4.気付かされた想い

「じゃあ俺はそろそろ仕事に出かけるよ。リピカ。すまないが、ヘリオトの事をよろしく頼む」

「あたしを信用していいのかい。アンタが帰って来た時にゃコイツの命はなくなっているかもよ。ひゃっひゃっひゃっ!」

 身支度を整えて食卓に帰ってきた時には、のうのうと朝食を食らっていたリピカに頼むと、誰の真似だか知らないが、そんな答えが返ってきた。

「シャレにならん事を言うのはよせ」

 ぺしんとリピカの頭を叩いて、扉を開く。向こうでは、ぶーぶー繰り返し罵っているリピカの声がいつまでも続いている。ヘリオトはというと――弟はずっと笑い続けていた。

「行ってらっしゃい、兄さん」

 もう何年も。

 通い慣れた道を辿って工場へ急ぐ。空は今日も快晴。動き始めた街は静けさの中に、僅かな喧騒を内包し始める。市場が動き始めたのだ。白い翼を広げた鳥がばさばさと飛び去っていく。有り体に言って、気分がいい朝だった。こんなに良いのは何年ぶりだろう。

「あ、おはようっ」

 工場に辿り着くと、ちょうど事務室の中から出てきたアリアドネと鉢合わせになった。彼女は手にした箒をそのままに、

「なぁに。今日は朝手伝いにきたのに、エリクスの方が遅刻? 昨日だって突然欠勤しちゃうしさ。昨日も来てたんだよ、私」

「いや、その」

「……ヘリオトに何かあったって訳でもなさそうよね。なんだか嬉しそうな顔をしているから」

 どうも自然と頬の辺りが緩んでしまっていたらしい。反射的に頬に手を当て、ぐっと持ち上げる。

「ヘリオトの心からの笑顔を久しぶりに見たような気がしてさ。ちょっとね」

「ふぅん。何か良い事でもあったの?」

「それが――あぁ、いや、俺も先に着替えてくるよ!」

 一昨日、森であった出来事――すなわち、リピカの事を話そうとして、はっと我に返ったエリクスはアリアドネの視線から避けるように、更衣室へ逃げ込んだ。作業場を覗き込める小窓からアリアドネの様子を伺うと、彼女は訳が分からずに小首を傾げている。

(やっぱ。マズイよなぁ……)

 今、うちに居候の少女――見た目ほど若い訳ではないが――がいるんだ。

 どうしてか、その一言だけは言ってはならないような気がする。リピカがやって来た事で幾分明るくなった我が家と自分。それに冷水を浴びせられるような感触を覚えた。同時にアリアドネに対して後ろ暗い気持ちと、黙っている自分への嫌悪感と。

(リピカがいればさ。ヘリオトの病気だって治してもらえるかもしれないんだから)


 一方その頃、リピカは――

「動かないで。リピカさん」

 食事の時とはまるで別人のように、まさに針で縫い付けるかのような厳しい一言がリピカを突き刺した。ただ椅子に座っているだけ。どうしてこれがこんなにも苦痛なのだろうか。

(ううぅ、いっその事、外にでも遊びに行きたい……)

 普段は屋内で新しい薬を作り出すための実験や、召し使い用の人形作成を繰り返してばかりのリピカは、さほど外に出る事に興味があるわけでもないのだが、朝食後からずっと続くこれは拷問にも近いものがあった。昨日のように、外に出て子供達の餌食になるのもゴメンだが。

 視線だけを無理矢理動かして、ヘリオトの横顔を覗き見る。彼は真剣そのもので、ずっと画布に向かっていた。初めに見た時は、ぶっきらぼうで少し野性味のある兄とは違い、大人しくて頼れなさそうな男だと思っていたが、どうもそれは誤った見解だったようだ。静かではあるけれど、兄よりもはるかに凄みのある情熱を宿しているように思えるヘリオト。一昨日の夜、エリクスから病気の事を聞かされたこともあって、なおの事、彼から今を必死に生きようとする力が感じられた。

(確かヘリオトはもうすぐ自分が死んでしまうって事知らないのよね。凄い人だよ)

「……カさん」

 最初、横目に見惚れていて、呼ばれているのに気付かなかった。

「リピカさん」

「え、あ。は、ひゃいっ!」

 慌てた上に、裏返った声が上がる。今の自分は間違いなく不審に思われた事だろう。

「疲れた?」

「だ、だいじょーぶよっ!」

 咄嗟に意地を張って、すぐに後悔する。やってる事はヘリオトに向かって直角に座り、姿勢良く窓の外を眺める少女を演じているだけなのだが。

「リピカさんは普段何をやっているの?」

「あたし? ……そうねぇ、あたしは――」

 一番返答に困るような事を一番最初に聞かないで欲しい。眠っていた思考を揺り動かし、一番当り障りの無い答えを模索する。

「あたしは、図書館の司書をやっているの。リュリアーサから遠く離れたところでね」

 もっともらしい嘘を付くコツは、嘘に本当の事を少し混ぜる事だと誰かに聞いた。リピカの口を突いて出たのは確かに嘘だったが、全く見当違いの的外れでもない。

 だが、ヘリオトは疑う事もなく、感心して頷いてくれる。

「へぇ、そうなんだ。たくさんの本に囲まれて、楽しいんだろうね」

 何一つ嫌味の無い言葉だった。ヘリオトにそんな気持ちがひとかけらもない事は分かる。だが、リピカには少し鼻につく言葉だった。

「楽しいなんて思った事は……ないわよ」

「どうして?」

「どうしてって――」

 ぐっと息を飲み込む。思わず口を突いて出そうになった言葉と共に。

「やりたくもない事をやらされて――あたしがやりたい事は何一つ自由にさせてもらえないから」

 それ以上は何も尋ねて欲しくないと、何も悪くないヘリオトに対して抑制の言葉を用いる。

「僕はやりたくない事さえ出来ないから……羨ましいけれどな」

 気付いてくれたのだろう。だが、彼は嫌な顔一つせず、そう呟いて、再び画布に視線を落とした。

 言葉は続く。

「今、こうしている間にも僕の記憶は失われてるらしいんだ。もう、何が思い出せないのかも思い出せない。兄さんの事と、絵を描く事。そして、君の事を覚えているだけで、今はもう、本当に精一杯なんだ……」

 傷つけたかもしれない。

(ごめん)

 口に出来ない言葉は、結局何の意味も成さないものだというぐらいは知っていたけれど。

「……ちょっと休憩しましょうか」

 ヘリオトがそう言ってくれたので、正直助かったと思った。肺の中に溜めていた空気をぶはっと吐き出し、手と足を投げ出す。それから椅子を立ち上がって、うんと背伸びをすると、重力に任せ脱力し、首を左右に動かす。

「ね。ちょっと街の方へ行って来ていいかな」

「ええ、いいですよ。僕は案内できないけど、大丈夫ですか?」

「うん、だいじょぶ。適当な時間で帰ってくるから!」

 笑顔で送り出してくれたヘリオトに手を振り、どことなく張り詰めていた空気が漂う家を出る。森をくぐり抜け、街に出たリピカはエリクスの残り香を辿って、彼が働いているという工場を探した。

「……人間の街にしては、まあまあ活気のある良い街だね。大きすぎず小さすぎず」

 昨日、リピカが抱いたリュリアーサの街の印象はそんなものだった。自分の足で訪れ、感じたものだ。それ以外は何も役に立たない。頭の中に詰め込まれただけの知識など。

 残り香が途切れ途切れになってきて、途方にくれたリピカはとりあえず街路の隅に立ち止まった。残り香といっても、本当にエリクスの体臭が残っているわけではなく――それにリピカの鼻がそれほど効くという訳でもない――エリクスが通った後に残る彼の思念の残骸のようなものだ。リピカにはそれを感じる能力がある。だが、人通りが多くなったこの道では、その残り香も拡散され、薄くなってしまっていた。

「これじゃあ完全に見失うのも時間の問題ね」

 諦めたように呟いたリピカは空に向かって腕を伸ばした。しばらくして、その腕に一羽の白い鳩が舞い降りる。広場で撒かれた餌を食べていた奴だ。その小さな頭に軽く指を突き付けて、

「そう、そう。こんな感じの顔だよ。頑張ってね!」

 ばさばさばさっ!

 鳩は、一直線に空へ消えていく。

(でも、どうして。人が大勢集まったぐらいじゃ見失わない自信あるのに。まるで別の思念で上塗りされたみたいに……もう、ここまで来ているっての?)

 その鳩はとても優秀でその一刻ぐらい後には、エリクスの居場所を見つけて、リピカの元に舞い戻ってきた。


 今日のエリクスの割り当ても最終工程の箱詰め作業。目まぐるしいと言うほどでもないが、休む暇もない。長い間、持続する集中力を求められる。

「良し……これも良し……これも良し……これも良し……おっと、これはこっちの箱……これも良し……」

 この作業を担当する者はみな、ぶつぶつとコンベアに向かって喋りかけているような姿を目撃されている。『念仏の場』なんて名前で呼ばれる事もあるほどだ。知らず知らずのうちに繰り返すようになる。端からは一見気味が悪くて、面白い。

「これも良し……お、ちゃんとベルトの上を流してくれよ。瓶が空飛んでくるなんて――」

 ふわふわと宙を浮いている瓶を掴もうとして、エリクスはようやく異変に気がついた。

「――って、えええっ?」

「ふむふむ。これが人間界で広く出回っているポーションか。……うっわー。予想通り粗悪な出来だね」

 昨日までならそれは空耳として処理していたかもしれない。どんなにはっきり聞こえたとしてもだ。だが、今日のエリクスにはそういう頭の処理を行う事が出来なかった。知ってしまっているから。

「リピカっ!」

 思いも寄らぬほどにエリクスの叫び声が工場中に響いた瞬間、それに重なるようにして昼休みの鐘が鳴り響いた。エリクスの前にあるコンベアも一斉に動きを止める。そして、それが合図だったようにリピカも姿を現した――何もない空気中からゆっくりと染み入るように。長いブロンドの髪の、黒いビスチェとあまり長くないスカートを穿いた女が、どうしようもなくエリクスの隣に立っている。

「バカ、おまえっ!」

 それからのエリクスの行動は早かった。誰かに見られる前にその女の首根っこを引っ掴み、工場の外へと逃げ出す。まだそこでも油断できない。リピカの首根っこはそのままに、金属製の非常階段を上へ上へと駆け上げる。出来る限りの全力疾走で。屋上にたどり着いた時には、一生のうちにあるかないかぐらいの激しい動悸に見舞われて――きつく肩を上下させながら、リピカの首をその辺に投げ捨てた。

「もお! 何すんのよ! それが一夜を共に過ごすこのあたしに向かってする仕打ちなのっ!」

「他人が聞いたら誤解されそうな言い方をするな!」

「事実だよ」

 端的に切り返されて、一瞬言葉に詰まるエリクス。

「そ、それにっ! 俺の仕事場に勝手に潜り込むな! だいたいどうやって見つけたんだよ!」

「鳩さんを使役してね。エリクスを空から探してもらったの」

「ヘリオトはっ!」

「快く見送ってくれたよ」

「……そういう事を聞いてるんじゃなくてだな」

 結局、回復が追いつかずに、ふらふらと柵を背にしてしゃがみ込む。

「やっぱり殺しちゃったって言った方が良かったの?」

「不謹慎だと何回言わせる」

 もう一度、頭を叩こうとして右手を振り上げた時――非常階段の向こうに人影を見つけた。アリアドネだった。彼女は出る機会を失ったのか、片手に包みを持ったまま、階段を行ったり来たりしていた。ちょうど振り上げた腕で、呼び掛ける。

「おーい、アリア!」

「……エリクス」

 アリアドネはちらちらとリピカに視線を送りながら、こちらまで歩いてきた。ちょうどエリクスの三歩手前でぴたりと止まり、俯いたまま何も言わない。いつもは自然にアリアドネの方から包みを手渡してくれていたものだから、いつもとは違う様子にエリクスは戸惑った。

「えぇと……」

「し、知り合いの女の子、なの。エリクス?」

 ようやく搾り出したという様子で、アリアドネ。もちろん、リピカの事を聞いている。返答に困って、リピカの様子を窺う。すると、彼女は目配せで「任せておけ」なる合図を送ってきた。ここは下手に自分が弁明すると、かえってこじれるかもしれないと考えたエリクスは彼女に任せてみる事にして、

「はじめまして。あたし、リピカ。今、訳あってエリクスの家に居候させてもらってるんだけど――」

 そして、後悔した。

「居候……エリクスの家に……?」

 信じられないと、アリアドネは一歩後ろに下がる。エリクスが何かを言うより早く、手に持っていた包みをこちらに押し付けて、

「そ、そう。そっか。今日の朝からずっと機嫌が良かったのは、そうだったんだね……」

 前髪の奥に表情を隠して、アリアドネは走り去ってしまった。

 ひゅーっと、冷たい風が屋上で小躍りしながら駆け抜けていく。その瞬間だけがいつもよりも相当早く過ぎ去っていったような気がして、エリクスは今起こった事を頭の中で何度も吟味する事だけで精一杯だった。つまりは、そういった事が重ねられた沈黙の上で、リピカが他人事のように、ひどく無責任な声を上げる。

「あ、あー。泣かしちゃったかも」

「……お、お前が泣かしたんだろうがっ! なんで先に! 単刀直入に! 恐ろしく端的に! それを言うかな!」

「あたし、回りくどい事はあまり好きじゃないし」

「お前の好みは聞いていない!」

 リピカの胸倉を引っ掴み、がくがくと揺さぶる。もう、相手が女だろうと関係ない。

「そ、それに説明はちゃんと続ける気だったよ! あの娘が短気なだけじゃんか!」

「お前は俺とアリアの仲を潰す気か!」

「こんな事ぐらいで潰れるなら、所詮それまでの仲だったという事よ」

「家に泊めてやると承諾した俺が言うのもなんだが、他の女が居候しているというのは、かなり致命的だと思う」

「うん、エリクスが言う事じゃないね」

「……うるさい」

 なんだかこっちも泣きたくなって、アリアドネがくれた包みをしっかり抱えながら、更に腰を沈ませた。ずるずると足が伸びていって、視界は低くなっていく。その頭上を――三、四人の人影が包んだ。みな、一様に自分と同じ作業着を身にまとい、そして、厳しい表情をしている。

「うっ……先輩……がた」

 うめくように、エリクス。

「アリアドネが泣いて通り過ぎてったぞ。どういう事だ、エリクス」

「お前が毎日お弁当を作ってきてもらってるのは知ってたんだぜ」

「それをなんだ。お前は浮気か」

「アリアドネを泣かすヤツはこの俺が許さねぇっ!」

 かなり本気の、力が入った拳が飛ぶ。

 全員に綺麗に一発ずつ貰ったエリクスは、切ってしまった唇の端から滲む血を吐き捨てて、嘆息した。そして、叫ぶ。

「ぐあああっ! なんでこうなるんだ!」

 アリアドネは俺が貰うとか、アリアドネは俺が守るとか、アリアドネは実は俺の事が好きだとか、口々に勝手な事を言いながら去っていく先輩達の背中を見つめて――一番後ろを歩いていた先輩の背中が急に消えるのをはっきりと目撃した。あまりに不自然で、訝りながら目を擦る。少し視線を下へ逸らすと、その先輩は蹴躓いて、地面とキスしていた。他の先輩達の笑い声に混じって、すぐ隣からも少女の笑い声が聞こえた。

「あはは、ばーか」

 と、小さく罵る忍び声と共に。

 よく見ると、リピカの手の中にはあの人形とも言えない木彫りの人形が握られていた。一方で、転んだ先輩はようやく立ち上がり、また歩き出そうとしている。それに合わせて、リピカは手にしていた人形を投げた。すると、その先輩は、今度は宙を飛ぶようにして腹から地面に落下した。そう、リピカの人形が辿った軌跡そのままに。

 まるで――

「あっ、こら、お前!」

 目敏くそれに気付いたエリクスは、リピカがその人形を拾うより早く、奪い取る。

「何するのさ。よってたかってエリクスが殴られたから、仕返ししてあげようと思ったのに」

「いーんだよ。全く。ん、髪の毛が入ってるな。これで呪いか何かを掛けたってのか」

「ご名答っ」

 人形の背中には蓋があって、それを開けると、数本の髪の毛が入っていた。さっきのどさくさに紛れて、リピカが掠め取ったものなのだろう。

「まぁ魔女でありながらドールマスターでもあるこのあたしに掛かれば、呪いの人形から、人間と見分けつかないそっくり複製まで、どんなものでもお手のものだよ」

「人に迷惑だけはかけるなよ」

 エリクスってば真面目だねぇなんて声が聞こえたが、それはあえて無視する。続いて、

「んで、エリクスはいつまでこんな所にいるの」

「は?」

「だって、あの娘には嫌われるし――」

「災いの元が何を言うか」

「この工場で作ってるポーションも思った以上に粗悪品だし――」

「お前。この工場は小さいながらも、リュリアーサの街で一、二を争うほど良質なポーションを作るって、それはもう大層評判なんだぞ」

「ふぅん……だから、人間の冒険者は怪我した後、なかなか治らないんだね。病気や古傷が元でよく死んだりするんだよ」

 エリクスは開きっぱなしの口を閉じるので精一杯だった。昨夜、リピカがヘリオト相手に見せてくれた魔女の秘薬。確かにあれは、凄まじい効き目を発揮していた。飲ませた直後には、落ち着きを取り戻していたほどだ。おそらく薬の純然たる材料の他に、リピカの癒しの魔法か何かが掛けられてあったのだろう。エリクス達が毎日作っているポーションなど、あくまで体に良い様にしか作られていない。リピカのと比べられたら、この世の薬のほとんどはお粗末なものとなってしまうだろう。

「はっはっはっ!」

 突然、虚空に大きな笑い声が響き渡った。野太くて、力強い声だ。エリクスには聞き覚えがある。

「……ま、まさか」

 そいつは――いや、その人は屋上よりも更に一段高い給水塔からのそっと現れた。

「社長っ!」

 この工場の社長ハウド。エリクスの雇い主が。

「一部始終聞かせてもらったぞ、お前ら。特にそこの嬢ちゃん。うちの製品が粗悪品だなんて言ってくれるねぇ」

 にやにやとしながら、ハウドは楽しそうに言う。

「あたしは本当の事を言ったまでだよ」

 もう悲鳴にもならず、エリクスはリピカの口を必死に抑えた。今ならこの娘の小首を捻って、絞め殺す事も出来そうだった。リピカは抑えられた口の下で「放しなさいよ、あたしがあの小僧に薬の何たるかを教えてあげるわ!」とかなんとかうめいている。

「す、すみません、社長!」

「いいや、いいって事よ。今度是非良く効く薬の作り方を教えてもらいたいもんだな。それから――時に、エリクスよ。悩めるお前にひとつの格言を送ろう」

「は、はい」

「女は泣かすな」

 呆気に取られているエリクスを見て、また大きな笑い声を響かせたハウドは、梯子をつたってエリクスの傍まで降りてくる。そして、肩をぽんぽんと叩いて、こう続けた。

「まぁ悩めよ、青年」

「ちっ、違います! て、てゆーか、社長はどうしてあんな所にいらしたんですかっ!」

 エリクスが突き出した指は給水塔を指した。

「いや、昨日別れた女がしつこくてな。逃げ回っているうちにあそこに辿り着いて、そのまま寝てしまったって訳だ」

「仕事してくださいぃっ!」

 アンタも女を泣かしているじゃないか、とは言えなかった。ハウドは大きな笑い声で肩を揺すりつつ、非常階段を下りていく。

「……つっ!」

 それをいつまでも見送っていると、突然指先に鋭い痛みが走った。

「いつまであたしの口を塞いでんのよ! 窒息死しちゃうじゃない!」

 ささくれ立ったエリクスの指先に、リピカの歯形がくっきりと残っていた。


 夕刻。今日は終業の鐘とほぼ同時に工場も閉じられた。

 エリクスにとって心残りだったのは、昼休み後からアリアドネと話す機会が無かったという事。誤解――ある意味、誤解ではないのだが――は解かれぬまま、彼女は帰ってしまった。

 とぼとぼと市場へ向かうエリクスのすぐ後ろをリピカがついて来ている。昼休みが終わった時に家に帰って、ヘリオトの絵のモデルをやってたらしいのだが、この時間になってまた出てきたのだ。魔女は部屋にこもりっきりで怪しげな実験を繰り返してばかりの人種じゃなかったのか。

「もう、元気だしなよー」

「……はぁ」

「何度も言ってるじゃん。もしあの娘がそうだったのなら、エリクスの事も信じてくれてるって!」

 そもそもその事でもう悩んでいるわけではなかったエリクスは、くるりと踵を返し立ち止まる。リピカもつられて足を止めた。

「もうその事は良いんだ。明日、ちゃんと説明するから」

「じゃあ、なにさ。なんでそんなに肩落として歩いてるの」

「リピカには分からないかもしれんが、俺は……時々家に帰るのが怖いって思う時がある」

「怖い? なん――」

 なんで?――と聞きたかったのだろう。だけど、リピカ本人もその言葉の途中で察してくれたようだった。

「あ、なるほど。ヘリオト君の事か」

 言葉にはせず、頷いておく。

 そう、ヘリオトが――自分が戻った時に、お帰りと言ってくれなかったら。兄と呼んでくれなかったら。記憶を失うという事は、つまり自分を失うという事だ。ヘリオト自身が抱いているであろう恐怖は計り知れない。そして、それをなす術も無くただ見守っている自分も、逃げ出したくなる時がある。

「だいじょぶだって。ついさっきあたしが出てくる時は、何ともなかったんだから」

「……君はいつも前向きでいいね」

 皮肉めいた口調で言ったつもりだが、リピカには通用しなかったようだ。少女は嬉しそうに大きく頷いて、

「世界をひっくり返してみたら?」

「世界を……ひっくり返す?」

「そ。右にあるものを左に。下にあるものを上に。悪い事は良いように、考え方を切り替えてみるの。それだけで、エリクスの見える世界は随分と変わるはずよ」

「例えば?」

「死とは、新たなる生への旅立ち。そう考える事も出来るんじゃないかな」

「そう簡単に言うなよ」

 確かに、リピカの言う事には一理あるかもしれない。だが、そんな風に簡単に切り替えられるものなら、多分、この世の中の誰も何も悩まないのではないだろうか。それが出来ないから、みんないろんな事で悩んだりしているのだと思う。

(どんなに痛みを伴っても、変えられないんだ)

 生れ落ちてまだ十七年目の小僧はそう思う。

 それが何百年も生きてきた魔女との違い、なのだろうか。

「今の言葉は胸に留めておくよ。善処はする」

「ま、無理だと思うけどね。エリクスには」

「なら、言うなよ」

 馬鹿にされたような気がして、むくれたエリクスは大股で再び歩き始めた。

「ああ、アカシック・クロニクルがあればなぁ……」

「アカシック・クロニクル? なにそれ? なんで、そんなのが欲しいの?」

 驚きが混じっていた為か。リピカが一段声を高くして尋ねてきた。再び振り返ってみると、彼女は足を止めていた。今度はエリクスがつられて足を止める。

「アカシック・クロニクルってのはな――」

「知ってるよ。宇宙の記憶、でしょ」

「あ、ああ。この夕焼けの空の向こうには、宇宙って場所が存在してて、そこはこの空よりももっともっと大きな場所なんだってな。じゃあ、その記憶があれば、ヘリオトを助けられるんじゃないか――って、俺が勝手に思ってるだけだよ。アカシック・クロニクルがヘリオトの記憶の肩代わりをしてくれるかもしれない。いや、そうじゃなくても、アカシック・クロニクルには、ヘリオトの病気を直す術が記述されているかもしれないってな」

 リピカは何も言わず、呆然と突っ立っている。

「ま、おとぎ話を信じる俺もどうかしてると自分で思うけど。気にしないでくれ」

 言い終わっても、何の反応も返してくれないリピカを不審に思い、彼女の顔を覗き込もうとした時、微かに彼女の唇が動くのを見た。

「……アレは……そんな類のものじゃなかった……ような、気がする……」

「は?」

 その、瞬間。

 がやがやがやがやがやっ。

 さっきまで人通りも自分達以外ほぼ皆無で、まるっきり誰もいないゴーストタウンさながらだったこの通りがにわかに活気付き始め、ついには溢れるぐらいまでの人だかりが、エリクスとリピカを無理矢理押し流していく。市場とはまるっきり逆の方向へ。

「うわああ、な、何だ。急に!」

「いったいっ! あんまり押さないでよ、エリクス!」

「しょ、しょーがないだろ!」

 人だかりは老若男女問わず、様々。なんだろう。一体何が始まると言うのだ。年に一度のリュリアーサの街あげてのお祭りでさえ、ここまで人は集まらない。

「ちょ、ちょっと、こ、この人だかりは何なんですか!」

 手っ取り早く捕まえた隣の男に尋ねる。

「いや、伝説の英雄シャロウ・ヴィンが久しぶりにこの街に帰ってきたんだとさ! す、すぐそこにいるらしいんだけど!」

 男は人だかりに押されながら、必死に飛び跳ねていた。

「シャロウ・ヴィンだって!」

 同じようにして、エリクスも飛び跳ねるが、見えるのは、取り巻きの人間ばかり。どこにシャロウはいるのだろう。そのうちにくいくいと服の裾を引っ張られて、エリクスは飛び跳ねるのを止めた。引っ張ったのは、もちろんリピカ。

「シャロウ・ヴィンって、誰?」

 そう尋ねられて、一瞬眩暈を覚えた。本気で仰向けに倒れそうになった。だが、彼女は魔女なのだという事を思い出し、それならば人間達の間では有名なシャロウ・ヴィンの名を知らぬのも当たり前かと思い直す。

「シャロウ・ヴィンってのは、俺達人間の間で最高の冒険者と呼ばれている伝説の英雄さ。っていっても、まだ若いんだけどな。そのシャロウがこの人だかりの向こうにいるらしいんだ!」

 なんとかして一目拝もうと、エリクスは努力したが無駄な徒労に終わる。見るのを諦めてリピカの腕を引っ張り、道の脇に退避した。人だかりの中心と思われる所が、ぎりぎり自分達の前を通り過ぎていく。

「すっげぇ人気……」

 あっという間に人がいなくなって、嘆息交じりにそう呟いた。隣にいたリピカは何度も何度も同じ事をぶつぶつ呟いている。

「シャロウ・ヴィン……シャロウ・ヴィン……シャロウ……うっ!」

 そして、突然あからさまに顔を引き攣らせたリピカは、

「ああああっ! そうだよそうだよ! ヘリオト君の事が心配だったんだね! あたし先に帰って様子を見てるね。市場で買い物して帰るんでしょ、じゃっ!」

 さっと片手だけで合図して、逃げるように走り去っていく。

「なんだぁ、アイツ……」

 最後のあれは、知っている者の反応だった。


 そして、伝説の英雄シャロウ・ヴィンが戻ってきたという街中の大事件も知らなければ、エリクスの胸中すらも知らない彼女は――

(あーあ。私、なんでこんなに落ち込んでるんだろう……)

 赤く染まった街並み。長く伸びた黒い影を引き連れて、アリアドネは家路を辿っていた。昼休みの後、自分からなんとかエリクスに話し掛けようとしていたのだが、どうしてか憚れて――エリクスの前に見えない壁があるような錯覚まで覚えた――結局、こうやって帰り道に後悔している。

 ずっと一緒に、隣にいられると思っていた。自分はエリクスの事が好きで、過剰な期待はしてなかったけれど、エリクスの方も自分の事を憎からずぐらい思ってくれているものだと、勝手に思い込んでいた。

「そこがそもそもの間違いだったのかしらね」

 自嘲気味に笑う。

 昼からずっと保っていた平静の欠片が、ついに顔から剥がれ落ちた。そうなると、涙と嗚咽がただ溢れ出るばかり。

 今日、いつもなら自分がいるはずの場所に、自分ではない、他の誰かがいた。同居しているとも言ってた。

 それでも何かの間違いならば、走り去った後で追いかけて来てくれるかもしれないと期待もした。けれど、それも甘い幻想だった。実際は自分から距離を置いただけに終わってしまった。

「ううぅ、イヤだよ。そんなの、イヤだよぅ……」

 人目憚らず泣き崩れる。何人かの人がどうしたのかと気遣ってくれたが、アリアドネはどうしても声にする事が出来なかった。

 小さな頃から、ずっと。

 ずっと、エリクスだけを見てきたのに。

 自分だけが親友で、恋人にもなれると思っていたのに。

 アリアドネの記憶から、彼の微笑みが、優しい声が、ふいに触れた手の温もりが失われていくような気がして身震いした。でも、今更エリクスを忘れるなんて事も出来ない。出来るはずがない。

 あの娘さえ。あの娘さえいなければ――

(だめ)

 次々と湧き出してくる感情を押さえ付ける事が出来なかった。

 そう、あんな娘さえいなければ――!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る