5.伝説の英雄観察録

 そしてまた次の日。

 ヘリオトと居候のリピカに飯を食わせたエリクスは、いつもより更に早く家を出た。工場に辿り着いてもまだ市場すら開いていなかったらしく、街は物音ひとつしない。いつもの清々しい静寂ではなく、何かによって押し黙らされた沈黙。アリアドネの事が引っ掛かっているのか、そんな風に感じられて。

 有り体に言って、今、心の中は不安だけしかない。

(……なんだろうな)

 だが、見えない何かを訝るのも変な話だ。エリクスは軽く首を振って、工場の中に滑り込む。素早く着替えて、いつものようにフロアの掃除から始める。昨日は実質アリアドネがほとんど済ませてくれたようなものだったので、二日ぶりの掃除だ。

「さて、何から説明するかな……」

 アリアドネはうちに何度も遊びに来ていて、ヘリオトが描いていたリピカの絵の事も知っている。二年前にヘリオトが偶然見かけたリピカとか、その辺から説明していくのが妥当な所か。それにしたって、リピカとあの絵に接点が持てなかったとしても、もう少し猶予を与えてくれても良かったものなのに。早とちりが過ぎる奴だ。

 ――結局、ぐるぐるとアリアドネの事を考えている内に掃除は終わり、机が雑然と並ぶ事務室に入ってその辺の椅子に腰を下ろす。まだ誰も来ない。

「早過ぎたか」

 朝刊が目の前にあった。今朝、郵便受けに入っていたものをエリクスがここに置いたのだ。なんとなしに手に取って開いてみると、一番最初に飛び込んできたのは、でかでかとした「シャロウ・ヴィン」の文字だった。昨日の出来事が新聞沙汰になっている。エリクスは素直に感心した。紙面には解説の文章と、街の人々によってもみくちゃにされているシャロウの写真が載っている。

 例えば、彼なら――彼に頼んだなら、アカシック・クロニクルを見つけてきてくれるのだろうか。

「いくら伝説の英雄でも、おとぎ話が相手じゃな……分が悪いな」

 苦笑する。そして、次の紙面をめくろうとした時、

 どんっだんっだんっ!

 かなり大きな物音が、三回鳴った。疑うまでもない。工場の入り口の扉だ。だが関係者ではないだろう。ここには誰一人として、ノックして入ってくるような従業員はいない。

 そして、もう一度。

 どんっだんっだんっ!

「はいはーいっ!」

 事務室を飛び出し、作業場をすり抜けて、工場の扉を開く。

「どちら様でしょうか――?」

 と、エリクスが話し掛けたのは、胸だった。男の胸。扉のすぐ傍に立っていた男がエリクスよりも長身の為、そうなってしまったのだ。視線を徐々に上げていくと、そこには焦りという言葉を表情で完璧に再現した男が立っていた。

「あれ……」

 エリクスは自分でも素っ頓狂な声を出してしまったと思う。

「あんた……」

 驚きのあまり、上手く声が出なかったので、目の前の男の顔にまだ持っていた新聞の一面を重ねてみる。そして、またすぐにどけて、目の前の男の顔を窺う。

「シャロウ・ヴィン!」

 目の前に立っていたのは、確かにその男だった。

 ただし、写真にあるような鉄製の鎧は身に着けてないし、どうしてか顔の右頬には墨のようなもので大きくバッテンが書かれているが。

 紛うことなきその男の名は、シャロウ・ヴィン。

「――か、か、かくまってくれっ!」

 それが、エリクスが聞いた伝説の男の一番最初の台詞だった。シブい声だとか、格好良い声だとか、そんな事を感じる事もない。ただ、情けない声。

「はい?」

「追われているんだよっ!」

 今度は、幾分強い口調で声を荒げた。

 生きながらにして伝説の英雄と謳われたシャロウ・ヴィンともあろう男が、何に追われて、こんなにも怯えていると言うのだろうか。興味はそちらにばかり惹かれて、シャロウの言葉に対してはうんともすんとも返事を返せない。

 ざっ――!

 そうこうしている内に、地を擦る足音が聞こえたかと思うと、

 ざっざっざっ――!

 あっという間に、エリクスとシャロウを取り囲むだけの人数が現れた。しかし、全員が年端もいかぬ子供。男の子も。女の子も。中には市場など、街中で良く見かけるような悪ガキもちらほら見かける。一昨日、リピカを袋叩きにしてた子も混じっていた。

「ふっふっふ、おいつめたぞ。シャロウ!」

「シャロウぅ!」

 折れた木の枝――剣の代わりなのだろうか――を突き付けて、一歩前に出たリーダー格の少年が叫んだ。そして、それに全員の合唱が続く。

「ねんぐのおさめどきだぞ!」

「だぞぉ!」

 くるんと体の前後を入れ替えたシャロウは、まるで命乞いでもするかのように必死に喚いた。

「僕ひとりだけが逃げて、他のみんなは全員鬼だなんて、ずるいぞ君達っ! いくらなんでも捕まるよ!」

「みぐるしいぞ、シャロウ! おとなしくかんねんするがいい!」

「いいぃ!」

 子供達の群集の中の誰かが笛を吹いた。それが合図だったようだ。包囲網はあっさりと狭まり、子供達は次々にシャロウに飛び掛った。

「うぎゃああああっ!」

「つぎはひだりのほっぺにバッテンかいてやる!」

「やるぅ!」

 飛び掛っている最中でも、子供達は復唱を忘れない。

「うひゃあーひゃーひゃーあー! た、助けてーっ!」

 子供達の包囲網をかいくぐり、工場の敷地外へ飛び出した伝説の英雄は、右手に曲がって塀の向こうに消えていった。蜘蛛の子を散らすように子供達もそれを追いかけていく。

 だだだだだだだっ!

 嵐が過ぎ去っても――エリクスは呆気に取られたまま、その場を動く事が出来なかった。


 ヘリオトの持つ筆が画布を擦る音。それだけが静かな森の中の一軒家を満たしていた。

 リピカは今日もモデルをさせられていた。ヘリオトに頼まれたら、嫌とは言えなかった。自分でもその原因をよくよく考えてみたが、どうも同情とかその辺りから来るものではない。むしろ、同情なんてするのもされるのも嫌いだ。

「リピカさん。少し顎が下がってます。もう少し上げて……」

「ご、ごめん」

 ほら、まただ。

 彼の一生懸命な声を聞くと、どうしてか素直になってしまう。

(へんなの。あたしだけかな)

 多分、違うと思った。

 彼と接した者は、いつの間にか彼のペースにはまっている事に気付くだろう。自分がそうなのだから。

「リピカさん」

「ん、なに?」

 顔を向けるとまた注意されるので、視線はそのままに、口だけ動かす。

「昨日の……お話なんですけど」

「昨日の?」

「図書館の司書をやってたって、お話」

「う、うん」

 どうしてか身構えて、緊張してしまう自分に苦笑する。

「ごめんなさい。僕、生意気言いましたよね」

「そんな事無いよ。ヘリオトの言う通りだと思う。与えられた役目を果たそうともせず、文句だけ言うのは、最低の人だよ。あたしみたいにね」

 がちゃんっ!

 派手な音が鳴って、ヘリオトのパレット――いや、リピカのペンタクル――が床に落下する。ヘリオトは何をしたかったのだろう。急に立ち上がったと思いきや、しゃがみ込んで、咳き込み始めてしまった。

「だ、だいじょぶっ?」

 さすがにリピカも椅子から立ち上がって駆け寄る。立ち上がった拍子にむせただけだろうか。ヘリオトはなんでもないという風に手を振った。そして、

「違う。違います。リピカさんはそんな人じゃないですよ。確かに僕は良く知らないけど……でも!」

「落ち着いて」

 もしかしたら自分よりも細いかもしれないヘリオトの肩を抱き、そして、背中をさすってやる。リピカはヘリオトが落ち着くまでずっとそうしていた。

「ヘリオト君は良い人だね……」

 上手く言えないけれど、ヘリオトは魂で話してくれているのだ。それはとても真っ直ぐで、純粋な思い。誠心誠意。その思いを黙って受け流すなんて出来ない。そう思わされる。けして強制ではない、魂の会話。彼は病気である代わりに、その能力を手に入れたのだろう。目には見えないけれど、確実にそれは彼の周りの人間――例えば、エリクスにだって根付いているはず。

(死なせたくないな)

 でも、それはリピカの力を持ってしても、無理な話だった。

(それどころか、あたしは)


 午前中の仕事はつつがなく終え、昼休みの鐘が鳴る。

 仕分けの失敗はしていないと思うが――改めて問われると、多分、エリクスは答えられない。今日は始業時間になってもアリアドネが姿を見せなかった。今日は休みという事になっている。それが気掛かりで仕方なかった。

(マズったな……やっぱ、昨日のうちに言っておくべきだったかも)

 事務員が連絡を受けて病欠という事になっているが、それもどうだか分かったものではない。こういうのが先延ばしになるのは、あまり良い気分ではなかった。

(今日の帰りでも寄ってみるか……)

 とにかく今日は自分で昼食を用意しなければならない。市場で何か買って帰ってくるか、それとも何か食べに出ようか迷った時、工場の窓にへばりついて食い入るように外を見つめている先輩方の姿に気付いた。

「何してるんですか?」

 うちひとりの先輩が振り返って、無言で窓の外を指差す。見てみろという事らしい。先輩達の間から外を覗いたエリクスは、何が言いたいのかすぐに分かった。

「げ……」

 工場の敷地内の塀にもたれ掛かって、腕組みしたまま身動きひとつ取らない男が突っ立っている。黒髪の男。道行く人の注意を惹き付けまくっているが、彼はそれを意にも介さない。

「……シャロウ・ヴィン」

 うめくように呟くと、また先輩のうちのひとりが賛同した。

「おお、エリクスもそう思うか! やっぱ、あれ、シャロウ・ヴィンだよな!」

「うちの工場に何の用だろうな。誰かを待っているようだが……」

 その言葉で、エリクスは頬を伝う冷や汗を感じた。

(まさか、俺か?)

 何にせよ、エリクスは街に出て、食事を取らなければならない。工場を出て、シャロウの前を横切る。伝説の英雄が目の前にいるというのに、それが分かっていてなんとそっけない態度だろう。目の前を過ぎる時も、シャロウの視線は完全にエリクスを追い掛けていた。

 そして、塀にもたれたままのシャロウが視界の外に消えようとした時、

「なあ」

 声を掛けられた。

 やっぱり顔は覚えられていたらしい。

「かくまってくれって言ったのに」

 恨めしい声で、シャロウ。

「アンタ、伝説の英雄だろ。あれくらいの窮地、自分の力で切り抜けてくれよ」

 朝はあまりにも突然の事で何がなんだか分からないまま終わってしまったが、今ははっきりと感じる。シャロウ・ヴィンが自分の目の前にいる。そして、話し掛けてきている。あまりの緊張に、出た言葉はかなり無愛想の一言だった。

「君、お子様相手に剣を振り回せるわけないだろう。怪物退治とは訳が違う」

「そりゃまあ、確かに……」

 よくよく見ると、シャロウの両頬にはまだ墨で落書きされたバッテンの跡が残っている。落としきれなかったのだろう。

「それで――英雄様は街の片隅の小さな工場で何を?」

「詫びだ」

「はい?」

「左頬のバツ印。こいつは愚鈍の象徴だそうだ。俺はあの後、子供達に捕まって、全員にソフトクリームをおごらされたよ」

 あの人数なら相当の金額に跳ね上がった事だろう。心底、同情する。

「さて、昼飯でも行こうか。君のおごりで」

 伝説の英雄は、意外と狭量だった。

「――ところで、この僕に昼ご飯をおごってくれる優しい君の名は?」

「エリクス・ヴィルナ」

 またもつい、口にしてしまった。


 呆気に取られながらも、エリクスは伝説と呼ばれた男から目を離す事は無かった。その認知度の高さゆえ、街を歩いているだけでも人目を惹いて仕方ないのに、本人は無関心で全くそれを気に留めようとはしない。

「どうした、エリクス。食べないのか?」

「い、いや。そーゆーわけではないんだけど」

 正面に座るシャロウのフォークとナイフが自分の皿に伸びようとしているのを警戒しつつ、首を振る。

「あまり……外で食べる事が無いから」

「なるほど。緊張してるんだ」

 普段から外食の習慣が無いエリクスは、シャロウが選んだ店でそわそわと落ち着きの無さを自覚していた。あと、財布の中身。工場から少し離れた所にある、この辺り一帯のレストラン街はそれなりに値も張る……と、聞いている。経済的に大打撃もいいところだ。

「あの、なんで、子供達と鬼ごっこを?」

 皿の上の肉を切り分ける手は休めないまま、シャロウは口を開く。

「ん、いやね。リュリアーサには両親が共働きで、ほったらかしにされている子供って多いだろ。旅に出てない時はたまにああやって遊んでるんだけど――」

 表情が曇る。苦笑という奴だ。

「いつの間にか、あんなに大勢に増えちゃってさ。いや、まいったよ。うん」

 出来るなら、喋るのか、食べるのかどちらかにして欲しいのだが。伝説の英雄は屈託なく笑い、食べ物を一度にたくさん頬張り、そして、良く喋る。そのうちに、

「さっきからずっと僕の顔を見ているけど、なんか付いてる?」

 そう尋ねられ、はっとして、首を横に振った。

「じゃ、じゃあ、まさかこの僕に惚れ――?」

「ば、馬鹿な事を言うなよっ!」

 力一杯否定すると、シャロウはにんまりとひりつくような笑みを浮かべ、ずずっとテーブルの上に身を乗り出してきた。エリクスは反射条件で、椅子ごと体を引く。

「それは残念だ。僕は一目見た時から君の事が気になっていたんだけどな……」

 ふぅ。

 吐息が掛かる。本格的に背筋を走り抜ける悪寒を覚えた。

「うわあああっ! お、俺はそんな趣味は無いぞ! はっ、侘びとか言っておきながら、実はそれが目的で俺に接触してきたのかっ!」

 その瞬間、シャロウ以上に周りの客の視線を集めまくったエリクスは思いつく限り当たり、喚き散らしていた。

「何言ってるんだい。気になるってのは、その事じゃないよ」

 やけに冷静に、シャロウ。

 真っ直ぐ平坦に戻った目は、奇異のものでも見るかのような目つきでこちらを一瞥し、機械的な動作で切り分けた肉を口に運んでいる。その視線と周りを交互に見やり、小刻みに頭を下げながら元の位置に戻った。

「……仕返しか」

 息を押し殺した周りのひそひそ話がやけに気になる。

「そうとも言うかもしれないね」

「さっきから思ってたんだが。アンタ、英雄と呼ばれる割には、心狭いんじゃないのか」

「英雄と呼ぶのは、僕じゃないよ。周りのみんなさ。もちろんそれが迷惑だなんて思ってはいなけどね。あくまで、僕は一個人。僕は僕らしくふるまうのみさ」

 しれっと言い放ち、なおも肉を食べ続けているシャロウ。

「随分と手前勝手な解釈だな。……で、気になるって事はなんなんだよ」

 そう問い掛けると、シャロウは初めて手の動きを止めた。そんなに重要な事なのだろうか。ナイフとフォークを置いて、ちょいちょいと手招きをする。耳を近付けろという事らしい。また吐息を吹き掛けられるのではないかと、内心びくびくしつつ、テーブルを乗り出す。

「実は……君には悪霊が取り付いている」

 エリクスとシャロウの間に、しらけた空気が漂う。一秒、二秒、三秒……エリクスは耳を突き出したまま、その体勢でしばらく固まっていた。やがて、身を乗り出した時の半分の速度ぐらいで、ゆっくりと椅子に沈み込んだエリクスは、軽く咳払いをする。別に風邪を引いたわけでも、煙草の煙で喉がいがらっぽくなった訳でもない。

 そして、一言。

「バカですか?」

「君は僕の言う事が信じられないというのか」

「はっきり言うと、そうなんだけど」

「既に、君の私生活に悪霊が入り込んでいるかもしれないんだぞ。ここ最近、何か変化は無かったか」

 色々と考えを張り巡らせて、ひとつの事実に突き当たった。

「あ」

「やっぱり何かあるんだな!」

「……でもなぁ、あれは悪霊じゃないだろうし」

 リピカの事だ。

「まぁいい。何かあったら僕に言ってくるといい。知り合い価格で何とかしてあげるよ」

「そりゃどうも」

 それで話を閉めてしまう辺り、本当の所はたいした問題でもないのかもしれなかった。

(全く、変な人だよ)

 エリクスが自分の分の食事を終える頃、シャロウは追加注文で頼んだコーヒーをすすっていた。そして、それも空にしてしまうと、ズボンのポケットから懐中時計を取り出し、文字盤が見える方をこちらに突き付けてくる。

「ところで、こんな時間なのだが、休み時間は大丈夫なのかい?」

 ダメだった。長針があと五刻みすれば、昼休み終了の鐘が鳴ってしまう。

「ヤバイですよ! 早く出ましょう!」

 テーブルの端に立てられていた伝票を取ろうとして、その手を遮られた。遮ったシャロウは自分でその伝票を掴み挙げ、精算を始めてしまう。自分の財布を取り出し、中の紙幣を数えているシャロウに背後から近付いて、

「あの……」

「まさか本気でおごれとは言わないよ」

 そう言って、顔面を造形をにへらと歪ませながら、綺麗なウエイトレスからお釣りを受け取るシャロウ。あるひとつの疑問が湧く。

(じゃあ、なんでこの人は俺に近付いて来たんだ……?)

 この昼食は、朝エリクスが迷惑を掛けた――つもりはないが――ので、おごれと言ってきた。だが、本当におごらせるつもりなんてなかったと言う。伝説の英雄は、ただ単に一庶民と会話を楽しみたかっただけなのだろうか。それとも……。

(本当に悪霊が……?)

 とにかく、シャロウに礼を言って、店を出る。すると突然、

「げっ!」

 引き攣った悲鳴と共に、シャロウが突然立ち止まった。エリクスはその背中に鼻頭をぶつける。

「な、なんで急に止まるんだよ……」

 少し上半身を傾けて、シャロウの向こうを覗き込む。そこには、

「うわ……」

 思わず、エリクスも声を上げる。

 今朝の子供達が、店の入り口をすっかり包囲していたのだ。

「おひるはすぎた。だいにかいせんのかいしだ。シャロウ!」

「シャロウぅ!」

 じりじりと後退していくシャロウに押されて、エリクスもゆっくりと店の方へ押し戻されていく。こんな事で時間を取っている場合ではないのに。

 と、その時、シャロウがかろうじて子供達には聞こえないぐらいの声で話し掛けてきた。

「こ、ここはおとり作戦しかないな……」

「おとり?」

 どうやって?――そう尋ねる前に。

「僕は逃げる。君はここに残って子供達を引きつけておいてくれ」

「いや、そんな事言ったって」

「命があったらまた会おう!」

 少し助走をつけたシャロウは跳び上がって、見事に子供達の頭上をすり抜け、そのまま人ごみの中に消え去っていった。

「にがすな、おいかけろっ!」

「かけろぉ!」

 だだだだだだだっ!

 朝見たときと全く同じ光景が繰り返される。子供達は蜘蛛の子を散らすようにして、まっしぐらにシャロウを追い掛けて行ってしまった。言うまでもないが、全員だ。子供達の目標はあくまでシャロウであって、エリクスではない。

「おとりも何も……ないだろ」

 遠くでは、工場の鐘が聞こえてきた。


 普段はエリクスが、朝の内に昼食を作っておいてくれるらしいが、今日はせっかく自分がいるので、ヘリオトの昼食はリピカが作った。

 魔女の食事が人間の口に合うのかどうかも知らないが、とにかくヘリオトは喜んで食べてくれていた。ただ、緑色のぐつぐつ煮立ったスープだけは引いてたみたいだった。トカゲの干物や処女の肝臓を出した時の反応を見たかった気もする。それらはリピカにも食べる趣味は無いが。とにかく、誰かに食べさせる為に料理をするというのは、それはそれで張り合いあるものだと今日初めて知った。

「さてと。何をどうしよっかな」

 街に出てくると一言断って、リピカは外の空気を吸っていた。

 やらなければならない事はさておき、やりたい事はいくらでもある。例えば、エリクスの工場に遊びに行くとか。昨日の――確か、アリアドネとかいったか。その娘の誤解も解いてやらねばならない。

 リピカがある通りの十字路に差しかかろうとした時、何処かで聞いた声がどんどん近付いてくる。

「あひゃあーひゃーっ! 助けろ、ガキども! いやマジで!」

 かなり切羽詰った声だった。しかも大勢の足音を引き連れている。それは、リピカが横切ろうとしていた十字路を右から左へ、一気に駆け抜けていった。少し遅れて、大量の子供達が負けじと追い掛けて行く。

「あ、あれは……」

 幸いこちらの顔は見られなかった。昨日、名前を聞いた時からヤバイとは思っていたが、こんなに近くで出くわすとは。

 だが、すぐにまた長く尾を引く叫び声が戻ってくる。

「も、もうイヤぁっ! 捕まったって、ソフトクリームはおごらねぇぞぉっ!」

 今度は左から右へ。

 そして、つい一瞬前よりも更に大量の子供達がその男を追い掛けて行った。

「おうじょうせぃや、シャロウっ!」

「シャロウぅ!」

 子供達が叫んだ名前を反芻したかったわけではないが――

「シャロウ・ヴィン……」

 リピカは呟くしかなかった。


 午後の仕事も特に何の問題も無く――遅刻した事以外は――、すみやかに夕刻を迎えた。

 業務終了の鐘が鳴ると同時に更衣室を飛び出して、工場を走り出るエリクス。すると、

「おとり作戦だって言ったのに」

 昼間と全く同じ格好で塀にもたれているシャロウがいた。彼が着ている衣服は、明日からはもう着れないほど、ぼろぼろになってしまっている。髪もばさばさに乱れていた。

「今度会ったら言おうと思ってたんだけど、あの場合、既に顔さえ見られてて、おとりも何もあったもんじゃないだろ」

「ああ、逃げてから僕も気付いた」

「それにしても、また酷くやられたな」

「子供というものは、手加減を知らないようだ」

 アンタだからじゃないのか――とは、心の中だけに留めておく。子供に好かれる人間に悪人はいまい。

「で、今度は晩飯か?」

 聞くと、分かってるじゃないとかいう風で、ゆっくり頷く。だが、エリクスはキッパリと言い切った。

「――あいにくだが、今、うちには病弱な弟と、良く分からん居候人がいてね。そいつらにも食べさせなきゃなんないんだ。うちまでご足労願えるなら、ご馳走はするけど」

「ああ、最初からそのつもりだった。その居候とやらに会いたい」

「は?」

 やっぱり、こいつは他にも何か目当てがあったんだ。まるで、最初から全てを知っていたような口振り。昼食時にシャロウ相手はもちろんの事、ほとんど口外していないリピカの事を何故知っているのだろう。エリクスの中で一気にシャロウへの警戒心が高まる。

 と、その時。

「おーい! エリクスーっ!」

 その居候の声がした。

 背後上空からいきなり現れたリピカは、落下しながらエリクスの首をへし折らんばかりの勢いでしがみ付いてくる。

「ぐえええぇっ!」

 リピカが着地した時には、エリクスの体は弧を描くように反って――そして、地面に落ちる。

「あ、やりすぎ」

 のんきなリピカの声が聞こえてきた。首元をさすりながらゆっくりと立ち上がったエリクスはリピカを掴み上げる。

「お前な! もう少しで死ぬ所だったぞ!」

「大げさだよ」

「大げさじゃない! 全く」

 勢いあまって掴みかかってしまったが、ちょうど良かったので、そのままリピカをぐいっと引っ張ってシャロウの方へ突き出した。一瞬――それよりも少し長く見詰め合う二人。

「あーっ!」

 声を上げたのは、リピカの方が先だった。

 そして、もたもたとこちらの手を振り解き、脱兎の如く逃げ出そうとする少女。が、すぐに首根っこを掴まれて、止まる。止めたのは、シャロウだった。リピカがぐっと睨むと、彼はすぐに手を離したが、

「お久しぶりですね、リピカ様」

 シャロウは片膝をついてまで、そう言ったのだ。

「リピカ……さまぁ?」

「ひ、ひさし、ぶりね。シャロウ……元気に、してた?」

 リピカの表情が複雑に彩られていった。なんだろう。笑いを堪えている訳でもなさそうだ。ましてや怒りでもない。悲しみでも喜びでも。一番見つかってはいけない者に、ついに見つかってしまった。かくれんぼを楽しむような子供のようでもあったが、少し違う。

「ええ、おかげさまで」

 どうしてだか、平坦な口調のシャロウだったが、次に続いた言葉はぐっと低くなっていた。

「……貴女様に捨てられてからは、特に」

「あ、あは、あはははっ! じゃ、じゃあ結果的には良かったって事なのかなっ」

「そうとも言えますし、違うとも言えますね」

 二人の様子は対照的だった。なんとか場を明るくしようとするリピカ。そんな事はお構いなしに、まるで溜めてたものを一気に吐き出すようなシャロウ。相対するような空気の狭間で、エリクスは身動き取れないでいた。動けば、矛先がこちらに向いてしまうような予感があったから――何故だか。

「あ、あたしがここにいる事、良く分かったね」

「魔の記憶を辿っていたら、偶然に」

 それを聞いた瞬間、リピカの表情がするりと入れ替わった。こんな真面目な顔をした彼女は初めて見る。

「……シャロウも感じたの?」

「はい」

「そう。やっぱりあたしの勘違いじゃなかったか」

 リピカはシャロウから視線を外し、すっと踵を返してエリクスの方に向き直った。少し迷ったらしいが、意を決して彼女が口を開いた瞬間――

「見つけたぞ、シャロウ!」

「シャロウぅ!」

 リピカの声の代わりは、大勢だった。

 信じられない面持ちでシャロウが、そして、エリクスとリピカの視線がそちらへ向く。もはや言うまでもない。三度、シャロウは子供達の部隊に取り囲まれていた。

「こ、子供って……体力あるよな……」

 半分ほど、諦めが混じった声が夕焼けの空に響く。

「さらばだ、エリクス。リピカ様」

 まるで、命の覚悟を決め、戦地に赴くかのような雰囲気をまとい、シャロウが一歩前に出る。きっ、と子供達を一瞥し、それから背中越しに、

「夕食はご馳走になりに行く。先に帰っていてくれ」

「アンタ。俺の家を知っているのか?」

「ああ、何故か」

「何故か、じゃねぇだろ!」

 いつの間にか下調べをしていたらしいシャロウに向かって怒鳴る。

 それが戦闘開始の合図になってしまったらしく、飛び掛ってきた子供達をちぎっては投げちぎっては投げ、シャロウは包囲網から飛び出し、子供達と共にあっという間に姿を消してしまった。

「どーゆー奴なんだ、アイツは……」

「見たまんまだよ」

 リピカは苦汁を飲まされたように呟く。そして、

「さ、ヘリオト君が待ってるよ。早く買い物して帰りましょうよ」

「ああ」

 リピカに背中を押されて歩き出すエリクス。次の言葉も背中で聞いた。

「今夜辺り、ちょっと厄介な事になるかも。迷惑はかけないから……許してね」

 その意味は分からなかった。

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