レディー・バグについてのエトセトラ

須々木正(Random Walk)

#001 アクアリウム ●○○●●○○●●○●●●●○●○●●○●●●○○


 普通。減速しながら進入したホームを窓越しに見た第一印象だ。

 真新しさもなければ、古めかしい感じもない。

 路線図、時刻表、時計、電光掲示、ゴミ箱、ベンチ、ポスター。本当に必要最低限のパーツを、本当に無難に配した駅は、全く過不足のない、ものすごく普通の光景でユウトを乗せた列車を迎え入れた。

 扉が開く。ユウトはホームに降り立つ。

 そこでようやく気づく。この駅の個性というやつに。

 踏み出したその空間に漂うのは、潮の香り。駅の構内を吹き抜ける爽やかな風が含む、仄かな磯の風味。

 厳しかった残暑もさすがに力尽きてきたようで、ずっと続けば良いと思ってしまうような快適さだった。少々遅れてやってきた秋の気配。

 車両のドアーを閉めるコンプレッサーの音を背後に感じながら、ベンチ脇のポスターに目をやる。当たり前のことだが、目的の場所が大々的に宣伝されている。

 仰ぎ見るようなアングルが捉えるのは、透明感溢れる青の揺らめき。撮影者の腕が良いためか、妙に奥行き感があって、吸い込まれていきそうな感覚を得る。

 そうこうしているうちに、ユウトを連れてきた列車は次の駅に向けて、そろそろと行儀良く滑り出した。

 改札に下りる階段から離れたところに出たせいで、周囲に人はほとんどいない。

 加速していく車両が巻き込んでいく空気。最後尾が目の前を通過し、引き連れていた空気の渦が髪を軽く乱す。

 直後、眩しい光とともに視界は開ける。人工的な空間で油断しきっていた瞳に、強い色彩が不意打ちを食らわす。

 晴れ渡る空は頭上から水平線にかけてダイナミックなグラデーションを描き、行きつく果てには、どこまでも広がる濃紺の大海原が横たわる。沖の岩礁で砕ける白波と浮かぶ細切れの雲は、距離感や時間の感覚を曖昧にしていく。目を凝らすと、カモメたちがゆったり舞っているのも見える。羽根はほとんど動かさず、ハンモックに揺られるように、風の上で寝そべるように、気持ち良さそうに飛んでいる。

 余計な飾りなんていらないんだな。ユウトは思った。

 シンプルかつオープンな構造が最良のものだと自然に思えた。海を臨む高架ホームは、そのままの状態でもまさしく展望台のようで、差し出された景色に見とれずにはいられない。

 しかし、そうは言っても、いつまでもここで立ち尽くしているわけにはいかない。名残惜しさも感じつつ、視線をずらしていく。すると、ユウトはすぐに積み木のような物体を乗せた建物を見つける。

「あれか……」

 それから見上げる。ホームの時計。待ち合わせの時刻、もとい、呼び出し時刻の10分前。


 場所は事前に調べて把握していたが、念のため改札口の前に掲げられたアクセスマップをチェックする。看板の示す方に素直に歩いていくと、程なくして目的地に辿り着いた。

 建物の屋上部分には、積み木のように組まれた独特の構造物が乗っている。直方体、円柱、三角錐等々、シンプルな形状、シンプルな色合いのユニットが巧みに連結されている。これはこれで面白い造形であり、遠目からでもよく目立つ。

 ユウトは、石畳の歩道の脇に設置された大きな看板を見る。

『アモハマ臨海水族館へようこそ!』

 ここは、ヒビカで最大規模の水族館。名の知れた観光地をいくつも抱えるビーゼン区の中でも、頭一つ抜けた人気スポットだ。特に、海水浴シーズンの終わったこの季節、その余韻を求めて来るならここがファーストチョイスだろう。

 エントランス前の広場には、大小いくつかの噴水と、海の生き物たちの実物大模型が置かれている。ペンギンの一群、波とたわむれるイルカ、子連れのシロクマ、浜辺のウミガメ、鋭利な鼻先のカジキマグロなど。

 近所のちびっ子たちは、噴水のある池の中で無邪気にはしゃぎ、ベンチではそれを見ながらママたちが歓談している。

 広場の向こうには駐車場、バスターミナル、路面鉄道の停留場があった。ちなみに、路面鉄道はここが終着となる。

 ユウトは広場を軽く見渡すが、知っている人間は視界に入らない。とりあえず、その場でケータイを取り出そうとしたところで、少し離れたところから声が聞こえた。

「あ! あれ、ユウト君じゃない?」

 振り返ると、見知った姉弟、アサミとケイゴが立っていた。そして二人は、やはりいつも通り、品行方正とは対極をなすオーラをしっかり放出していた。

 先に気付いたアサミが手を振っている。ライトブラウンの髪が風に軽くなびいていた。

 ユウトの視界にはその全身がうまく収まったので、何という気もなく目で追ってみる。

 ダメージ加工を施されたデニムのハーフパンツは、膝にギリギリ届くくらいの丈で、そこからスラリと生足が伸び、キュッと引き締まった足首を経て歩きやすそうなワインレッドのスニーカーに収まる。上は、黒地にシルバーの大きな髑髏と血飛沫しぶきを思わせる赤い染料が目立つ無駄に威圧的なパーカーで、オーバーサイズをダボっと着るのはよく見るスタイルだ。さらに、背中には大口を開けたサメの頭部を模したリュックサックを背負っている。これがまた、あまりデフォルメされていないかなりリアルなデザインであり、鋭い歯と不気味に濁った瞳は本能的に警戒心を抱かせる。

 ユウトはこれらを総合して、ここに至るストーリーを即興で考えてみた。

 恐らくアサミは、どこぞの海原でサメとエンカウントして格闘し、勝利の証としてその首級を持ち帰っている最中なのだろう。パーカーの血痕はその返り血であり、スニーカーもそれに染め上げられたものに違いない。

 続いて、アサミの横に立つケイゴも、ユウトに気付いて手をあげた。

「ホントだ。おーい、ユウトー!」

 部分的に逆立てた短髪や攻撃的に見えなくもない目元が凶悪な印象を与えるが、関わってみれば至って善良な小市民属性である。

 ユウトは、せっかくだからとケイゴの方もマジマジと眺めた。

 説明するのは難しいが、ケイゴとしてはやや珍しい気が……するようなしないような微妙な雰囲気だった。まず目を引くのは、そのズボンだ。少し緩い感じに見えるが、前面は余計な装飾のない見事な白。その反面、臀部から脹脛ふくらはぎのあたりにかけて、背面側の大部分が今度は完全な黒になっている。そして、この不思議な二色刷りは上半身まで続いていた。腰のあたりに見えるチェーン以外はほとんど白と黒のみだった。

 ユウトはそこに隠されたメッセージを読み取ろうと、視線をあげていく。メッセージがあるのかは知らないが。

 そして、視線は頭上の帽子に至った。ケイゴが帽子というのはかなり珍しい。姉の方はキャップを被っていることもしばしばだが、弟の方でそういうのはほとんど記憶にない。

 それは、やはり黒が基調となっていた。しかし、同時に正面に橙色の部分が見えた。ここから細部をうかがい知ることはできないが、これは……。

 ユウトは、もう少しで、アハな感触を得られそうな気がするが、じっと見つめるほどその境地には至らないもの。敢えて一瞬だけ焦点をずらす。それから再びケイゴに視点を戻す。

 すると、その全身が一緒くたに捉えられる。そして、シナプスがバチンと反応し、求めていた瞬間が訪れる。アハの降臨である。

 細部ではなく全体を見よ。それがこのたび得られた教訓であろう。

(ケイゴ、僕には分かったぞ。お前のその姿が何を意味するのか)

 ユウトは心の中で湧き上がる満足感を噛みしめる。噛みしめるが、そこにはもう次の命題が控えていた。ユウトは、本人には決して届かないモノローグを続ける。

(しかし、ケイゴ―――その姿の意味するところは分かるが、なぜそうなってしまったのかはさっぱり分からないぞ……)

 思わず笑みがこぼれる。さっぱり分からないとき、人はなぜか微笑んでしまうが、その真意が周囲に伝わることは極めて稀である。

 この問題について、直ちに解決できる気配はなかった。しょうがないので、本日解決すべき課題の一つとして、この件はユウトの脳内メモ帳に書き加えられた。

 そして二人は、ユウトが微笑んだのを見て、自分たちに気付いて嬉しくなったのだと解釈し惜しみない微笑みを返した。基本的に、この姉弟は幸せな思考回路の持ち主なのである。

 そんな二人ではあるが、無関係の人から見れば反抗的で好戦的なオーラをまとっている若者にしか見えない。黙って立っていると、誰もが一定の距離を確保したくなるようなデンジャラスな雰囲気があり、実際、広場のママさんたちの警戒レベル上昇が手に取るように分かる。

 その様子を見ていると、何だか申し訳ない気持ちになってこないわけでもない。そりゃ、水族館にこんなガラの悪い奴らが現れたらザワザワするよなあ、とユウトは思う。

 ちなみに、当の本人たちがそのことに対し全くの無頓着であるのは、言わずもがな。

 ユウトは、知らない人たちの視線を感じながらも二人の方に歩み寄る。改めて白黒カラーの弟の方を見る。

 同じ学校の同学年なので、当然関わる機会はそれなりにあるわけだが、学校でしばしば見せる、どことなく不機嫌そうな表情――本人はそんなつもりはないと言っているが――しか知らない人は、こうやって級友に向かって普通に手を振っている様子など、想像もつかないだろうなと思う。かく言うユウトも、ほとんど関わりのなかった中三の夏休みまではそう思っていた口である。

「ていうか、ここ水族館だよ! ちゃんと辿り着いたよ!」

 ケイゴの隣では、アサミが特徴的な建物を見上げ、今更なことを言ってこちらにやって来る。

「電車で来たんじゃないんですか?」

 ユウトは、アサミに尋ねる。

 電車で来る以外の選択肢は思いつかないが、電車で来た場合、ここに至るルート上で苦労するような箇所はない気がする。駅から見えるし、道も分かりやすいし。

「? 電車に決まってるじゃない?」

 アサミは、何言ってるの?という感じに答える。

「ですよねぇ……」

「近いって聞いていたけど、わりと入り組んだ道だったな」

 ケイゴは、アサミと比べ喜怒哀楽がはっきりと表には出て来ないタイプ。だがしかし、なぜかこの言葉には、そこはかとない達成感がこもっていた。絶海の孤島で繰り広げられたサバイバルゲームで最後まで生き残った勝者が漂わす感慨のようなやつだ。

「え……そうだった? すごくシンプルに来れる気がするけど?」

「は? 何を言ってやがる。神社の境内を抜け、蜘蛛の巣に引っ掛かり、暗いトンネルを抜けてようやく辿り着いたんだぞ」

「いやいや、それはどこのダンジョンだよ。くぐり抜けるのは、せいぜい駅の改札口くらいなもの。平坦、道なり、案内通り。半分眠ってても辿り着くよ。超初級ルートだ」

「そ、そんなはずはないんだが……」

 ケイゴは、自分たちが踏破した試練の道を思い返すと、心中穏やかではいられない様子。

 ユウトは駅の方を指差す。ここからでも駅舎の上部はわずかに見える。

「あそこが駅だよ。この距離で、そんなハードな場所があるわけないだろ?」

「近っ! 二、三分で来れそうな距離じゃないか」

「実際、僕は二、三分で来れたよ。こんな道も満足に進めないとなると、お前………ダメダメだな」

 ユウトは、大袈裟に呆れて見せる。

「ホラ、やっぱり道、間違えてたんだよ。アンタのナビは当てにならない! お前はダメダメだ!!」

 横からズズイッと入ってきたアサミは仁王立ちになり、ケイゴを全力で糾弾する。

「………。姉貴が勝手に進んで行ったのがいけないんだろ」

「あ、そうだっけ? エヘヘ」

 ユウトは証言に基づき情景を思い浮かべる。それほど昔から知っているわけでもないが、それでもアサミが根拠のない野性の感覚に従ってズカズカ進んでいく様子は、想像に難くなかった。

 姉弟で素材というか、黙っているときの雰囲気は随分と似ている。一方で、中身については対照的だと思えるところも多い。人当たりの良い姉、ちょっと不愛想な弟。話すだけ話して人の話は聞かない姉、必要な言葉も省略することの多い弟。

「とりあえず中に入ろっか。みんな先に来ているかもしれないし」

「そうですね。集合時間になったのに、他に誰も見当たらないし」

 そうして、歩き出そうとする三人。しかし、見事に出鼻をくじかれる。一歩目すら踏み出せず三人は固まる。

 ちょうど行く手を遮るような位置に、不審人物が陣取っていたのだ。真っ黒いフルフェイス、赤茶の長袖メッシュジャケット、かなり色落ちしているジーンズ、レザーのショートブーツ。

 不審人物は、妙なポーズを決めていた。やや前傾姿勢のまま、左手でヘルメットの額のあたりを軽く抑え、右手は後方に回して掌を広げている。そして、そのまま微動だにせず。

「こういう感じの古い彫刻あるよな。円盤投げ……だっけ?」

 ケイゴが何の考えもなしに感じたままを淡々と呟く。


 ドスッ!


 その瞬間、鳩尾みぞおちにアサミの肘鉄が入る。

「ウ……な、何を……?」

 腹を押さえて悶えるケイゴの耳元に近づき、アサミは小声で言う。表情は怖いくらいに笑顔だ。

「アンタ、何馬鹿なこと言ってるの? 大丈夫? 私たちは何も見ていない。私たちはただおとなしく水族館に辿り着けばいいの。ゴールはすぐそこよ」

「姉貴の方こそ、何言ってるんだよ……。目の前に……」


 バシュッ!


 今度は、無防備なケイゴの首に背後よりユウトの手刀が入る。ケイゴはよろめき、片膝をつく。

「本当に大丈夫か?」

 ユウトは心底心配そうに声をかける。それを見上げるケイゴ。

「だ、大丈夫じゃねえよ…………主に、お前らのせいで………」

「あらあらそれは大変。じゃ、とりあえず建物に入ろうか」

 アサミは、軽く首を絞めながら引き摺るようにしてケイゴを連れていく。なかなかの腕力である。

 すると、それに並走するように、フルフェイスの不審者がスススと移動する。腰より上のポーズはそのまま維持して、下半身の最小限の動作だけでついていく。正直、相当気色が悪い。

 当然のことながら、広場のママさんたちの不安そうな視線が集中している。水辺の子供たちも、あれほど夢中になって遊んでいたのが、パタリと動きを止めて見入っている。好奇心というよりは、怯えに近い表情だ。

「姉貴………俺は、幻覚を見ているのか? でも、これはまさしく、エ………」

 さらに首が強く絞められ、台詞は半端に切られる。

「ケイゴ、もう少しの辛抱だよ。お姉ちゃんが、アンタを助けてあげるからね」

「なら……まずは首を絞めないで………く……れ」

「ケイゴ、建物に入れば安全だ。幻覚も解ける」

「だか………ら………まずは首……の……」

 エントランスの自動扉が開く。冷蔵庫を開けたときのような、ひんやりした空気が漏れ出てくる。

 ユウトは、ケイゴを引き摺るアサミと一緒にとりあえず奥に突き進む。決して後ろは振り返らなかった。こういう状況で振り返ってしまったものの末路がどうなるのかは、古今東西の様々な説話で触れられている。

「そこの人、ちょっと止まって!」

 背後で警備員が声を上げる。まったく際どくない見事な不審者なので、警備員も判断に困らず対応できそうだ。

「いえ、私、怪しい者では……」

 不審者が答える。女性の声だ。

 一切背後に興味を示さないようにして進みながら、ユウトとアサミはアイコンタクトをする。

(大丈夫、私たちは無関係だから!)

(無論です。何があっても無関係です)

 振り返らない、振り返らないよ、決して。

「止まりなさい! 止まらないと、拘束しますよ!」

 警備員がさらに大きな声を上げる。

「いえ、私は本当に怪しい者じゃ………」

 不審者はまさしくどこからどう見ても不審者のくせに、なおも見苦しく弁明しようとする。ここで不審者が自ら不審者でないことを証明するのは、論理的困難を伴う。というか、自己言及のパラドックスである。あきらめたまえ。

 しかし、不審者は埒が明かないと悟り、反転攻勢に出た。かなり迷惑なことに。

「ユウト! アサミ! ケイゴ! 無視すんなオラァァ!!」

 エントランスに声が響き渡る。

「警備員さん! 私の取り調べにはあそこの三人が必要です!!」

 ユウトたちの周囲を他の警備員が取り囲む。一般客はそれを遠巻きに眺めている。

(ど、どうしてこうなる……。ていうか、もう子供じゃないんだから、そんな全力で大声出さないでもらえないものか……。別に、おしとやかに生きろとは言わないので)

 ユウトは嘆息した。それから意を決して振り返り、あらゆる毒気を抜いた表情を浮かべて見せる。

「あ、エレナさんじゃないですか」

 まるで今始めて気がついたかのように、ユウトはしれっと話しかけた。

(もうしょうがない。強硬手段に出られたら対抗できないだろ……)

 ユウトは両脇から押さえ込まれている不審人物の方に歩いていく。

「連れですか?」

「そうです。お騒がせして、本当に申し訳ありません」

 警備員の方々に頭を下げる。これが、子供の不始末を謝罪する親の境地ってやつだ。恐らく。ていうか、大きな子供だけど。不本意ながら。

 それから、諸悪の根源である不審人物の方に向き直り、柔らかに諭すように語りかける。

「エレナさん、フルフェイスのまま建物に入ったら、止められるのは当たり前ですよ」

 ユウトは、拘束されている人物の頭を覆っているものを外す。

 警備員たちは少し動揺する。若い女性、しかもかなりの美人だったからだ。

「あのー、そろそろ離してはいただけないでしょうか?」

 今の今まで議論の余地なき不審者だったのに、急にしおらしい言動になる。本当に申し訳なさそうにお願いすると、警備員たちの間に気まずい空気が漂い、あっさり解放された。

 エレナは、ジャケットの襟から、中に押し込んでいた長い髪を引っ張り出して、軽く整える。

 それから、ユウトの腕に抱え込まれた黒いヘルメットを受け取り、軽く微笑みかけながら警備員の一人に尋ねる。

「ロッカーはありますか? これを預けたいのですが……」

 エレナがロッカーに荷物を預けに行くのを見ていると、遠巻きに眺めていた人たちの中から一人、ユウトの見覚えのある人物が出てきた。

「アンタら、相変わらずね」

「メイさん!」

 普段とは雰囲気の違う服装をしているメイにようやく気付いたアサミが声をあげる。ロングスカートに淡い色のパーカー。随分爽やかにまとめているが、これはこれで新鮮だ。

「おーヨシヨシ。ひどい目にあったなあ」

 メイは、アサミの頭を適当に撫でる。身長的にはアサミの方が少し高いのだが。

「メイさんも呼ばれてたんですか? つーか、いたならさっさと助けてくださいよ」

 ケイゴは、挨拶もそこそこに抗議を始める。ただ、口調に覇気がないのは相変わらずなので、あまり怒りがこもっているようには聞こえない。

「悪いねー。今来たところなんだよ」

 ケイゴの抗議に対し、一応にこやかに返答するメイ。そこに、すかさずユウトが突っ込む。

「何をまた御冗談を。最初から涼しい顔して眺めていたじゃないですか。その頭のお団子、遠くからでもわりと目立つんですよ」

 服装は珍しいが頭はスタンダードスタイルであり、二つのお団子が所定の位置に鎮座している。そして、それはほとんどアイデンティティーと言えるものだ。

「いや、あの状況、関わったら負けだろー。逆の立場だったら絶対に他人の振りするだろ?」

 口調が素に戻るメイ。メイは、くだけた感じで良さそうな状況だと、男言葉に近くなることがある。ただ、声の感じは意外と可愛らしいので、そんなに攻撃的な印象は受けない。

 メイはポケットに手を突っ込み、ダルそうに身体を揺らしながら、自らの正当性を訴える。

「それは確かに……」

 アサミは普通に納得する。というより、正論過ぎて反論はできない。

 しかし、なんだか癪に障るのでユウトはもう一歩攻めてみる。

「いっそのこと、チャイナ服で来てくれれば良かったのに。そうしたら、あの不審者とも対等に渡りあえた気がしますよ。惜しいです」

「さすがにそれは勘弁……」

「らしくない遠慮ですね」

「遠慮じゃねーし」

 そんな会話をしていると、エレナが戻ってきた。いろいろロッカーに置いてきたらしく、小ざっぱりとしている。

「あら、メイじゃない」

「どうも、こんちはー」

 とりあえず、会釈に毛の生えた程度の挨拶をかわす。

「メイさん、最初からいたっぽいですよ」

 ケイゴがわざわざ報告すると、メイは余計なことを言うケイゴを睨む。そして、その隙にユウトが追い打ちをかける。

「名前叫んでもらえなくて悲しんでいます」

「そう。じゃあ、今から追加で……」

「いえいえ結構です!」

 エレナの提案に、あたふたするメイ。エレナなら本当にやりかねないと思ったからだ。

「それにしても、まったく、来てそうそうひどい目にあったわ」

「どう考えても自業自得でしょ」

 ユウトは冷静に指摘する。

「どうしたら、ただ水族館に入るだけなのにトラブルを起こせるんですか?」

「正確には、エントランスホールに辿り着いただけで、まだ中に入ったとは言わないけどな」

 ケイゴがぼそっと呟く。確かにここは、チケットゲートの手前。

「そもそも、あれは何をしたかったんですか?」

「挨拶代わりの一発よ。でも、みんな反応してくれなかったから、引くに引けなくなった感じ」

「いや、そこは潔く引いてくださいよ」

「まあ、バイク走らせて気分良かったからね。多少ハイになってたのかもしれないわ」

 ユウトは思い返す。ハイというわりには、かなりシュールな感じだった気もするが。

「海岸沿いを飛ばして最高だったわ。このくらいの気候にならないと、暑くてしょうがないからね。やっと到来のベストシーズンよ!」

 そう言ってVサインをつくるエレナは、かなりのバイク好きである。ライダーたちにとって天敵にも等しい夏を越え、いよいよテンションが上がってきたのだろう。

「ところで今日は、結局誰が来るんだろ?」

 アサミが集まったメンツを見渡す。

「さあ? アサミさんが知らなきゃ誰も分からないんじゃ」

 ユウトは、目が合ったので一応答えておく。今のところ、この場にいるのは、アサミの他、ユウト、ケイゴ、エレナ、メイの合計五人。あとは、呼び出した本人と、その保護者の二人だろうか。

「俺たち、なんで呼ばれたんだ?」

 ケイゴは、誰もが胸にしまい込んでいた疑問をついに口に出した。

「ていうか、なんでメアド知ってたんだ?」

 メイはさらに疑問を追加する。

「あ、それ私。ユナに、私の手下たちの連絡先リストをあげたから」

 エレナが手を挙げてから真相につながる情報の一端を開示する。

「また勝手なことを。そして、僕はエレナさんの手下になった覚えはない」

 聞き捨てならない箇所には一応抗議しておく。既成事実化させないための地道なツッコミ。

「あら、不満そうね? ユナ、めちゃくちゃ嬉しそうな顔して、『これ、メールしてもいいの!?』って言ってたわよ」

 エレナは、本日の招集をかけた少女の口真似をしながら説明する。

「それって本当ですか? あの子、エレナさんばりに偉そうじゃないですか。そんな正統派幼女的リアクション、想像できないんですけど」

「いやいや、マジで天使が微笑んだのかという感じで。ホントにもう直視できない愛らしさだったわ。危うく白目むきながら海老反りするところだった」

「それは自重を……」

 この場で白目海老反りを再現しようとするエレナを、数名で抑えにかかる。

「それにしても、不思議ですね。あの子がホントにそんな笑顔を見せたなら、心が汚れきっているエレナさんは浄化されて消えているはずじゃ。キャラ的に」

「だとしたら本当に危ないところだったわ。私が消えたら、ユウ君、寂しくて世界に復讐誓って暴走しちゃうじゃない。『エレナさんがいない世界なんて絶対あっちゃいけないんだ!! だから、僕がこの手で壊す!!! ウォォォォ!!』」

 両の手でつくった拳に魂を込め、腹の底で練り上げた無駄に男前な覇気を垂れ流すエレナ。

「エレナさん、注目集めてますよ」

 これ以上騒ぐと、警備員さん再登場というのもあり得る。とりあえず、みんなで宥める。

 そして、大人げない大人をようやく落ち着かせたあたりで、二人が現れる。おそらくは、本日の水族館観覧イベント参加者のラスト二人だ。

「相変わらず騒がしいな、このメンツは」

 背の高さだけでそこそこ目立つ男が一人。イツキだ。

「公共のマナーというものを知らないのね」

 その隣には、イツキと並んでいるせいで余計に小さく見える女の子が一人。話すと長くなる諸々の経緯により、イツキのところで暮らすことになった十歳児(推定)にして、本日の企画発案者、ユナ。

「アンタら、遅刻よ。チ・コ・ク!」

 エレナがビシッと告げる。

「すみません。コイツが――」

「ワーワー! それは別に良いの!!」

 イツキが素直に謝り、事情を説明しようとしたところでユナが妨害する。

「ユナ、お前、うるせーから」

「いや、イツキがうるさい」

 ユナは間髪入れずに言い返す。一拍おいてイツキが答える。

「………そうか、それは悪かったな」

 それから、ユナは先に到着していた面々に向き直る。

「お、まさか、遅刻したことを謝る気か? やっぱりこの年の子は、日々成長するもんなんだな」

 一同は、歴史的瞬間をその目に焼き付けようと、ユナに注目する。一切の会話を一時停止し、僅かながらの間が生まれる。

 みんなの視線を集めるユナは、実に堂々とした様子で、口を開く。

「私は遅刻してないから、ぜんぜんっ悪くない!」

 めちゃくちゃ全力で胸を張るユナ。

 一瞬、何を言っているのか分からず、誰もとっさにはリアクションをとれない。そして、金縛りのように固まった状態を最初に脱したのはエレナだった。

「ハァ? アンタ、集合時刻15分オーバーよ? まあ、グチグチ言う気もないけれど、遅刻は遅刻でしょうが」

 この場の最年長者として、珍しく常識的な発言をするエレナ。他の面々もその意見に同意する。

 しかし、ユナは臆することなく反論する。

「それは違うわ。なぜなら……」

 一同、少女の発言の続きを待つ。今日は何を言い出すのやら。

「なぜなら、みんなに伝えた集合時間は、あくまで、だから。そして、私にはがあるの。それは、現時刻。つまり、私は遅刻していない!」

 どーん!!

「……………」

 一同、しばし沈黙。そして、その沈黙を破ったのも、やはりエレナだった。

「イツキ!」

「はい!」

「育児しなさい! 子供には教育が必要だわ! このままじゃロクなことにならない!」

「はい! 徹底的に根性叩き直してみせます! 任せてください!」

 エレナの言葉に素直に返事をするイツキ。余計なリアクションをとるのが面倒なのだろう。

 そんなイツキの服をユナが引っ張る。

「イツキ、のど乾いた」

「お茶飲むか?」

 ユナの言葉に反応し、カバンから素早くお茶のペットボトルを出すイツキ。わがままなお嬢様に付き従う執事のようだ。

「コラァ、イツキ!!」

「はい!!」

「教育はどうしたァ!?」

「自分、教育に関しては自信があります! 目に物見せてやります!!」

 再びイツキの服をクイと引っ張るユナ。

「ありがと」

「おう」

 イツキはペットボトルを受け取りながら、なんとなくユナの頭を撫でる。ユナはちょっと恥ずかしそうに顔をそむける。

「ゴルゥアッ、イヅギィィィィ!!!」

 だんだんヒートアップするエレナを、メイとアサミが抑える。傍から見れば、誰がより迷惑であるかは明らかである。

 そして、そんな様子を気にすることなく、イツキはユウトに言う。

「ユウト、教育は大事だぞ。この際、年長者だろうと、遠慮はするな」

「あの、僕、あの人の保護者じゃないんですけど……」

 二人とも、肝心の人物を見ることはない。意図的に視界に入れないようにしている。

「大丈夫。お前はできる男だ」

 イツキの口調は、励ますようなものではない。しかし、だからと言って、殊更に威圧的なわけでもない。

 ただ静かにこう伝えているのだと、ユウトは感じた。


 ―――あの人のお目付け役はお前だ。


 腐れ縁と呼べるような長い付き合いがあるわけではない。むしろ、人の付き合いとしては短い方だろう。年齢も近いと言えるかと言ったら、相当怪しい。血縁をはじめとする、問答無用な強いつながりがあるわけでもない。

 むしろ冷静に考え出すと、何かつながりがあるのだろうかと疑問に思えてきたりもする、そんな関係。

「イツキさん……」

 ユウトは、少し真面目な表情になる。

 対するイツキは、静かに言う。

「できる男のユウトに重要な任務だ」

「なんですか?」

 ユウトも神妙にならずにはいられない。

「俺とユナの入場料を、あの人に払わせてくれ」

 イツキの視線は、ユウトから微妙に外され、その背後に流れていく。ユウトはその視線を辿り、振り返る。

 そこには、入場料を記したパネルがあった。大人二○○○、高校生一五○○、子供一○○○。

 イツキとユウトは、揃って神妙な顔をしてそれを眺める。

「イツキさん、金欠なんですね………」

 ユウトは、真面目な表情のまま言う。今更どうリアクションすれば良いのか。

「大丈夫。お前はできる男だ」

 果たしてエレナの懐から自分以外の人間の入場料が飛び出すのか? ユウトはその可能性を考えてみる。

 そもそもの話になるが、エレナが金持ちなのか貧乏なのかという点について、いまだに誰も把握できていないと思われるのがミソだ。

 まず、エレナは高級品で武装するようなタイプではない。その年代の女性としてはラフな印象の格好をしていることが多いし、身の回りに実用性の乏しい贅沢品を並べることもない。確たる根拠があるわけでもないが、ケチっぽいイメージもある。

 一方で、逆に物凄い財力を持っている気がしないでもない。まともな働き方をせず、自由気ままに生きられているわけだから、それを支えるだけのものはあるのだろう。しばしば発揮される浮世離れした感覚も、そういった何らかの特殊事情が絡んでいるとした方が納得はしやすい。

 結論―――。

(……結局、よく分からない。どちらもありえる)

 エレナについて考えを巡らせれば、決まってこういうところで落ち着いてしまう。つまり、彼女の中に両極端のイメージが混在してしまっているのだ。相反する性質が、カードの表と裏のようにぴったり背中合わせになってしまっているみたいで、引き剥がすことはできそうもない。

「まあ、一応頑張りますけど、うまく行くか分かりませんよ……」

 ユウトは頼りない、というよりはむしろ、頼られたくないという思いを込めた返答をする。

「大丈夫、信じてるぞ」

 イツキの言葉を受け、ユウトはエレナのもとに歩いていく。ネゴシエーション開始である。

「エレナさん」

「どうしたの、ユウ君?」

 ユウトが話しかけると、子供の教育がなっていないことへの憤りは、エレナの中でいったん沈静化する。

「折り入ってご相談が……」

「随分改まっちゃって……体調悪いの?」

 エレナは怪訝そうにユウトの表情を覗き込む。ユウトがエレナを頼ることなど普段ならあり得ないからだ。

「……というほど大した話でもないんですけれど」

 エレナがあまりにもまじまじと眺めるので、ユウトは軽く視線をそらした。

「あ、そう……で?」

「あっちの二人、例によって金欠らしいです」

 回りくどいことはせずに、ストレートに事実だけを話す。移したエレナの視線とイツキの視線が空中で正面衝突する。

 それから、エレナの視線はユウトの方に戻される。

「で、ヤツらはなんと?」

「二人分の入場料を要求していますね」

「ほほう。対価は?」

 エレナはニヤニヤしながら言う。悪いことを考えている顔だなとユウトは思う。

「対価?」

「そりゃそーよ。一切の対価もなく奢られようだなんて、虫が良すぎるでしょう?」

 エレナは派手なジェスチャーを交えて訴える。

「あの子たち二人分で二五○○でしょ? それだけあったら、陽耀軒ようようけんで何回食べられると思ってるの。それを何の見返りもなくっていうのはちょっとねえ」

「まあ、その通りですね……」

 ユウトはため息をつく。とりあえず面倒になってきたのだ。

(そもそも、なぜ僕が交渉の仲介役になっているんだろう? これこそ割に合わない役回り……)

 ユウトは、疲弊した表情のままイツキに視線を送る。イツキは、状況を察してようやくこちらにやって来る。

「イツキさん、正直面倒なので、あとは自分で頑張ってください」

「そうか」

「ちなみに、現状だけ伝えておくと、対象は二人分の入場料に対する対価を求めています」

「対価……」

 イツキは考える。そんなものあるか?

 イツキは視線を落とす。足元のユナが水族館の入場ゲートを眺めている。

「思いつかんな」

 イツキがきっぱり答える。

「そうか、それは残念だな」

 エレナは腕組みをして答える。一歩も引く気はないようだ。

「エレナさん、大人げないですよ。大人が子供に奢るのに理由はいらないでしょう」

 長引くのもそれはそれで面倒なので、ユウトもしぶしぶ口を挟む。

「なるほど、確かにそんな気もする。でも実は、大人が子供に奢るときであっても対価は発生しているものなのよ」

「?」

 ユウトもイツキもよく分からずキョトンとする。

「それは、忠誠心よ!」

 エレナはドヤ顔で言う。

「私は心が広い。お前らの忠誠心で二人分の入場料には釣り合わないが、今回はバーゲン特価ということで許してやろう。さあ、ここに忠誠を……」

「ユナ、どう思う?」

 イツキは、エレナが話し終わるより前にユナに尋ねる。すると、ユナはイツキを見上げて答える。

「私、自分に嘘はつけない。どれだけ自分に聞いても、この人に忠誠だなんて」

「そうか、分かった。それでいいぞ。お前は自分に正直に生きろ」

 イツキが頭を撫でると、ユナはちょっと照れたような心地良さそうな顔をする。

「な……」

 エレナはワナワナする。ユウトは距離を数歩余分にとる。すると、声が聞こえた。

「アンタら、何やってるの? 早く入ろうよー」

 メイがやってくる。

「いや、イツキさんたちが入場料ないって……」

「フーン、そうなんだ。イツキ君、お金欲しい?」

「正直、欲しいっす」

「じゃ、うちの店で今度三日間働いてくれるなら、前払いってことで今貸しといてあげる」

「マジっすか。さすがメイさん。是非お願いします」

 イツキは感謝の意を込めて一礼。

 メイは財布から一万オアの紙幣を一枚取り出し、イツキの手に乗せる。

「入場料以外もいろいろかかるかもしれないから、余分に渡しとくね」

「メイさん、カッコいい! 私、メイさんみたいな大人になりたいな!」

「もう、ユナちゃんったら」

 ワナワナと震えるエレナに気付いたユウトは、先にチケットを購入しているケイゴたちの方にさっさと行くよう促す。この場にいると、また何か言い出しそうなので、とにかく進ませる。

 エレナはしぶしぶ言われた通りゲートの方に歩いていく。そして、残りの四人――イツキ、ユナ、ユウト、メイ――も歩いていく。

「さすがですね……」

 ユウトは、イツキたちの耳に届かないくらいの声でメイに話しかける。

「何が~?」

 メイは楽しそうに答える。

「三日で一万って、めっちゃ安いじゃないですか」

「うち、一時的に人手が足りなくてねー。ちょうど良かったよ。探すのも結構大変だしね」

 自然な流れでバイトゲット。おまけに、二人からの好感度も確実にアップ。見事な策士っぷりである。

「メイさんだけは敵に回さないようにしないと」

「もう、変に警戒すんな……よっ!」

 メイはそう言うと、ユウトを軽く小突いた。


 横に五つ並ぶチケットゲートの前には、別世界へと誘う通路が黒い口を開けて構えていた。ユウトは、その中にゆっくりと進み入った。

 チューブ状の空間の内部はかなり暗く、瞳孔が開くまでしばし落ち着かない時間を味わう。

 やがて、その壁面の青い輝きに気付く。ラピスラズリの坑道に迷い込んだようだと思ったときには、聴覚も研ぎ澄まされ、水中で泡が弾けるような音を聞く。それは、寄せては引いていく波のような優しいリズムで強弱の波紋を広げるが、壁面の青い光もそれと呼応しているようだった。

 来訪者たちは、ここで母なる海の胎内に潜り込んでいく感覚を得る。

 そして、静かな足取りは、ようやく水族館の展示スペースに到達する。圧迫感のあった壁や天井は、いつの間にか手の届かない距離になっていた。

 通路の出口は入口と同じように五つ並んでいて、エレナたちも出てくる。みんなここに来るのは初めてなので、小さな感動と期待感を抱いているような表情をしていた。

「思ったよりイイ感じですね」

 ユウトは、無駄に安らかな表情をして突っ立っているエレナに声をかけた。

「私は今、一匹の魚よ」

 ユナとイツキも出てきた。今回の企画発案者にも声をかけた。

「結構良いな。誘ってくれてありがとね」

「どういたしまして。でも、見所はこれからよ」

「そうだね。まだ入り口だしね」

 目の前には、オベリスクのような二つの柱状の大きな水槽があった。薄暗い空間に光が差し込んでいるように見えるその水槽の面には、この水族館についての軽い説明が書かれていた。揺らめくように漂う小さなクラゲたちの手前に淡く浮かび上がる文字に視線を走らせ、さらに奥へと進む。

 展示空間はさらに大きく広がる。それに伴い明るさが増してくる。

 このフロアのメインの展示室だ。そこにはいくつもの水槽が見えたが、ほとんどは単純な直方体のブロックではない。サイズは様々だが、多くは球状だった。水玉が浮かんでいるようにも見えるし、水の中で浮上している気泡のようにも見えた。

 天井部分からは自然光も漏れ出ていて、水槽の中で本物の細かい泡の筋が美しく煌めいていた。

 全方向に対し広がりを感じる空間だが、水槽は前後左右と視界の中で重なりあっている。裏に回り込んではじめて存在に気付くものもあり、見つける楽しさを喚起しているようだった。

 ユウトは、一通り眺めておきたいタイプなので、網羅すべく浮かぶ水玉の隙間を縫って行く。そして、水槽の密集地帯を抜ける。

 そこには、ひときわ大きな球状の水槽が浮かんでいた。この水族館の目玉スポットの一つで、〈アクアスフィア〉というらしい。そびえ立つ岩礁、立派な腕を伸ばすサンゴ、色彩豊かな熱帯の魚たち。透明感のある青の世界に、豊かな生態系が描く美しさが凝縮されていた。

 誰もが視線と心を奪われずにはいられない。そんな魅力を放つ水槽だった。

(僕たちが生きる世界とは違う法則に支配されているんだ)

 ユウトは唐突にそんな直感を得た。運動の法則、時間の法則、存在の法則。世界の質量と比べたら薄すぎるアクリルガラスの壁が、法則の分水嶺となっている。

 他の六人は、すでにその大きな水槽の前にいて、黒いシルエットが横に並んでいた。客はそれなりに多かったが、ちょうど六人の近くにはいなかった。

 左端には、ケイゴがいた。背後から見ると、髪以外は本当に真っ黒だが、水槽の前だと案外コントラストが美しかった。この中でユウトと同学年なのはケイゴだけだ。

 隣は、サメのリュックを背負っているのでアサミだろう。アサミは、ケイゴの姉で二学年上にあたる。日常的に近づきがたい空気を発する弟とは逆に、ノリが軽くて初対面でも打ち解けやすいタイプ。

 さらにその隣は、一番背が高いのでイツキだろう。アサミも女子としては平均より少し高いくらいの身長だが、それと比べてもかなりの差がある。アサミと同学年で、最近までは独り暮らしをマッタリ堪能していた。

 さらに隣は一番小さいシルエット。当然、ユナだろう。恐らく十歳くらい。先月の一件を経て、イツキのアパートで暮らすこととなった少女。天真爛漫そうな見た目とはミスマッチな高い言語能力で、ピンポイントに毒を吐く特技を持っている。

 その隣のロングスカートは、メイ。アサミやイツキの四つ上、エレナの三つ下。家族で経営する陽耀軒の出前をすることが多く、頭のお団子とチャイナな感じの格好はかなり評判である。

 一番右端はエレナ。ユウトよりも背が高く、スラリとしている。陽耀軒とバイクをこよなく愛する二十四歳独身。本日の七人の中で最年長。黙っていれば美人だというのが大方の意見だが、破天荒でネタが多すぎるので、そんなイメージはすぐどこかに行ってしまう。

「ユウ君、こっちこっち」

 エレナは離れたところから眺めているユウトに気付く。ユウトは歩み寄っていき、エレナの隣に立つ。

 遠くからは分からなかった細部が見えてくる。魚たちは平和で美しい閉鎖空間を満喫しているようだった。壁に沿って泳ぐ大小二匹の黒い魚がいた。行き止まりを探しているようにも見えるが、その魚たちに空間の切れる場所は認識できないのかもしれないとユウトは思った。

 水槽の底に敷かれた白い砂の上に、小さな魚たちが群れをつくっていた。エレナはそれが気に入っているようだった。



   *



 アモハマ臨海水族館は、広い砂浜に面した傾斜地に建っていて、ざっくり言えば、三つのブロックが段々になって斜めに連結された階層構造をしている。

 エントランスがあるのは一番上の階層である。駅のプラットホームから見えるのも一番上のブロックだけで、その下に連なる二つのブロックはほぼ死角になっている。実は、どこからでも目立つ一番上のブロックが、三つの中で最も小さいので、水族館全体としてはかなりのボリュームとなる。接近して、もしくは実際に入場してみて、イメージしていた以上に広いと感じる人が多いのは、こういった立地状況と構造によるところが大きい。

 一行は一番上の階層を何となくまとまって眺めたが、長い下りエスカレーターを経由した先にある一つ下の階層からは、各自バラけて自由に見て回る流れになった。そもそも、みんなで仲良く集団行動をとるタイプでもない。

 そんなこんなで、今しがた使った目の前の長いエスカレーターの混雑率がみるみる上がってくるのを眺める男が二人。ユウトとケイゴは、休憩や待ち合わせを想定してつくられているのであろう広場の壁に背を預けて立っている。目の前に立つルート案内表示の矢印は、ざっと見て10個くらいの目的地を示している。

「よくよく考えると、随分面倒な役についてしまった」

 ユウトは壁に開いた大きな穴を見た。アーチ状の曲線でくりぬかれている。その横にはお手洗いのマーク。

「悪いな、姉貴のせいで」

 ケイゴも同じ方向を見る。出てくるのを待っている。

「ま、別にいいんだけどね」

 ユウトは視線を正面に戻す。


 バラけて回ることに決まると、アサミはユウトとケイゴのところに来た。アサミは目でイツキとユナを指し示し、それから少し小さめの声で言った。

「アンタたち、たまにはユナちゃんの相手をして親睦を深めなさい」

 気恥ずかしさを威圧的な態度で無理やりカモフラージュするような表情。それに気付いたユウトは、ニヤリとしてからわざとらしく笑顔をつくった。対して反応の薄いケイゴが言った。

「何をいきなり。イツキさんがいるじゃね……イテ」

 隣のユウトがケイゴの足を蹴りつけた。

「お前、いい加減、空気読むことを覚えろよ」

 ユウトはアサミに聞こえないように言った。ケイゴはその意味するところを考えるが、すぐには思い至らない。

 ユウトはアサミに向かって笑顔で言った。

「了解です。ユナちゃんの相手は僕たちがするので、その代わりイツキさんはお任せしますよ」

 イツキさん、と強調して言われて照れを隠しきれないアサミ。

「そ、そうだね。ま、まあ、イツキは任せなさい」

 そこでケイゴが手をポンと打つ。

「あ、そうか。姉貴、イツキさんと二人で回りた……イテ」

 腹にパンチをもらったケイゴの横で、ユウトはイツキとユナの方を見る。

 ユナがイツキから離れた。その進む先を見ると、お手洗いがあった。

「アサミさん、今ですよ。ユナちゃんがトイレ行きました。戻ってくるまでにイツキさん連れてって下さい」

「え、え、そんな……いきなり」

「なに言ってるんですか。ユナちゃん戻ってきちゃいますよ。あとは任せて楽しんできて下さいよ。ハイハイ、行った行った」

「ほら、さっさと行ってこいよ」

 ケイゴが背中をドンと押すと、アサミはその勢いでイツキの方に向かって行った。

 アサミは見ている方が恥ずかしくなるぐらい照れまくってイツキに事情を説明する。イツキは特に表情を変えることもなくその話を一通り聞くと、ユウトとケイゴの方を見てからアサミと一緒にその場を立ち去った。


「ねえ、イツキどこ行ったか知らない?」

 視線を下げるとユナが見上げていた。お手洗いから戻ってきた模様。

 いつの間にかエレナとメイもいなくなっていたので、周囲にユナの知っている人間はユウトとケイゴだけだった。

「さあ、自由行動だから気の向くままどこかに行ったんじゃない?」

「ふうん」

 ユナは二人が有益な情報をもたらさないと判断したのか、きびすを返して案内掲示を見上げた。数秒考えた後、動き出したのは実際にイツキが進んだ方向だった。

「げ……」

 幼女の勘、恐るべし。ユウトたちは焦ってユナを追いかけ話しかけた。

「イツキさんは確か……あっちの方に行った気がするな」

 ユウトはとりあえず逆方向を指し示して言った。

「あっち、何があるの?」

「あっちは……いろいろあるみたいだけど、ショーをやるシアターとか?」

 ケイゴが地図を広げて説明する。

「おお、シアターか。イルカのショーとかやるところね」

「イツキ、ショーとか見るのかな?」

「どうだろうね。意外と好きかもしれないな。動き回るより、座って眺める方がしっくりくるし」

「確かに。あの人はあんまりアクティブじゃないからな。人混みの中を無闇に動き回るタイプではない」

 ユナはまた黙って何かを考えているようだった。

(やばい……。ばれるか?)

 ユウトとケイゴは、平静を装いつつも内心ドキドキしていた。この子を甘く見てはいけない。

「ユナちゃん……とりあえず、シアター行ってみない?」

 ユウトは様子をうかがいながら恐る恐る言った。

「そうだね。とりあえず行ってみよう」

 どうやら提案は受け入れられたようで、ユナと一緒に歩き出した二人はほっと肩を撫でおろした。



   *



 第二階層の目玉は、何と言っても、圧倒的水量を誇る大回遊水槽である。大きな展示空間を目一杯使ったドーナツ型の水槽だが、あまりに大きすぎて全貌を見ることはできない。

 入っているのは暖流の魚たち。離れたところから見ても分かるくらい立派な魚影がどんどん通過していく。比較対象のない大海原だと気付きにくいが、どれもかなりのサイズ感であり、単純に迫力がある。

 水深は普通の建物の二階の高さを優に超えている。明るい水面近くはしっかりとした流れができている。人工的に潮の流れを再現しており、そのおかげで多種多様な魚の動きに一定の統率が与えられる。対して、大きな擬岩が組まれた底の方は薄暗く、穏やかな雰囲気になっている。

 大回遊水槽は、アモハマ臨海水族館でもよく知られた見所の一つではあるが、その内側もちょっとした人気スポットとなっている。大回遊水槽の真ん中の空間、つまりドーナツの穴に相当する部分。水槽の規模が規模なので、かなりのスペースがあるわけだが、ここには様々なテーマをもった〈島〉があった。ごく浅く水の張ってある領域にいくつかの〈島〉が配置されていて、それらが橋で繋がっているのだ。

 アサミとイツキが辿り着いたのは、その中の一つ、熱帯密林の淡水域をテーマにした〈島〉だった。ピラニア、デンキウナギ、鋭利な歯列が特徴の古代魚の水槽など、全体的に獰猛な感じ。

 水槽以外の部分もなかなか良く作り込まれている。水中から生える灌木の林。その幹に絡みつく蔓状植物。といっても、屋内施設なので植物に関しては作り物も多いのだが。

 ただ、雰囲気は十分だった。それらを掻き分けていくのは、ジャングルに分け入っていく探検家のようでワクワクする。

「あ、ちょうど誰もいない。ちょっと写真撮ってよ!」

 そんなわけで、アサミは普段以上にテンション高め。持っていたデジカメをイツキに渡すと、巨大なワニの模型の背中にしがみついた。

 イツキは黙って受け取ると、真剣にアングルを定める。

 ワニはアサミの三倍くらいの全長なので、近づきすぎるとその大きさが分からない。

「撮るぞー」

 巨大なワニを背中から押さえ込むような感じの写真が撮られる。

「おお。結構良い感じだな」

 イツキがカメラの液晶画面を見ながら感嘆の声をあげる。

「ホント? 見せて見せてー」

 アサミも画面を覗き込む。うまい具合に人工物が写り込んでいない。

 それは、密林地帯の大河のほとりでワニと格闘している女子高生そのものだった。シチュエーションは完全に謎だが、やたらリアルな写真。

「おお! 何か、プロフィール画像とかに使お」

「そうだな。お前の勇ましさがよく出ていると思うぞ」

「でしょでしょ。あ、そうだ。イツキも撮ってあげるよ。ほら、人が来ないうちに」

 アサミはイツキの背中を押して急かす。

「そうだな……」

 イツキはワニの方に歩いていく。

 隣に立ち、荒々しい鱗が目立つ背中をひと撫で。

 そして、そのままワニの大きな頭のすぐ横に寄り添うように腰を下ろす。

(あ、私みたいに背中に乗らないんだ……)

 イツキはそこで大きな身体を丸めて体育座りになり、自分の両脚を抱え込み揃えた膝に顎を乗せ、魂が抜けたように虚ろな瞳になった。

(え……動かなくなったけど、これでいいのか!?)

 アサミは動揺しながらも撮影ボタンを押す。

 そのまま液晶画面で確認をする。密林地帯の大河のほとりで、ワニに寄り添われ慰められる虚ろな瞳の脱力系青年。僕に人間の友達はいないんだ、君だけが友達なんだよ、という感じ。実にシュールな図だった。

(ど、どういうシチュエーションだ……!?)

 アサミが静かに突っ込みを入れていると、イツキの声が聞こえた。

「アサミ、もう一枚いいか?」

 イツキにしては珍しい要求をするもんだなと思って視線を戻すと……。

「ぎゃあぁぁ!!」

 ワニが思いっきり大口を開けていた。

「いや、これ、ボタンを押すと上顎が動かせるようになるみたいで」

 イツキがワニの喉元付近をいじりながら説明した。

「そ、そっかあ。ビックリした……」

 アサミは胸を撫で下ろす。

「えと、もう一枚だっけ。いいよ」

 再び構える。

(次は何をするんだろう……)

 イツキのことをじっと観察する。

 イツキはワニの上顎を持ち上げたまま、その口の中を観察していた。そして、固定されている下顎の上に仰向けに寝そべると、上顎をおろした。

 ワニの上顎は、イツキの腹部にのしかかる。紙束を挟み込むホッチキスのようだった。イツキは身体の位置をもぞもぞと調整する。フィットする位置を探しているようだ。

 やがてベストポジションを見つけると、両腕を自分の頭上に放り出し、全身の力を抜いた。首がカクンと動き、虚ろな瞳がアサミの方に向く。

(ひぃっ!)

 アサミはビクッとする。

「頼む」

 お前、まだ生きとったんか……と思いながらアサミは撮影する。

 アサミは液晶画面を眺める。密林地帯の大河のほとりで、巨大なワニの犠牲になった青年。それ以上でもそれ以下でもない。しかも、残念ながら手遅れな感じ。

 イツキもやって来て横から覗き込んだ。アサミはカメラを渡した。

「よく撮れてるな」

 イツキは自分の写っている二枚を順番に見る。

「イツキ……これのコンセプトは?」

 イツキは一枚目に画像を戻す。

「俺とこのワニは互いに無二の友。この世に俺たち二人だけ。俺たちは波長がよくあって、いつも河のほとりで遠くを眺めている」

(波長があうって、このワニも脱力系なのか……?)

 イツキは画像を二枚目にする。

「ある日のこと、俺の親友は活力を取り戻した。ワニとしての自分の生き方を肯定できるようになったんだ。そして、己の中の野性に従い、俺をバクリ。俺は、親友がこれから強く生きていけることを確信し、喜びの内に息を引き取った」

 イツキはそこまで一息に説明すると、ドヤ?という感じでアサミの方を見る。

「……い、意外と深いストーリーがあったんだね」

 アサミはカメラを返されると、改めて自分のやつを含めて三枚を順番に見た。特に、イツキの写っている二枚を改めてじっと眺めた。

(シュールだけど……これはこれでいいな。ちゃんと保護設定をかけておこう)


 ツンツン……。


 どこかで誰かが誰かにツンツンされている気がした。

 振り返ると、イツキがアサミの背中のサメを無心にツンツンしていた。

「お前、好きなのか?」

「は、はいっ!?」

「……サメ」

(な、なんだ……ビックリしたぁ)

「ま、まあね」

「案外カワイイな」

「は、はいっ!?」

「……そのサメ」

(言い方が紛らわしいわ! そして無駄に倒置法使うな!)

 ほとんどデフォルメされていない妙にリアルにサメを模したリュックをツンツンし続けるイツキ。

「イツキこそ、サメ好きなの?」

「いや、別に。コイツは結構イイと思うが」

「へぇー。どこがイイの?」

「無駄にワイルドで凶暴そうなくせに、お前に背負われているあたり?」

 イツキは、その後ろの、アンバランスなほどくちばしの大きな極彩色の鳥と同じように首をかしげた。



   *



 水族館の一番上の階層、つまりエントランスのあるブロックの屋上は、遠くからでも目立つ積み木のような物体が乗っているだけで、客が立ち入るスペースはない。それに対し、他の二つの階層の屋上はそれぞれ整備され、屋内の展示スペースとは別のお楽しみスポットとなっている。

 真ん中のブロック、大回遊水槽のある第二階層から専用エレベーターを上がると辿り着くのは、屋外シアターだ。海側はイルカをはじめとする海獣たちがショーをする大きな水槽付きのステージ、陸側は程良い傾斜のかかった広い客席になっている。シアターには特にゲートはなく、出入りは常時自由。また、臨場感は少々削がれるが、客席後方のカフェテラスからのんびり鑑賞することもできる。

 今まさに上演されている最中のプログラムは、そろそろ佳境に差し掛かっているようだった。イルカたちが絶妙な距離感とタイミングで次から次へと技を繰り出す。トレーナーの人たちも必要以上に大きな動作をしているわけではなく、視線で通じあっているようだった。

「おおー! イルカ凄い! 賢くて運動神経も抜群とか羨まし!」

 メイは、花火大会のクライマックスのような勢いで水面から跳ね上がり続けるイルカたちに感嘆の声をあげる。

「そうねー。ま、アンタも狡賢ずるがしこくて無駄に運動神経いいでしょーが」

 隣の席に座るエレナは、テンション低めの口調で答える。腕組みをして右手を頬に添えている。

「あはは……なんか、棘のある言い方ですねー」

 メイは、拍手をしていた両手の指先をあわせて止める。

 二人は、客席のかなり後ろの方に座っていた。傾斜の関係でステージも客席も一望できる。

 客の入りは三割くらい。客席がかなり多いのでそれでもかなりの人数だが、おかげで窮屈さはまったくない。

 客の大半は、ステージに近い真ん中あたりに固まっていて、ショーに合わせて拍手をしたり感嘆の声をあげたり、分かりやすい反応をしていた。トレーナーたちも、基本的にはそのあたりに語りかけるような進行をしている。

 メイは微かに苦笑いを浮かべながら、ここにエレナと二人で来るに至る経緯を回想した。


 下りエスカレーターの前でみんなが適当にバラけていくとき、メイはその場で特に動かず、待ちに徹して他の六人の行動を見ていた。

 とりあえず初期状態。イツキとユナ、ユウトとケイゴがそれぞれ喋っている。

(まあ、このあたりはテッパンだよねー。さて、見所は……)

 メイはアサミの姿を目で追う。

(お、イツキ君たちの方を見てる。ファミリー三人で仲良く回るのか?)

 そんなことを思っていたら、アサミはくるりと方向を変えて、ユウトとケイゴの方に向かった。

(あ、弟の方に行った。あそこは本当に姉弟の仲が良いなー)

 アサミは、ユウトとケイゴに何やら話しかけている。ユウトがニヤリとし、アサミが照れている。

(おおー、アサミンのレア顔。これは何だか面白そうなことが……と思ったら、ここでジョーカーか)

 どこからともなく現れたエレナが三人のところに行こうとして……立ち止まる。三人の会話が盛り上がっていて、入り込めないと思ったのだろうか。

(あ、エレナさん、諦めた。お? こっちに気付いた? およよ? 来る来る来る来る来たー!)

「アンタ、暇そうねー」

「超忙しいっす」

 メイはキリッとした真顔で即答する。

「それならしょうがないから一緒に回ってあげるわ」

 エレナはメイの腕をガシッと掴むと、そのまま引き摺っていった。

(どうせ返答関係ないんだから、聞かなきゃいいのにぃー!)

 ズルズルズルー。


 ショーはフィナーレを迎え、イルカやトレーナーがみんなで並んでお辞儀をしている。シアターに大きな拍手が湧き上がる。

 シアターでは、そのまま動物たちとの触れ合い体験ができるらしく、小さい子供たちが前に集まっていった。

「やっぱり、私たちが来たときは結構終盤だったんですね」

「そうねー」

 客席は、子供とその親が前に集まった影響で、さらに隙間が広く見えた。そんな中、客席に残って談笑している人たちは……。

「やっぱりカップルが多いですねー」

 メイは見たままのことを口に出した。

「アンタ、私に喧嘩売ってるの?」

「いや、そういう意味じゃなくて……ホラ、私たちの方がむしろ仲良いし、むしろカップルじゃないかって感じ?」

 今日は妙に女の子な格好のメイ。ロングスカートをヒラヒラさせて可愛くポーズをとる。

「それは、私が女っぽくないと?」

 エレナはバイクで来たわけだから、まあそんな格好だ。

「ち、違いますよ……。エレナさん、もしかして私のこと嫌いですか?」

「陽耀軒、毎日食い放題で考える」

「あー、胃袋で判断するタイプっすか」

 メイは、エレナのように全身の力をだらりと抜いて、椅子にもたれかかった。そのまま澄み渡る空を見上げた。

(変に空気読まないでユウトを連れてきちゃえば良かったのに……)

 そんなことを心の中で思ったりする。



   *



「お、ちょうど次のプログラムが始まるところだな。ナイスタイミング」

 シアターの入口の大きな電光掲示板にタイムテーブルが表示されている。それに視線を走らせたユウトは、隣で見上げているユナに言った。

「ユナちゃん、イルカは見たことある? 本物の」

 表示されているイルカの写真を指差すユウト。それをじっと見つめるユナ。

「どうだろう……。見たことある気はするけど……」

 ユナは難しそうな顔をする。ユウトはその様子に一瞬だけ視線を向けると、話を切った。

「ま、どっちだっていいか。どうせ今から見るんだし。あ、ケイゴ戻ってきたな」

 ケイゴがこちらに向かって小走りでやってくる。その手は、器用に三つのソフトクリームを持っていた。

「大丈夫か?」

「大丈夫大丈夫」

 ユウトはケイゴから二つ受け取ると、その片方をユナに渡した。

「ありがとう」

 ユナは二人に短くお礼を言うと、ソフトクリームをペロペロ舐め出した。

「いくらだった?」

「あー、イイって別に。巻き込んじゃったようなもんだからな」

「いや、このくらい払うから」

「全部姉貴に請求するからいいよ、本当に」

「そうか。アサミさんに請求するならいいか」

 プログラム開始が近いことを告げるアナウンスが流れる。ご覧になる方は、お早めに客席にお着き下さい。

 三人はアイスクリームを味わいながら中に入っていく。

 広々としたコンコースはシアターの最後部を貫き、そこから一番下のステージまで続く傾斜に客席が並んでいた。

 コンコースからは上り階段もあり、脇におかれたイーゼルにメニューボードが立てられている。黒地にポップな白い文字が並んでいる。どうやら、このコンコースの上は喫茶店のようになっていて、そこから鑑賞することもできるらしい。

(ま、子供を連れているから、普通にステージに近い客席の方がいいだろ)

 ユウトはそんなことを思いながら、客席に向かう。できるだけイツキ&アサミと遭遇しない方向に進む責務があるとも感じていた。バッタリ会ってしまったら、さすがに申し訳ない気がする。

 客席は、前の方の中央部に人が集中していた。直前に係の人の呼びかけがあったのだろう。今も何人かのスタッフが笑顔で子供に手を振ったり、段差のところで高齢者のサポートをしたりしている。

「ユナちゃん、前の方に行く?」

「ねえ、あれ……」

 開放的な客席スペースを見渡していたユウトの服をユナが引っ張る。ユナは客席の人の集まりを指差している。

(ま、まさか!)

 ユウトとケイゴは、イツキ&アサミが発見されてしまったのではないかと思い焦るが、それっぽい人はいない。その代わり、見覚えのある人間が二人見つかった。

「エレナさんとメイさんか……」

 ユウトとケイゴは安堵する。

「どうする? 二人のところに行く?」

 エレナとメイの両側は、ちょうど数人分空席になっている。

「ううん、別にいい。イツキもいないし、次行こう」

「え、見ていかないの? せっかく始まるのに」

「でも……」

 逡巡するユナ。それを観察するユウト。

(この子、いったいどれだけイツキさんに懐いているんだ……)

 ユウトは、短期間でここまで懐かせたイツキに少なくない驚きを覚える。

「無闇に動くより、じっとしている方が意外とバッタリ会えるかもよ?」

 ユウトは柔和な笑みを浮かべ説得にかかる。

(じっとしている方が意外と会えるというのは、向こうが動き回っているとき限定の戦略だから、この場合は見つけたいなら動くべきに決まっているが……。でもまあ、個人的にあまり動き回りたくないし)

 腹の内ではそんなことを思っているわけだが。

「イツキさんがいないと落ち着かない?」

「べ、別にそんなことない! 迷子になってるんじゃないかって思っただけで……」

 全力で否定するユナ。

「ほらほら、取り敢えず座ろうよ」

 ユウトは、ユナを座らせる。そして、ユウトとケイゴはその両側に座った。

 実際にショーが始まると、ユナは目を爛々らんらんとさせて見入っていた。愛嬌を振りまく動物たちに心奪われ、年相応の反応を見せる。

 そして、離れたところでエレナも同じようなリアクションを見せていた。その隣のメイが苦笑いをしながら抑えようとしている様子が、ユウトにはありありと想像できた。



   *



 一羽のペンギンがいた。

 澄み渡る秋空の下、〈ペンギン・アイランズ〉を進んでいく。ヨタヨタした足取りはもはや種としての宿命。

 進行方向には、小規模な群れが存在していた。その多くは日向ぼっこをしているようで、時々ヒレをペシペシ動かすほかは、面白いことを始める様子もない。

 そのペンギンは進行方向の一群を気にすることなく突き進んでいった。

 群れを構成する別の一羽とすれ違おうとした瞬間だった。そのペンギンは、不意打ちをかけるようにヒレを激しく動かした。


 ベシベシベシッ!!


 群れの一羽は直撃を受け、岩山を転がり落ち、水中に落下した。

 しかし、群れの中に緊張感が走ることはない。完全に知らんぷりである。

 群れを割って進むペンギンは、また別のペンギンとすれ違った。


 ベシベシベシッ!!


 また吹っ飛ばした。デジャブのように、ほとんど同じ軌跡を描いて転がり落ちるペンギン。

 ここで何かスイッチが入ったようだ。そのペンギンは、無駄に蛇行しながら、次から次へと群れのペンギンたちを薙ぎ払いだした。とても楽しそうである。

 あるペンギンはその場で尻もちをつき、あるペンギンは対抗しようとし返り討ちにあった。

 〈ペンギン・アイランズ〉の平和は、みるみる崩れていった。

「おい、あのペンギン何かスゲェぞ」

「アレでしょ。私も今、見てた」

 〈ペンギン・アイランズ〉の平和が崩壊する過程をつぶさに観察している男女がいた。イツキとアサミだ。

 水族館の第二階層屋上、シアターの裏手に位置する〈ペンギン・アイランズ〉は、起伏に富んだ地形にたくさんのペンギンが放たれているエリアで、その隙間を縫うように客の歩くスペースが設けられている。ここのプールは、所々、底が抜けて第二階層の屋内に続いているので、潜水するペンギンをガラス越しに見たい場合は屋内の方がオススメだ。

 シアターでプログラムが始まり歓声が聞こえ始めたあたりで、二人は〈ペンギン・アイランズ〉へと到達し、アサミがテンション高くイツキを連れ回した後、今の状況に至る。

 歩いて喋ってはしゃいでいたアサミもだいぶ落ち着いてきたようで、金属製の手摺りに二人でもたれて、ペンギンの観察に勤しんでいるのだ。

「おお。今度は回転しながら両手で一気に五羽やったぞ」

 イツキは、格闘家の派手な必殺技に目を輝かせる少年のような表情で言った。口調はいつも通りの低血圧な感じだが、その中では大きなリアクションだ。

 隣のアサミも、想像の上を行くペンギンの動きに驚愕を隠せない。

「なんじゃアレ。ペンギンにあるまじき身のこなし」

「スゲェな。あのペンギンをアサミペンギンと名付けよう」

 真顔で言うイツキ。

「え……?」

(アタシってああいうイメージなの??)

 アサミは軽くショックを受けるが、すぐに気を取り直し、反撃とばかりにイツキに似たペンギンを探すことにする。

 それはすぐに見つかった。

「イツキ、あれがイツキペンギンだから」

 隣のイツキの肩を叩いて、アサミは一羽のペンギンを指差した。


 ……………プルッ………………。


 そのペンギンは岩山の淵でほとんど動かなかった。斜め上方に嘴を向けボーっとしていた。

「本当に俺みたいだ」

「そうでしょ?」

「お、アサミペンギンが近づいてきた」

 腰の回転と腕の振りで巧みに技を繰り出し続けるアサミペンギンは、幅の狭い岩の上を絶妙なバランスで突き進み、進路を塞ぐものをことごとく突き落としている。残るは、最後尾でなおも遠くを眺め続けるイツキペンギンのみ。俗世には興味なしとばかりに、アサミペンギンには背を向けている。

「背後がガラ空きだ。終わったな、俺」

 イツキがそう呟くのとほぼ同時に、アサミペンギンは至近距離から渾身の一撃を繰り出した。勝敗は決したように思われた。

 しかし、その瞬間、イツキペンギンは何かの気配を察知したのか、ゆらりと身体を動かし際どくかわした。アサミペンギンの一撃は空振りとなるが、不安定な足場に体勢を崩してしまう。

 結局、アサミペンギンはイツキペンギンにタックルする形となり、二羽は揃って斜面を転がり、下の段に落ちてしまった。

「予想外の展開! これは……引き分けか?」

 手に汗握るアサミ。隣でイツキがカウントを始める。

「ワン・ツー・スリー」

 二羽はもぞもぞと動く。

「立ち上がるか!?」

 二羽は、ほぼ同時にすっくと立ち上がった。立ち上がって向き合ったまま停止した。

「第二ラウンド?」

 そう思った瞬間、二羽は急にじゃれあい始めた。天を仰ぎながらヒレや腹をベシベシぶつけ合っているが、それはすでに闘気の伴わないものだった。

 二羽は、どうやら互いに認め合ったようで、執拗にスキンシップをし続ける。

 手摺り越しの二人は思わず顔を見合わす。

「急展開だったな」

「そ、そうだね」

 イツキのことをじーっと見つめるアサミ。ちょっとだけ頬が紅潮しているように見えなくもない。

 その様子に気付いたイツキは、一歩後ずさりする。両腕は防御の構え。

「ま、まさか……あのペンギンみたいに、俺のことを殴る気か?」

 なおも、じーっと見つめるアサミ。

「そうしたらどうするの?」

 視線はそらさず、ファイティングポーズ。

「とりあえず、かわす」

「それで、アタシが勢い余ってよろめいたら?」

 アサミは恥ずかしさが増してきて視線が段々下がってくる。

「そうだな……。そのときは――」

「もう! 離してよっ!」

 そのとき、背後から聞き慣れた声がした。

 イツキとアサミが振り返ると、全速力で向かってくるユナがいた。ユナはそのままイツキに体当たりした。

「イツキ見つけた!」

「なんだ? 俺のこと探してたのか?」

「当たり前じゃん!」

 ユナは身体の向きを変え、背中をイツキに預ける。

「でも、お姉ちゃんもいたなら心配いらなかったみたい」

 ユナは背中をイツキにくっつけたまま、アサミに手を伸ばす。アサミがその手を掴む。その様子を見て、イツキが言う。

「アサミは随分信頼されてるんだなあ」

「えへへ」

 アサミは気恥ずかしそうに笑う。

「ところで……」

 アサミは少し離れたところで関係ない方を見ている二人に声をかけた。

「そこの二人、こっちに」

 ユウトとケイゴがやってくる。

「いやあ、あともう少し押さえておきたかったんですけど、あんまり騒がれると警備の人が来ちゃうから。惜しかった……」

 ユウトが申し訳なさそうな、そうでもなさそうな感じでやって来る。

「姉貴、よく頑張ったよ」

 ケイゴは至って真面目な顔で姉を誉めたたえる。

「うっさいよ」

「だってさ、姉貴があのイツキさんに戦いを挑むだなんて。しかも、イツキさんの方が気圧されていたし。俺、見直したよ」

「そういうことか! ていうか、アンタたち、いつから見てたのよ……」

「じーっと見つめ合う前のあたりから。思っていた以上に良い雰囲気だったので、ユナちゃんを目隠ししながら粘ったんですけど……」

「ギャーー! やめて! 思い出すと物凄く恥ずかしくなってきた!!」

「いや、姉貴は立派な戦いぶりだったぞ」

「だからお前は黙れって」

 素で言うケイゴにユウトが突っ込む。

 ユナは、シアターのプログラムが終わった瞬間に立ち上がり、この〈ペンギン・アイランズ〉に突き進んでいった。その様子は、かなりの確信を持っているようにユウトには見えた。

「もしかして、イツキさんって、ペンギン好きだったり?」

 ユウトはアサミに尋ねてみる。

「とすると、アサミさんもそれを知ってここに来たわけか」

「ちょっと、勝手に推理しないでくれる?」

「ハズレですか?」

「当たりだけど……」

「あ、そう言えば、イツキさんの学生鞄、ペンギンの飾りがついていたような」

「あれ、アタシがあげたやつ……」

「なーるほど」

 今度は予想外の方向から予想外の声が聞こえた。

「エレナさん!」

「アサミたんは乙女ですな~」

「メイさんも!」

 二人は、実に楽しそうにニヤニヤとしていた。明らかに一連の流れを把握している様子だった。

(シアターから尾行されたな……)

 ユウトはすぐに思い当たった。

「おう、勢揃いだな」

 イツキも会話の輪に加わってきた。

「アサミたん~、第二ラウンドまだあ?」

「あーもう!」

 アサミは場の空気に耐えかねたように叫ぶと、背負っていたサメ鞄をガバっと開けた。サメ鞄は、内部が真っ赤で肋骨までプリントされている。故に、素手でサメを解体しているようにしか見えない。

 アサミはその中に手を突っ込むと、真っ黒な物体を取り出した。表面はぬいぐるみのような質感の三角形が二つ。

(このサメは何を食ったんだ?)

 ユウトは思う。アサミは、ケイゴの首根っこを掴み引き寄せる。

「ケイゴ、出番よ!」

「はい?」

「アンタ、何のためにその格好で来たの? 今こそそのときよ!」

 ケイゴの格好。少しダボっと緩めの上下は、ほとんど黒と白。特に腹部を中心に前面の白が際立つ。一方で、背面側は首回りに至るまで徹底した黒。黒白以外の色は、帽子の正面部の橙色。

「これを両腕にはめて完成よ!」

 アサミはサメから取り出したブツをケイゴの両腕にはめる。ヒレだった。

「さあ、みなさんご注目~」

 アサミが呼びかける。視線がケイゴに集中する。

 意識が半分くらいどこかに行ってしまっているのではないかと思う危うさで、時々プルプルっとするケイゴ。水平より上のどこかを眺める遠い目。それはまさしく――。

「ペンギンだ!!」

 ユナがビシッと正解を言った。

 ケイゴペンギンは、その声をスタートのピストルだと思ったのか、覚束ない足取りで歩きだした。


 ヨタヨタヨタヨタ………ズテ………。


「こけた……」

 ユナが小さく呟いた他は、誰も声を発さない。声をあげたら負けだという空気が流れる。

 たっぷり10秒くらい経過してから、ケイゴペンギンはもぞもぞと動き起き上がり、そしてまた遠くを見つめて静止した。

 沈黙が続き、周囲の体感温度がぐんぐん下がる。

「ケイゴ、いつまでやってんの。思い出して……アンタは、人間よ……」

「姉貴、俺にペンギンは早すぎたようだ……」

「そうね。よく頑張ったわ」

 うなだれるケイゴ。対応に困るアサミ。芸の道はかくも険しいものなり。

 ユウトは思った。

(お前は姉貴思いのできた弟だ。大丈夫、神様と僕には分かっているよ)



   *



 期せずして全員が集まり、しかも昼食時を少し過ぎているくらいの時間だったので、そのまま館内のどこかで食事をしようということになった。人数が多いこともあり、もともと食事は混む時間帯をずらしてとろうということになっていたが、このくらいなら座れるだろう。

 館内マップを見ると、一番下の階層の屋上に食事処が充実しているようだった。午後になり人も増え、それらを掻き分けながら進んでいった。通路は直線がシンプルに交差するような感じではないので、定期的に現れる行き先案内表示と地図を見ながら進むことになる。

「混んでるから迷子にならないようにね。イツキ、ユナちゃんの手、握ってた方が良いんじゃない?」

「そうだな。ユナ……」

 イツキは歩きながら、ユナがいるはずの空間に手を伸ばす。しかし、そこにはすっぽりからの空間が存在していた。イツキは立ち止まる。

「アサミ、遅かったようだ」

「え? ええ!? ユナちゃん、はぐれちゃったの?」

 アサミが立ち止まると、他の面々も事態に気付いて立ち止まった。アサミはとりあえず周囲を血眼になって見渡すが、イツキは腕組みをして落ち着き払っている。

「そのようだ」

「少しは焦りなさいよ!」

「俺たちのサーチ能力よりユナのサーチ能力の方が高いから、俺たちがあがいても無駄だ」

「いや、それはそうかもしれないけどね……」

 アサミがオロオロする。そこにエレナが声をかける。

「ま、落ち着きなさい。何のためにユナに持たせたと思ってるの?」

 エレナは自分の耳元に手を持ってきてジェスチャーをする。

「そうだ! ケータイ! ユナちゃんのケータイにかけてみよう」

 アサミは自分のケータイを取り出すと、素早く操作して耳元につけた。それを隣のイツキが見ている。


 RRRRRRR…


「鳴ってる……」

 イツキのポケットの中で着信音が響く。イツキはケータイを取り出してそれに出る。

「きっとユナちゃんが連絡してきたんだな」

 ケイゴが一安心とばかりに言う。それを見たアサミも同様に安心の表情を浮かべて自分のケータイの呼び出しを切ろうとしたら、予想外に通話状態になった。

(あれれ? イツキさんのケータイにかけたの、ユナちゃんじゃないのか?)

 ユウトも不思議そうに様子をうかがう。

「もしもし!? ユナちゃん?」

 アサミが電話の向こうの相手に話しかける。

「いや、ユナじゃなくて俺だぞ?」

 男性の声が答える。というか、イツキの声が答える。電話越しの声と、現実に直接届く声がほぼ同時に聞こえる。

「は!?」

 アサミはイツキの顔を睨みつける。

「何でアンタが出んのよ!?」

「いや、ユナに渡されたんだよ。『迷子になるから持ってなさい』って。俺、ケータイ持ってねーし」

 イツキは、裏声でユナの真似をする。

「な、なんですとー!? ユナちゃんと一緒に買ったのかと思ってた!」

「いや、あそこの人、ケチだから一人分しか契約しなかったんだ」

 責め立てるアサミの攻勢をそらすように、イツキはエレナを見る。

「え? 違う違う! まさか持ってないとか思わないでしょ普通?」

 珍しく素で焦って弁解するエレナ。本当に悪気はなかったようだ。

 アサミは視線をエレナからイツキに戻す。必要ないのに、勢いでケータイは持ったままだ。

「ていうか、アンタんち、家電いえでんもないのに、ユナちゃんだけケータイ持ってても意味ないでしょ!?」

「いや、俺より警察かお前あたりを頼るように教育している。そうしたら、『うん! 私が解決できないことがイツキの力で解決するわけないから、そうする!』って。意外と物分かりが良くて助かる」

「どんだけ他力本願なんだ!!」

 アサミが全力で突っ込む。

「イツキさん……何かこう、大切なもの、忘れていませんか?」

 さすがのユウトも突っ込まざるを得ない。

 そのとき、イツキが持っているケータイが再び鳴り出した。イツキはすぐに出る。

「もしもし」

 ――イツキ、今、どこにいるの?

「ユナか。それはこっちの台詞だ。きっちり迷子になりやがって」

 ――何言ってるの? 私は予定通りのところにいるから、迷子はそっちだよ。

「そうだったのか……」

 会話はすぐに終わったようで、イツキはケータイを下ろす。それと同時に、固唾を飲んで見守っていた一同が詰め寄る。

「ユナちゃん、公衆電話からかけてきたの?」

「そういや、何か表示されていた気がする」

「もう、貸して。着信履歴見るから」

 アサミが奪い取って素早く指を走らすと、そこには……。

「MEN……」

 ユウトも画面を覗き込む。発信元の表示を見ると、そこには確かに“MEN”の文字。それはもはや、たった三文字の暗号に他ならなかった。

「MEN? ……男? 人間?」

「複数形だから、“人間たち”?」

 ケイゴの解釈にユウトが修正を加える。

「え、どういうこと? 誰のケータイだよそれ!?」

「いやだから、“人間たち”のケータイだろ?」

 意味が分からない様子のケイゴにユウトが冷静に答える。もちろんユウトにも意味は分からないわけだが。

「人類と言った方がいいかもしれないな」

 イツキがさらによく分からない駄目押しをする。

「ユナは、人類のケータイから電話してきたわけだ」

 そう言いながら、イツキは自分の手に握られているケータイを感慨深そうに眺める。

「なんかスゲェな」

「とか言ってる場合じゃないよ!」

 アサミがようやく突っ込む。

「とりあえずかけ直してみよう」

 その声に促され、再度人類とのコンタクトを試みるイツキ。状況を分かりやすくするため、アサミがハンズフリーの設定に切り替え、呼び出し音がみんなに聞こえる。

 呼び出し音が三回続いたとき相手が出る。ケータイのスピーカーから声が聞こえたが、それはユナの声ではなかった。

 ――あー、もしもし。

(この無駄に可愛らしい声は……)

「ダンゴのケータイだったのか」

 ――ダンゴ言うな!

 イツキの呼びかけに答えたのは、メイだった。

「ダンゴ嫌いなのか? ダンゴを否定するのか?」

 ――あー、いいから。今、どこにいんの?


 程なくしてユナとメイも合流できた。

 どういうことか釈然としないが、確かに二人の方が先に目的地に到着していたようで、メイはユナの背後について行ったそうだ。曰く、とりあえずユナについて行けば良いだろうと思い、他の人のことを気にしていなかったら、いつの間にか二人だけになっていたとのこと。

「そもそも、メイさんがいないことに気付かなかった……」

 ユウトは改めて思い返して、本当に気付いていなかった自分に驚きを隠せない。

「あれ? メイ、今日来てたんだ?」

 ユウトの背後からエレナも現れる。エレナも驚いて見せる。

「エレナさん、やっぱり私に恨みが?」

「ところで、何でユナちゃんのケータイには、メイさんの番号が“MEN”で登録されてたんでしょうかね?」

「ラーメンの“メン”らしいよ。私もさっき聞いたんだけど」

「それは分かりにくいわね。“DANGO”に変えるよう伝えておくわ」

「いいです“MEN”で」


 最下層のブロックは、水族館を構成する三つのブロックの中でも一番海に近い。よって、その屋上部は抜群の眺望を誇り、それを売りにした食事処やカフェがスペースの多くを占めていた。

 潮風を感じられるオープンスペースもあったが、ユウトたちが入った店は屋内タイプ。屋上にレストランが建っているような感じ。壁の多くがガラス張りになっているため、見晴らしは非常に良かった。

 レストランの陸側は第二階層の大回遊水槽から繋がっている水槽が接していて、温帯域の魚たちを見ながら食事を楽しめる。また、反対に海側は、見事なオーシャンビューが広がり、水平線と眼下に続く美しい砂浜も眺められた。

 今日は天気が良く遠方まで見渡せるためか、海側の席は満席になっていた。七人は水槽に面した陸側のテーブルを二つ繋げてもらって座った。

「せっかくのバイキングだから、食うぞー!!」

 テンションが上がり始めるエレナ。その向かいの席でイツキがユナに言う。

「ユナ、最低でも三日分は腹におさめるんだ」

「無理」

 バイキングは品数豊富で味も良かったので、みんな大満足だった。観光地なのに価格も良心的。水族館と関係なくても、人気店として十分やっていけそうな感じだ。

 なお、このブロックの屋上だけは、館内を経由せず外部から直接入れる構造になっているので、食事だけを楽しみに訪れる客も多いように思えた。

 腹が満たされる頃には、フロアにいる人はかなり減ってきて、しばらく座って話し込んでいても問題なさそうな感じになっていた。

 ユウトはお手洗いに行って、そこから席に戻ろうとしたところ、ちょうど海側の窓辺で外を眺めているメイを見つけた。カメラで写真を撮っていた。

「良い景色ですね」

「そうだねー」

 後ろからイツキも現れた。イツキもお手洗いから戻ってきたところだった。

「下の浜、夏に行ったところの続きらしいな」

 ユウトは下を見る。水族館の一番下のブロックに面して大きなプールがある。広いプールサイドにナイター設備が整っている。

 プールでの遊泳に関してはすでに営業期間終了となっていたが、プールサイドのカクテルバーはまだ営業期間らしい。何人かのスタッフが見える。

 プールを囲む柵の外側は美しい砂浜で、プールエリアとはゲートを挟んで出入りが可能になっている。ここは、八月に行ったアモハマ・ビーチの端にあたる砂浜だ。散策を楽しむ観光客っぽい集団、追いかけっこに興じる子供たち、犬と一緒にジョギングする人などがいた。海水浴客がいない時期なので、海ではサーファーたちが白波と戯れている。

「そろそろ行くわよー」

 エレナの声がしたので、三人は席の方に戻っていった。

「一番上にあるショップでお土産でも見ていこう」



   *



 エスカレーターと動く歩道を乗り継いで二階層あがると、そこが大きなショップスペースになっていた。館内には他にも小ぶりなショップが数カ所あったが、帰りの動線上に待ち構えるこのショップがやはり一番の稼ぎ頭に違いない。

 ディスプレイにも工夫が見られ、歩いて眺めるだけでも楽しめそうだし、思わず足を止めてしまう仕掛けが多い。

 ケイゴ、アサミ、メイはお菓子類を中心に食品系が多く売られているあたりをウロウロしている。試食可能なものが多くあり、遠慮なく頂いている。

 メイはすでに数箱を買い物籠に入れているが、なおも吟味を続けている。

「これはビールにあいそうだ」

 積み上がっている箱を一つ手にとり、パッケージを眺めて籠に入れた。

 アサミとケイゴは、お土産を選ぶよりフロアで一番おいしいお菓子を選定しているようだった。片方が「これはうまい」と言うと、もう片方がやってきて「どれどれ」と試食し、判断を下す。これを片っ端から実行しているようだった。

 イツキとユナは食品系のない、小物やぬいぐるみなどが並ぶあたりを見て回っていた。イツキはほとんど購入意欲を感じさせない回り方をしていて、たまたま目にとまったものを眺めて適当にいじって値段を見て夕飯の食費と比較し、まあ買うわけないな、と反応しているだけだった。

 ユナの方が何やら熱心な様子で、これと狙いを定めると、それをしっかり見て何かを考えているようだ。周囲を気にすることもなく動いているので、イツキの方が、ユナが視界から消えないくらいの距離を保ってフラフラついて行っている。

 ユナは表面に装飾の施された鈍い光沢のある箱に興味を示し近づく。形状としては、海賊が財宝を入れておくような感じの箱だ。ユナは、それを手の中でくるくる回し観察してから、ディスプレイの説明をじっと眺めている。


「ユナちゃんは随分熱心ですねー」

「そうねー。ユウ君はユナが何をしてるか分かるかにゃ?」

 ショップスペースの上には、バルコニーのような形で休憩スペースが整備されていた。ちょうど階下を眺める向きに、皮膚の角質をついばむ習性のある小魚が泳ぐ足湯がある。そこでリラックスしながら何となくお土産を眺めていると、いつの間にか買いたくなってくる。そんな感じの効果を狙った商法なんだとユウトは思った。

「さあ。子供なんて、あんな感じじゃないですか? 普通に何か欲しいんじゃ」

 ユウトはあんまり考える気もない。緩んだ声で適当に答える。

「あれはね、自分が欲しいものじゃなくて、イツキへのプレゼントを見ているのよ」

 エレナは、推測というより静かな確信の表情で言う。

「へぇー。何で分かるんですか?」

「見ていれば分かるわよ」

 エレナの口振りを少し意外に思うユウト。

「そうですか。見た目はどことなくエレナさんに似ている気がするのに、なかなか良い子じゃないですか」

 ユウトは、背筋を伸ばしてユナとイツキの様子を改めて眺めた。ユナは、何やら箱のようなものに興味を示している。

「今、ユナちゃんが手に持っているアレ。いったい何でしょうね?」

「ああアレね。アレは、ゼンマイを回すと箱が開いて、魚たちが楽しそうに踊り出すオルゴールよ。でも、ユナはアレを選ばない」

 ディスプレイの説明を一読したユナは、まさにエレナの言うとおり、ゼンマイを巻くような動きをした。音は聞こえないが、確かに箱は開き、何かが動いている。

「随分興味を示しているようですけど……」

 かなり熱心に見ているところを見ると、ユナがそれを欲しがっていることは明らかだった。普通に考えれば、そのままイツキにおねだりしそうなものだ。しかし、ユナは箱を閉じてそのまま棚に戻した。

「本当だ……」

 ユウトは素直に感心した。

(これは本当にイツキさんへのプレゼントを探しているっぽいな)

 ユウトは、エレナが時としてかなりの洞察力、推測能力を発揮することを知っていた。多くの人とは少し違った生き方をしてきたからこそ培われた能力なのだろうか。

 そう思っていたら、イツキがユナに歩み寄っていった。イツキは普通にユナに何か買ってあげようと思っているようだった。

 イツキがユナに話しかける。さっきの欲しかったら買ってやるぞ、と言っているようにユウトにも見えた。ユウトは、水族館に入るときのことを思い出した。メイから渡されたお金があるから、財布にはある程度のゆとりがあるはずだ。

 でも、ユナはイツキに何か言って離れた。

「大丈夫だから気にしないで!」

 隣のエレナがユナの口調を真似る。

「それは僕にも分かりますよ」

 ユナはイツキのために自分で選びたいようだ。だから、あんまり覗き込まれたくないんだろう。

「最終的に、何を選ぶんでしょうね?」

 ユナはズンズン進むと、ついにショップの角のあたりに到達する。

「あの角のあたりにね……」

 エレナが説明を始める。ユナのすぐ横に立って現場を中継するリポーターのように。

 ユナは角のあたりで何かを手にとった。

「このくらいの小さな玉にいろいろ装飾されたやつがあって、ドリーム・ボールって言うんだけど」

 ユナは小さな物体を持っていた。説明を読んでいる。

「振ると凄く綺麗な音がするの。ユナはその音色をとても気に入るんだけど」

 ユナは耳元でそれを小さく振った。何度も振っている。そこにイツキが近づいてくる。ユナが手に持っているやつが置かれていたところに手を伸ばす。

「同じ種類のやつが、あと一つだけ残っていてね、イツキは、せっかくだからお揃いで買おうと提案するのよ」

 ユナはイツキの顔を見上げてうなずいていた。


 最初ユナが手に取っていたのは、太陽を抱えたペンギンのデザインで、振ると、その太陽っぽい玉の中から凄く繊細で涼しげで清らかな音色が響いた。どんな音でも微かに含むはずのいびつさが、丁寧に取り除かれているような音だ。

 それからイツキが手にとったのは、同じ雰囲気の別デザインで、最後の一つだった。それは太陽を抱えたイルカのデザインで、こちらもやはり振ると心地良い音色が響いた。聴き比べると若干違うようだったが、説明を見ると、すべて職人の手作りなので、大きさや音色が少しずつ異なるということだった。

 確かに、改めて眺めて見ると、表面の模様も非常に細やかで、ここまで金属を巧みに加工するのはかなりの技術だと思えた。

(ドゥープニ区の由緒正しき工房が製造ねぇ。そのわりには、なかなかのお手頃価格だな)

 イツキは一応値段を確認すると、ユナに最終確認をとった。


 レジに向かう二人を見届けるユウトとエレナ。ドクターフィッシュは、なおも熱心に二人の足に口づけを続ける。

「ところで……」

 エレナは階下を眺めながら、隣のユウトに話しかける。

「あの子、結局何なんだろうね?」

 ユウトも、エレナが眺めている方向を眺めながら答える。

「それは難しい質問ですね。それこそ、“影の二人”以外答えられないんじゃないかと」

 エレナはその返答に対し何の反応も返さなかったので、その場は静かになる。

 やがて真下の方からケイゴの声がする。そろそろ撤退するようだ。

 ユウトとエレナは、先程より健康的になっているに違いない足を拭いて、階段を下りていった。

「二人とも、お土産は良いの?」

 両手に大きめの袋を持ったメイが、何も買っていないユウトとエレナに言う。

「私たちは、物より思い出を大事にするタイプなのよ」

 エレナは澄まし顔でユウトと腕を組もうとするが、ユウトはそれをスルリとかわす。

「僕、お土産は、あげるよりもらう派なんですよ」

 ユウトは、メイの袋の一方を受け取る。

「だから、片方もらってあげます」

「ユウト、やっさすぃ~」

「やっぱり私、何か買ってこようかなー」

「エレナさん、行きますよー」

「えー、じゃあユウ君おんぶして~」

「どこの水槽に落として欲しいですか?」





(#001おわり)



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