょうどよかったよ。ゴーヤーで元気になる」

 そう言って、草平は再び茶碗を取り上げた。


 翌日、衣緒はなんとなくすっきりしない一日を過ごしていた。授業が終わり、教室を出ようとする雄輔を見かけて追いかける。

「里村くん、今日当番だっけ」

「いや?」

 雄輔はポケットに手をつっこんだまま振り返って答える。

「そっか……。じゃあ、本の返却は今日じゃなくていいか……」

「読んだ?」

「うん」

 いつになく元気のない様子の衣緒が気にかかったのか、雄輔は腰を屈めて顔を覗き込んだ。

「じゃあ、感想聞かせてもらおうかな」

 そう言ってにっと笑う雄輔に、衣緒もつられて微笑む。

「うん」

 衣緒が見せる笑顔に、雄輔は内心ガッツポーズを決めた。

「じゃあ自転車取ってくるわ。一緒に帰ろうぜ」

 努めて平静を装うが、実際は小躍りしたいほどに嬉しいのだ。こうして、ふたりはのんびりと駅に向かった。

「中也どうだった」

「うん、読みやすかった。不思議な感じで……。良かった」

 言葉とは裏腹に少し沈んだ表情が気になり、二の句を待つ。

「……でも、時々怖い詩があった」

「怖い?」

 衣緒は重い口を開くと、「海の詩とか」と呟く。

「ああ、『北の海』か。あれインパクトあるよな」

 怖いと言っても笑われなかった。衣緒は少しほっとした。

「俺はあれ、嫌いじゃないけどよく考えたら不気味だもんな」

「……見たことないけど、海ってあんな感じなのかなぁって」

「そっか。見たことないんだっけ」

 海に遊びに行くのを父親に止められたという話を思い出した雄輔は、ちょっと気の毒そうな表情になる。そして、ふと顔をしかめる。

「……ひょっとして」

 衣緒が首を巡らせて雄輔を見上げる。

「昔、海で事故にでもあったんじゃないのか? お父さん、それで海に連れていきたくないとか」

 思わず息を呑んで立ち尽くす。海へ行けない理由はいつも「危ないから」だった。それ以上のことは何も教えてくれない。そして、父が教えてくれないことがもうひとつある。

 母親のことだ。

 衣緒は、保育園に行くようになってから「母親」という存在を知った。皆にはいて、自分にはいない「母親」。

「おかあさんはどこ?」

 初めて衣緒がそう尋ねた時、父はこう答えた。

「衣緒のお母さんは、衣緒を生んでからどこかへ行ってしまったんだ。探したけれど、見つからなかった」

 伯母に聞いても同じ言葉しか返ってこない。衣緒はそのうち母親のことを聞かなくなっていった。いない者を思っても仕方がない。それが正直な気持ちだった。だが、それでも常に頭の片隅にこびりついて離れない。それが、衣緒にとって母親という存在だった。近づくことを許されない海。父が語りたがらない母親。何か関係があるのだろうか。

 そして、中也の詩を読んだ夜にうなされた悪夢も、頭をもたげた。幼い頃から繰り返しみる夢。暗い海の浜辺で、無数の手に引き摺り込まれそうになるのだ。海に行ったことはないがわかる。あれはきっと海だ。行ったはずのない、夜の海!

「佐倉」

 現実に引き戻す呼び声。衣緒は我に返ったように振り返る。

「大丈夫か」

 真顔で心配そうに聞いてくる雄輔に、衣緒は無理矢理笑顔を見せる。

「……うん、大丈夫。いろんなこと考えちゃった」

 そう行って再び歩み始める衣緒を雄輔が追いかける。大丈夫とは言いながらも、どうしても顔が強張ってしまう。自然と俯き加減になった時。

「ドーナツ百円!」

「えっ」

 突然の声にびっくりして顔を上げる。雄輔が道路の脇に出ているのぼりを指差す。

「ドーナツ百円だってよ。食ってこうぜ!」

 面食らう衣緒に構わず、雄輔は店の前に自転車を止めると衣緒の鞄を引っ張ってゆく。強引に見えるが、衣緒のためにドアを開けてやったりとレディファーストは忘れない。店に入ると、色とりどりのドーナツがトレイに並び、甘い香りに迎えられる。

「佐倉、何食う?」

「え、あ、じゃあ、オールドファッション……」

 戸惑いがちに一番オーソドックスなドーナツを挙げると、雄輔はトレイとトングを手にした。

「二個? 三個?」

「い、一個でいいよ……!」

 慌てる衣緒を横目に、トングでドーナツを次々と摘まむ雄輔。

「じゃあ俺はチョコファッションとハニーチュロスと……」

 体格のいい雄輔が小さなドーナツを選ぶ姿に、戸惑っていたはずの衣緒がくすりと笑う。

「よーし、こんだけにしとこう」

 レジにトレイを持っていくと、「店内でお召し上がりですか」と尋ねられる。

「はい。それと、コーラとアイスティーを」

 衣緒が鞄から財布を取り出そうとする前に支払いを済ませ、さっさと奥の席まで移動する。

「里村くん、いくら」

「いいよいいよ。食おうぜ」

 どっかりと腰を下ろし、アイスティーを衣緒に手渡す。

「――ありがとう」

 ひとまず礼を言うが、目を丸くして身を乗り出す。

「私がアイスティーが好きなの、よくわかったね」

 言われてぎくりと動きを止める。そして、ちらりと上目遣いに呟く。

「……昼休憩、いつもリプトン飲んでるイメージだからさ」

「あ、そっか」

 衣緒は納得するが、雄輔は動揺を悟られまいとドーナツを頬張る。

「うまい」

「いただきます」

 両手できちんとドーナツを持ち、小さな口で一口かじってから、衣緒は不思議そうに首を傾げる。

「でも、どうして急にご馳走してくれたの?」

「ドーナツ食いたいから」

 素っ気なく言い返す間にチョコファッションを平らげる雄輔に衣緒はぷっと吹き出す。

「意外だね。甘いもの好きなんだ」

「まぁな」

 自分の食べっぷりに惚れ惚れとした眼差しを向けてくる衣緒に得意げな表情をしていた雄輔だが、やがて気恥ずかしそうに呟く。

「今度は、もっと楽しい本を紹介するよ」

 その一言に衣緒が思わず目を見開く。そして、嬉しそうに微笑む。

「優しいね、里村くん」

 その言葉に、ドーナツにかぶりつこうとした口が止まり、照れ臭そうな微笑が広がる。笑うと童顔が余計に幼く見える。黙ってドーナツを頬張る雄輔を、衣緒は微笑ましげに見守った。が、ふと思い出したように身を乗り出す。

「そうだ。ちょっと聞いてもいい?」

「おう」

 衣緒はちょっとの間目を伏せると、少し緊張した感じで顔を上げる。

「里村くんのお母さんって……、どんな人?」

「うちの?」

 口をもぐもぐさせながら聞き返し、衣緒はこくんと頷く。

「別に、普通だよ」

 そう言ってコーラを飲むが、慌ててグラスをテーブルに置いて手を振る。

「ごめん……! 普通とか言っちゃ駄目だよな。えっと、えっとな」

 衣緒の家庭に母親がいないことを思い出した雄輔は、腕組みをして必死に頭を巡らせた。その様子に衣緒は思わず吹き出すが、内心は嬉しかった。親しくなってから、事あるごとに雄輔の優しさと誠実さに触れてきたのだ。しばし眉を寄せて考え込んでいた雄輔は、あっと声を上げてテーブルを叩く。

「そうだそうだ。口うるさい!」

「ええ?」

 意表を突く返答に思わず笑いながら聞き返す。

「いや、本当なんだって。例えばさ」

 雄輔はにじり寄るようにしてテーブルに肘を突き、指を折りながら挙げてゆく。

「家に帰るだろ? 早く宿題やれって言うだろ? 宿題やるだろ? 早く飯食えって言うだろ? 飯食うだろ? 早く風呂入れって言うだろ? 風呂入るだろ? 早く寝ろって言うだろ?」

 途中からお腹を抱えて笑う衣緒に、雄輔も笑いながらまくし立てる。

「何をそんなに急いでんだか!」

「お母さん、大変だね」

「まぁ、俺ん家弟もいるし、男ばっかりで母さんも大変なんだろうと思うけどさ」

 弟という言葉に、衣緒が反応する。

「いいな、兄弟いるんだ」

「ああ。佐倉は……、一人っ子か」

「うん」

 衣緒は短く答えると残りのドーナツをかじる。雄輔もそれ以上は深く尋ねることはしなかった。

「美味しかった。ご馳走様」

 ちゃんと両手を合わせて頭を下げる衣緒に、父親は厳しい人なのだろうか、などと思いながら雄輔は席を立った。

「これで二十分自転車漕げるぜ」

「結構時間かかるんだね」

「まぁな」

 そう言いながら店を出ようとした時。衣緒の足許を灰色の影がさっと横切る。

「きゃ……!」

 甲高い悲鳴を上げて咄嗟に後ずさり、後ろの雄輔にどんとぶつかる。見ると、小さな猫が背を丸め、毛を逆立てて衣緒を威嚇している。小さいくせに鋭利な歯を剥き、低い唸り声を上げる猫に衣緒は顔を青ざめさせて体を硬直させる。ただならない様子に顔をしかめ、雄輔は衣緒の袖を引っ張ると脇へ押しやって前へ出る。

「こら、行けよ」

 そう言って猫に靴先を向けると、猫はさっと飛び跳ねるようにして去っていった。隣で、衣緒の震える溜息が聞こえる。

「佐倉、猫嫌いなのか?」

「……嫌いというより」

 ごくりと唾を呑みこんでから言葉を継ぐ。

「犬とか猫とか、怖いの……。小さい頃からよく追いかけられて……」

「あぁ、追っかけられりゃ怖いもんな」

 衣緒は軽く目を閉じると長い吐息をついた。

「……ありがとう」

「大丈夫か?」

「……うん」

 だが、衣緒は半ば泣き出しそうな表情でぼそりと呟く。

「……高校生になったのに、まだあんな小さい猫が怖いなんて。……恥ずかしい」

 彼女がここまで取り乱す様子を初めて見かけた雄輔は、慰めるように笑いかけた。

「誰にだって苦手なもんはあるさ。気にすんなって」

「……そうだね」

 それでもまだ眉根を寄せ、どこか恥じ入るようにして俯く衣緒に、雄輔は何か思いついたように呼びかける。

「なぁ、佐倉」

 振り返ると、自転車を押しながら雄輔が語り始める。

「俺ん家の母さん、口うるさいだけじゃなくて、すっげぇ心配性でさ」

「そうなの?」

 興味を示すように見上げてくる衣緒に頷く。

「俺、中学まで野球やってたんだ」

「そうなんだ!」

 思わず衣緒が高い声を上げ、雄輔を見上げる。

「里村くん体が大きいし、何かスポーツやってたのかなぁって思ってたんだ」

「黄金の右腕って呼ばれてたんだぜ」

 そう言って右腕をしならせる仕草をしてみせる。

「投げる人だったんだ」

「ああ。でも、中学二年の夏の大会で、打球を頭に受けてさ」

 途端に、衣緒は痛そうに顔を歪めて言葉を失った。雄輔は指で右の後頭部を指さして「ここな」と付け加える。

「ひどい話だよな! バッターはデッドボール受けたら出塁できるけどよ、ピッチャーは打球受けても特に何もないんだぜ。向こうはヘルメットで、こっちは帽子なのによ!」

 不満げに声を上げる雄輔に、衣緒は神妙な顔で頷く。

「本当だね」

「しかも、人が腕で投げた球じゃなくて、棒で引っぱたいた球だからな」

「それで、どうなったの?」

 心配そうに尋ねられ、苦笑いを浮かべて続きを語る。

「骨折まではいかなかったけど亀裂が入って、半日意識が戻らなくて。検査やら何やらで一カ月ぐらい入院したんだ」

「……大変だったんだ」

 180センチに届きそうな長身に、筋肉質の体格。その割には童顔で、笑うと本当に子どものようななつっこい顔で明るい雄輔が、実はそんな大変な目に遭っていたとは。

「まぁ、そんなことがあって母さんがすっかり怖がってさ。大泣きして『もう野球はやめてくれ』って」

 衣緒は眉をひそめた。それはそうだろう。大事な我が子が命に関わるような大怪我を負ってしまったのだから。もしも自分が同じ状況になれば、父も同じことを言うだろう。

「父さんも野球やってたから、やりたいなら続けてもいいって言ってくれたんだけど。嫌がる母さんの反対を押し切ってまでやるつもりもなくってさ。それで、野球はやめたんだ」

 何でもなかったように淡々と語る雄輔を見上げる。

「そうだったんだ」

 だが、明るかった雄輔の表情が翳る。

「……ってのは、建前でさ」

「え?」

 思わず聞き返すと、雄輔は少し苦しそうに目を眇めた。

「……本当は、マウンドに立てなくなったんだ」

 息をひそめて見つめてくる衣緒に、雄輔は低い声で続けた。

「打球が怖くて、球を放れなくなったんだ、俺」

 それっきり口をつぐむ。ふたりは黙りこくって歩いた。街路樹の蝉がやかましい鳴き声を浴びせる中、かすかに顔を背けると雄輔は「かっこ悪ぃ」とぼやく。いつもは頼もしい広い背中が寂しげな様子に、衣緒はせつなそうに眉をひそめる。が、やがてふっと微笑を浮かべる。

「……里村くん」

 まだ少し強張った顔つきで振り返る雄輔に、柔らかな笑顔で迎える。

「そういうこと、さらりと言えちゃう里村くん、かっこいいよ」

 その言葉に思わず目を見開く。澄んだ瞳で見つめてくる衣緒に胸が詰まる。雄輔は咄嗟に、「本気マジで?」とおどけて声を上げた。

「うん」

 わざとおちゃらけた様子で照れてみせる雄輔だったが、その胸は心地よく波打っていた。このことはほとんど誰にも言っていない。恥ずかしかったのだ。投げる勇気を持てないことを。それを、かっこ悪いことではないと言ってくれた衣緒が、雄輔にとってどんどん特別な存在になってゆく。

「それで、今はスポーツやっていないの?」

「うーん……、なんか、やっぱ野球が好きだからさ。野球以外のスポーツに興味持てないっていうか……」

 少し考え込むような顔つきをしていた雄輔だが、思い出したように振り向く。

「そうそう。入院していた間暇だったからさ、休憩室とかに置いてある本片っ端に読むようになって。それからだな、本が好きになった」

「それで図書委員になったんだ」

「そういうこと」

 なるほど。そういう経緯があったのか。だが、衣緒はなおも問いかけた。

「また野球やりたいとか思わないの?」

「そうだなぁ。野球観に神宮行ったりすると、やっぱいいなぁって思うよ。それと、近所に野球やってた幼馴染がいるからさ。時々キャッチボールはしてる」

 そこで雄輔は苦笑いを漏らす。

「母さんはいい顔しないけどな」

 そう言って衣緒と笑い合っていた雄輔だったが、不意に声を上げる。

「ああ、そうだ。わかったよ」

 首を傾げて振り返る衣緒に、ゆっくりと言い含める。

「佐倉のお父さんも心配性なんだよ。だってさ、お父さんはお母さんの分まで佐倉のこと心配しなきゃいけないわけじゃん」

 その言葉に息を呑み、思わず立ち尽くす。黙って見上げてくる衣緒に雄輔はちょっと肩をすくめて見せる。

「ふたり分の心配してるからさ、危ない目に遭わせたくないって気持ちが強くなるんじゃないのか? だから、絶対に海に行っちゃいけない、なんて厳しいこと言っちゃうんだろう」

 衣緒は動揺して目を逸らした。そうだ。すべては自分を思ってのことだ。わかっていたはずだろう。なのに、頑なに海へ行くことを許さない父を責めてきた。自分はなんて親不孝だったのだろう。

「……そう、かもね……」

 たどたどしく囁く衣緒を、雄輔は穏やかな笑顔で見守る。

 ふたりは再び黙って歩いた。だがそれは気まずいものではなく、穏やかな時間だった。衣緒は、隣をゆく雄輔の横顔をそっと見上げた。優しさが滲み出た、温和な表情。言葉のひとつひとつにも思いやりが感じられる。ああ、そうか。と彼女は胸で呟いた。父に似ている。柔らかで、穏やかな表情と言葉。それはきっと、苦しいこと、辛いことを乗り越えた者が持つ優しさなのだろう。

 やがて駅に近付いてきた時。雄輔は歩道沿いに現れた雑貨店を見上げる。

「ここ、相変わらずすげぇ品揃えだよな」

「うん」

 女の子が喜びそうな化粧雑貨を目一杯揃えていることで有名な雑貨店。衣緒も興味深そうにショーウィンドウを見上げる。シャンプー、トリートメントだけでも国内外のメーカーが数十種類並び、夢々しいバス用品も所狭しとひしめいている。床から天井までぎっしり陳列されている様子が、一面ガラス張りのショーウィンドウからくまなく眺め渡せる。衣緒が床の方へ視線を向けた時。

「――あっ!」

 不意に声を上げるとショーウィンドウに張り付く。

「どうした?」

「……ロザリー……!」

 驚きと喜びの表情で囁く衣緒に、雄輔も腰を屈めてショーウィンドウを覗き込む。そこにあったのは、薔薇の花弁をかたどった赤い容器。蓋のラインストーンがきらりと光る。

「ハンドクリーム?」

「ボディ用の保湿クリーム! 小さい頃にこれずっと使ってて……。最近見かけないから、もう売ってないのかと思ってた……!」

 衣緒はそう言って嬉しそうに店構えを見上げた。

「良かった……。ここに売ってるんだ……!」

 弾む声。そして、無防備ともいえるほどの笑顔に思わず見とれていた雄輔は、思い出したように「入ってみる?」と尋ねる。

「うん」

 喜びを抑えるように頷く衣緒に、雄輔は自転車を店の前に停める。

 中へ入ると、爽やかな花の香りに包まれる。雄輔には何に使うのか想像もつかない細々とした商品がうず高く積まれている。衣緒と一緒でなければ、到底このような場所には足を踏み入れないだろう。彼女が、男子生徒が多い機械棟に入るのが怖かったように。

「ああ、やっぱり。ロザリーだ」

 明るく華やいだ笑顔でボディクリームを大事そうに両手で持つ衣緒に、雄輔も自然と笑顔になる。

「私、小さい頃乾燥がひどくて、父さんがこれを買ってきてくれたの。他にも使ってみたけど、これが一番いいんだ」

 言われて雄輔は目を丸くしてクリームを見つめる。外国製なのか、かなり凝ったデザインのパッケージで、レトロな印象も受ける。「オーガニック・ダマスクローズオイル配合」などと書かれたシールも目に入る。

「佐倉のお父さんお洒落だな。センスいいわ」

 その言葉に、一瞬遅れて衣緒が吹き出す。

「え、何?」

 慌てる雄輔に衣緒がおかしそうに肩を揺らす。

「うちの父さんと同じこと言ってる」

「へ?」

「里村くんに中原中也をすすめられたって言ったら、センスがいいって」

 馬鹿正直に狼狽える雄輔に、衣緒は嬉しそうにくすくすと笑いをこぼす。雄輔はどこかおろおろした感じで尋ねる。

「お、お父さんと、そういう話すんの?」

「もちろん」

 自分とのやり取りを、クラスメートの父親に知られている。特にやましいことでもないが、雄輔は気恥ずかしさで顔が紅潮してゆくのを感じながら、とりあえず髪を掻きむしってその場を取り繕う。

「あー……、なんか、こう、佐倉のお父さんって、ダンディなイメージだな」

 とってつけたような言葉だったが、衣緒は目を輝かせて見上げてくる。

「うん。かっこいい方だと思う」

 そして、頼まれてもいないのに鞄からスマートフォンを取り出すと、「ほら」と言って画面を見せる。雄輔は目を見開くと身を乗り出した。そこには、ラフな私服を着た親子が揃って敬礼のポーズを決めた画像があった。

「熊谷基地のさくら祭に行った時の写真」

 なるほど。だから敬礼しているのか。そういえば、ふたりの背後に桜らしき花も見える。雄輔は衣緒の父親をまじまじと見入った。

 頬には少し皺が刻まれ、白髪混じりだが若々しく、広い額が理知的な印象を与える。鼻筋がすっとした、地味ではあるが端整な顔立ちだ。

「うん。やっぱダンディだわ。アカデミックな感じじゃん」

「よくわかったね。大学教授なの」

 何気なく口にした言葉だったが、雄輔は慌てふためいた。

「大学……、教授?」

「派閥とかあって大変なんだってさ」

「へぇ……」

 自分とは住む世界が違い過ぎる。勝手にそう思いながら画面の草平を眺める。

「ね、かっこいいでしょ。私の自慢の父さん」

「うん」

「――でもね」

 不意に低められた声に振り返る。衣緒の表情から微笑が消え、眉をひそめて真顔で口をつぐむ。そして、少し寂しそうに呟く。

「……あんまり似てないって、よく言われるの」

 雄輔は思わず言葉を失う。大好きな父に似ていない。その言葉は、母のいない衣緒を不安にさせるのだろう。その不安は、雄輔にとっては想像することしかできない。だが、何とかして彼女を安心させてやりたかった。

「そうかな」

 そう言ってもう一度スマートフォンを覗き込む。

「似てるじゃん。目許とか」

 衣緒の表情がかすかにゆるむ。その表情を見てから、雄輔は慎重に言葉を選びながらも囁いた。

「あと……、お母さんが美人だったんだろう」

 どきりとした衣緒は目を大きく見開いて雄輔を凝視した。照れ隠しに目を逸らす雄輔。衣緒は、波打つ胸に手を押しやった。これまで、母を褒められた試しがなかったのだ。自分を生んですぐ行方をくらました母。生い立ちを知った人々からいつも言われてきたのだ。「可愛そうに」と。胸の高鳴りは、少しずつ嬉しさへと変わってゆく。

「……ありがとう」

 その一言に、雄輔が思わずほっと息をつく。少しぎこちない空気を振り払うように、衣緒は明るい表情で顔を上げた。

「里村くんの家族見てみたいな。写真ある?」

「うちの?」

 わざと顔を歪めながらも素直にポケットからスマートフォンを取り出す。

「うちの家族、皆変顔しかしねぇから……」

「えっ、変顔?」

 意外そうに声を上げる衣緒に苦笑するしかない。雄輔は画像フォルダをスクロールさせ、そのうちの一枚を選ぶ。

「ほれ。去年のバーベキューの時の」

 見せられた画面には、夜のキャンプ場だろうか、思い思いのポーズを取った人々の姿が。衣緒は思わず笑いながら画面を覗き込んだ。雄輔と母親は目を細めて肉にかぶりつき、その隣では弟らしき少年がいわゆる「変顔」で中指を立てている。その後ろには、首にタオルを巻き、満面の笑顔で缶ビールを掲げている父親。画面全体から、賑やかな様子が伝わってくる。

「すごい! 楽しそう!」

「うちはいつもこんな感じ」

「いいなぁ!」

 素直に羨ましそうな声を上げる衣緒に、雄輔も嬉しそうな表情になる。

「弟さんいくつ?」

「今、十四」

「兄弟いいなぁ」

 以前も兄弟がいることを羨ましがっていたことを思い出した雄輔が尋ねてみる。

「いとこは?」

「いとこのお兄ちゃんがいるけど、歳が離れてるからあんまりお話しないの」

 幹恵の息子、智樹とは歳が十一離れているため、成長するにつれて疎遠になっている。だが、仲が悪いわけではない。穏やかな伯母夫婦に育てられただけあって、智樹もおとなしくて優しいため、小さい頃は衣緒の面倒もみてくれていた。

「何だかすごく仲が良さそうだね。楽しそうでいいなぁ」

「佐倉ん家だって」

 雄輔は衣緒が手にしているスマートフォンを指さす。

「さっきの写真、ひょっとして待ち受け?」

「うん」

 思わず感嘆の溜息をつく雄輔。

「お父さんとのツーショット写真を待ち受けにするとか、今時の女子高生いないって。仲いいんだな」

 その言葉に衣緒は目を細めると、手にしたスマートフォンの画面を愛おしげに撫でた。

「――だって。たったひとりの、家族なんだし」

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