#003 モザイクコンパスの帰結① - Never Help You - ●○○●●○○●●○●●●●○○○●●●○●●●●
「ねえ、聞いてる!?」
ユウトは、黒板の上の時計の針を眺めていた。もう帰りのホームルームが始まるべき時間だが、担任は現れない。職員室でなにか手間取っているのだろうと想像される。
五月の連休の気分が抜けきっていない月曜の午後、高いテンションを維持するのは少々億劫だったが、面と向かって返答を迫られればやむを得ないか。
「聞いてるよ。サイン会? サインもらえたんだろ? おめでとう」
頬杖をついていたユウトは、
高校に入学して早々に決定した一年四組クラス座席配置バージョン1により、ユウトの前に陣取ることになった彼女は、女子の中で言えば、特に騒がしい部類には入らない。一方で、内気控えめで通るキャラでもないが、一ヶ月以上経過し、徐々にユウトに話しかけることが趣味になってきたようだった。
ユウトは、否定も肯定もせず適当に相槌を打つことが多くあったが、それでも何やかんや言って聞いてくれているという実感があったのだろう。もっとも、それは朝と帰りのホームルームの時間帯だけで、それ以外の関わりはほとんどないのだが。
「そうそう!
そう言うハルカの手には、すでにハードカバーの本が収まっていた。タイトルは、『彼の地にて待つ』。出版されたのは数年前だが、このたびドラマ化が発表されて、俄かに脚光を浴びているミステリー小説だ。ドラマは2時間枠の単発で、放送を来週の火曜に控える。
そして、ドラマ化を記念して、アセブ区でも最大規模を誇る書店〈
ユウトは、一応本を受け取って、ペラペラとめくってみる。
「サインは最後のページだよ」
ユウトは、目次に視線を滑らせ冒頭くらいは追ってみようかと思ったが、結局、繰り広げられているはずの様々なイベントをすべて飛ばし、物語の結末すら無視して最後のページに辿り着く。発行元の情報が目に入り、その隣のページに黒いペンで書かれたサインがあった。あまり書き慣れていないせいか、もしくは性格的なもののせいなのかは分からないが、想像する有名人のサインより躍動感がないなと思った。
「それで、鏑矢ミツルギはどんな感じの人だった?」
「それがね、リアルで見ると結構イケてる感じだったんだよ! ピシッとスーツ着て、カッコ良かった。愛想はあんまり良くないんだけど、無愛想ってわけじゃなくて、ファンの人たちへ感謝を伝えようとしている感じが、ちょっと健気っていうか?」
それはイケているのだろうかと疑問に思わなくもないが、カバーの内側、いわゆるそでの部分にある著者プロフィールの白黒写真を見ると、言いたいことは何となく分かる気がした。
ハルカは、時々ミーハーな一面を見せることがある。なぜか一番流行っているものとは少しズレていることも多いのだが、こうなると当面はこの作家にハマっているのだろう。まあ、読書は良いことだ。
ユウトがそんなことを思っていると、ちょうど担任の
教室に散っていたクラスメイトたちが自分の席に戻っていく。ハルカも黒板の方に向き直る。佐久江先生は、プリント類を普段よりたくさん抱えていた。
「遅れて悪かったな。職員室のコピー機の調子が良くなくて混んでたんだ」
教卓の近くの誰かが先生に話しかける。生徒からの声は先生だけに向けられているので教室に響くものではないが、先生は返答も音量をあまり下げないので、その声だけ聞こえてくる。
「そうそう。三年生が進路希望調査なんだよ。だから、他の学年の先生もコピーの順番待ち状態でな」
佐久江先生は手際よくプリントを配っていく。チョークの粉で汚れた白衣のポケットにゴム製の指サックを常備しているので、それをつけてかなりの速度で枚数をカウントしていく。数学教師らしい効率性を感じる。
「進路希望調査かあ。ちゃんと考えないとね」
ハルカは、プリントをユウトに回しながら話しかけてくる。
「まだ先の話だろ」
「そんなこと言ってると、あっという間だよ」
物凄い正論を返される。
「なるようになるだろう」
「
「ならないね」
前から次のプリントが回ってきたので、ハルカはそれを受け取る。そして、またユウトに話しかける。
「そう言えば、三年で妙な噂が流れているらしいよ」
「ふうん」
「進路に思い悩んでいる人に、救いの手を差し伸べてくれるとか何とか」
「助けてくれるならいいじゃないか」
「噂だよ。でも、なんか怪しいんだって」
「怪しいって、どこ情報だよ?」
「お兄ちゃんから聞いたの。三年生だからさ」
「ふうん」
プリント配布が終わり、佐久江先生が教卓で連絡事項を伝え始めたところでハルカは前を向く。ユウトは、先生の連絡事項を聞きながら、プリントに目を通していった。
「ユウトー。駅前で遊んで行こうぜー」
帰りの礼をすると、男子数人の塊から声が飛んでくる。
「オッケー」
ユウトは、特に何の予定もなかったので誘いに乗る。
メモギ区は規模の小さな区なので、高校生が遊べるような所はメモギ中央駅周辺に限られる。カノハ高校は区外から通学する生徒がほとんどいないので、この駅を実際に利用する生徒は少ないが、それでも駅周辺には高校生の姿が多く見られる。
ユウトは鞄を持って、男子の一群に加わる。
「それで、何すんの?」
「それはこれから考える」
誰も特に生産的な活動を期待しているわけではない。ただ、行ってみると案外楽しめちゃったりするというだけのこと。そもそも本気で遊ぼうと思ったら、駅前じゃなく、改札を抜けてアセブ区まで足を延ばすのが良いに決まっているわけだし。
ワイワイと下らないことで笑いながら廊下を進み、第一校舎の広い昇降口のあたりまで来たところで、ユウトは見知った人間を見つける。二年や三年の教室に行くための階段の脇に二人、アサミとケイゴだ。
姉と弟がそれぞれ独特のオーラを振りまいているので、少し離れていても目に留まりやすい。なお、姉弟のわりに随分と雰囲気は違ったりする。
何とも言えない素行不良オーラを放つケイゴ。目つきが悪く、口より先に手が出そうな雰囲気が漂っていて、学校では見た目で損をするタイプだ。客観的に見て、近づきがたいと思われても仕方ないのだろうが、根は良いやつである。
一方、明るくノリの良さそうなオーラを放つのがアサミ。言動がサバサバしていて、女の子的な群れ方は苦手そうだが、逆にその立ち回りが評判らしい。男女どちらからも好かれているようだが、属性としてはアイドルよりヒーローに近いと思われる。
さて、パッと見た感じでは、アサミの要求をケイゴが拒絶し、早くその場を立ち去りたいと思っているが、アサミが逃がさない……みたいな感じだろうか? ケイゴが「勘弁してくれよ」と言っている。
(やっぱり校内でも無駄に目立つな、あの姉弟は。まあ、関わらないのが一番だな)
ユウトは、目立たないように、一緒に歩いていたクラスメイトたちの裏に移動する。そして、そのまま密やかに下駄箱に辿り着く予定だった。
しかし、現実とは非情なものである。
「あ! ちょうど良いところに……」
「お! 本当にナイスタイミング」
不穏な気配を察知し、早足にしようとしたところで、人波をかけ分けてケイゴがユウトの腕を掴んだ。ケイゴは二組なので、ユウトが一緒にいた四組の面々はびっくりして一歩下がった。
「バトンタッチ!」
二組で、しかもかなり取っ付きにくい感じのケイゴがユウトに馴れ馴れしく接しているのは、周囲をかなり驚かせたが、それを説明している暇はなかった。
「いや、ちょっと待て! どういうこと?」
「俺は補習なんだよ。あとは姉貴に聞いてくれ!」
「補習? いや、ちょ……」
ユウトの制止を振り切って、ケイゴは二組の教室に向かって走って行ってしまった。
そして、その時点ではすでにアサミの腕がユウトを掴んで離さなかった。
「ユウト君、逃げちゃダメだぞー」
アサミは満面の笑みをたたえて脅しにかかる。
「いえ、僕はこれから予定が……」
アサミは、壁際から様子を見ていた男子諸君に視線を投げる。威圧と懇願を混ぜたような視線に、か弱い一年男子たちは屈する。
「僕らには遠慮なく! ユウトのことは好きにしてください」
不意の急展開に軽く動転し、変なテンションになっているのだと分かる声だった。
「ありがとー」
「じゃあな、ユウト!」
ユウトの意思は完全に無視されて話が進む。そして、ユウトを見捨てたクラスメイトたちのひそひそ声が耳に届く。
「あれ、
「まだ入学して一ヶ月くらいしか経ってないのにな。実は将来大物になるんじゃないのか?」
「それ、ありえそー」
(変なところで無駄に感心しないでくれ……)
ユウトがそんなことを思っていると、腕がグイッと引っ張られる。
「じゃあ、さっさと行こっか」
*
主要区でも何でもないただの平凡な区の一つであるメモギ区は、全体的に平坦な地形で、カノハ高校のあるあたりだけが数メートル高い台地状になっている。
メモギ区で比較的栄えているのは、区の東部にあるメモギ中央駅周辺のみ。区で唯一の鉄道駅であると同時に、区内のバス路線の起点となっている。
メモギ中央駅を通る線路は南北に伸びるので、区はそれを境に二つの地区に大きく分けられる。駅が東に寄っているので、大半は駅の西側のエリアとなるわけだが、その大部分は何の特徴もない普通の住宅地になっている。駅から歩いて20分ほどのところにあるカノハ高校の周辺もただの住宅街である。
ユウトとアサミは、正門を出て緩やかな下り坂を並んで歩いている。視線を落とせば、学校の敷地に沿って流れる用水路が見える。幅は五メートルくらい。水質はかなり良いので、時々飛び込むやつがいるらしいが、河原があるわけではないので危険であり、当然飛び込み禁止である。
「飛び込んじゃダメだよ」
アサミがポツリと言う。
「飛び込みませんよ」
ユウトも同じ調子で答える。
「底が深いからたぶん怪我はしないけど、上がれる所が限られてるから、本気で危ないんだよ」
「飛び込むやつの気が知れませんね。というか、僕に言うよりはケイゴに言った方が良いんじゃ」
「アイツは、ああ見えてわりと常識人だから、たぶんそういうことはしないんだよ」
「まあ、そうですね」
短い坂はすぐに終わる。道は住宅街に入るが、目的地を知らされていないユウトは、どちらに行くべきか分からない。
「こっちだよ」
アサミが先導する。
「そろそろ目的地と事の経緯を教えてもらえませんか?」
「そんな改めて説明するほどのことでもないんだけどなあ……」
「大したことじゃなくても良いんで」
ユウトは、アサミが説明するのを頑として待ち続ける姿勢を明確にする。アサミは、アーとかウーとか言いながら悪あがきするが、観念して話し始めた。
「欠席だった友達にプリントを渡しに行くんだよ」
「男ですか」
「お前はエスパーか!」
アサミは、立ち止まって、ビシッと派手なアクションを取る。
「いや、そういう妙な突っ込みはいらないんで」
ユウトが冷静に返すので、アサミも調子を合わせ、再び歩き始めた。
「まあ、隣のクラスのやつなんだけどね」
「隣のクラスの男子になぜアサミさんがプリントを届けるんですか?」
「うーん、それなりに仲が良いから? 昨日今日の付き合いじゃないし」
「それ、僕がいる必要あるんですか?」
「あるよ! 大ありだよ!」
「仮に男子の家に一人で行くのが気恥かしかったとしても、クラスの友達とか連れてくれば良かったんじゃないですか?」
「んー、それは何か違うんだよねー。それでケイゴを呼び出したのに、アタシと補習のどっちが大切なのかっつーのよ!」
「いや、補習でしょ。というか、まさか補習の最中に呼び出したんですか?」
「急用って言ったらすっ飛んで来たよ」
「不憫だ……」
「あ、こっち。スーパー寄ってくから」
アサミは商店街の方に曲がる。
「ちゃんとお見舞いを買っていくんですね」
「いや、普通に食べ物を。一人暮らしだからさ」
「なるほど。そういうことですか……」
「何が? そんなに凄い?」
「いえ、僕が巻き込まれた理由がようやく分かったので。確かに、一人暮らしの男のところに一人で行くのは気が引けますよね」
「な! 別に違うし。ユウト君は荷物持ちだよ、荷物持ち!」
「はいはい、分かりました。荷物持ちですよ僕は」
二人はスーパーに入っていく。
自動ドアを抜けると、アサミは本日の特売チラシが貼られた掲示板をチラリと確認する。
ユウトはアサミが何を買うつもりなのか知らないので、チラシは遠目から一瞬だけ眺めるにとどめた。
「カートいりますか?」
「いるいる」
ユウトがカートを持ってくると、アサミが買い物カゴを乗せた。
夕食の材料を買いに来るために客が増え始める時間帯。店内は一日の中で一番活気づいていた。
店員が小さなホットプレートで何かをつくりながら、手軽さと美味しさを派手な抑揚をつけながら宣伝する。その前を物欲しそうに通過するユウトを見て、アサミが言う。
「ユウト君の分もつくってあげるから」
「それはどうも…………あれ?」
「どしたの?」
アサミは、野菜をカゴに入れながら尋ねる。
「アサミさん、料理する気ですか?」
「カゴの中を見りゃ分かるでしょ」
ユウトは、カゴの中を改めてよく見る。確かに、何か料理をするための食材がそこにはあった。
「アサミさん、料理できるんですか?」
「失礼な!」
「いや、できるんなら別にいいんですけどね」
「まあ、メイさんみたいなのは無理だけどね」
「さすがにそれは期待していませんよ」
ユウトは、先日の集いを思い出した。燃え尽き症候群をいつまでも引きずっているエレナに喝を入れるべく企画された集まりは、ユウトの他、アサミとメイが準備をしたわけだが、想像以上に気合の入った豪勢な食事が並ぶこととなった。
特にメイは、わざわざ食材を求めてイノヤ区に出かけた上、当日は厨房に立ってすべての料理をテキパキと完成させていくという働きっぷり。単なる出前娘ではなく、普通に厨房に立てる実力があるということを知り、アサミとともに感心せざるを得なかった。
「あれはどれも相当美味しかったね」
「そうですね。ケイゴも来ればよかったのに」
「あー、ケイゴは意外と人見知りだからねえ。なんかアイツ、エレナさんのこと結構警戒してる気がするんだよね」
ケイゴがエレナに向ける警戒心は、それほど的外れなものでもないとユウトは思ったが、それは口に出さなかった。
「それにしてもメイさんは凄いな。可愛いし、性格も良いし、運動神経は超人だし、おまけにあれだけ料理が出来るとか」
「さらに、見事なタイミングで笑いの神が下りてきたりしますしね」
「そうそう! できすぎでしょって思ったりするよ」
少し誉めすぎという気もするが、だからと言って、特に反論する所もない。本人のいないところで冷静に考えると、確かに結構凄い気がしてくる。凄い気がしてくると、逆に、メイがエレナのためにあれだけ献身的に頑張るのが不思議に思えてくるわけだが。
(エレナさんも、あれ以来、それなりにエンジンがかかってきたみたいだから、効果はあったのかな……)
完全復活まではもう一押し必要な気もするが、何がその一押しになるのかはよく分からない。どうしたものか。
ユウトは、買い物袋を両手にぶら下げてスーパーを出る。どちらも中身は相当詰まっていて、持ち手のところがピンと張っている。
「一つ持とうか?」
「いいですよ。僕は荷物持ちなんで」
ユウトは、アサミから任じられた役割をしっかり果たすことを宣言する。そして、同時に、二つでいけそうだからと無理に詰めずに、もう一つ袋を分けた方が良かったかもしれないと思った。顔には出さないが。
「そう。それならいいけど」
「ここから近いんですか?」
「うん。わりと近いね」
アサミは道案内のため、一歩先を進む。ユウトは、肩掛けの学生鞄が邪魔で、それをできるだけ後ろに追いやった。
「そう言えば、三年は、進路希望調査があったらしいですね」
ユウトは、会話の切れ間に乗じて何となく話題を振る。これからお邪魔する相手も三年ということなので。
「よく知ってるね。提出期限は今週の金曜だけどね」
アサミは、振り返らず真っ直ぐ前を向いたまま答えた。
「今から届けるもので、一番重要なのがそれだよ」
二人はすぐに商店街を抜け、普通の住宅街に入る。区内の他の場所と比べると、戸建ての中に集合住宅のある割合が高い。
「もうすぐだよ」
アサミがアナウンスすると、ユウトが控えめに発言する。
「今さらなんですけど……」
「何? 今さら帰るとか言わないよね? もう着くからね」
「いや、そうじゃなくて。初対面の僕がいきなり自宅について行くっていうのは、どうなのかなあと」
普通に考えて、オマエ誰だよ的な状況にならないだろうか? というか、そもそも何と説明すれば良いのか。弟の友達です? 弟の友達がいったいどういう経緯で来るんだ?
ユウトは、別に不安を感じているわけでも、行きたくないわけでもないが、純粋に疑問に思えてきた。
それに対し、アサミもまったく心配する様子を見せずに答える。
「それは多分大丈夫だよ。初対面だけど、ユウト君のことは話したこともあるし。それに、予想外の出来事が起きても動じないタイプだし」
「そうなんですか」
ユウトは、アサミの口調にかなり強い確信が込められていると思ったので、それを素直に受け入れた。代わりに、今さらながら一番基本的な情報を求める。
「ところで、その先輩、名前はなんて言うんですか?」
まだ、隣のクラスの男子としか聞いていない。名前を知ったところでどうというわけでもないが、知っておくのは一種のマナーのような気がしたりもする。
「そう言えば、まだ教えてなかったね。イツキだよ。
アサミは立ち止まった。そして、視線を少し高めにとる。
「そんでもって、目的地到着」
そこには二階建てのアパートが建っていた。上下四部屋ずつ、計八部屋。二階へは、外階段で直接上がる構造だ。
アサミは、階段を上がっていく。
「二階の角部屋ね。201号室」
ユウトも後ろをついて上がっていく。
「起きてるかなあ」
「あれ、連絡してないんですか?」
ユウトはポツリと返す。
すると、アサミはピタリと立ち止まる。ユウトは、アサミにぶつかりそうになる。
「階段の途中で立ち止まらないでくださいよ。連絡してなくても、もう来ちゃったんだから今さら関係ありませんよ」
ユウトは、アサミが小さな理由を見つけて尻込みしているのだろうと思い、少し強引に押し切るように言った。いつでも勢いで押し切っていくタイプに見られがちだが、意外と思い切りの悪い所があるということをユウトは把握していた。
しかし、今回は様子が違った。アサミはゆっくり振り返る。喜怒哀楽の読めない表情で言う。
「そうじゃなくて……」
「どうしたんですか?」
ユウトはアサミの感情がよく分からなくて、やや丁寧な口調で聞き返す。
「私、メアドも知らないんだった」
「昨日今日の付き合いじゃないって……」
「私、あんまりメール好きじゃないから、ほとんど家族以外とやりとりすることないんだよね。でも、メアドすら知らないとは……」
アサミは、地味にショックを受けているようだった。派手なリアクションを取らないのが、むしろダメージの大きさを表している。
「じゃあ、とりあえず会ったらメアドを聞きましょう。それで万事解決ですよ」
ユウトが促すと、アサミはとぼとぼと緩慢な足取りで進んでいく。まるで、かかる重力が倍加したかのようだ。
「はい、目的地到着ですね」
201号室。アサミは増大した重力から解放されない。
「はい、呼び鈴押しましょうね」
ユウトは、自分で手を伸ばせば届く距離にいたが、アサミが押すのを待った。アサミは腕を持ち上げ、人差し指を突き出し、音符マークに近づけていった。
しかし、距離が近づくほどに速度は落ちる。戻ることはなかったが、限りなくゼロに近づいていく。
(ここまで来て、テンション落ち過ぎでしょ……。買い物したんだから、今さら出直すわけにもいかないしなあ)
進まない数ミリを埋めるため、ユウトは何かを言おうとする。しかし、その瞬間、人の気配を感じる。
「おう、アサミじゃないか」
ユウトは驚いて周囲を見渡す。しかし、声の主は見当たらない……と思ったら、扉の横の格子付きの窓の隙間から覗く視線と目が合った。暗がりの中からこちらをジロリと眺めている。
(ヒィッ!)
思いのほか至近距離で見つめられていて、ユウトは声が出そうになる。
アサミも振り返るが、特に驚いた様子はない。
「イツキ……」
窓の向こうからの視線は、一旦アサミに向けられるが、すぐにユウトに戻っていく。
「後ろのやつは誰だ?」
ユウトは、動きが硬くなる。突然の来訪に対し苛立つような様子はないが、初対面の上級生からこれだけ真っ直ぐ見つめられると、かなりのプレッシャーを感じてしまう。
「こちらは、うちの高校の一年生の七津ユウト君」
「ユウト君……」
「ほら、前に話したことあるじゃん」
「……おお、ユウト君か。ユウト君ね。確かに、ユウト君だ」
「いや、初対面でしょ?」
「そうだな。でも、いかにもユウト君って顔をしているからな。ユウト君に違いあるまい」
寝起きのような淡々とした口調で、ユウトはユウトと認められる。
「どうも、七津ユウトです」
ユウトは控えめな口調で名乗って、そのまま会釈する。顔を上げると、窓の隙間に人はいなかった。
「立ち話もなんだ。とりあえず上がれ」
ドアが開き、背の高い男が、その口調に負けず劣らず眠そうな表情で立っていた。
「寝てた? 体調どう?」
「さっきまで寝てた。体調は……まあ、ボチボチって感じだな」
上下スウェット姿のイツキは、ドアを大きく開いて二人が通る道をあける。
「じゃ、じゃあ、お邪魔しまあす」
アサミが身を縮めるように中に入る。ユウトもそれに続く。イツキは、ユウトの両手のビニール袋を凝視するが、何も言わない。
間取りは1DK。狭い玄関は、板の間のダイニングキッチンとの間に境もなく、小振りなシステムキッチンの真横に位置している。流しの前には窓があり、イツキはそこから外を見ていたようだ。
ダイニングキッチンは、そのままカーペットの敷かれた奥の部屋につながっている。
ユウトは、とりあえず両手に持っていたものを置かせてもらう。その横で、アサミは次の行動を決めあぐねている。
ユウトはヒソヒソ声でアサミに話しかける。
「アサミさん、とりあえず忘れないうちに聞いておいた方が良いんじゃないですか?」
「え、何の話?」
「メアド」
「ああ」
アサミは、イツキの方に向き直る。
「連絡もなくいきなり来ちゃってゴメンね。私、イツキのメアド知らなくて……」
イツキはスウェットのポケットに両手を突っ込んで立っている。表情はほとんど変化しない。
「できれば教えてもらえるといいなあ……なんて」
ユウトは、アサミがもっと手間取ることを予想していたが、案外普通に自然な流れで聞いていることに驚く。
(ここまでストレートに聞かれたら、問題なくすんなりメアドゲットのはず)
しかし、イツキの返答は、ユウトの予想の上を行くものだった。
「教えたい気持ちは山々なんだが、残念だったな」
「「え……」」
アサミにも予想外だったようで、ユウトと同じ反応をしてしまう。そして、イツキはそんな二人の反応にも全く動じる様子はない。
(こ、この人……どういう神経をしているんだ?)
ユウトには、イツキの真意が全く読めない。この状況で断るなんてことがあるのか?
「あ、いや、教えたくないならいいよ、別に……」
アサミは、普通の口調を心がけているようだが、もちろんショックのはずだろう。
それに対し、相変わらず同じ調子のイツキが答える。
「教えたくないわけじゃない」
「?」
「むしろ、教えたい」
「は? じゃあ、教えてよ」
「教えない」
「アンタ、喧嘩売ってんの?」
「落ち着け。俺は悪くない」
ユウトもアサミも意味が分からず互いに顔を見合わす。
「聞いて驚くなよ?」
イツキは、ほんの少しだけ深刻そうな顔をする。
「驚かないから、さっさと言いなさいよ」
アサミもつられて少し心配そうな表情になる。
「実は……」
ゴクリ――。
「俺は、ケータイを持ってないんだよおー!!」
イツキは、妙なイントネーションで拳を突き上げた。
「なら最初からそう言えっ!!」
アサミはすかさずツッコミを入れる。なお、半分くらいは本気である。
「ていうか、本当にケータイ持ってないの?」
「持ってないんだなあ、これが」
ユウトは、部屋の中を見る。固定電話があるようにも見えない。
「
イツキが言う。
「学校の連絡網はどうしてるんですか?」
ユウトは疑問を素直に口にする。
「さあな。どこかよく分からない所に通じてるんじゃないのか?」
よく分からない所って……。それはもはや連絡網の体を成していないというか。
「アンタ、どうやって連絡とってるのよ」
「基本的に連絡はとらない主義なんだ」
アサミとユウトは、得体の知れない不思議な生き物を見つめるような視線をイツキに向ける。しかし、イツキは気にせず平然としている。
「ま、どうしても必要なときはパソコンだな。ほとんど開かないが……」
ユウトは、会話をするイツキの興味が何かに移ったのに気がついた。
「ところで、その袋は?」
ユウトの近くにあったので、ユウトとイツキの視線が合う。しかし、ユウトは何も言わず、隣のアサミの方を見る。すると、イツキもそれを追尾するようにアサミの方を見た。
「えと……まともなもの食べてないんじゃないかと思って、食事でもつくってあげようかと」
アサミは、視線を落とし恥ずかしそうに言う。ユウトは、その消え入りそうな声を聞きながら、妙に微笑ましい心地になる。そんな穏やかな気持ちのまま何となく視線を移動させると―――目をカッと見開いているイツキが……。
「!?」
それまでの眠たげな様子のイツキとのギャップが大き過ぎて、ユウトは目を
(気のせい……か?)
すべてはほんの一瞬の出来事……だったのか、錯覚だったのかはよく分からない。ただ、現時点で、アサミもイツキも特に変わった様子は見られない。
「飯をつくってくれるのか。それは凄くありがたい」
イツキは真っ直ぐアサミを見つめ、心の底から滲み出るような感謝の言葉を述べる。
「あ、あんまり期待しちゃダメだよ」
アサミは、あまりに素直に言われて直視できず、視線をそらしてスーパーの袋をガサゴソと漁り出した。
「台所借りるからね」
「ああ、好きにやってくれ」
「イツキは、向こうで休んでて。随分回復したみたいだけど、油断は禁物だから」
「……そうだな。まだまだ本調子じゃないから、楽しみに待ってるわ」
そう言うと、壁に背を預けていたイツキは、奥の部屋に行ってしまう。キッチンを前に、アサミとユウトが二人で立っている状態になる。アサミは、いつの間にかエプロンをして腕捲りをしていた。
「さてと、ユウト君、準備は良い?」
「全然良くないです。というか、やっぱり僕は帰るべきという気がしてきました」
「なんでそうなるの!?」
「なんでって言う方が、なんでって感じですよ。この状況、どう考えても僕は邪魔でしょ?」
「いやいやいや、必要だから連れて来たんだよ!」
「荷物持ちとしての任務は全うしました」
「それは冗談だって。そんなこと根に持っちゃダメだよ」
「アサミさん、料理できるんですよね?」
「え……うん、まあ……たぶんね。でも、助手がいた方がより安全かなあ、と」
アサミは明らかに怯んでいる。自信のない様子がだだ漏れである。
ユウトは、それをじーっと見る。
「それにそれに! 買い物、三人分しちゃったし! 二人じゃ流石に多いよ」
ユウトは少しだけ何かを考えると、静かに答えた。
「分かりました。帰るのは食べてからにしましょう。でも、料理するのはアサミさん一人です」
「なぜだっ!?」
「ちょっと想像してくださいよ。ただの後輩とは言え、高校生の男女が一緒に台所に立って料理するっていうのはどうなんですかね。それをイツキさんの家でするって……」
「むー。確かに、そう言われると、あんまり好ましい状況ではない気もしてくる」
「というわけで、僕は戦線離脱しますので」
ユウトは、そのあとのアサミの制止は聞こえないフリをしてキッチンを離れる。
エプロン姿、準備万端で一人取り残されるアサミ。目の前には戦いのリング。食材も十分。あとは、己の気持ち一つである。
(も、もう、これは一人でやるしかない。大丈夫、やればどうにかなる!!)
アサミは自らに気合を注入し、とりあえず
「こっちに来て座ってろよ」
台所から離れたものの、どこで待機するべきか決めかねていたユウトに、イツキが声をかける。
イツキは、奥の部屋のベッドに背を預け、カーペットに座っていた。その前には、楕円形の座卓が置かれている。
「ありがとうございます」
ユウトも奥の部屋に入る。恐らくこちらが西寄りなのだろう。夕日になる一歩手前の太陽の放つ光が、奥の窓から差し込んでいる。そのせいで、キッチンより明るく、照明を灯さなくても大丈夫だった。
ユウトは、窓に近い側に腰を下ろす。すると、台所に立つアサミの後ろ姿がよく見えた。イツキの座っている位置からも、ギリギリ見えているはずだ。
アサミは包丁で何かを切っているようだが、テンポが不規則で、しかも一撃に力が込められ過ぎている感じがする。ユウトは、何も見なかったことにする。
「今日はわざわざご苦労だったな、ユウト君」
「いえ、むしろ初対面なのにいきなり上がり込んでしまって……」
「まあ、どうせアサミに巻き込まれたんだろ?」
「そんなところですね」
ユウトは、ここまでの経緯を思い出しながら苦笑する。同時に、目の前の人が、しっかり状況を察してくれるタイプなのだと分かって安心する。
「身体の具合はどうですか?」
「ボチボチだな。もうすぐ回復の見込みだ」
「そうですか。ところで、風邪ですか?」
ユウトは尋ねておきながら、イツキが全然咳き込む様子がないことに気付いた。
「違うな。風邪じゃない」
「熱が出た感じですかね?」
これまた、ユウトは尋ねておきながら、イツキが熱っぽい感じでないことに気付いた。むしろ、体温は低そうだ。
「生きてるからな、人並みに熱はある。でも、それは特に問題ない」
「…………」
それなら何が問題なんですか? ―――ユウトは、まさに口から飛び出ようとしていた台詞を飲み込む。なぜか、言ってはいけないような気配を感じたのだ。
「とりあえず、お大事にしてください」
「ありがとう」
そうして、しばらく、独特の間を挟みながら二人の会話は続いていった。なお、目の前に実際に完成品が並べられるまで、異音と悲鳴のBGMが発せられる台所について触れられることは、決してなかったのだった。
「できたっ!」
キッチンから、試合終了のゴングの代わりに、アサミの声が聞こえてきた。盛り付けも済んで、あとは持ってくるだけ。
ユウトは、途中でヘルプのため召喚される可能性も考えていたが、結局アサミは一人で戦いきった。自信はなさそうだったが、この状況で見せた根性に、心からおめでとうと言いたい。
目の前に舞い降りる完成品。
「……………」
ユウトとイツキは、まったく表情を変えず、それを観察した。
食材は、野菜と肉であると推測される。野菜は、少々焦げている部分も見られるが、炭になっているわけではないので問題ないだろう。それに普通にトロミがついているのだが、野菜がほとんど形象崩壊している点が一つの謎だった。野菜的な何かだが、すべて具体的に列挙せよという問いがあれば、かなりの難易度となる。一晩じっくりというわけでもないこの短時間で、野菜たちの身に何が起きたのか。
続けて、無難なサイドメニューと白米とコップと食器が置かれ、舞台に役者は揃う。
豪快さ溢れるそれらは、男の手料理の風格を漂わせていた。
「アサミさんらしい力作ですね」
アサミはエプロンをつけたまま腰を下ろす。楕円形の座卓を囲んで、三人がほぼ等間隔で座っている。
「え? あ、味は保証しないけどね!」
アサミは、戦いの余韻がまだ抜けていないようだった。
(別に、誉めているわけではないんですけど……まあ、いいや)
三人で声をあわせて「いただきまーす」と言うと、さっそく全員が箸を伸ばした。
ユウトも、少し警戒しつつ、それを口に運ぶ。
(うーん……。まあ、思ったより問題ないかな。ご飯のおかずだし、ギリギリセーフと言えなくもない)
美味しいに越したことはないが、極端に味にうるさいたちでもないので、ユウトは普通に箸を進めていく。そして、肝心の二人の反応を観察する。
一番重要なのは、やはりイツキの反応―――。
(めっちゃ勢いよく食っとる!!)
イツキは、実に美味しそうに食べていた。箸は決して止まることがなく、目の前の皿からみるみる料理が減っていく。料理の感想は言わないが、その様子を見れば伝わってくるものがあった。
アサミは、そんなイツキに気を取られ、ほとんど箸が止まっていた。驚きと感動が入り混じったような表情だ。これだけよく食べてくれたら、確かにつくった者としては嬉しいに決まっている。
(良かったですね、アサミさん……)
ユウトは、何だか一緒に感動したくなってきた。じんわりとくる良いシーンである。
「まだ、おかわりあるから。よそろうか?」
「頼む」
(はやっ!)
アサミは、イツキの皿を持って台所に向かう。
イツキは、本当に凄い食欲だった。病み上がりとは思えないほどに。
「それだけ食欲があったら、すぐに全快しますね」
「ああ。というか、もうほとんど全快した」
(ん……?)
ユウトは、イツキの言葉に、小さな違和感を持った。そして、それは先程会話の中でも感じたような気がする。
「ほぼ全快ですか?」
「バッチリだ」
食事をしたその瞬間に回復したと。これは、まさか……。
「イツキさん。一つ聞いていいですか?」
「なんだ? 遠慮はいらないぞ」
「イツキさんの欠席の理由って、もしかして、単に腹が……」
ゲフンッ!
イツキは、わざとらしい咳をする。というか、どう考えてもわざとである。
「ユウト君、ちょい待て……。一応先輩ということになるから、これだけは言っておきたいんだけどな。あれだ……」
ユウトは、イツキから受けるプレッシャーが急上昇するのを感じた。
「察しの良いやつは、消されるぞ?」
「は、はい。肝に銘じておきます……」
ちょうどそのタイミングで、アサミが戻ってきた。
「なになに、二人ともどうしたの?」
アサミはまだまだハッピーな感じだった。ユウトは、とりあえず
結局、物凄く他愛のない会話を挟みながら、アサミのつくった料理はすべて平らげられた。そして、当然のことながら、アサミは終始ニコニコ顔だった。ユウトは、そんな様子を興味深く眺めていた。
アサミは表情がコロコロよく変わるタイプで、楽しそうにしていることが多いので、笑顔は見慣れているはずだった。でも、今日の笑顔は、今まで見てきたものとは全然違うなあと、ユウトは思った。
ユウトは食べ終わった頃合いを見計らって立ち上がる。
「流石に片付けくらいは僕がやりましょうかね。一番下っ端ですし」
「えー、いいよ。私、やるよ?」
「アサミさん、今日来た最大の目的は?」
「食事をつくるため?」
「違うでしょ。ほら」
「ああ! そうだね、すっかり忘れてた。グッジョブ!」
アサミは、部屋の隅に置いておいた鞄を引き寄せる。そして、中からクリアファイルを取り出した。隣のクラスから預かってきた配布物だ。
ユウトは横目で見ながら、皿を片付けていく。
「はい、これ。隣のクラスから預かってきたやつ。で、まずこれが、先週金曜の分だってさ」
アサミは、伝言の書かれたメモを見ながら説明していく。
ユウトは、蛇口をひねり、手際よく洗っていく。背後の会話は普通に聞こえた。広い家ではないし、隔てるものもないので、声をひそめない限りはほぼ問題なく聞こえてくるようだ。
「で、こっちが今日の分。たぶん、大体は見れば分かると思うけど……」
イツキは、アサミの説明を黙って聞いているようだった。
「それで、一番大事なのがこれ。進路希望調査。提出期限は今週金曜厳守。出さなきゃ呼び出すってさ」
「よし、人間と書いておこう」
「あ、出しても、書いてることがあまりにひどいと呼び出しだって」
「よし、人間(←超強い)と書いておこう」
「話聞いてる?」
「分かった。進路希望なんだから、とりあえず、お花屋さんと書けばいいんだな。お花屋さん(←超強い)と」
「どんな花屋だ!」
「人間を丸飲みするような巨大な食虫植物を自在に扱う、花屋の中の花屋だ。それを買った客は例外なく餌食となるわけだが」
「客食ったら商売にならないでしょ!」
「大丈夫だ。財布は残るから、経営的に問題ない。客がいなくなるから、クレームも来ないしな」
「なわけあるか! 警察が飛んでくるわ!」
ユウトは、背後の会話に対し反射的にツッコミを入れそうになるが、どうにか目の前の皿に意識を集中し、それを抑えていた。
(す、凄い……。ボケがツッコミを遥かに凌駕している。そして、本題から完全にズレている)
ユウトは、イツキの底知れぬ脱線トークテクに、ただただ驚愕するばかりだった。しかも、まだ続ける気のようだった。
「お前、そういう凶暴な生命体が好みだと思ったんだけどなあ」
「いや、確かにカッコイイのは好きだけど、食虫植物は何か違うでしょ?」
「丸飲みとか、最高にクールじゃないか」
「その感性はハイレベル過ぎて分からんわ」
「そうか。残念だな」
イツキは、実際に残念そうな口調で言う。
「ていうか、私の好みとか関係ないでしょ?」
「……まあ、それもそうだな」
ユウトは皿洗いを終えた。タオルで手を拭きながら、どうしようかと思っていたが、ちょうどイツキと目が合ったので、座卓に戻ることにした。
「お疲れ」
イツキがユウトを
「いえ……」
ユウトは、会話を妨げないように控えめに答えた。
「とりあえず、何か適当に書いて金曜までに出せばいいわけだな」
「適当はダメだよ」
「分かってるって」
先程までのボケとツッコミの応酬から一転、何だか会話のテンポが重たくなってくる。数秒間の沈黙。
誰が最初に口を開くのかと思っていたら、アサミが喋り出した。
「イツキは、実際、進路はどうするつもりなの?」
その口調から、真剣な回答を要求しているのは明らかだった。
「だから……」
イツキは、その真意に気付かないフリをして返そうとする。もとが抑揚の少ない喋り方なので、その違いは本当に微かなものだが、わずかなフレーズにも滲み出ている。
対するアサミの反応は早かった。
「ふざけるのはナシだよ。真面目な話ね」
アサミが先手を打ったので、イツキは一旦口をつぐんだ。しかし、すぐに体勢を立て直す。精一杯の誠意をもって答える。
「真面目な話、金曜まで考えたい……かな」
「そう……」
アサミにも、ここから追及して得るものがないことは分かる。よって、ただ静かに消沈するだけ。
一方、やりとりを黙って見ていたユウトは、ようやく合点が行く。
アサミが今日ここに来た理由は、単にイツキの家に上がり込んで親交を深めたかったからではなかったのだ。そして、当然のことながら、料理の助手を求めていたわけでもない。
そもそも、それなら最初にケイゴを連れて行こうとはしない。ケイゴに料理スキルがあるという話は聞いたことがないし、冷静に考えて、並の高校生より遥かに腕の立つユウトに、真っ先に白羽の矢が立つに決まっているのだ。
だからこそ、ユウトはどこか釈然としないところがあったのだが、つまりは、この問いをぶつけるのに、一人では心細かったのだ。しかし、聞かないわけにはいかなかった。
ならば、ケイゴの代打に自分が選ばれるという一連の流れは、十分に納得できる。
(ま、全部憶測のような気がするけれど、スッキリしたから良いか)
アサミは、そのまま黙りこくってしまいそうになるが、そこはイツキがうまく繋げてくる。
「お前も、ちゃんと考えて書けよ」
「アンタには言われたくないわ」
こうなると、アサミも反射的に答えざるを得ない。
しかし、その後は続かなかった。会話はプツリと途切れてしまう。イツキは顔色一つ変えず構えていたが、アサミは少し気まずそうに、すでに片付いている座卓を見ていた。ユウトもこの流れは厳しく、黙って様子を窺っている。
(もう山場を越えただろう。そろそろお暇しよう)
進路希望調査の話題が、恐らくは本日最大のテーマ。そして、それについては一定の結論は出たわけだ。だったら、あとは撤退を考えても良い頃合いだろう。
アサミは何のアクションも起こそうとしない。しょうがないので、ユウトが空気を読む。
「えー、僕はそろそろ帰ろうかと……」
「帰るの? だったら私も。病み上がりに長居するのも悪いし」
アサミは、この状態で二人きりにされては敵わんとばかりに、焦って帰りの身支度を始めようとする。何となくユウトが予想していた流れ。
「イツキ、私たちはこれで帰るけど大丈夫? ゆっくり休んでね」
アサミは、無反応のイツキに、一応の確認を取ろうと話しかける。
しかし、イツキは、頷く代わりに短く言った。
「まあ待て」
学生鞄を手に立ち上がろうとしていたアサミは、半端な姿勢のまま振り向いた。
「まだ何か用事とかあった?」
すでに帰る準備を整えたユウトは、立ったまま状況を見届ける。
「言っておかなければならないことがあってだな」
「?」
アサミは思い当る節がないようで、不思議そうな顔をする。アサミに分からないので当たり前だが、ユウトにも全然分からない。
「この真面目な俺が、欠席という苦渋の決断をしなければならなくなった理由。そこに至るストーリーだ」
「なんで風邪を引いたかってこと?」
「聞けばすべて明らかになる」
アサミは逡巡するが、とりあえず再び腰を下ろした。欠席の理由なんてものが、わざわざ引き止めるほどのものなのかは甚だ疑問であるが、そもそもイツキがこのような形で人を引き止めること自体珍しいので、興味は湧く。
ユウトは立ったままどうしようか考えたが、遠慮なく帰ろうという結論に至る。
「それでは、僕はお先に……」
「ちょっと待ったぁ!」
アサミが素早くユウトの鞄を掴む。
「どうかしましたか?」
「なぜ私をおいて行こうとする?」
「なぜって……何か問題あるんですか?」
ユウトは、デジャヴのような感覚を得る。今日は似たようなやり取りを繰り返しているような気が……。
「あるよ! 大ありだよ!」
やっぱり。
「理由を簡潔に述べてください」
「危険な香りを感じる」
「論理的に分かりやすくお願いします」
「いや、ほら! 漂ってるじゃん。ふわふわふわ~って。危険な香りが満ち満ちてるの、分からない? これ、絶対ヤバいやつだから!」
アサミは室内の、特にイツキ周辺に漂う危険な香りの微粒子を指で追う。とにかく漂いまくっていると主張したいらしい。
「全然意味が分からないんですけれど、それって、僕を道連れにしたいってことですか?」
ユウトには、アサミが感じているかもしれない危険性は分からない。
(というか、危険な香りとは何だ? イツキさんは良くも悪くもずっと同じ調子だし、この前振りも、さっきのメアドのくだりと同じ感じだと思うんだけど。ただ無駄に煽っているだけじゃ……)
ケイゴ曰く、アサミは、危機察知能力が低いらしい。そのせいで、厄介事に巻き込まれやすく、弟としては心配に思うところもあると言っていた。
そう言われると、確かに思い当たる節はある。そして、ケイゴは、多くの場面で確かに姉よりも高い危機察知能力を発揮する。不思議なのは、それにも関わらず全然回避できていない点だが、これはまた別の機会に考えよう。
そんなわけで、あんまりアサミの危機感を真に受ける気にもならないわけだが……。
「ユウト君……」
イツキがユウトの名を呼ぶ。ユウトとアサミは、イツキに注目する。
「ユウト君も聞いていってくれるとありがたい。どのみち、アサミを通して伝えてもらおうと思っていたしな」
「え、僕にですか?」
正直、予想外の展開だった。接点皆無というわけではなかったようだが、それでも本日初対面の相手からこのようなことを言われるとは、思ってもみなかった。
「わ、分かりました」
イツキから直接言われてしまっては、さすがにユウトも話を聞かざるを得ない。
ユウトは再び腰を下ろした。イツキという人物をいまいち把握できないので、次にどのような手を打たれるのか想像できず、どこか落ち着かない気持ちになってくる。
「先日、久々にパソコンをつけたんだが……」
(始まったのか!? いきなりだなあ)
イツキは予備動作もなくいきなり語り始めた。ユウトとアサミは黙って聞くことにする。
「ネットサーフィンをしてたら、何やら割の良い仕事を見つけて応募したんだ。メモギ区で働けて、しかもそれにしては給料がナイス。びっくりするほど高いというわけでもないが。
それで、実際に仕事をしたわけだ。熱心に一切の妥協を許さず、己の職務を全うしたわけだ。しかし、何故かその後連絡が途絶えてしまった。
その時点で改めて考えてみると、確かに少しおかしな所が見受けられたのも事実だ。事前に詳細な指示は受けていたものの、結局、雇い主とは会っていないしな」
話が一旦途切れたので、アサミが尋ねた。
「で、その何やら怪しい仕事をするために学校を休んだと?」
「いや、それは違う。連休中のことだから、仕事は学校と被っていない。直接的な原因は、そのあとの恐怖体験によるものだ」
ごくり。イツキの深刻そうな語りに固唾を飲むアサミ。
「恐るべきことに、給料が全く振り込まれなかった……」
イツキは、そう言った瞬間、顔面蒼白で俯く。この世の終わりを見たみたいなその表情の方がむしろ怖かった。
しかし、給料が振り込まれないと、なぜ学校を休むことになるのか?
「俺は金欠だった。というか、金欠だから仕事をしたわけだ。にもかかわらず振り込まれない給料。俺はこのとき、緩やかな死を覚悟した。しかし、それでも省エネモードに切り替えることで、この難局を何とか乗り切れる可能性にかけた。そして、限界に達しようとしたとき、カモがネギ背負ってやってきたわけだ」
「ということは、アンタの欠席の原因は、もしかして……」
イツキは、眉間に力を込めた真顔のまま、やたらとコミカルな声で答える。
「お腹が減って、力が出ないナリー」
「アタシの感動を返せえええぇぇぇぇ!!!!!!!!」
立ち上がり武力行使の体勢に移ろうとするアサミをユウトが必死に押さえる。座卓を挟んでいるイツキは意に介さず話を続けた。
「生命の危機を脱した今、少なくとも働いた分の給料だけはいただきたい」
アサミを後ろから押さえるユウトを見るイツキ。
「ユウト君は、なかなか面白い人間と繋がりがあるそうじゃないか。なんとか話を通してもらえないものか」
ユウトは、ようやく話が繋がってきたなと思った。そして同時に、峰矢イツキなる人物の見事な他力本願っぷりも分かってきた。むしろ、誰も来なかったらどうするつもりだったのか。
「とりあえず、もう少し詳しく話を聞かせてもらいたいんですが……」
ユウトとしては、この状況で先輩の話を無下にできるわけもなく、そう答えざるを得なかった。
それを聞いたイツキは、一瞬ニヤリとする。してやったり、という顔だ。
(ヤバい。これは何か
ほとんど思いつきで行動しているように見えていたので油断したが、もしかすると食わせ者なのかもしれない。ユウトがそんなことを思ったときには、イツキによる詳細な経緯説明がスタートしていた。
*
五月最初の日曜日は、土曜に授業のないカノハ高校の生徒にとっては、五連休の二日目にあたった。
怠惰に生きながらも苦しい経済状況を直視せざるを得ない窮地に追いやられつつあったイツキは、この日になってようやく自分から行動を起こした。すなわち、久々にパソコンを起動したのである。
パスワード入力ではじかれ、首をかしげながらモチベーションは下がり続け、あと少しでログインする前にシャットダウンするところだったが、すんでのところで記憶がよみがえり自分のパソコンへの侵入に成功する。
しばらくは、やる気の乏しい視線を、職探しのために開かれたページに走らせていく。いまいち意欲の上がらない複数の候補を妥協の末に並べつつ、そろそろ決断せねばならないと思っていたところで、運命のリンクをクリックすることになる。
その“仕事”は、静かな危機感を抱えたイツキには大変魅力的に見えた。
専門的な技能を要求されない仕事なのに割高な給料。不思議に思ったが、「カノハ高校に通う生徒」という条件があり、これが強い制約になっているせいだと考えられた。しかし、むしろイツキにとっては、働き口の少ないメモギ区で働けるありがたい案件だった。
具体的な仕事内容は問い合わせるように書いてあるが、少なくとも掲載されている概要を見る限りでは、激しい肉体労働を求めるものでもなければ、何らかの危険な作業に従事させられるわけでもなさそうだ。
イツキは、必要事項を記入して応募のメールを送信した。そして、せっかくパソコンをつけたので、適当にネットを見ていたら、すぐにメールが返ってきた。
仕事内容に関するより詳細な情報と注意事項が記載されていた。そもそも短期的なものであるため、ハードルが高いということもない。やり取りをし、さっそく明日から連休最終日まで三日連続で働くことに決まった。
翌日イツキは、メモギ中央駅の横を抜けて、東側のエリアに向かう。普段の月曜日であれば、区外へ向かう通勤客で混みあうわけだが、祝日なので人の姿はまばらだった。
駅の東側のエリアは、何の変哲もない住宅地の広がる西側とは、少々趣が異なる。
ヒビカ三大図書館の一つに挙げられるメモギ図書館――メモギ区民は、大図書館と呼ぶことが多い――を中心に、いくつもの文化施設が密集している。また、メモギ中央駅付近から引き込まれている貨物ターミナルもあり、いくつもの倉庫や規模の小さな工場も多く見られる。
東側には、西側のような普通の住宅街はない。加えて、特色ある施設が存在感を発揮していることもあり、結果としてかなり特徴的なエリアとなっている。
そして、運河を挟んでさらに東側に、主要五区の一つであるドゥープニ区が隣接しているため、そこから滲みでる異様さが、いつの間にか染み込んでいるようにも感じられる。ドゥープニ区は、メモギ区との間で直接の往来はほとんどない状況だが、やはりその存在感はヒビカ随一である。
イツキは、指定された建物を見つける。二階建てで、プレハブよりはしっかりしているが、鉄筋コンクリートよりは弱そうな感じの建物だった。
当然周囲に住宅はない。誰が何をしているのか分からない建物が並ぶ地区で、同様によく分からないこの建物が目的地であるようだった。色の抜けた看板の文字は読むことができない。
イツキは建物全体を眺め、時間を確認して中に入っていく。
誰とも会わなかった。というより、人の気配がなかった。前日のメールのやり取りで「全員外に出ているかもしれないから、ノックしても反応がなければそのまま中に入って良い」と伝えられていたので、イツキは指定された部屋に入っていった。
やはり誰もいない。大して広くない部屋は、パーティションで区切られており、奥のスペースには壁に向かう形で机と棚が並んでいる。
パーティションの手前にも長机があり、そこに書き置きがあった。手書きで大きく「峰矢様」と書き加えられている。
書き置きには、すでに伝えられている注意事項と本日の仕事内容が書かれていた。裏面には、近隣の街路を示した地図もプリントされていた。
書き置きの横には、畳まれた衣類が置かれていた。イツキはそれを手に取る。黒いローブと同じく黒いネックウォーマーだった。
イツキはネックウォーマーをつけてから、ローブを着た。ネックウォーマーは薄手だったが、季節外れには違いなかった。しかし、鼻まで隠れる状態にするよう指定されていた。ローブについては、フードを深く被って、できるだけ相手に目が見えないようにするよう指定されている。
イツキは壁にある鏡で自分の姿を確認する。少しフードを引きあげてようやく視界が確保される。それ以外は全身が真っ黒である。人通りの多い所であれば、間違いなく不審者として警察に声をかけられるだろうと思った。
イツキは、その格好のまま、書き置きを手に部屋を出た。
地図に書いてある地点に到着する。狭くて見るからに人の通らなさそうな道だった。建物の壁が迫っており、見通しは悪い。
仕事の内容は、その路地の指定箇所に待機し、声をかけられたら道を教えるというものだ。勤務時間中は必ずフードを深く被り声をかけられるのを待ち続けること、絶対にその場を離れてはいけないこと、相手とは道を教えるということ以外にやり取りをしてはいけないことが事前に強調されていた。
イツキは仕事を開始する。とは言っても、何もせずただひたすら待機しているだけだ。恐ろしくつまらない時間だが、指示を破った場合、給料の減額もあり得るということだったので、とにかく律儀に待機した。
フードを深く被っているので、自分の近くの地面しか見えない。例えば、雇い主がどこかから見ていたとしても、近づいてきてくれない限り気付くことは厳しい状況だった。イツキは、そんなことを少しだけ考えたが、すぐに余計なことは考えないで心を無にしようと思った。相手は現れない。
日が射すと、全身真っ黒の格好なので少し暑い。幸い指定されている場所が青々と葉をつけた木の下だったので、それほど深刻ではなかったが、樹木の影の中に囚われているような感覚を覚えた。
究極に退屈な時間が経過するにつれ、イツキはこの仕事の過酷さを痛感し始める。ただ、そのたびに未来の食卓を思い描いて耐えしのいだ。己の生存のためにも、この仕事は完全にやり遂げなくてはいけなかった。
しかし、給料分しっかり働こうと割り切って考えてみると、今度は途端にラクになる。むしろ日頃からボーっとするのは得意だし、実は天職なのではないかとさえ思えてきた。切り替えは重要である。
すると、人が近づいてくる気配がした。イツキは一応姿勢を正した。
「あの……道案内の人ですか?」
話しかけてきた声は、何とも頼りない印象だった。相手の足元がギリギリ視界に入るくらいだったが、声の聞こえる方向から、自分より身長が低い人間であることは分かった。
「そうです」
イツキは、事前に指示されていた通りに道案内した。もっとも、イツキには、その先に何があるのか一切知らされていなかったのだが。
相手は、黙ってイツキの説明を聞き「分かりました」とだけ言って立ち去った。何の質問もされることはなく、やり取りは最小限。路地はまた人の気配がなくなる。
その日は、仕事が終わる夕方までの間に、結局あと二人しか現れなかった。やり取りはすべて同じで、どれも一瞬で済んだ。それ以外は、ただ待機しているだけ。
イツキは時間を確認してから、その場を離れる。
部屋に戻ると、そこは相変わらず誰もいなかった。イツキは、ローブとネックウォーマーを長机の上に置いて建物を出た。
仕事の二日目も基本的に同じ流れだった。やはり部屋には誰もおらず、畳み直されたローブとネックウォーマーと書き置きがあった。一日目と同じように、ひたすら待機し、時々道案内をした。余計なやり取りは一切しなかった。
この日も現れたのは三人だった。仕事を終えて部屋に戻りながら、イツキは、この二日間で現れた相手が全員高校生だと思えてきた。足元しか見ていないので、顔は分からないが、それでも大人はいなかった気がした。
「前と違う人ですね」
それは、三日目の最初の相手に言われた。
この日も無人の部屋を経て、それまでと同じようにつつがなく行動してきたが、通算七人目にして、ついにイレギュラーが現れた。
イツキは、反射的に顔を上げてしまう。視界に相手の顔が入る。その相手は、顔の大部分を覆う大きなマスクと帽子をつけていた。目が合う。
イツキは、すぐにハッとして面を下げた。ネックウォーマーはしっかりつけているので、目元以外は見られていないはずだが、それでも禁止事項に違いはない。
結局、イツキは言いつけを律儀に守り、相手の問いかけには対応しなかった。事務的に道案内のみする。相手もさらに余計な話はしてこなかった。
人の気配が消えた路地で、イツキは考えた。
(せっかくだし、少し話を聞いとけば良かったかもな……)
仕事とはいえ、たくさんの疑問を抱えたままではスッキリしない。それに仕事は今日で一区切り。面白みのない仕事をこれまでしっかりこなしてきたんだから、少し世間話をするくらいは許されるだろう。
およそ二時間後に現れた二人目に対し、イツキはさっそく話を振ってみる。
「ちょっと待って」
「どうしたんですか?」
道順の説明を聞き、その場を立ち去ろうとした相手を引き止める。引き止められた方は、不安と驚きが入り混じるような声音で答えた。
「いくつか聞かせてもらいたいことがあるんだが」
イツキは少し視線を上げる。ギリギリ相手の顔を確認できるだけの視界を確保する。この相手もやはり、大きなマスクと帽子により、素性を隠しているようだった。
相手はしどろもどろになり、明確な返答をできないでいるが、すぐには立ち去らないようなので、イツキは構わず質問した。
「君は、ここに何しに来たんだ?」
「何って……」
相手は言い淀む。もしかすると、不信感を与えてしまったかもしれない。
(いきなり直球すぎたか……)
「大丈夫だ、心配することはない。ただ少し確認しておきたかっただけだ」
イツキは落ち着き払って言う。
この三日間で現れた相手は、基本的にみんな不安げに弱々しく話しかけてきた。それがずっと引っかかっていた。
「えと……」
相手は何かを言おうとするが、言葉は続かない。もしかすると、ここでは話してはいけないことになっているのかもしれない。でも、イツキはもう少しだけ探りを入れる。
「何か悩みでもあるのかな?」
「え? ……あの、だから来たんですけれど」
「え、あ、そうそう。それは分かっているよ」
相手は時間を気にしている。イツキはこれ以上引き止めるのも良くないと思い、先に進むように促した。相手は恐る恐る立ち去った。
しばらくして現れた三人目とも少し話をした。やはり不安げな様子だったが、二人目よりはスムーズに会話をすることができた。
あまり具体的に聞き過ぎるのも良くないと思い、少々回りくどく尋ねたが、やはり何らかの悩みを抱えて訪れているようだった。そして、やはり高校生、しかもカノハ高校の生徒と思われた。
別れ際にイツキは最後の質問をした。
「案内された先に何があるのか知っているか?」
「悩みを解決してくれる場所ということしか知りませんが……」
三人目も立ち去った。
初日、二日目は、いずれも来訪者三名。しかし、そのときよりも時間帯が早かった。どのみち、定められた時刻までは待機しなくてはならないので、これまでの会話を思い出しながら時間をつぶした。
すると、四人目が現れた。
イツキは、彼もまた何らかの悩みを抱え、それを解決してもらうためにここを訪れたのだと推測し、その前提で会話をした。しかし、前の二人ほど不安げな様子を感じなかった。
会話をしていく中で、イツキは本日一人目の来訪者の言葉を思い出した。「前と違う人ですね」というやつだ。
(もしかすると、この人はリピーターなのかもしれない)
悩みを抱えていることに違いはないが、“この先”を知っているだけ、不安感が軽減されているのかもしれない。
結論から言うと、その予想はビンゴだった。そこで、少し踏み込んだ話を振ってみた。
「参考までに聞いておきたいんだが、前のとき、どういう感じだったかな?」
こちらの無知を悟られないよう、あくまで関係者っぽくコメントを求めた。すると、警戒心が薄いのか、丁寧な物腰で説明をしてくれた。
「事前に話は聞いていましたけど、こんなところ、あまり近づいたこともなかったですし、ちょっと不安……というか不気味でした」
「どういうところに不安を感じた?」
「それはもちろん、部屋に行くまでのところですよ。地下に降りてから、目隠しと耳栓ですからね。それからだいぶ歩かされましたけど……」
「なるほどね。歩いている最中に気付いたことはあるかな?」
「目隠しと耳栓をしていましたからね、転ばないように歩くことに必死で何とも……」
相手は頑張ってそのときの状況を思い出そうとしてくれる。こちらに余計な疑念は抱かず、ただ善意だけを見せてくれる。
(この徹底ぶりから察するに、先方は思っていた以上に恥ずかしがり屋なんだな。もしくは、何らかの演出なのか?)
イツキがそんなことを思っていると、話が再開した。
「あ、でも、そう言えば匂いがしてました。すごく甘いけど、ちょっと息苦しいというか。あとは全然分かりませんね。目隠しを取ったときには、もうあの人たちが目の前にいましたから」
「君は、その場所がどこで、その相手がどんな人かは知っているかな?」
核心的な情報である。イツキは、中立的な印象を与えるよう心がけた。
「場所は分かりませんね。ただ、最初が運河の近くなので、距離的に考えると、もしかするとドゥープニ区に入っているんじゃないかって。あの、これは、友達も言っていたんですけどね。部屋の雰囲気も独特で……」
イツキが来訪者に案内する経路は、確かに運河に近いエリアだった。そうすると、そのあたりのどこかから地下に潜り、ある程度の距離を歩かされたということなのだろう。運河はそれほど幅の広いものではないので、確かに、仮に地下道が存在すれば、ドゥープニ区に至る可能性もある。
ヒビカ主要五区の一つとして数えられるドゥープニ区は、その知名度とは裏腹に、内部事情がよく分からない不思議な地区である。区は河川と運河に囲まれており、どの地区からも橋を経由する必要がある。しかし、いずれも往来は少なく、経済的にも文化的にも、異様と言えるレベルのかなりの独自性が見られるとされる。
往来の少なさという点では、隣接する区の中でも特にメモギ区で顕著だった。ヒビカの他の主要区は隣接する区との結びつきを強く持っているが、ドゥープニ区とメモギ区の間でそれはほぼ皆無だった。
このような状況なので、特に多感な年代を中心に、様々な種類の噂が流れるわけだが、メモギ区の大人たちはそのことに眉をひそめる。教育の現場を中心に、ドゥープニ区に興味を持つことそのものが、良くない兆候として認識されているのだ。当然、足を踏み入れることも許されていない。
故に、秘密裏にドゥープニ区に渡るルートが実在するのであれば、それはスクープだ。少なくとも、軽々と口にできるようなものではない。
しかし、イツキは敢えてそのことは指摘せず、続きを促した。場所も気になるが、それ以上に気になるのは―――。
「目隠しを取ったときにいたのは……」
そこに誰がいたのか?
「
相手はマスクの下で確かに微笑んでいるようだった。その穏やかな口ぶりが、イツキには少し予想外に感じられた。まだ聞きたいことは尽きないが、かなり話し込んでしまったことに気付き、先に進むよう促した。
(易者……占い師ってことか)
占い師が、人知れず高校生たちの悩み相談に乗っているということなのだろうか。
三連勤最終日の終了時刻が迫る頃、もう来ないと思っていた五人目が現れた。
イツキも、これまでのやりとりでかなりコツをつかんできて、スムーズに情報を得ることに成功する。
カノハ高校三年生。ここに来るのははじめて。情報は人づてに聞いた。親にも先生にも友人にも解決できない悩みを解決してくれる。救いの手を差し伸べてくれる。誰? それは分からない。リピーターも多いらしいけれど、そこにどんな人がいるのかは分からない。でも、みんなとても良かったと言っている。みんな言っている。だから大丈夫。
イツキが尋ねると、その相手は早口にまくし立てるように答えてくれる。何かに追い立てられるように話し続け、息が続かなくなって停止する。マスクをしていなければ、唾が飛んできそうな勢いだ。
ただ、その語りは整然としているわけではなく、会話が噛み合わないこともしばしばだった。同じ内容の繰り返しになってしまうこともあった。
そんなやりとりに、イツキは少しだけイライラを募らせていった。悪意がないにも関わらず、会話をするだけで何故か周囲の人間を無性に苛立たせるタイプの人間だった。
「そんなふうにできる限りのことはやってるんだ。別に僕だって好きでこうなってるわけじゃない。結局は何をやったって、ダメなときはダメなんだよ。まさに八方塞がり。なのに周りは、知ったような顔して聞こえの良い話ばかりして。肝心なのはそこじゃないっていうのを全然分かっていないというか」
どんな悩みを抱えているのか探りを入れようとした結果、何かのスイッチを押してしまったようだ。呼吸を乱しながら、物凄い勢いで返答が来て、そして力尽きて停止する。
イツキが感じるストレスも上昇し、それが言葉にも出てしまう。
「そういうことは、自分で考えるしかねえんじゃねえの?」
棘のある言い方に、会話が止まる。しかし、それも一瞬だった。
幾分トーンダウンして、投げ捨てるように答えが返ってくる。
「そうだね。でも僕は、馬鹿で弱いからさ」
イツキは退勤時間になったことを確認して、例の部屋に戻る。やはり無人だった。
イツキはローブとネックウォーマーを返却し、静かに耳を澄ました。やはり、建物全体に人の気配はないように感じられた。
イツキは、今まで足を踏み入れていなかったパーティションの向こう側に入って行った。机や棚を間近で見る。引き出しも開けてみる。
それらは、明らかに最近使われていないものだった。埃は払われているが、積まれている書類は日に焼けてインクがかすれ、文房具には錆が浮いていた。引き出しの中はほとんどカラで、ペンや消しゴムが転がっている程度だった。
日が傾いてきたので、印刷物の字が読みづらい。イツキは、迷ったものの、相変わらず人の気配がないので、明かりをつけることにした。
部屋の入り口付近の壁面にあるスイッチを押す。しかし、明かりはつかなかった。
廊下に出て、廊下のスイッチを押した。それも無反応だった。改めて見ると、廊下の端の非常口のランプも消えている。どうやら、建物に電気が届いていないようだった。
建物の中がみるみる暗くなっていく。明かりがつかないのなら、あまり長居するのもまずい。というよりは、長居したくない。
イツキはその場を後にした。
翌日、つまり連休明けの木曜日。
釈然としないものを抱えつつ、イツキは学校の帰りに給料を引き出そうとした。いろいろ思う所はあるが、それでもまずは生活が重要だ。
「ナ………」
振り込みは確認されなかった。口座の残高は残念なままだった。
イツキは、現実を受け入れられないまま、帰宅してメールを確認した。
やはり、木曜の午後には振り込まれることになっていた。むしろ、だからこそこの仕事を選んだわけだ。
イツキは、先方に確認のメールを送った。これまでのやり取りでは、あまり間をおかず返信が来ていたが、数時間経過しても音沙汰はない。しょうがないので、電話番号をメモして外に出る。念のためもう一度口座を確認し、再び落胆して公衆電話の受話器を手にとった。
――この電話番号は現在使われておりません。電話番号を確認の上……。
見直す。電話番号は正しい。それが結論だった。
*
「俺は、誰に雇われ、誰をどこに案内していたのか?」
一通りの説明を終え、イツキは窓の外に視線を流しながら、ポツリと呟いた。外はすでに暗くなっている。無駄にアンニュイな表情を浮かべ停止している。
(どういう反応を期待しているのだろうか?)
ユウトは、計りかねて様子見する。
すると、アサミが立ち上がった。そのままイツキに向かって人差し指を突き出す。
「最初から怪し過ぎでしょ! 自業自得よ!!」
アサミは、話の途中でも反射的にツッコミを入れそうになっていたが、ユウトが必死に制止していた。それが一気に解放されたようだった。
「もうこれ以上関わらない。それが一番よ!」
「いや、正当な対価をだな」
「うっさい!! 適当にうまい話に乗ったのが悪いのよ!」
「どうしよう。アサミさんが正論を言っているように聞こえる……」
「いや、正論だから! 正論よね!?」
―――まあ、正論だろう。
ただ、ユウトは一方で、この“ネタ”には利用価値があるとも思っていた。故に、興味をひかれる。
「それでイツキさん、僕にどうしろと?」
「例の人物に話を通して、給料を取り返してくれると最高にありがたい」
「そんなうまい話があるか! ユウト君も、こんな話まともに聞かなくて良いよ?」
ユウトは、とりあえずアサミを座らせる。
「僕にもちょっと考えがあって……。まあ、危ないことはしないので」
曖昧なことを言いながら、アサミを落ち着かせる。
「イツキさん、いくつか質問良いですか?」
「勿論だ」
ユウトは、状況把握のため簡単な質問をいくつかした。イツキはそれらに簡潔に答えていく。
ユウトは、質問しながら、今日の学校での会話を思い出した。
「そう言えば、三年で妙な噂が流れているらしいよ」
「ふうん」
「進路に思い悩んでいる人に、救いの手を差し伸べてくれるとか何とか」
「助けてくれるならいいじゃないか」
助けてくれるならいいじゃないかと思う。
ただ、こういうものは往々にして、助けてくれない。
根拠はないけれど。
根拠はいらない気がするけれど。
(#003おわり)
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