#002 stay-at-home ●○○●●○○●●○●●●●○○●●○●○●●●●


 この時期特有の湿気を帯びた空気。それがこの街におりのように留まっている。

 メモギ区の中枢、などと言えるほど大層な感じでもないが、まあ敢えてあげるならそんな表現に該当するのであろう、メモギ中央駅周辺のエリア。

 主要区でもない、際立った特色のないメモギ区を象徴するような無難な商業地区。

 地域に根差した個人商店とヒビカ全域に展開しているチェーン店が混じり合いながら軒を連ね、平衡に達している。活気があるとは言えないし、当然繁盛しているようにも見えないが、どうにか経営は成り立っているといった程度の雰囲気。

 ただ、それでも三階建てを超える建物がまとまって見られるから、やっぱりメモギ区民としては発展しているのだと言いたくなってくる。

 肝心の人通りだが、駅周辺とそこから延びるメインストリートこそ、それなりの混雑を見せることはあるが、それすらも時間帯や天候によりけりである。駅そのものを利用する人がそこそこ多いので、朝や夕方はやや人が多くなってくる。

 生ぬるい突風が、今は閑散としている通りを吹き抜けた。

 どこかでトタンの板がベコベコと音を立てて震えている。建物の隙間のゴミ屑がカサカサと渦を描きながら舞い上がっていく。

 ユウトは空を見上げた。

 まだ青色は残っているが、千切れた灰色の塊がかなりの速度で流れている。天気予報を信じるなら、じきにこの灰色が空を全面的に制圧するはずだ。

 今日は金曜。現時刻は14時42分。

 単純に時間だけを見れば、六時間目の真ん中あたりに相当する。ちなみに、夏休みはまだ数週間ほど待たないとやって来ない。つまり、ただの平日で、本来なら高校生が歩くには少々早い時間帯だった。

 ユウトは、普通の私服、スニーカーにリュックという格好なので、高校生なのかどうか見た目からは判断できないが、実際には最低限の真面目さを保っている普通の高校生である。


 今日は、朝のホームルームで、本日が短縮授業となることが通知された。通常、一コマ50分、休み時間10分のところが、一コマ40分、休み時間5分となる。

 来週早々に期末試験が始まることを考えると、教師陣としては避けたい事態だったに違いないが、夕方からかなり激しい暴風雨が予想されていたので、生徒の安全を第一に考えた措置なのだろう。生徒たちは、その英断に喝采で答えた。

 そこそこ真面目で計画的なタイプの高校生であるユウトは、試験までのスケジュールを微妙に修正し、若干のゆとりができたことを静かに喜んだ。

 それは、短めでせわしない昼休みが終わり、午前に詰めきれずあぶれた六限の授業が折り返しになったあたりのことだ。

 本日の学校はあともう少しで終わり。そんなタイミングだからこそ、何だか妙に不吉な知らせが届きそうな気がしてくる。

 そして、やはりケータイが震えだす。ユウトは、外部には漏れ出ていないはずの思考がトリガーになっているようだと思った。

 スパートをかける授業に向けていた神経のうち、1パーセントをポケットの中のケータイに割り当て、そのバイブレーションのパターンを追う。

 三回で止まれば大したことはない。四回震えたら、それは五回目まで震えて相手が確定し、同時に厄介な事態をも覚悟しなければならない。

 試験前ラストの授業、駆け足の板書、叩くチョークはモールス信号のようだった。発信され続けるメッセージはスクランブルをかけられ、誰もが直ちに受け取れるわけではない。しかし、とりあえずそのパターンだけは必死に手元に書き写す。そんな教室。

 ユウトは、手を動かし脳も動かし、同時にバイブレーションのカウントも続けた。

 振動、停止、振動、停止、振動、停止……。

 チョークが折れた。長めの白いチョークは半分の長さになり、片割れは教壇に自由落下。砕けて白い落下痕と粉末の小さな煙を発生させた。同時に教室内の集中の糸も切れる。

 ……振動、停止、振動、停止。

 確定。

(五回………やっぱりエレナさんか)


 境界線が引かれているわけではないが、狭い路地を隔てて商業地区は急激に住宅街に変化していく。商業地区の中にも住宅はあるし、逆に住宅街の中にも店など点在するが、それでも見て分かるくらいの違いが現れる。

 メインストリートから右折し、そんな分水嶺のような路地に入っていく。すぐに一本裏の路地と交差する。

 この路地も、駅側には小規模な店舗が多く見られるが、人通りは明らかに少ない。メインストリートと比べると、テナント募集の看板や空き地が目立つ。そして、駅から離れていく方向には住宅が連なっていた。駅にも商店街にも近い立地なので、生活するには便利そうなエリアである。

 ユウトは、正面の雑居ビルに向かって行く。鉄筋コンクリートの四階建て。商業地区の端にしては背が高く、隣接する建物より頭が飛び出している。

 道路に面して大きく開いている一階部分には、〈コッホ商会〉と書かれた看板が掲げられている。風通しの良さそうな店構えで、道行く人からも内部の様子を何となく窺うことができる。汚れの少ない外観は、この通りにある店としては小奇麗な印象を与える。初めて見る人には、ここが何をやっているところなのか具体的には分からないと思われるが、それでもとりあえず何か物を売っているんだろうということくらいは伝わってくる。

 二階以上は対照的に、相当みすぼらしく、しかも外観から中身の想像もできない。建物のつくり自体はかなりしっかりしているのだが、薄汚れた塗装、看板のない無表情な壁面は何だかやたらと威圧的で、近づきがたい。

 ユウトは、ビルを見上げながら、その背後の空も見る。灰色の割合が着実に増していた。そう言えば、風も幾分湿り気を増しているように感じられる。

「ヨオ。そんなところで突っ立ってると轢かれるぞ」

 ユウトが視線を落とすと、見るからに屈強でいかついオッサンが立っていた。

 カーキ色の工場用エプロンをしている。くるぶしあたりまで届きそうなサイズで、所々が工業用の油でテカっていた。グローブは外して、腰からぶら下がっている工具ホルダーに突っ込んでいる。

 オッサンは、コッホ商会と書かれた看板を奥に引っ込めていた。

「あ、ボス。今日は店じまいですか?」

「ちげーよ。風でぶっ飛ばされたら危ねーだろ。それとボス言うな」

「実際にボスじゃないですか。コッホ商会の社長なんだから。エレナさんもボスって呼んでいるし」

「ああ、アイツも一向に呼び方を変えないな。普通に名前で呼ぶか、もしくは“大家さん”とかにしてもらえると助かるんだが」

「それもそうですけれど、やっぱり見るからに“ボス”って感じだから」

 男の名前は、ザウステン・コッホ。コッホ商会の店長であり社長。そして、コッホ商会はこの〈コッホ・ビルディング〉の管理業務もやっているので、ザウステンは管理人ということにもなる。

「でもなあ、そういうのがチビっ子たちの耳に入るとだな、あっという間に広まって、あそこのおじちゃんボスって呼ばれてるんだって!とかなるんだぜ。商店街歩いて、あー!ボスだあ!!とか指差されてみ。もう、お外を歩けないだろ?」

 ユウトは、チビっ子の行動パターンを凄くリアルに再現するザウステンに感心する。

「前から思っていましたけれど、ボスって、意外とナイーブなんですか?」

「ああ、テメェ! また、ボスって言ったな!」

「別にいいじゃないですか。メモギのボスと言えば俺のことだ!ってなふうに売り出せば」

「それで、本当に怖そうな人たちが出てきたらシャレにならんだろ」

「ボスなら普通に勝てそうな気がするんですけれど……」

 そう言いながら、ユウトも店の前に置かれている陳列棚を引っ込める手伝いをした。

「ありがとよ」

 ザウステンは、普通に外見だけなら、人混みを歩いていて自然と人垣が左右に割れていくタイプなのだが、言動はそれとは全然違う感じで、かなりフレンドリーでノリの良い人だ。人通りの多くないこの場所で商売を続けていられるのも、そういうところが影響しているのかもしれないとユウトは思った。

 ユウトが手伝ったこともあり、店の前はすぐに片付いた。ザウステンは、それを一通り確認すると、関節を回し身体をほぐしながら上空を見た。

「ところで、予報によるとこれから相当荒れるらしいが、知ってるか?」

 ユウトも隣で空を眺める。見る間に雲が増え、分厚くなってくる。雲をひっつける強力な磁石が上空にあるかのようだ。

「もちろん知ってますよ」

 ユウトは、げんなりした声で答えた。その様子を見て、ザウステンは状況を理解したようだった。両手を腰にあてて上体を反らし、上空よりさらに上、ビルの一室を眺めた。

「おう、そうかそうか。心中お察しするぜ」

 ザウステンはそう言うと、店内に戻っていった。上の階に行くには、店内を突っ切る方が近いので、ユウトもついて行く。

「あ、そうそう、エレナんところまで、荷物一つ持って行ってくれないか?」

「それはもちろん……って、これですか?」

 台の上に置かれていた箱はかなりのサイズで、ユウトは一瞬怯んでしまう。宅配の大型ケース。

「そいつは見た目ほど重くないぞ。全部で三箱あったんだが、重そうな二つは俺が持っていった」

 エレナは大抵のものを宅配で入手する。食料品から日常の消耗品も含め、扱っているものならとりあえず宅配だ。そして、それらは、一階のコッホ商会が一時預かりする仕組みになっていた。

 本来なら、部屋まで宅配してもらえるのだが、エレベーターが壊れているのに持っていかせるのが不憫ということで、ザウステンがここで預かり自ら運びあげていた。

「ボス、やっぱり良い人ですね。でも、これは経費を請求してもいいんじゃ……」

 ザウステンは二箱まとめて抱え上げたのだろうと想像した。そして、このような大箱を日常的に運びあげるのは、かなりの労力のはずだ。

「まあ、そうは言っても、本来は宅配の姉ちゃんの仕事だからな。エレナに請求するのもまずいし、そもそもエレベーターを直していないのは俺のせいでもあるからな」

 ユウトは、ザウステンに尊敬の眼差しを向ける。

(エレナさん、本当に良い物件に巡り合えましたね)

 外観とかは少々微妙な気もするが、少なくともこの男がいるという一点だけで、この物件はエレナにとって最高のものであるとユウトには思えた。

(ていうか、たまには自分で買い物に行って下さい……)


 ユウトは、ザウステンが一番軽いと話した箱を抱えて、階段を上がり始めた。

(普通にめっちゃ重いんですけど!)

 コッホ・ビルディングは、二階と三階を賃貸に出している。しかし、構造的には見た目通りの雑居ビルで、二階と三階については住宅として使えるよう最低限の改装をしているに過ぎない。

 外の光の届かない薄暗い階段は幅が狭く、一段一段が高めだ。しかも、雑居ビルなので、一階あたりの高さも一般のアパートより確保されていて、エレナの住む三階まで荷物を持って上がるのは、結構な重労働だった。

(こりゃ、一気に上がるのは無理だな……)

 ユウトは、二階に到達し荷物を置くと、階段のど真ん中に腰を下ろして休憩する。横のエレベーターには、使用禁止の貼り紙。どうやら修理する気はないらしい。その証拠に、エレベーターなしでは不便すぎる最上階の四階は、改装せずに放置されているらしい。

 首を回して階を見渡す。

 鉄筋コンクリートの壁で外界から隔てられた空間に窓はなく、照明も抑えてある。こうやって見ると、賃貸するにあたっての改装は本当に必要最低限のものだったようで、共用スペースに関しては、ほぼそのまんまなのだろう。

 掃除は行き届いていて、埃が積もっているということもないのだが、どうしても空気が澱んでいるように感じてしまう。もしくは圧迫感と言った方が良いのかもしれない。外からは威圧感、中では圧迫感。

(エレナさん以外の住人をほとんど見かけないけれど、他の人たちも結構な変わり者なんだろうなあ)

 ユウトは、生活感が極端に乏しい空間を眺めながら、何となくそう思った。

 住居として貸されている二階、三階は、間取りを大きく変えたくなかったせいか、どちらも二部屋ずつしかない。つまり、このビル全体でも四部屋しかないので、住人も少なく、遭遇する機会はほとんどなかった。だが、それでもその住人たちは自分の想像を上回る人たちだという確信がユウトにはあった。

 古井戸の底のような静けさに浸っていると、不意に空気が流れるのを感じた。ユウトは立ち上がり、さっさと三階まで運んでしまおうと思った。そして、視界の隅、金属の手摺り越しに何かが揺れ動いているのに気がついた。ユウトは脱力気味に息を吐いてから言った。

「何しているんですか……?」

 それはエレナだった。階段の三階部分に腰をおろして、両手で小さな旗を左右に揺らしている。

「ユウ君の応援に決まってるでしょ。フレー、フレー、ユークン!」

「これ、結構重いんですけど……」

「うん。だから私も頑張って応援するね♪」

「応援するね♪……じゃなくて」

 ただでさえ明るくない空間で逆光となっているため、エレナの表情はよく分からないが、声の調子から察するに、かなり上機嫌のようだった。ユウトは、分かりやすく大きく息を吐いてから、背筋に気合を入れて箱を持ち上げ、勢いをつけて再び階段を上がり始めた。

「おお! もうちょっとだよ!」

 思いのほか軽快に繰り出されるステップにエレナが歓声を上げる。しかし、ユウトは無理せず計画的に二階と三階の間の踊り場で小休止した。

 ユウトは、ゴール地点を見ようと顔をあげる。エレナがちょうど真正面に見えた。エレナは、七分丈の緩そうなズボン、シンプルな柄のグレーのTシャツに、つっかけサンダルという格好。

 傾斜がきつめの階段で、見下ろすエレナと見上げるユウトの視線が合う。エレナの旗振りも小休止のようで、小さくて軽そうな二つの旗は、膝の上で頬杖をついている両手の指の間に挟んで飛び出している。

「なーんか、この角度から見上げられるとちょっと恥ずかしいわね。スカートだったら丸見えよ」

「エレナさん、スカートはかないでしょ」

「そーだねー」

 エレナは頬杖をやめて、ユウトの方を覗き込むよう身体を伸ばす。

「ユウ君、スカートの方が好み?」

「別に……ど・ち・ら・で・も!」

 ユウトは、返答をそのまま掛け声とし、荷物を持ち上げ、最後の区間を駆け上がった。エレナが一歩下がって脇によけると、マラソンランナーがゴールテープを切るような気持ちでユウトはその場を通り抜けた。

「ぱちぱちぱち~。お疲れ様ー」

 エレナは控えめに手を叩く。

「ユウ君はズボンもスカートもどっちも好きだという情報が得られたところで……」

「そんなことより、さっさとドア開けてくださいよ」

「ハイハイ」

 ユウトの頑張っている感が伝わったのか、エレナは素直にドアを開けて押さえた。ユウトは、301号室に入って行く。

 ユウトは、集合住宅とは思えない広さの玄関で、乱雑に放置されている靴やサンダルを足でどける。そして、小さく一段上がった玄関ホールのフローリングで既に積み上げられていた二つの箱を見る。そのまま上に乗せるか一瞬考えるが、積み上げすぎるのもどうかと思い、箱を抱えたまま、足で奥に押しやろうとする。しかし、二つの箱はまったく動かない。

「どれだけ中身詰まっているんだ……」

「とりあえず上に乗せちゃいなよ」

 エレナは、鉄製の重厚な扉を閉じ鍵を閉める。ユウトは、結局、そのまま上に箱を下ろした。

「ふー」

「お疲れ様」

 エレナはサンダルを脱ぎ捨て、箱の横をすり抜けてリビングに行く。ユウトもとりあえずそれについていく。

 エレナの部屋の間取りは、1LDK。短い玄関ホールは、仕切るものもなくすぐにLDK、すなわちリビングダイニングキッチンに至る。

 そこは、とりあえず広い空間である。片付いていないが、そんなことは気にならないほどの贅沢な広さを誇る空間である。

 巨大な直方体空間の壁の大部分は、コンクリート打ちっぱなし。壁紙もなく、部屋のサイズと比べるといささか小ぶりな窓が奥の壁に開いている。備え付けの収納スペースは存在しないので、基本的には壁が続くだけの側面。数カ所でコンクリートの太い柱が飛び出し陰影をつけているが、それらも含め色合いはシンプルにグレースケールが強調される。

 天井は高く、メインの照明具が中央部とキッチンの上に一つずつ、壁に近いあたりには小さな可動式のスポットライトが複数、他には、幾筋かの配管、キッチン上の換気用ダクト、空気を循環させるための大きなファン、火災報知機にスプリンクラーがついている。

 右手には壁に接して立派な対面式システムキッチンがある。最小限の改装に留められている直方体の内部は、このシステムキッチンがなければ本当にただの無機質で生活感のない倉庫のようになってしまうだろう。

 キッチンの背後の空間には棚と、その手前に独り暮らしとしてはあり得ないほど大容量の冷蔵庫。振り返り、左手の壁面には手前から順に、洗面所、トイレ、隣の洋室へ、扉、扉、引き戸がついている。

「何か飲んでいいですか?」

「お好きにー」

 ユウトはエレナの返答を聞く前に冷蔵庫を開けていた。

「水しかないけどね」

「ホントだ……」

 大きな冷蔵庫の大きな扉の向こうには、ペットボトルのミネラルウォーター以外に飲み物は見当たらなかった。というか、飲み物以外もほとんど何もなく、がらんどうな空間から冷気が漏れ出てくる。

「水以外がいいなら、玄関の箱から適当に出しておいで」

 エレナは、キッチンのダクトの下で煙草をくゆらせながら指差す。ユウトは玄関の方に戻って行く。

「ついでに、冷蔵庫に入れるものは入れといてー」

 ユウトは、予想していた展開に無駄な抵抗はせず、さっさと箱を開けていった。ミネラルウォーターやその他の飲料に加え、大量の酒。野菜や肉や魚。油や香辛料やドレッシング。各種インスタント食品やレトルト。さらに、食料品以外にも日常の消耗品など。

「保冷されていても、腐りやすいものはさっさと冷蔵庫に入れてください」

「入れようと思ったらユウ君が来ちゃったんだもん」

 ユウトはテキパキと箱の中身をあるべき場所に配置していく。同時に、目につく範囲で散乱しているものを整理していく。三つの箱は、10分くらいで空になった。冷蔵庫の中はパズルのように綺麗にはめ込まれ、八割くらい埋まった。空の箱は扉の外のところに重ねて置いて来た。

「さすがユウ君。私だったら一週間かかるのに」

 ユウトは食器棚からグラスを出し、冷蔵庫の中からサイダーのペットボトルを取り出したが、明らかに冷えていなかったので、やっぱり元から入っていたミネラルウォーターを注いだ。身体の中に大地の恵みがしみ渡って行くが、ちょっとばかりの刺激を求めていた喉と、ちょっとばかりの糖分を求めていた脳味噌は不満気だ。

「じゃあ、僕はこれで」

 ユウトはリュックを背負う。

「ええ!? 何、もう帰る気?」

「まだ何かやることありますか?」

「いや、片付けもしてもらったし、特に……」

「では」

「待った! ほら、こっち来てちょっと見てみてよ」

 エレナは窓辺でユウトに手招きをする。

「ほらほら」

 ユウトはブラインドの隙間から窓の外を眺める。強風が唸り声をあげる薄暗い世界。

「雨ですね」

「これは雨宿りするべきじゃない?」

「いえ、むしろ本降りになる前に帰らないと。では」

「待った! ほら、こっちこっち」

「今度は何ですか?」

 エレナは、キッチン近くの壁際にあるパソコンを素早く操作した。気象予報サイトだ。

「もう今まさに本降りになるところよ。この風だと、傘をさしても間違いなくびしょ濡れ。まだ遅い時間じゃないんだから、ひどい盛りに帰らなくても」

 ユウトもサイトをいじる。確かに、家に辿り着くより早く、かなりひどい降り方をするようだった。直後、窓ガラスを大きな雨粒が叩きつける音がする。

「そうですね。確かに今帰るのは得策じゃない気がしてきました」

「でしょ?」

 エレナはとりあえず安堵する。その一方で、ユウトはリュックを背負ったままリビングを眺めて何かを考えているようだった。

「どうかした?」

「いえ、大した話じゃないんですけどね、よくよく考えたら……」

 ユウトが難しい顔をしているので、エレナも調子をあわせて聞く。

「僕、客ですよね?」

「まあ、そんな気もするわね」

「それにしては全然もてなされていません。むしろこき使われただけっていうか……」

「……ご苦労さま」

「さようなら」

 ユウトは素早く方向転換して玄関に向かおうとする。しかし、エレナはさらに素早く玄関ホールに立ちふさがる。

「もてなして欲しいのなら、先に言ってくれればいいのにー」

「どうもてなしてくれるんですか?」

「よし、肩を揉んであげようか」

 両の掌をガッと開いて指を立て、空中で肩揉みのデモンストレーション。

「別に肩凝ってません」

「じゃあ、お背中流しましょうか」

 髪を後ろで束ねて腕をまくりあげる。

「遠慮しておきます」

「ここは愛の歌を一つ……」

 喉のあたりに手をかざし、声を出しながら声帯の調子をチェックする。

「外で一人でやって来てください」

「…………」

 矢継ぎ早の提案がことごとく一刀両断されたエレナは、ついに停止する。

「………エレナさん?」

「ふふふふふふふ」

 エレナは明後日の方向を見ながら静かに笑いだした。

(ちょっとやり過ぎたか?)

 ユウトも少しだけ心配になる。

「大丈夫ですか?」

 エレナは笑うのをやめ、目をカッと見開く。

「ユウト! あんたは、客である前に私の手下でありパシリよ! 何偉そうに要求してんじゃ! 私に奉仕できることに感謝なさい!!」

「どうもありがとうございました。では、さようなら」

 ユウトは間髪入れずに玄関に向かって歩き始める。そこに、エレナは後ろから半ベソですがりつく。

「やー帰っちゃダメ!! どうもてなして欲しいか愚かな私にご教授ください!」

「ちょ、ちょ、ちょっと……泣くほどのことですか?」

「だって……」

「分かりましたよ。帰らないので」

 ユウトはエレナを宥め、向き直る。

「それで……どうして欲しいの?」

 エレナは目を潤ませてユウトを見上げる。ユウトは優しげに微笑みかける。

「そんな大変な要求はしませんよ」

「うん、それで?」

 すっかり従順になったエレナに対し、ユウトはさらに優しげな笑顔を浮かべたまま、唯一の要求をはっきりと告げた。

「放っておいてください」

 エレナはその言葉の意味が一瞬飲み込めず思考を彷徨わせたが、すぐ我に返る。

「ウワーン! どんだけ私は嫌われてんのよー!!」


 広いリビングは、備え付けの収納スペースがない分、大きめの棚が壁際にいくつか置かれているが、それを差し引いてもかなりのスペースがある。そこにはカーペットが敷かれ、背の低いテーブル、寝転がるのに十分な幅のソファーがある。

 ユウトは、カーペットに置いたクッションに座り、ソファーを背もたれ代わりにしている。テーブルの上には、リュックに入れてきた、試験勉強のための教材や筆記用具が並べられていた。

「そうかー、来週から試験なのかー。言ってくれれば良かったのに」

 エレナは、パソコン机の前でキャスター付きの椅子に座っている。前後逆に座り、背もたれのところに両腕を重ね顎を乗せている。エレナはカーペットギリギリまで椅子を移動させる。

 ユウトは、問題集とノートを開いている。ノートの上をペンが通過するたびに、数式は几帳面な字を追加され、真っ直ぐ正答に近づいていく。

 大問が片付くと、別冊解答を手に取る。定規を挟んであるページを開き、赤ペンで丸つけする。次々と丸がついていくが、時々赤ペンで小さくノートにポイントを書き込んだりする。

「ユウ君、数学得意なんだねー。ほとんど正解じゃん」

 ユウトはノーリアクションだ。エレナは座っている椅子を低速でクルクル回転させる。椅子は滑らかに減速していく。そして、最後はちょうどユウトの方を向いて停止した。

 ユウトは、いつの間にか化学の勉強に移っていた。相変わらず無駄のない動きで問題を解いていく。

「ユウ君は勉強熱心だねー。何でそんなに頑張っているの?」

 エレナは返答を期待せずに質問した。しかし、ユウトは意外にも答える。

「何でって……理由が必要ですか?」

 ユウトは手を止めない、視線も向けない。

「何か、なりたいものとかあるの?」

「ああ、そういう。そうですね、別になりたいものとか考えてないし、しいて言うなら、暇だから? あと、そもそも僕、普段、学校の授業以外で勉強しないですし、試験前くらいはやっとかないと」

「カノ高って、レベル高いの?」

 カノ高とは、カノハ高校の略。ユウトの通っている高校だ。

「どうでしょうね。でも、アサミさんも普通に通っているわけですし」

「なるほど、大したことないわね」

「まあ、ピンキリってやつですかね。そもそも、メモギ区で唯一の高校だから、相当なバラつきがあるんですよ」

 当然メモギ区にも、デキの良いやつ、デキの悪いやつというのがいる。しかし、高校は一つしかないので、結局みんな集まって来ることになり、結果としてかなりのバラつきがでてくるわけだ。

「とすると、そんなに熱心にやらなくても成績的に問題ないんじゃない?」

「そうですね。適当にやってもケイゴにくらいなら勝つ自信はありますし。でも、エレナさんも知っての通り、僕は優等生で通しているので、少し高めの成績をキープする必要があるんですよ」

「ユウ君、高校も優等生キャラで行くの?」

「何かと便利なんですよ。そういう印象を持たれていると、大抵のことは見過ごしてもらえますし、動きやすいというか。好き勝手やりたいなら、イメージ戦略は重要です」

「ふーん。随分と可愛げのない高校生ね」

 エレナは、特にネガティブなニュアンスは込めず、ただ純粋な感想を述べると立ちあがった。ユウトは視線を机上から離さない。

 エレナは横目でユウトの挙動を追いながら、キッチンに行き、シャーレのような形状をした小振りの白磁の灰皿を手にとり、窓際に行った。背は高いが面の小さなテーブルがあるので、そこに灰皿を置く。足元の空気清浄機を操作し、唸り声が強くなるのを聞きながら、煙草の箱を片手で持ち一本引き出し、口にくわえて抜き取る。ライターで先端に赤い熱を灯し、深く吸ってから細くゆっくりと吐き出した。

 窓の外からは、明らかに大きくなってきた風の音と大きな雨粒が激しく打ち付ける音がしていた。


 ユウトは相変わらず軽快なテンポで勉学に励んでいた。「手、疲れてこないの?」とエレナが聞いても無反応。単に無視しているだけなのか、それとも並はずれた集中力で本当に聞こえていないのか、エレナには判断できなかった。

 エレナは天井を見上げた。それからコンクリートの壁に備え付けられているハンドルを両手で回し始めた。天井に伸びるチェーンが動き出す。

 天井には長い一本の鉄骨が大量のボルトで留められている。チェーンはそこにつながっている。鉄骨には、複数の車輪で噛み合わされている物体が吊り下がる形でついていて、それはチェーンの動きに連動して移動していく。構造としては、町工場などにある天井クレーンと近い。

 エレナは、物体を移動させていく。すると、それに伴い、物体からぶら下がっているブランコも壁際から移動して行く。ブランコは、もともとハンドルのある壁際にあったものだ。

 丁寧に面取りした分厚い木の板にラバーを貼り付けただけの座板を、耐久性に優れるビニロンロープで吊るした手作りブランコ。鉄筋コンクリート製の建物そのものにダメージを与えなければ、入居者が好きにできるという条件をいいことに、エレナが勝手に取り付けたものだ。材料は、コッホ商会のジャンク倉庫から適当に見繕った。

 水平移動するブランコがユウトのちょうど正面付近に来たところで、エレナはハンドルを固定した。エレナはブランコの前に立ち、両手でロープを握って後ずさりしていく。座板が身体に沿って引き上がり、臀部に達したところで、エレナは腰をおろし大腿を軽く持ち上げた。

 エレナを乗せたブランコは静かに振り子運動を開始する。上端でロープの軋む音はするが、鉄製のとは違ってだいぶおとなしい。そして、公園のブランコよりも高さがあるので、それだけ周期は長い。ゆったりと振れ幅の大きな往復運動をする。

 エレナは何を見るでもなく正面に顔を向け、漕がずにただ身を任せて行ったり来たりを繰り返す。マドラーでカクテルを撹拌するように、室内の空気がゆっくりとかき混ぜられるが、次第に減速し、やがて完全に停止する。

 すると、エレナは立ちあがり、今度は座板の方に向き直った。それまでと前後が逆になる格好。そして、ロープを両手に握ったまま後ずさりする。この向きだと普通は立ち漕ぎをしそうなものだが、エレナはさらに下がりながら、ロープのかなり低い位置を握り直し、最終的には座板そのものを抱え込むように自分の腹部にあてた。

 ユウトは、ちょうどキリが良かったこともあり、視線だけでその様子を追ってみる。

(………何がしたいんだ?)

 エレナは、板をあてる位置を何度も確かめる。そして、覚悟を決めるように真剣な顔をする。

(腹筋のトレーニング? このブランコ、単なる遊具じゃなくて、トレーニング用なのか?)

 腹筋に押し付けて気合を入れているように見えなくもない。しかし、実際にはそうではなかった。

 エレナは、真剣な表情のまま前方に急加速する。そして、三歩目を強く踏み込み、足は地面を離れ、素早く水平に背筋が伸びる。慣性に従うブランコの座板の上で、一本の矢のようにピンと身体を伸ばしたエレナ。全体重が腹部のごく狭い面積で支えられる。手の先から足の先まで力が行き渡り、空気の抵抗をほとんど受けない美しいフォームとなる。

 ユウトは、市民のピンチに駆けつける空飛ぶヒーローのようだと思った。いや、この場合は一応ヒロインなのか?

 すべては一瞬のうちに起きているはずだが、予想外の光景は見事に目に焼きつけられる。もしかすると、見とれていたのかもしれない。はためくTシャツの裾、靡く髪、正面だけを見据える真剣な表情。正面から真っ直ぐ受ける風は、人を数段格好良く見せる。

 ブランコは、最下部で最速となり、天井の支点を中心とする大きな円弧を辿り、緩やかな上昇に転じる。速度はかなりのものだ。しかし、エレナはバランスも表情も崩すことなく見事な体勢を維持する。

 そして、次の瞬間、エレナの身体は宙に浮いていた。ブランコは、エレナの身体を放り出して引き返し始める。エレナは前のめりに床に突っ込む。

(マ、マジか………。ていうか、すごい落ち方したんだけど………)

 エレナは動かない。呆気にとられるユウト。

「エ、エレナさん?」

 エレナは、白目をむいて泡を吹いて……はいないようだが、冷静に心配になるユウト。一瞬の間をおいて、エレナは身体をビクンと跳ねさせて蘇生する。ゾンビが起き上がるようなぎこちなさで上半身を起こす。ユウトとエレナの目が合う。すると、エレナの目に色が戻る。

「あ、勉強終わった?」

「じゃなくて!」

「まだだった?」

「いや、もう勉強とかいいから! ていうか、何やってんの!?」

「ユウ君の妨害をしないように一人遊び」

「いや妨害してるから! 視覚的に相当妨害してたから!!」

「ところで、お腹すいたねぇ」

「自由だなあ、オイ! ………まあ、確かにすきましたが」

 ユウトは、息切れするように少し落ち着く。そして、腹の具合を自分に問うと、途端に空腹感が増してくる。

「夕食って、どうするつもりですか?」

「食べてくよね?」

 窓の外は激しい暴風雨。傘が何の役にも立たないことは明白だ。

「できればその方向で。このタイミングで外には出たくないですし」

「だよねー。今、ひどい盛りっぽいし。遠慮なく食べてっちゃってー」

 ユウトはキッチンを見る。巨大冷蔵庫にはたくさんの食材が詰まっている。

「つくるんですか?」

「誰が?」

「……………。つくりましょうか?」

 ユウトは、無駄に期待した自分を戒めるように言い直す。

(面倒だけど、インスタントやレトルトよりはいいだろう。大したものはできないけれど)

「いや、別にいいよ。ユウ君、お客さんなんでしょ。リラックスしててよ」

「そ、そうですか。それなら良いんですけれど……」

 ユウトは、エレナがキッチンに行き、お湯を沸かして満足する様を想像しながら、背後のソファーに背中を預ける。

 しかし、エレナは立ちあがらない。手に持っているのは、ケータイ。エレナはボタンを押すと、そのままユウトに渡した。

「好きなの頼んでいいよ」

 発信中。相手はメイ。陽耀軒ようようけんで出前を取れということか。

(こ、この嵐で……鬼か!)

「この天気だと、あの店、もう閉めているんじゃないですか?」

 陽耀軒は、悪天候時、早々に切り上げることは珍しくない。というか、悪天候じゃなくても、客足が良くないとテンションが下がって閉めることがあるくらいだ。本来の閉店時間まではかなりあるが、それでも今日の天気だと相当怪しいと言わざるを得ない。

 ――あー、もしもし? メイです仕事中です何か用ですか? まさか、今から出前とかふざけたこと言いませんよね?

 物凄く面倒そうなメイの声が聞こえてきた。

「あ、やっぱり店、もう閉める感じですか?」

 ――ユウト!?

 メイは、電話の向こうで画面を見直しているようだ。

 ――それ、エレナさんのケータイだよね? エレナさんところ?

「まあ、そんな感じです。あ、でも、もう閉めるんですよね。じゃあ、失礼しまし……」

 ユウトは、用件が済んだと判断し、さっさと切ろうとする。ところが、いつの間にか隣に来ていたエレナの手が伸びて来る。ケータイは奪われる。

「あー、もしもし、電話変わりましたー。私。出前はもうやってないの?」

 ――エレナさんところは、もしかして晴れですか? 陽耀軒は、ものすっごい嵐なんですけれど、不思議なこともあるもんですねー。

「じゃあ、私ら飢えて死ぬわ。でも自分を責めないでね。この嵐のせいだから。あと、忘れずしっかり祟りに行くから、シクヨロ!」

 ――むぅー……。ちょっと待ってて下さいよ。今、厨房に聞くので。実際、もう閉めるところなんで。

「ありがとー♪」

 エレナさんか? そう、エレナさん。今からつくれるやつある? 半端な食材でつくれるやつなら大丈夫だぞ。じゃあ、それでイイよ。二人分、あー、やや多めでお願い。

 ――もしもし。とりあえず持っていけるやつ持って行くんで。

「さすが陽耀軒ね! お父さんたちにも全力の感謝を伝えておいて!」

 ――はいはい。もう切りますよー。

 エレナはケータイをしまう。満足そうな表情。

「この天気で来るのか……。大丈夫ですかね?」

「メイなら大丈夫っしょ」


 ピーンーポーン……。

「早っ! まだ10分ちょっとしか経ってないんですけど」

 エレナとユウトは玄関に行き、ドアを開ける。

 メイは、両手で大型の出前箱を持ち、肩で息をしている。表情的に死にかけているが、口元だけ半笑いになっている。

「よ………陽耀軒でー………す」

 仕事中のスタンダードであるチャイナ服の上からポンチョを被っただけの格好。当然ずぶ濡れだ。川を泳いで来たみたいになっていて、足元に水溜りができている。

「大丈夫ですか!?」

「て、てやんでい……。見くびってもらっちゃあ困るね。この程度の嵐で私の出前が妨害されることはないんだよ……」

 ユウトは出前箱を受け取る。

「スクーターで来たんですか?」

「久々に心地良い風だったぜい……」

 メイは、出前のとき、電動式の立ち乗りスクーターを愛用している。アルミ製の出前箱を片手にチャイナ服でスクーターを爆走させる姿は、近所でも有名だ。ここに来るときも基本的にはスクーターで来て、ついでにコッホ商会で整備することもある。

「じゃあ、お勘定を……」

「まあ、とりあえず中に入りなさいな。どうせもう仕事あがりなんでしょ?」

「そうですね。この出前でミッション終了なので、遠慮なく……」

 水が滴り続けるポンチョは扉の外に吊るす。そして、やはり中もずぶ濡れなので、エレナがタオルを渡し、軽く拭いていく。メイの表情が段々と回復してくる。

「シャワー使って良いわよ」

 エレナが、玄関に一番近いドアを開ける。

「それじゃ、お言葉に甘えて……。あ、料理は、冷めないうちにどうぞ」


 メイが洗面所のドアを閉めると、エレナとユウトはリビングに向かった。

 出前箱の中身をテーブルに並べる。量はまちまちだが、シンプルなチャーハン、海老チリ、青椒肉絲チンジャオロース、酢豚、春巻、焼餃子、さらに魔法瓶にはスープまで。どれもまだ、ちゃんと湯気が上がっている。

「超特急の出前の賜物ですね。ありがたや」

「尊い犠牲に感謝して美味しく頂きましょう」

「そうですね」

「「いただきまーす」」

 しみじみとしつつ、遠慮なく食す。

「さすが陽耀軒。やっぱりどれも美味しいですねえ」

 二人は、ほとんど会話もせずに食べる。相当腹が減っていたし、実際とても美味しいためだ。

(メイさんには悪かったかもしれないけれど、確かにこれが一番だなあ)

 ユウトは、心からありがたみを噛みしめる。

「ところでエレナさん。ふと思ったんですけれど……」

 ユウトが焼餃子を食べながら言う。

「何?」

「メイさん、着替えとか持って行きました?」

「持って行っていないわね」

「どうします?」

「面白そうだから放置」

「了解」

 ユウトが答えて合意に達すると、二人そろって、スープをすすった。



     *



 以下、簡単に蛇足をば。

「バスローブ借りましたよ」

 メイは白いバスローブ姿でリビングにやってきた。

「ちっ! 回収しておくべきだったか」

 バスローブは洗面所の棚に置いてあったやつだ。

「ところでメイ、その帯、引っ張っていい?」

「いやいや、それはダメだから! 大変なことになるから!」

「ユウ君、どうする?」

「どうって、さすがにダメでしょ……」

「残念」

「ところで、これやたら丈が短くないですか? バスローブってこういうものでしたっけ?」

「まあ、それは短めのやつなのよ。セクシーでしょ?」

 エレナはその場でしゃがむ。メイは裾を目一杯下げる。

「ちょ! どこのエロおやじですか!?」

「いや、危険性を確認していたのよ。でも、相当ヤバいわね。ちょっと動いただけで見えそうね」

 メイは摺り足で後方に移動する。

「これは流石に可哀想だから、助け船を出してあげましょう」

 エレナは右手を掲げる。

 パンツだった。黒地に軽くレースと小さなリボンのついた紐パン。

「汎用性最高の紐パンよ」

 メイは掲げられたものをマジマジと眺める。

「エ、エレナさん、こんな刺激的なのはくんですか? 汎用性とか言う以前に、布が少なすぎじゃないですか? もう少しマイルドなのがいいんですけれど……。下着借りる時点であれですけど、もう少し慈悲を……」

「そこでもう一つ」

 今度は左手を掲げる。

 やはりパンツだった。しかし今度は男物。

「カバー面積的に優秀な男物パンツよ。ちなみに、ユウ君のだけどね」

 再びマジマジと眺めるメイ。

「………なぜそんなものを?」

「コレクションじゃないわよ。ウチには、引き出し一個分、ユウ君の着替えが備えられているのよ」

 エレナは両手を高く掲げ見せつける。

「さあ、どっちにする? もしくは、ノーパン?」

 メイは真剣に悩む。そして、最終的に二つとも受け取り、洗面所に下がった。


「あ、戻ってきたわね。結局、どっちにしたの?」

「自分で言うのもなんですが、私は、相当懸命な判断をしましたよ。これは人類の知性の偉大な勝利といっても過言ではありません」

 メイは妙に誇らしげだ。

「二つとも受け取り、どれを選んだかは内緒。これで、実際に確かめるまで、あらゆる可能性が残っているわけです。つまり、何人なんぴとたりとも私を追及できず、あらゆるリスクに対抗できる防波堤を築きあげたわけですよ」

「なるほどね。つまり、ユウ君のパンツをはき、その上から紐パンというマニアックな可能性も存在するわけね」

「どれだけ変態なんだ!」

「ならば今すぐオープンしなさい」

「いや、それも普通に変態だ!!」

 今にも飛びかからんという勢いのエレナと、逃げの構えで対峙するメイ。

 ユウトは、自分でいれたコーヒーをキッチンのカウンターで傾けながら、心穏やかに嵐の音を聞いていた。嵐は外だけではなかったわけだが。




(#002おわり)


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