第一部 契機編
第一章 雪上の契り
1:雪山の少年
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよぉ――!!」
どこまでも広がる雪景色の中において、声変わりがまだ終わらない彼の中性的な高い声はよく響き渡っていた。
ズボズボと雪に足跡を残しながら駆けるのは、染色の無い暖かそうな毛皮のコートやズボンをぶかぶかに着こなしている小柄な少年だった。
灰色の短い髪を風になびかせながら走る少年の表情は半泣きになっており、彼は両手に大きなクロスボウを抱えたまま走り続けている。
足を踏み出す度に、腰に吊り下げた大きなバックや水筒が跳ね上がってガシャガシャと音を立て、怒り狂ったそいつに場所を知らせてしまう。
「ギアアァァァ――!」とまるで断末魔の如き嘶きを響き渡らせながら少年を追い掛けるのは、一匹の獣だった。
四足が踏み込まれる度に雪は沈み、楕円型の足跡を残す。
平べったく分厚い角を振りかざしながら迫り来るのは、
その
「……!!」
少年はおもむろに口元を引き締めると、腰を落とし踏み込むなりジャンプしていた。
「――っと!」
一メートルほど跳んだ後着地をする少年の後ろ手で、ザバザバという音が鳴り響くと同時に
「あ、危なかった……」
肩で息をしながら少年は振り返ると、クロスボウを雪に突き立てるなり座り込んでいた。
額に浮き上がる大粒の汗を袖で拭うと、「ふーっ」と大きく息をつく。
彼が視線を向ける先にあるのは、雪の中に掘り下げられた落とし穴に嵌まり込んだ
鹿は前足をかかげ、穴を登ろうとしてはザラザラと壁面の雪を掘り崩している。
随分と深く掘り下げたおかげで登ってこれない様子だが、未だに怒った様子でフーフーと鼻を鳴らし、ギャーギャーと悲鳴にもよく似た鳴き声を発している。
「鹿ってなんでこんなに鳴き声が怖いんだろう……肉は美味しいのに」
肩を落としながらぼそぼそと呟く少年の目の前で、スパンッという音と共に
「いやあ、参った参った。大したものだな」
そんな声によって振り返ってみると、そこには少年と同じ灰色の髪をした男が立っていた。
ニコニコと笑いながら、彼は今しがた矢を放ったばかりの手に持ったクロスボウを、少年と同じように雪の上に突き立てていた。
男は少年と同じような髪形と恰好をしており、更には親子を思わせる面影があるものの、よく見れば顔立ちの傾向は全く違うのがわかる。
少年が幼い印象の可愛い顔立ちをしているのに対し、男の方は面長で濃い顔立ちをしている。
その男が未だに笑いながら、「エーミール」と息子である彼の名前を気さくに呼んだ。
「俺は獲物に追われる狩人なんて初めて見たよ。まさか自ら餌になって仕掛けた罠に誘き寄せるとは、斬新な狩りを見せてもらった」
「と、父さん!」と言ってエーミールは顔を真っ赤にさせると、慌てて立ち上がっていた。
「これは違うんだよ。クロスボウでこうやって射掛けて、
「ああ知ってるよ。『矢を当てられない僕でもできる、良い狩猟方法を思い付いた!』って言って、朝起こしてくれたもんな? ついて来て正解だった。確かに斬新で父さんは感心してしまったよ」
「だから……」
肩を落とすエーミールに対し、父はベルトに引っ掛けてある水筒を取り出すと蓋を開け、コップ状になっている蓋の中に、コポコポと湯気が立っているフルーツのスープを注ぎ込んでいた。
「さあ、祝い酒ならぬ祝いスープだな」と父は言った。
「キミの新しい発想を祝して、母さんの作ってくれたスープで乾杯しようじゃないか。エーミールも早く自分の水筒を取りたまえ。な?」
ニコニコと上機嫌に笑う父の姿を目に映すと、エーミールはこれ以上父に対し弁解するのは諦める事にした。
代わりに言われるがまま、腰のベルトから水筒を取って父と同じように水筒の中をコップへと出す。
「お前の発想力にはいつも驚かされる! エーミール、キミは知略型なんだよきっと。普段から罠の仕掛け方も上手いからな」
父のそんな声を聞きながら、エーミールは暖かくて甘いそれを喉に通し、先ほどまでの事を振り返っていた。
そもそも、クロスボウをわざと外すことで威嚇しようと考えたところから間違いは始まっていた。なんとエーミールの放った矢は奇跡的に
(なんで矢というものは、狙って撃てば外すのに、外そうと思って撃つと当たるんだろう)
クロスボウというのは奥深い。
そう思ってエーミールはため息をこぼすのだった。
そもそも、彼がこうも張り切って狩猟を行うには理由がある。
それは昨日の事だった。
「今度、巡礼団の皆さんが村に来るんだよ」
暖炉が焚かれた暖かい石造りの居間で、食卓を囲みながらそう言ったのは父だった。
「巡礼団?」
目をパチクリとさせるエーミールに対し、「そうだとも」と父が頷く。
「明日が出発の日の筈だが、そうなればこの村に彼らが到着するのは三週間後といったところか。何しろ徒歩の上大所帯、しかも遠路はるばる首都のシンバリから来られるからね。その日の為に我々もそろそろ用意を始めなければ」
そう話す父の後に続いて、「そういえば、巡礼団をお迎えするのはエーミールは初めてだったわね」と言って目を細めたのは母だった。
「グランシェス王族にはね、『王位継承者は十五歳の準成人になったら、リュミネス山山頂の大神殿へ巡礼へ行く』という仕来りがあるそうよ。ここはリュミネス山の中腹にあるでしょう? だから、巡礼団の皆さんが必ず寄って行くの。その度に村の皆が一丸となって、巡礼団の皆さんをお持て成しするのよ」
それに続き、父もまた懐かしんだ様子で話していた。
「今の陛下であるロジオン公が巡礼に来られたのは、父さんがまだ十二歳の頃だった。その時も大勢のお供を従えて来るもんだから、歓迎の準備をするために村はてんわやんわだったな。女は料理や掃除、男は狩猟に駆り立てられてなあ」
「わあ、すごいね!」
途端にエーミールの目は輝いていた。
「じゃあ、王様が来るってこと? 誰が来るの?」
「王様じゃなくて、お姫様だな」と笑ったのは父だった。
「今年準成人をお迎えになられる王位継承者といえば――フェリシア=コーネイル=グランシェス姫殿下。今年で十五歳になられる、まるで女神イスティリア様のようだと揶揄されるほどに、それはそれは美しい美姫だそうだ」
「へえ、そうなんだ」
目を瞬かせるエーミールに対して、「幾ら美人だからって、相手は王族だ。まかり間違っても、身分違いの恋なんてするもんじゃないぞ」と父はからかうようにして笑う。
そんな父に対し、「やあね、もう」と母は微笑みながら、肘で父の腕をツンツンとつつくようになった。
「エーミールは。まだ、十三歳よ? まだまだ子供なんだから。女の子なんてわからないに決まっているわよね、そうよね」
ツンツンというよりも、いつの間にかガンガンという効果音に変わっている。
『言え。息子はまだ子供なんだと言え』という、無言の圧力を感じる。
肘鉄を繰り返す母に対し、父もまたにこやかに「痛い。痛いよ母さん」と返していた。
「あらあら。うふふ」
「ははは」
爽やかに笑い合う両親の姿を見て、(相変わらず仲良しだな)と思い、エーミールは笑みを零す。
エーミールはこの食卓が決して嫌いじゃなかった。
同じ色の髪をした、父と母とエーミールの三人きり。
そんなエーミールの住むステンダール家が建っているのは、イド村という名前の辺鄙な雪の中の集落である。
リュミネス山中腹部にあるこの村は、一際厳しい雪深さと寒さも相まってか、過疎がぐんぐんと進んでいる。そのせいで、今や両手があれば十分に数えられるほどしか住人がいないし、増してや同年代の友達なんて居ない。そもそも住人の半分が老人である上に、子供はエーミール一人きりである。
寂しくないわけじゃない。しかし、雪深くも暖かでのどかな村での暮らし。
この生活がいつまでも続くと良いななんて、ふと考える。
でも、その前に。
(――そっか。お姫様が来るのか……)
エーミールはどうしてもわくわくする気持ちが抑えきれず、笑顔になっていた。
(この国のお姫様って、どんな人なんだろう? 銀色の髪と青い瞳を持ってるって聞くけど、きっとキレイなんだろうな……)
そんな人に自分が狩猟した獲物を食べてもらえたら、どれだけ嬉しいだろうかとエーミールは考えていた。
「……よーし」
エーミールは口の中で呟く。
(明日から毎日狩りに出よう。そんでもって、でっかい獲物を狩ってお姫様に喜んでもらうんだ!)
エーミールはそう考えると、明日からの事を思って表情を綻ばせるのだった。
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