6.記憶の途切れ目

「あ」

 すとんっ。

 突然、思考の大部分を支配した思いをそのままに、何かやろうとするとどうなるか。答えは、エリクスの左指だった。一呼吸置いて、じわじわと広がっていく赤い血。包丁でざっくりとやってしまった左手の人差し指を口に含む。

「大丈夫、兄さん?」

 リピカと向かい合ってテーブルに腰掛けているヘリオトが案じてくれる。

「ああ、大丈夫だ」

「またあの娘の事を考えてたんじゃないのー?」

 にやにやとしたリピカの声がした。

 図星だった。今日の帰り、彼女の家に寄って帰ろうと思ってたのに、色々どさくさに巻き込まれたせいで、すっかり失念してしまっていた。いちおう病欠ということになっていたが、大丈夫だろうか。彼女の場合は、こことは違って両親と一緒に暮らしているから、何かあっても誰も気付かないなんて事にはならないだろうが。

「何かあったの?」

 何も知らないヘリオトが聞いてくる。

「ああ。まぁ、な」

「喧嘩したんだよ」

 即答で、リピカ。

「喧嘩……どうして?」

 まだ何か言おうとしているリピカを視線だけで牽制し、先に出来たサラダだけをテーブルに運ぶ。

「大した事じゃない。お前が心配するほどの事でもないよ」

「……そう、ならいいけど」

 そう言って、ヘリオトはテーブルに向かったが、その横顔はいつもと微妙に何かが違った。

「ヘリオト。何か変だぞ」

「う、うん……ちょっと、頭がね。ズキズキするみたいで……痛む……」

「休んでくるか」

 尋ねると、ヘリオトはやんわりと首を横に振る。

「いいよ。この後、お客さんが来るんでしょ」

「多分そいつが来るのはもう少し後だろうし、夕食が出来るまで、まだ掛かる。自分の部屋で横になってろ」

「う、うん……そうするよ」

 一度は拒否したヘリオトだったが、やはり辛かったのだろう。次はさしたる抵抗も見せず、素直に立ち上がって、よろよろと自分の部屋へ消えていった。

「大丈夫かな……ヘリオト君」

「さあ、な」

 そう言って、鍋の前に戻ると、背中にリピカの強い口調が突き刺さった。

「さあ、な――って! なにそれ」

「分からないって事だ。ここのところ、具合が悪くなる周期が短くなってる」

「そんな事聞いてないよ」

 当たり前だろう。分かってて言ったのだから。鍋の中のスープの様子を窺って、さっき指を切った包丁を再び手に取る。続けざま、次々と飛び交うリピカの罵声がハエのようにうるさかったが、いちいち相手にもしてられない。無視を決め込む。

「ね、聞いてるの! 何怒ってんのよ」

「怒ってなんかいない。隣で休んでいるヘリオトに障る。黙ってろ」

 ばっさりと切り捨てて、リピカを黙らせる。ヘリオトの名前を出すと、リピカもぐっと詰まって、どすんと椅子の上に腰を下ろし、そのまま頬杖をついてそっぽ向いた。ようやくこれで夕食作りに集中できる。

 だけど、ぐぉんぐぉんときつい耳鳴りがする。背筋も寒い。手が震える。包丁が上手く下ろせない。吐き気もする。目の前が真っ赤に染まったようで、何も見えなくなりそうな。

「くそ。邪魔だなぁ……」

「あたし、何もしてないでしょ」

「お前には言ってない」

 なによ!――と喚く背後の魔女。本当はこいつもさっきからうるさい。

 だいたいこいつはなんなんだ。ある日突然、人の家に転がり込んできてからというもの、本気でろくな目に遭わない。アリアドネには誤解されて、先輩達には殴られて、社長には笑われて、伝説の英雄だかなんだかに付き纏われて。魔女だかなんだか知らないが、こいつに俺の生活を乱す権利があるというのか。

(ふざけやがって)

 心で舌打ちする。すると、

「ああ、シャロウも遅いし、あたしお腹減った! 先に食べようよ!」

 言葉の端々に刺を付加させながら、やけくそ気味に叫ぶリピカ。

 ぎりぎりの所で保っていた何かが、音を立てて切れる――

 ふっと視線を跳ね上げると、そこには見慣れぬ瓶が三つあった。リピカがやってきたその日に、置きっぱなしにしてあったものをエリクスがここに置いておいた奴だ。

 うちひとつ、透明の液体のは、魔女の秘薬。どんな病気にも怪我にも速攻で効くポーション。その隣の緑の液体は、ゾンビパウダー。思考や意識を壊し、精神的死者を作るという死のポーション。そして、最後。ピンク色の液体は、ベランドナ。服薬者の身も心も溶かすという愉悦の魔薬……。

(思い知らせてやる)

 リピカには気付かれぬよう、そっと一番右端の瓶――ベランドナを手に取り、スープを盛った皿に少し混ぜる。そして、何食わぬ顔でそれをリピカの前に運んだ。皿を叩きつけるようにテーブルに置くと、リピカも仏頂面のままスプーンを取って、スープに突っ込む。

 エリクスの唇の端がいやらしく歪んだ。リピカの視線はスープの皿に落とされたままで、それには気付いていない。

(そうだ……食え。食って……!)

 黒い声が一瞬、止まる。

「っ……!」

 頭を鈍器で殴られたような、激しい痛みに苛まれて、エリクスはふらりとよろめいた。思わず頭を両手で押さえる。言いたい事があるのに、言葉に出来ない。

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

 だけど――!

「食べちゃ、ダメだ……!」

 最初の一口目を口に運ぶ寸前に、リピカのスプーンは止まった。かちゃんとスプーンを皿に置いて、ゆっくり立ち上がる。エリクスの言葉でそうしたようではなかった。すすっと近付いてきたかと思うと、素早く彼女の右腕が飛んだ。ぱちんと良い音が鳴って、エリクスの頬を打つ。

 リピカが視線を跳ね上げた。目尻には僅かに涙が滲んでいる。

「最っ低――!」

 エリクスは打たれた頬を押さえ付けて、呆然と立ち尽くしていた。

「あたしが自分で作った薬に気付かないと思うの! エリクスは……そんな事しないって、思ってたのに……」

 どくんっ。

 さっきの頭痛よりも更に痛い動悸がエリクスの胸を貫く。

 違う。違うんだよ――そう言い掛けて、また言葉にならなかった。

「バカ」

 そう言い捨てて、リピカは家を飛び出して行ってしまった。

 からんっ。

 リピカが扉を乱暴に閉めた反動で、空になったベランドナの瓶が床に転がり落ちる。追いかけることは出来なかったけれど、なんとか体を引き摺って、そいつを拾い上げた。そして、まだ完成はしていない弟の絵を見る。今も布は被さっていない。髪の色こそ違うけれど、そこには無邪気なリピカがいた。こちらを見ている。

 ――俺、何をしようとしていたんだ……?

 誰にも答えられるはずがない。何者でもない、自分自身がしでかした事。

 と、その時、再び扉が開いた。

「リピ――!」

 リピカが帰ってきたのかと思った。だが、開け放たれた扉の向こうに立っていたのは、リピカではなかった。彼女よりは幾分大人しい茶褐色の髪の少女。アリアドネ。

「アリア!」

 なんとか体の自由は効くようになっていたので、家と外の境界線に突っ立ったまま動かない彼女の傍まで歩いていく。彼女の肩を掴んで、覗き込むように、

「アリア。体は大丈夫なのか、病気だって聞いたけれど。あ、あとな――実は」

「死ね」

「……え?」

 アリアドネの口から漏れたその言葉の意味が一瞬分からなくて――考えている間に、彼女の拳が迫ってきていた。成す術なく殴られ、飛ばされるエリクス。とても女の力とは思えない。

「いつつ……どうしたんだよ、アリア!」

 ゆっくりと家の中に入ってきた彼女の瞳は、凍りついたように冷たく、ただエリクスを見下ろしていた。

 違う。

 半ば、扉を蹴破るようにして彼女が入ってきた時から何かおかしいとは思っていたが、目の前に立ち尽くす女は、アリアドネであってアリアドネでない。彼女の姿を借りた、別の何者かだった。それは容易に分かった。赤く充血した瞳はエリクスを飲み込まんばかりに見開かれている。

 だんっ!

 踏み込みの音がして、打ち下ろすようなアリアドネの拳が飛ぶ。それを転がるようにして避けたエリクスは、素早く立ち上がったが、どうしても構えられない。

(くそ……)

 胸中で毒づく。

 これでもここへ引っ越してきた時には、何もなくて食うにも困って、一通り悪事には手を染めた身だ。目の前の彼女が懇願するからそれ以来はやるまいと誓ったが、街のゴロツキ相手に喧嘩なんて日常茶飯事だった。自慢ではないが、負けた事はない。

(だからって、殴れるかよ!)

 再びアリアドネの拳が迫ってきて、反射的に逆手に取ろうと働いた自分の体を抑制しつつ、また避ける。慣れや経験とは恐ろしいものだった。この調子だと、いつアリアドネを殴ってしまうか分かったものではない。

 そんなエリクスにとって、次のが救いだったかどうかは分からないが――

「ちょっと! 何やってんのっ!」

 威勢のいい叫び声と共に飛び込んできたのは、今度こそリピカだった。彼女はアリアドネを蹴飛ばし、エリクスの前に立ちはだかる。

「嫌な気を感じたから戻ってきて正解ね。エリクスがおかしかったのもそいつのせいだよ」

「……誰かに、操られてるってのか?」

「そう」

 アリアドネからは視線を外さずに、リピカが頷く。

「誰に」

「悪しき思念の集合体、アル・アジフ」

「アル・アジフ? お前が来るかも知れないって言ってた厄介事か」

 リピカがこくんと頷く。

 彼女の姿を見据えて、より一層の殺気を撒き散らし、突進してくるアリアドネ。リピカは真正面から立ち向かい、また何かを取り出そうだそうとしたが、その一瞬前にエリクスは彼女に飛び掛り、横へと転がった。

「ちょっ! 何すんのよ! まさかまだアンタも操られてるのっ?」

 リピカは未だ腰の辺りに抱きついたままのエリクスに往復ビンタをお見舞いする。五発目でその腕を受け止めたエリクスは、リピカから離れて首を振った。

「違う! お前、今何やろうとした! あれはアリアの体なんだろ。傷つけるわけにはいかないだろうが!」

「分かってるけど、どうしようもないじゃない、多少は我慢してもらうしか! 殺しはしないよ!」

「お前、魔女だろ! なんとか傷付けずに正気に戻す方法を考えろよ!」

「無茶言わないでよ! 魔女だろうと天使だろうと、出来る事と出来ない事があるんだから!」

 赤く充血した瞳を滾らせ、再び飛び掛ってくるアリアドネ。その手には、ベランドナの瓶が握られていた。エリクスが落としたものだったが、いつの間にか割れていて、凶悪に尖った凶器と化している。

「アリア! 正気に戻れ!」

「邪魔っ!」

 リピカに蹴られて、部屋の隅に転がるエリクス。文句を言おうと再び顔を上げた時、リピカはアリアドネに圧し掛かられて、眼前に瓶の破片を突き付けられていた。

「くぉのぉ……!」

 操られている為か、通常アリアドネでは考えられないほど力が増しているのに、リピカはそれを何とか押し退け、アリアドネの体を投げ飛ばす。乱れた服装をぱんぱんと叩き、ゆっくりと立ち上がった少女の表情は、苛立ちで限界に来ていた。

「あたしね。もともとそんなに気が長い方じゃないの」

「頼むから我慢しろ!」

「やだ」

 あっさりと切り捨てられ、リピカは服の中から硬く尖ったナイフを取り出した。初めて会ったその夜にエリクスも突き付けられたあの黒いナイフ、アサイミー。そして、今度はリピカがアリアドネに飛び掛る。本気だ。

「やめろおおおおおぉっ!」

 アリアドネの前に体を滑らせる。リピカは驚いたように目を見開いた。

 その瞬間は、いとも簡単にやってくる。

 どんっ!

 歯が軋む。リピカのアサイミーは、エリクスの腹を抉った。リピカは死人のように青い表情を張り付かせて、一歩後退する。

「あぅあ……」

 言葉を失ったように、リピカはぱくぱくと口を動かすだけ。

「大丈夫か、アリア……」

 体をよじって、背後を振り返ると、アリアドネは瞳を閉じてゆらゆらと揺れていて――そして、最初に膝が折れ、床に崩れ落ちた。気を失ったらしい。安堵したのも束の間、アサイミーから広がる痛みがじわじわとエリクスの全身を寝食していく。

「く……」

「エリクスっ!」

 ようやく言葉を取り戻したリピカが駆け寄ってきた。彼女は泣きながら、

「ごめんなさいっごめんなさいっごめんなさいっ!」

 エリクスは一瞬で覚悟を決め、一気に腹のアサイミーを抜き去った。どっと赤い血液が流れ出したが、その上にリピカが布を何枚も重ね、手当てを始めてくれる。

「ちょっと痛むかもしれないけど、あたしの薬の効き目は折り紙付きだから。ちょっとだけ我慢して!」

 どこからか取り出した包帯をぐるりと何重にも巻いてくれたが、その最中、彼女はずっと謝り通していた。

「あたしも、アル・アジフの悪意に当てられてたみたい」

「何者なんだ、そいつは……」

 リピカは言おうかどうしようか迷ったらしかった。少しの間がそれを証明している。手は止めず、表情も見せないまま、彼女はゆっくりと口を開いた。

「……アル・アジフってのは、あたし達が付けた呼び名なんだ。有名な死書『ネクロノミコン』の別名『キタブ・アル・アジフ』。そこから取って付けたの。そいつらはね、人間の欲とか邪な意識とか忘れ去られた世界の記憶とか、そういうものが集まって出来た集合体で、実体を持たない意識の塊。そして、そいつ――アル・アジフは人間を乗っ取り、自在に操る事が出来る。心や思念に隙間がある人間ほど良く操られるみたいなんだけど」

「じゃあ、アリアはそれに操られていたのか……?」

 リピカはゆっくりと頷く。

「そう。それからあたしのスープにベランドナを入れようとした時のエリクスも、さっきアリアドネを刺そうとした時のあたしも、多分。でも、エリクスもあたしも自分の意識をしっかり持ってたから、それほどきつくは無かったみたい」

「じゃあ、なんで、アリアは――」

「多分、あたしのせい、かな……」

 リピカは目を細めてアリアドネを見やる。

「なんでそいつはこんな事をするんだよ!」

「それはね――」

 リピカの表情が少し曇る。

「ごめん」

 そう言って、彼女が取り出した薬の小瓶は今まで見た事無かった薄い青色の付いた綺麗なものだった。何だろうといぶかしんでいるうちに、リピカは痛みで体の自由が利かないエリクスに対し、その小瓶の蓋を開けて鼻の辺りに押し当ててくる。

「なにすん……」

 一瞬だけ、その薬が放つ異臭が気になって、次にはそれもどうでも良くなるぐらい甘美な睡魔が襲ってくる。脳髄が溶かし込まれていくようだ。説明されるまでもなかった。これは睡眠薬だ。鉛のように垂れ下がってくるまぶたを必死に押し上げて、リピカを見やる。

「なんとか出来ると思ってた。でも、駄目だった。ごめん。エリクス。あたし、君に伝えたい事がたくさんあった。ごめん――」

 何を言ってるんだ。分からない。

 睡眠を要求する頭では、もう何も考えられない。

 リピカ――お前、何を――



 やがて、意識を取り戻したエリクスに突き付けられたのは、弟ヘリオトの死という過酷な現実だった。

 痛いぐらいに胸を打ち付けてくる鼓動が際限なく高まっていったのが忘れられない。そのくせ頭だけは冷水を被ったように鮮明で、その原因が隣の弟の部屋から流れてくるものだという事も何故か理解できていた。ゆっくりと体を起こし、部屋へと続く扉を押し開ける。

 中はいつも通り物が収まるべき場所に収まっている整頓された部屋。その中央で二つの人影を見た。ひとりはリピカ。こちらには背を向けている。もうひとりはヘリオト。弟はリピカの右手によって首を絞められ、容易く中空に吊り上げられている状態だった。

「あら、早かったね……」

 と、まるで自然な呼吸のように。吐き出された言葉はぞっと冷たく、肩越しに振り返ってきた彼女の無表情を見て、エリクスは後ずさりした。先程とはまるで別人のようだ。

「おま、え……殺し、たのか。ヘリオトを……」

「ええ」

「なんで」

 宙ぶらりんの状態になっていた弟の体をやや乱暴にベッドの上に下ろし、踵を返すリピカ。体が完全にこちらを向く。彼女の衣服や部屋の状態を見ても争ったような形跡は無い。

「言ったでしょ。殺しにきたって」

「あれは、冗談――」

 リピカは形の良い唇を歪めて、鼻で笑い、

「それこそ冗談だよ」

「嘘、だよな。まだ、アル・アジフの悪意に」

 どう頑張っても声が震える。

 それは弟の死に対してか、恐ろしい魔女に対してか。

「馬鹿だね、エリクス」

 と、リピカは軽く言い放った。

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