7.「これは、呪いだから」
――夕暮れのリュリアーサはいつものような優しさを持ち合わせてはおらず、まるで血のような朱がエリクスとリピカの再会を不気味に染め上げていた。弟をくびり殺した後、そのまま姿を消したリピカ。それを追って、街を出たエリクス。
「俺はこの一年余り、いろんな街を訪ね歩いてお前を探したよ。それがフタを開けてみればリュリアーサに舞い戻っていて、しかも俺の家が仮住まいだと? ふざけるな!」
「誰も住まなくなって朽ちていくだけだったおんぼろ家屋を綺麗に使ってあげたんだよ。感謝の言葉のひとつもないんだね」
リピカは不意の再会に少し驚いた様子を見せたものの、すぐにそれは鉄の仮面のような表情の下に潜り込ませてしまった。代わりに現れたのは、最後に見せたまさに魔女と呼ぶに相応しき形相。冷笑を張り付かせて、見るもの全てを斜に身構えている。
「それで。あたしを探してどうするつもりだったの」
「最初は殺してやるつもりだった。剣の修行もした」
「ふぅん……。魔女相手に大きく出たよね」
「でも、旅をしている内に少し考えが変わった。真意を知りたい」
リピカは小さな体を大きく見せるように肩肘張って腕組みをし、胡乱な目つきでこちらの話の続きを待っていた。エリクスは続ける。
「どうして――ヘリオトを殺した?」
「先行き短い命だったんでしょ。苦しむよりはいっその事、楽にしてあげた方がいいと思っただけ」
「嘘だ」
「どうして」
「睡眠薬を嗅がせた時、お前言ったよな。なんとか出来ると思ってたって。あれは、何がどういう意味なんだ」
硬かった表情が少しだけ揺らぐ。だが、まだ口を割らせるには至らないようだ。
「またまた。素直に教えてあげればいいじゃないですか、リピカ――」
エリクスでもない、リピカでもない。第三者の女が会話に滑り込んでくる。赤い少女だった。見覚えがある。今朝、街の外の丘から突き落としてくれたあの魔女だ。なるほど、リピカの仲間だったらしい。
「弟クンが可愛くて、お持ち帰りしたかった。抵抗されたので止む無く殺してしまった、と」
「違うわよっ」
リピカの鋭い蹴りを横腹に喰らい、体をくの字に折り曲げて地面に沈み込む赤い魔女。丘で会った時から薄々感じていたが、やっぱり変な奴らしい。息を乱したリピカがそれを整える頃、赤い魔女の方も何事も無かったかのようにむくりと起き上がって、ドレスに付着した土を両手で払っていた。
「と、とにかく」
わざとらしい咳払いで間を置いて、リピカは調子を元に戻そうとする。
「あたしはアンタの弟ヘリオトを殺した。これは事実。仇討ちなら早くしましょうよ。無論むざむざ殺されるつもりはないけれど。急がないと、今夜は望んでもいないのにまだ客が尋ねてきそうだしね」
そして、小さく「とんだ十一月十日だよ」と付け加えた。
「十一月……?」
それはエリクスがおかしいなと思った事だった。宿を発ってリュリアーサまではあんなに汗ばむ陽気だったのに、街に入った瞬間、一変して冷暗所に放り込まれたような肌寒さ。まるで街の中だけが冬のような奇妙な寒暖差。日が落ちて気温が下がった、というだけでは説明がつかないほどの。
「……そうよね。どうしてなの。外からは人が入れないように結界を張っていたはずなのよ。この街。近付きたくなくなるように設定してあったのに」
「なに」
「元々この街の住人だった者は無条件に通してしまう――あたしの結界に不備があった?」
「何の、話だ」
独り言のようにぶつぶつと呟いていたリピカはようやくこちらに向き直り、皮肉そうに唇の端を吊り上げる。
「教えてあげるよ。この街はね。アンタが旅立った一年前からずっと、ある一定の周期を繰り返している。今日はね、十三回目の十一月十日なの」
「十三回……?」
「――これは、呪いだから。あたしがこの街に掛けたもの」
リピカは相変わらずだった。
そのような些細な事には特別興味もない。まるでそう言わんばかりの無関心な瞳。「どうしてそんな事を」――そんな風に尋ねられるほど、もう余裕も無かった。弟ヘリオト。リュリアーサの街。魔女がやってきて、一年。エリクスが奪われたもの。
「そうかよ。お前はいったいいくつ、俺の大事な物を潰せば気が済むんだ!」
手入れだけは欠かさなかった中古の剣を鞘から引き抜く。
「あの。わたくしと致しましては、とりあえず落ち着く事が先決だと思うのです」
再び赤い魔女が割り込んできた。リピカが小さな声で「サシャ」と呟く。どうやらそれがもうひとりの魔女の名前らしい。
「いがみ合っていては、いつまで経っても解決への糸口にはなりません。とりあえず物騒な物を収めてみてはどうですか。平和的に話し合いましょうよ」
と、そこでエリクスは我が目を疑う。いかにも人格者のような言葉を吐いておきながら、サシャの腕の中には気を失ってぐったりとしているひとりの女がいた。さっきまでは居なかったものが、どうしてこの場に唐突に現れたのかすら分からない。分からないが――しかし、その女は確かにそこに存在していた。エリクスの幼馴染みアリアドネ。一年ぶりの彼女の姿が。
「お二人が落ち着いて話し合って頂きませんと、わたくしもこの女性をぷすりと刺してしまいそうです」
「……アンタが一番物騒じゃないのよ」
「丁重に気絶させてお越し頂いたのですが」
「それ、丁重じゃないし」
仲間であるはずのリピカにさえ突っ込まれても、サシャは剣呑とした表情でアリアドネを抱きながら立ち尽くしていた。エリクスは怒りすらも通り越し、抜き放った剣を地面に投げ捨てる。睨み据えた先、リピカは苦笑した。
「更に心象は悪くなったみたいね」
「良くしようと思ってやったのなら、お前達魔女の良識を疑う」
「や、サシャは別格だから。出来れば一緒にしないで欲しいな。ワームホールでわざわざ人を連れ出してまで人質なんか作らないよ」
と言いつつ、サシャの元へつかつかと歩み寄ったリピカは、彼女の頭を叩き倒してその場に沈めた。その後を追うようにふわりと崩れていくアリアドネの体を支えて、リピカは肩を竦める。
その瞬間、地面に突っ伏したままのサシャが呟くように言った。
「また、来ます」
「何が」
冷たくあしらおうとしたリピカは彼女が指差す先を見て絶句した。
「――戻ったか」
それは、この場にいる誰の声でもなかった。
初めて聞く声。
人間に例えてみるならば、随分と年を食った老獪な声。とにかく低い。そして、端々に悪意を感じる暗き声。ざわざわと鳥が飛び立つような背中の粟立ちを覚え、エリクスは数歩後退した。「戻ったか」とは、自分に投げ掛けられた言葉なのだろうか。
「アル・アジフ……!」
長年の仇敵でもあるように、リピカは言った。
エリクスの視線の高さ辺りで、一定の形として留まった黒い霧の中に、うっすらと赤く輝く瞳のようなものが見えた。
こいつが、アル・アジフ。あの時、アリアドネを操ってエリクスとリピカを襲わせた――
「早いわよ! あと一週間、この街には猶予があったはず!」
「なぞられているだけの日々がもう意味を成さない事など、既に分かっていた事だろう」
ぶわっと、肌を焼くような風がエリクスやリピカの頬を嬲っていく。街の季節に合わないその風はアル・アジフの背後から吹き付けてきたものだった。
(いや)
何か変だ。
今朝辺りから感じる奇妙なふわふわ感もそうだが、本当に今の風は「熱い」と感じたのだろうか。オレンジの炎を模したその風が経験上「熱い」と感じただけだとしたら――
「止めて、アル・アジフ!」
エリクスの思考は、思いも寄らないリピカの叫びによって霧散する。
引き裂かれたようなアル・アジフの真っ赤な口から三本の釘が吐き出された。
(黒い、釘?)
アル・アジフの口元から滑り落ちたそれは一瞬にして肥大化し、空を引き裂いてリュリアーサの上空に停滞。次の瞬間には、容赦なく街に突き刺さった。街の広場の女神像も、一番高いとされる教会の尖塔も。もはやそんなレベルではなく、ただただ巨大で、無愛想な鉄槌。
時が止まる。そして、永遠ともいえる時間が始まった。
突然に。
三本の黒槍から滲み出した瘴気が全てを狂わせていく。
草木は枯れ、大地は形を失い、何もかもが沼のように変質した地面に吸い込まれていく。
色を奪われ、鮮やかさを失った人々は風に巻き上げられて、群青の空に刻み散らされた。
もう止める事は出来ない。
解体されていく風景をエリクスは何処からか傍観している――
一年ぶりだった自分の家も、世話になっていたリケーション工場も、何一つ変わっていなかった中央広場も、まるで平面に描かれた風景画が無造作に引き剥がされるようにして、その場から立ち消える。引き剥がされた後、そこに見えたものは空虚と呼ぶに相応しい灰色。
世界の裏側に隠された宇宙の記憶アカシック・クロニクル。
それに続くビヴロストを我に示せ。
生ぬるい微風に誘われて、霞掛かった不気味の向こう。
明滅する景色の中に浮かび上がったのは、銀色に覆われた巨大で無愛想なドームだった。そしてそれに続く掛け橋。僅かな時間だけ見ることが出来たそれは、この世の何処にも無い場所なのだというのは分かった。
アカシック・クロニクル。受け入れよ。はるかな記憶。それこそ我が望み。
最も恐れるべきは、忘却。
いろいろなものが一緒くたにされ、エリクスの前に降り注ぐ。
その全ては灰色で、どれもこれも元あった形など残していない。まるでがらくたのような塊が眼前に迫り、寸前で粉々に砕け散った。人々が逃げ惑い、街が削り取られていく様が、自分達が存在する一歩先の世界で延々と展開される。それら周りを全く無視して、存在するエリクス。周りには、リピカとサシャ。そして、寝かされたアリアドネの四人。
「なんだ、これは……」
黒炭と化して、地面に吸い込まれていく――あるいは空に散らされていく人々の中には、もしかしたら知り合いも居たかもしれない。無作為に、そして無慈悲に壊されていくリュリアーサを何処か非現実的なものをみるように、エリクスは呆然と呟く。
突然始まった破壊に対し、自分は余りに無力だった。その中心にいながら蚊帳の外でそれを眺めるだけ。風によって運ばれてきた人だったものに手を伸ばしても、触れる事もなくそのまま空に飛ばされていく。
「なんだ、これは……」
悪夢のような光景に、もう一度同じ言葉を繰り返した。
そもそも何故自分達がこの滅びの風化を運ぶ突風の中にいて、こんなにも無事でいられるのだろう。突拍子もない現実に思考はあまりに冷静で。突風吹き付ける方向の先頭にいたのは、リピカだった。彼女が両腕を突き出す前方――風がまるで避けていくように二つに割れて、それが結果的にエリクスやアリアドネ、サシャを守っているようにも見える。
「だから、この街に入れたくなかったのに」
ぼそりと、リピカが呟いた。
「あれからもアル・アジフはこの街に居座り、力を溜めては破壊の限りを尽くしているんだよ。世界の裏側、そこにあたしが隠したアカシック・クロニクルを求めて」
「アカシック・クロニクル……やっぱりお前!」
「――でも、あたしは知らない。隠したけれど、もう、知らない」
「何言ってんだ、お前」
解体されていく街の風景は、いつの間にか終わりを迎えていた。人の営みは根こそぎ奪われ、街は何百年も人の手から放置されたように灰色の世界で風化しきってしまっている。生命の息吹などは一切感じられない。黒い靄のようだったアル・アジフも何処にもいなくなっていた。
「アル・アジフは!」
「……力を使って、一時的に身を潜めたようね。またこの街を破壊しきれなかったから」
また同じように力を使い切ったリピカががっくりと肩を落とし、その背中が語る。その言い草に何故だか腹が立って、見当違いだとは思いつつも彼女に掴み掛かり、
「なんだ、破壊しきれなかったって! もう十分だろ!」
空いていたもう一方の手でぐるりとリュリアーサだった景色を指し示して叫んだ。アリアドネを除いて人は死に絶えた。街も機能しないほどに壊滅した。とても突拍子もない事で、非現実的だ。エリクスもまだ本当に理解していないかもしれない。けれど、これ以上何があるというのだ。
「違う。風景はまだ生きているもの。本当の破壊とは、虚無」
「虚無……?」
「風景が壊されない限り――アカシック・クロニクルが奪われない限り――何度でもやり直せるから」
リピカはいつの間にか呼吸を整え終えて、よっと小さな掛け声と共に上半身を正した。やや顔は青ざめているものの、その表情はいつの間にか一年前、数日共に過ごした頃の彼女のもので。
「まさか、それが十三回目だといった、お前の呪い……?」
一体何のために――と言葉が喉を突こうとして、三度滑り込んできた間延びした口調に押し止められる。
「嘘はよくありませんね。リピカ」
サシャだった。だが、先程までの軽薄な様子はやや薄れ、彼女自身どこか緊張気味になっているように思える。
「嘘? 何が嘘なのよ」
リピカが心外だとばかりに口を尖らせると、サシャは間髪入れずに切り返してきた。
「言いましたね。何度でもやり直せる、と。それが嘘だと言ってるのですよ」
鋭く刺すようなサシャの言葉にリピカはびくっと震える。言葉もない。表情もない。だが、それでなんとなく悟った。サシャの言う事は間違いではないのだろうと。
「壊された街を巻き戻すリンカネーションは既に十二回も行われて、その反動は確実に貴女の蝕んでいます。わたくしの見立てでは、あと一回です。それはわたくしが言わずとも、貴女自身がよくご存知でしょう。ご自分の体なのですから」
「あと一回持つならいいじゃない。次こそ――」
「次こそ、どうするおつもりですか。この十三回目の破壊が準備不足だなんて言い訳は通用しませんよ。あの圧倒的な力を前にたとえ百回、二百回挑んだ所で結果は変わりません」
追い立てられるように、次々とサシャの口から飛び出してくる言葉を前に、リピカは言葉を失っていった。それは一年前にたった数日一緒にいただけのエリクスから見ても、あのやかましくて勝気な魔女が一言も言い返せないのは、今まで見ない振りをしてきた現実だからなのだろう。
「リュリアーサはこのまま滅びたままにしておくべきです。アル・アジフもこの場に執着しなくなるでしょう。でなければ、次のリンカネーションで貴女が死にますよ」
エリクスは心の臓を掴まれた思いで、はっと顔を上げた。
今、なんて。
リピカが、死ぬ――?
「死……」
それは、弟の敵のはずだ。死んで当然。この手で殺してやるとも思っていた。むしろ嘲り笑って歓迎すべき事のはずなのに、どうしてかエリクスは胸の奥底で言い表せない不快感を抱く。
「サシャ」
ようやく、リピカが重い口を開いた。
「昨晩も言ったでしょ。もう始めちゃったのよ。アンタの言う通り、確固たる対抗手段なんか思いつきもしないわ。でも」
妙に軽々しい溜め息がその言葉を遮る。緋色の魔女は明らかにこれまでとは違う雰囲気を纏い、ゆっくりと、だがしっかりとした足取りでリピカに歩み寄る。剣呑と、どこか危険な雰囲気を漂わせて。
「そうですか」
サシャはリピカの腕を掴み上げて、声を静かに凄ませ、
「ならば、わたくしが貴女を止めます。先行き短い命。苦しむよりはいっその事、楽にしてあげた方がいい――そう、仰いましたよね」
先程の彼女の台詞を真似て繰り出した。
「考えなかったのですか、リピカ。わたくしが何故現れたか」
「何故って。アンタの事だから、特に何の考えもなく放浪して辿り着いた結果かと思ってたわ。毎日暇そうだし」
「酷いですリピカ。わたくしのガラスの心はもうパリンパリンです」
そう言いながら、サシャは外見からとても想像できない怪力を持ってして、リピカの腕を捻り上げ、一瞬のうちに地面に叩き伏せてしまう。
「なに、すんの――!」
リピカが悲鳴を上げて、反射的にエリクスの体が動いていた。自分でも理解に苦しむ所だったが、どうやらリピカを助けようと思ったらしい。馬乗りしているサシャにずかずかと近付いて、そして、その直前で瞳に射竦められた。まるで金縛りにあったかのように、エリクスの体が固まる。
「わたくしの邪魔をするのも構いませんが、まずは周りを良く見てから行動なさってくださいね」
と、その病的に白くて細すぎる人差し指がすっと持ち上がり、少し離れた、元々サシャが立っていた場所を指差した。そこには、意識を失ったままのアリアドネが寝かされていたが――彼女の顔の上、不自然に浮かぶ黒い物体を見咎め、息を呑む。魔女が持つという短剣、アサイミーだった。
「わたくしの集中力が低下すると、あれが落下しますよ。大変ですね」
しれっと他人事のように言い放った後で、「あっ」とまるで人らしい感情を取り戻したかのように小さく呟く。
「どちらにしろ、死者である貴方にわたくしの邪魔は出来ませんね」
と。
不可解な事を口にした。
「死者……俺が?」
サシャの下で、リピカも何の事だか分からない表情をしている。
「まぁ正確には、死者とは少し違うのですけれど。肉体を持たない、魂だけの存在と理解していただければ大体の目安となるでしょう」
何の目安だと言うのだ。相変わらずリピカの上で馬乗り状態のサシャは少し手招きをして、その手をエリクスに向かって突き出した。握ってみろという事らしい。エリクスは怪訝な面持ちでサシャの真っ白な腕に触れようとして――それは叶わず、エリクスの腕はすかっと彼女の腕を透過した。「ね!」と、今更いかにも少女らしい仕草でサシャが同意を求めてくる。
そんなもの、求められても困る。
「な、なんで……」
触れる事が出来なくなった自分の腕を持ち上げて、呆然とエリクス。死んだなんて実感が無さ過ぎる。そもそも、自分は、いつ、どこで、死んだのだ。
「まだお気づきになっておられないようですが。今朝、致命的な事が起こったでしょう」
「今朝……?」
今朝といえば、宿泊した街道沿いの宿を早くに出て、リュリアーサへ通じる丘を登り、そこでサシャと出会った。そして、
「まさか」
唐突に蘇る記憶。ずっと続いていた深い霧が引いて、世にも美しい風景が眼下に広がった瞬間、そんな感触を覚えた。脳裏に蘇る言葉。「いえ。治したというか壊したというか――」もしや。
「思い出していただけましたか」
顔を跳ね上げたエリクスは、満面の笑みを浮かべるサシャに迎えられる。
「転げ落ちた時に!」
「えぇ、貴方の体の損傷が激しかったものですから。体は一応保存してありますので、戻せと仰るなら戻しますよ。全身打撲に数え切れない骨折で、地獄の痛みを味わいたいのであれば。あ。あと、頭部にも傷があったので、多少アホになっているかもしれませんが」
一言多く付け加えた彼女はエリクスに対してはそれで終わりと言わんばかりに、今度はリピカに視線を落とした。
「わたくしは貴女のお母様であるウィッチクイーンの遣いですわ、リピカ。もしまた馬鹿な真似をしようとするなら、痛い目に遭わせてでも止めろと」
その言葉で、リピカの瞳に一瞬で炎が宿る。
「馬鹿な真似って……リンカネーションの事を言ってるのかしら」
「ええ、そうです。正直無駄です」
しれっと、サシャ。
「彼を魂の状態にして、肉ある者を拒むリピカの結界を素通り。アル・アジフの現出を早め、リュリアーサを壊滅させる。あとはリンカネーションを行おうとする貴女を叩き倒してウィッチクイーンの元に帰せば、わたくしの任務は完了ですわ」
「それがアンタが現れた本当の目的なのね」
「はい。理解していただけたなら、無駄な事は止めて素直に戻りましょう。アル・アジフへの対応はまだ上層部が検討中ですから」
「そう……」
リピカの拳がきつく握りこまれ、ぎしりと噛み締めた歯が鳴った気がした。ずっと下で甘んじていたリピカは突然暴れだして、小柄なサシャの体を勢いよく撥ね退け、飛び起き、吠える。
「無駄だの馬鹿だのうるさいのよ! あたしはこの手でエリクスの大切なものをひとつ奪った! だからもうひとつ、せめてこの街だけは何が何でも守らなきゃいけないのよ――帰って、ウィッチクイーンにそう伝えて!」
サシャは一瞬だけきょとんとして、すぐに尻餅ついた体を起こす。
「ウィッチクイーンは本気で貴女の体を心配しているのですよ」
「そんな事は分かっているわ」
「そして、貴女の唯一無二の親友であるこのわたくしもです」
「人聞き悪い事言わないで。アンタが唯一無二の親友だなんて、あたしの人格が疑われるじゃないのよ」
「何気に酷い言われ様ですね。わたくし」
サシャは心底傷ついたように瞳を揺らし――ただし、それすら軽薄に――それなりに一通り潤ませた後、やはりけろりと素の表情に戻った。
「あとね。エリクスを元に戻しなさい。もちろん体は完全修復させてよ。それくらい出来ないとは言わせないからね」
「嫌です」
二人と、少し離れた場所で見守るエリクスの間に微妙な空気が流れる。
リピカは憤怒で打ち震えていた。止め処なく湧き上がるいろいろな衝動を抑え、自分の中で葛藤を続けているのだろう。そこへ、サシャのとどめの一言が打ち下ろされる。
「……出来ないとは言ってませんからね」
と。
きっとあっけなく決壊を迎えたに違いない。
つかつかと足早にサシャに歩み寄ったリピカの右手、平手打ちが飛ぶ。ほのかに赤くなった頬を抑え、びっくりしたようにサシャは固まったが、それも一瞬の事で、同じような平手がリピカの頬に返された。やり返されたリピカは目の端を吊り上げ、今度は平手ではなく拳でサシャの腹部を打つ。サシャもまたそれには痛みを感じないような様子でリピカの腹部を打ち、取っ組み合いが始まり、蹴り足が出て、いつの間にか乱闘になっていた。
「待て待て、お前ら!」
エリクスの声も届かないのか。肉体を持たない彼に止める術はなく。というか、仮にも二人とも魔女ならもう少し高度な魔法の応酬とか見せて欲しいものだが。手当たり次第、相手を殴る蹴るでは、まるっきり子供の喧嘩ではないか。
「痛いですわね。いい加減にして頂きませんと、あの女の上のアサイミーが落ちますよ」
そのうち、到底痛そうには見えないサシャがとんでもない事を口走った。あの女とはもちろん少し離れた場所に寝かされているアリアドネの事だ。アサイミーもまだふわふわと彼女の頭上に浮いたまま。
「ええ、好きにすればいいじゃない。あたし、あの女嫌いだし」
「おい、待てぇ!」
同じくとんでもない事を口走るリピカに向かって叫ぶと、彼女はちらりとこちらを見やって、「あ、しまった」といわんばかりに顔を顰め、「やっぱりそれは勘弁して下さい」と言い直す。
と、その時、到底愉快には思えないこの状況下、愉快そうな声が割り込んできた。
「やれやれ、穏やかじゃないねぇ」
そいつは街が、エリクスの世界が破壊されし尽くした後だというのに、どこからか降って沸いたようにそこにいた。
「アンタ……!」
英雄シャロウ・ヴィン。
しかし、あらかじめサシャに保護というか、拉致されていたアリアドネはともかく、普通の人間があの大破壊の中、生き残れるはずがない。四人だけが存在する僅かな空間の外はもはや別世界。そこからやって来たというのなら、
(普通の人間……じゃあ、ないのか)
だいたい、この男は最初からリピカの知人のようだった。考えてみれば、この若さで、生きながらにして英雄と呼ばれる数々の偉業。不思議ではない。むしろそちらの方が納得も出来る。
「シャロウ……」
リピカがいつになく気弱な声で彼の名を呼ぶ。それを遮るように上乗せされたのはサシャの勝ち誇ったような言葉だった。
「遅かったですわね、シャロウ。リピカを連れて帰って任務完了ですわ。あまりにも凶暴で手を焼いていたところですの。手伝ってください」
「謹んでお断りいたします」
と、嫌味なほどに姿勢を整え、即座に深々と頭を下げるシャロウ。
「は?」
魔女達――特にサシャの方が呆気に取られてぼさっとしている隙に、その男はつかつかとアリアドネに歩み寄り、宙にぶら下がっていたアサイミーを叩き落として、遠くの方へ蹴り飛ばしてしまった。
「……それはまさかウィッチクイーンの依頼を蹴ると、そういうことですか」
「蹴るも何も、僕は受けたつもりないんだけれどね。クリムゾン・ウィッチ」
シャロウは苦笑しながら、まだ続ける。
「――僕はただリピカ様の居場所が知りたかっただけなので」
「ウィッチクイーンを謀るような真似をして、ただじゃ済みませんよ」
「リピカ様を連れ帰って処罰を受ける事になったら、どの道、僕はただじゃ済みませんからね。好きなようにやらせて頂きますよ」
その言葉が決裂を確固たるものにした。
リピカから離れ、円を描くように空間を練り歩き始めるサシャ。手入れが行き届いた愛用の剣を引き抜いて構えるシャロウ。痛いほどに研ぎ澄まされていく空気。きっと誰かが何か行動を起こせば、それが引き金になるであろう――暗黙の了解が広がる中、少しの間を置いて、それを引いたのはリピカだった。
「エリクスッ!」
シャロウが走る。サシャが聞き慣れない呪文を紡ぎ始める。
そして、エリクスは。
リピカの視線を追って、振り返った背後。大きく広がる闇。それがアル・アジフである事に気付いたのは、人間でいう所の口に頭から飲み込まれて、意識を手放す寸前の事だった。
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