3.実りある一日
「ここにあたしの実験室を作ろうと思うの」
夢の中で――誰がなんと言おうと、夢と自覚できる夢だった――リピカはそう言った。
実は自分の実家がある魔女の国では、少々厄介な事になっていて、ほとぼりが冷めるまで帰りたくはない。しばらくかくまってくれ。そう言ってリピカは泣き始めた。エリクスは困り果てて、しぶしぶ承諾すると、彼女はけろりと泣き止んで――もしくは、泣き真似だったのかもしれないが――手短な呪文を唱えたかと思うと、部屋いっぱいに巨大な大釜を出現させたのだ。魔女といえば、なにやら怪しい液体をぐつぐつと煮ている姿をよく連想するが、まさにその大釜のようだった。黒光りする、鉄製のもの。ちなみに、彼女の体格には全然合っていない。
「おまっ! こんなの出したら、ここで飯が食えなくなっちまうだろーが!」
現に大釜は既に食卓を押し潰し、破壊し尽くしている。
「ダイジョブダイジョブ。その時は引っ込めるからさ」
もう少し大きかったら、ヘリオトの絵も粉々になっているところだ。絵の中の少女は本物とは大違いで、部屋がどんな状況であろうと、おしとやかな笑みを浮かべて全てを見通している。
「だいたいこんなもんで何を作ろうってんだ、アンタは!」
「魔女が怪しい鍋を煮るっていったら、薬を作るに決まってるじゃない。アンタ達人間が作るものとは効力がケタ違いの」
「むぐ……」
こちらが押し黙った事に優越感を覚えたのか、リピカは大釜の上から飛び降りてきて、すとんと床に腰を下ろした。促されたので、思わずエリクスも座ってしまう。こちらが座るのを見てからリピカは、また服の中に手を突っ込んだ。次々と取り出されていく瓶が合計三つ。それぞれ右からピンク色の液体、緑色の液体、無色透明の液体が入っていて、瓶の形も様々だ。
「なにこれ」
「あたしの自信作よ!」
「ふぅん」
エリクスは無色透明の瓶を手に取ってみた。どうしてそれなのかと聞かれると困るが――あえて言うなら、一番無害そうに見えたから。他の二つはあまりにも毒々しい色をしていて、触った途端に手が溶けるなんて事も十分に考えられた。
とにかく、こちらの胸中は知らず、リピカは得意げに解説を始める。
「それは『魔女の秘薬』よ。飲めばたちどころに傷が癒える魔法の薬よ。姉妹品にはこの――」
リピカの手に、手の平サイズの小さな円形の瓶が乗ってる。
「『魔女の軟膏』もあるの。おひとついかが?」
「結構です」
言いつつ、無色透明の瓶を床に置いて、今度はピンク色の液体が入った瓶を手に取った。栓はハートの形をしていて、瓶全体が丸みを帯びたデザインになっている。エリクスはなんとなく察しがついた。
「それは『ベランドナ』――媚薬よ。どう、エリクスには意中の女の子いるの? 女の子の心も体も溶かし込んで、メロメロにしちゃう薬よ。あまりの強力さに同姓でもくっつけてしまうのでお取り扱いにはご用心」
「メ、メロメロですか……」
「ま、でもこんなの使わなきゃ女の子をモノに出来ないって言うなら、男として失格よね」
なら、作るな。見せるな。その言葉は、心に留めておく。
最後は、本当に毒々しい緑色をした液体の瓶だった。瓶を持ち上げた感触で、かなり粘り気のある液体だと知れる。瓶の形は三本の中でも一番細長くて、見た目は普通なのだが、どうも嫌な予感が張り付いて離れない。
「それはね、『ゾンビパウダー』よ」
「げっ、ゾンビ!」
ゾンビと聞いてあまりに驚いたエリクスは、その拍子に緑色の液体――ゾンビパウダーを手から滑らせてしまった。それがゆっくりとスローモーションを帯びて、床に引かれて――落ちて破砕する寸前に、リピカの小さな両手が間に滑り込んだ。間一髪、事なき事を得る。
「……はぁ」
海より深い溜め息のリピカ。
「だい、じょうぶ……?」
「ああああ、アンタね! なんて事するの! 魔女の薬は取り扱い厳禁なのよっ!」
「ご、ごめん」
リピカのあまりの迫力に何も言い返せない。
「全く……。アンタ、今墓場から這いずり出してくるような腐った死体を思い浮かべたでしょ」
「違うの?」
「あったりまえよ! 魔女がいうゾンビってのは、生きている人間の意思を失わせた精神的死者の事よ。ゾンビパウダーとは伝説の植物マンドラゴラ、トカゲ、ヒキガエル、チャチャ、フグ、人間の脂肪などを混ぜ合わせたもので、この薬をかぶったら、皮膚から毒素が侵入、その人を仮死状態にして、その人の脳を殺してしまうものなの!」
「ふぅん。でも、結局は死んじゃうんじゃないか。同じだろ」
「違うわ! 美的感覚の問題なのよ!」
とにかく人を殺してしまう物騒な薬である事には間違いないようだった。取り扱い厳禁とか言いながら、無用心にまた床に放り出すリピカもどうかと思うのだが。
「他にも――」
またリピカの服の中から何か出てきた。今度は人形だった。誰が作ったのか、センスを疑う木彫りの人形。人形と呼んだのは、丸い胴体に頭と両手、両足らしきものがくっついていたからであって、もしそれらが無ければ、何と思っていただろう。エリクスには自信が無い。
「召し使い人形。あ、別にこんなの用意しなくたって良いんだけど――自分の言う事を聞かせたい奴隷人形だって簡単に作れるよ。試しに、この家の食事係でも作ってみようか?」
「いえ、遠慮します」
人形が作った食事を食べる気にはならなかっただけで、他意はない。
「――ということで、当分の間、あたしはここに居候させてもらうから。心配しないで。明日から自分の作った薬を売って食費ぐらいは稼いであげるよ。幸運だと思わない?」
とか勝手な事を言いつつ、どうしてか彼女はエリクスの部屋に消えていく。大釜はそのままに。エリクスは寝場所を失ってしまった。理不尽な話だが、得てして夢とは理不尽なものだ。
「明日はっ! 無事に過ごせますように」
夢の終わりに、鏡の前で「は」を強調して言う自分の姿を見て。
だいたいその辺で目が覚めた――
そして、目が覚めても夢の中に出てきた大釜は、何故か自分の目の前にあった。あの三種類の薬品も床に転がっている。緑色の液体――ゾンビパウダーも無論だ。慌てて、それらを割ってしまわないように棚――は大釜によって押し潰されてしまったので、とりあえず台所の調味料置き場に置いて、ある意味絶望的にそれを見上げる。天井を突きそうな勢いの魔女の大釜はまるで自分が一家の大黒柱と言わんばかりに、そこに立っていた。
「……夢じゃ、なかったんだな」
ほぅ。不幸な溜め息をひとつ吐いて、エリクスは朝日を浴びた。
「……おはよー」
台所と大釜に挟まれるように、難儀しながら朝食の用意をしていると、エリクスの部屋からリピカが現れた。寝巻きらしい黒のネグリジェが半分肩からずれ落ちそうになっている。どうもサイズが合っていないようだ。見えそうで見えない胸元にちらちらと視線を奪われそうになりつつ、返事を返した。
「おはよう」
瞼も完全に開いてなくて、まるで風に揺られている草花のようにふらふらと突っ立っているリピカ。今にも傍の大釜でがつんと頭をぶつけそうな雰囲気だった。それはそれでいい気味だが。
「リピカさん。この大釜どかして下さい。朝食が作れません」
「はいな」
リピカの呪文が部屋を満たした瞬間、部屋の大部分を占拠していた大釜が小さく小さく圧縮されて、床に吸い込まれるように消えていった。残ったのは、押し潰された食卓と椅子、そして、床。
「リピカさん。ついでにそれも直しておいてください」
「はいな」
今度はまた違う呪文が聞こえて――それが終わると、壊れていたものは時計の針が逆回転を始めたようにひょいひょいと組み上がっていく。あっという間に食卓と床は大釜に押し潰される前の状態に戻った。つくづく魔法とは便利なものだ。冒険者の中には魔法使いを生業としている者達も多数いるが、きっと彼らの魔法はこのリピカの足元にも及ばないのだろう。
しかし――
(ヤバイ。俺は今、限りなく自然にこの状況に順応している)
素性もまともに知れない魔女がいきなり我が家に転がり込んできた。そんな状況が普通でないと言わないのなら、一体どう表現すればいいのだろう。
折り合いをつけることも出来ず、とりあえずこんがりと焼けたトーストを机の上に置くと、椅子に座ったリピカの手が素早くそれに伸びて、口に運んだ。こちらが何かを言う前に、もしゃもしゃとかじって食べている。
(くっ……)
あちこち撥ねているブロンドを引っ張ってやりたくなった。どうしてか悔しくて、心の中でうめいた時、弟のヘリオトの部屋の扉が開いた。
一瞬、どきっとしたが、
「おはよう、兄さん」
そう言って出てきた弟は、欠伸をかみ殺すいつも通りの弟だった。
「ああ、おはよう! 良かった、熱は下がったんだな」
「うん。あれ――?」
ある意味、当然の反応とも言えた。挨拶を済ませた弟は自分より先に食卓に着いている少女を見て、目を丸くする。一秒、二秒……二人は熱く見つめあっている様にも見えたが、次の瞬間、弟はふらりとよろめいて、壁に寄り掛かった。
「おい!」
「……うわ。なんだか凄く傷ついた」
リピカが憮然と言い放つ。
「冗談言ってる場合かよ!」
弟の傍に駆け寄って、馬鹿ほど軽い体に肩を貸す。椅子に座らせて、軽く揺すった。
「おい、ヘリオト! しっかりしろ、大丈夫か?」
ヘリオトは虚ろな目でぼーっとこちらを見上げて、そして、すぐに瞳に光が戻る。
「あ、あぁ……兄さん。僕、また思い出せないんだ。うちに、僕と兄さんの他に誰かいた、かな……?」
頭が痛むのだろうか。こめかみの辺りを震える手で押さえ、必死に耐えているように見える。
「心配するな、ヘリオト。お前は何も忘れちゃいない。アイツは昨日の夜に突然押し掛けてきた礼儀知らずの居候だ。昨日早くに休んだお前は知らなくて当然だ」
視界の端で、まだもしゃもしゃとパンをかじっていたリピカの動きが一瞬止まったが、今は気に掛ける時でもない。
「でも、僕は何処かで……彼女を見たような……」
「ああ、ああ。もちろんだ。お前がいつも絵に描いている少女。あの娘がお前をころ――えぇと、お前に会いに来てくれたんだよ!」
そう言うと、ようやくヘリオトの中で記憶を繋げる事に成功したらしい。びっくりしたように目を見開いて、食卓に乗り出す。
「本当にっ?」
そして、更に続ける。
「でもなんだか、僕の記憶と全然違うような」
「どーゆーイミ?」
弟の様子が落ち着いた代わりに、場の空気は限りなく冷えていった。
朝食がてら、エリクスは昨夜の出来事をヘリオトに説明した。もちろん彼女が魔女であったり、殺しに来たとかのたまっていた最初の辺りは端折ったが。
「――というわけで、昨日熱にうなされていたお前を助けてくれたのも、リピカが持っていた薬のおかげだ」
「そうだったんだ……。ありがとう、リピカさん」
口ではそう言いつつも、ヘリオトの眼差しは僅かに疑いの色を帯びていた。それが何であるのかをエリクスが知る前に、ヘリオトは口を開く。
「あのさ。僕が見た時は髪の毛、銀髪だったと思うんだけど……」
すると、リピカは、
「あの時はたまたま気分で銀髪にしたかっただけ。あたしの本当の髪の色は、この金色。どう素敵じゃない?」
「……なんだ。湖の雫と一緒にきらきらと反射するあの銀髪が凄く綺麗だったのに」
びしっ。
持ち直したと思われた部屋の空気に、いとも容易く亀裂が入る。同じくリピカの表情にも深い亀裂が入ったように思えたのだが、
(おーおー。青筋立ってるぞ。やるな、ヘリオトの奴)
まだリピカは根気強かった。
「で、でででも、この金髪もいいとおお思わない? うん、あた、あたしは気に入ってるんだけどな。うん」
「そうかな――まぁいいよ。朝ご飯が済んだらモデルになって下さい、リピカさん。ああ良かった。また僕が記憶違いしたのかと思ったよ」
結局ヘリオトにとって重要だったのは、リピカの髪の色そのものではなく、自分の記憶の方だったらしくて――リピカは青野菜を盛ったサラダボールを手にしたまま、しばらく固まっていた。
「そっか。じゃあ午前中はヘリオトの絵に付き合って、午後はどこか散歩にでも出かけるか。午前中は、俺は家の掃除でもしているから。最近ご無沙汰だし」
リピカは即座に、ヘリオトは驚いたように視線を集める。
「なんだよ」
「兄さん。お仕事は?」
綺麗にさらえた皿を持って立ち上がり、台所の流しに置いて、言う。
「ま、一日ぐらいな。たまにゃ休んだっていいだろ。後で連絡入れるよ」
それを聞いて喜ぶヘリオトと、不満の声を上げて嫌がるリピカの態度は対照的だった。彼女曰く、せっかく弟君と二人きりだと思ったのにな――とかなんとか。
(心配で、お前みたいな奴と二人きりにしておけるか)
とは、心の中だけに留めておく事にした。
ヘリオトの絵のモデルとして悪戦苦闘しているリピカの姿を横目で見ながら、散らかった家の中を大掃除し、昼食を取った後、エリクスはヘリオトとリピカを連れて、街へ出た。
「うわぁ、久しぶりに外に出たよ」
エリクスの衣服に着替えたヘリオトは、眩しそうにその空を見上げる。いつも寝巻き姿なので、それ以外――自分の服を着た弟の姿というのもなかなか新鮮だった。
なのに――
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 魔女のポーション売りだよ!」
やってきた中央広場で突然響き渡るリピカの声。エリクスは即座に頭を痛めた。何処から取り出したかも分からないハリセンが地面を叩く。
「……今時、叩き売りなんて聞いた事ないぞ。しかも、薬」
少し離れた場所からその様子を見守るエリクスとヘリオト。それでも物珍しさが手伝ってか、わらわらと人が集まり始めていた。平日のこの時間といえば、子連れか買い物帰りの主婦ぐらいなものだが。
と、その時。取り巻きのうちの一人が、リピカのポーションを手に取った。あのピンク色は、確かベランドナとかいう名前だったはず。
「おっ、奥さん、目が高いねっ! それはベランドナって言うんだよ! 媚薬だよ、び・や・くっ! それ買ってくれたら、魔女の張り型もオマケしちゃうよ! 今夜辺り、どお? ご主人ともご無沙汰なんでしょ?」
「け、結構ですっ!」
片手に大きなビニール袋を抱えた主婦は顔を真っ赤にして、肩を震わせ、足音を精一杯怒らせながらずんずんと立ち去っていった。
「売る気あんのかよ、アイツ」
嘆息交じりに吐き出すと、
「……兄さん。張り型って?」
虫も殺さぬ表情のヘリオトが、興味本位で純粋に尋ねてくる。くらくらする眩暈に耐えながら、
「いや、知らないのならお前の為だ」
(ダメだ。アイツがいると、ヘリオトに悪影響を及ぼしかねない)
それでもリピカを取り囲む客は減らず、むしろさっきよりも増えているように思えた。
また一人、興味に駆られた客が風呂敷の上の瓶を拾い上げる。
「あ、お客さん! それはゾンビパウダーと言ってね――って、あーっ!」
きゅぽんっ。
その客は香水か何かと勘違いしたのだろうか。リピカが説明を終える前に、栓は音を立てて引き抜かれ、そっと鼻の近くまで持っていたその客は、次の瞬間、ふっと気を失うようにして仰向けにばったりと倒れてしまった。
「うわわわっ!」
その客の手から零れ落ちたゾンビパウダーを受け止め、素早く瓶の蓋を元に戻すリピカ。それと同時ぐらいに、客から悲鳴が上がり、何事かと思った人達が更に集まり始めて、瞬く間に大騒ぎとなった。
「あんの、バカっ!」
人だかりを掻き分け、リピカの首根っこを引っ掴んだエリクスはその場から素早く立ち去る。遅れて、ヘリオトがついて来ていた。
「ごめーんっ! 匂いを嗅いだだけだから、その人、すぐに気がつくと思うからっ!」
悪びれも無く、引き摺られながら集団に向かって叫ぶ彼女を振り返り、
「お前っ! ゾンビパウダーって本物かよ!」
「そだよ。なんで? 嘘と思ってたの?」
しれっと、リピカ。
「普通は思うだろ!」
「魔女は嘘つかないよ」
「嘘つけ! しかもなんだ! 張り型って!」
「いやぁ物寂しそうなご婦人だったから、つい。昔は魔女は皆これで自分を慰めてるって、不潔だのなんだの貶められてたなぁ」
口調は全く変わらず、まだリピカは続ける。自分で振った話題ではあったけれど――この会話がヘリオトの耳には届いていない事を祈りながら、エリクスは怒鳴った。
「いつの話だよ!」
「推定二百歳の頃のあたし」
つまり、リピカが言った己の年齢を信じるのなら、八百年も昔の出来事。駄目だ。時間の尺度が圧倒的に違い過ぎる。
「今は魔女の存在自体を信じてる奴もほとんどいないんだからいいだろ!」
「それはそれで寂しいね」
「ワガママだな。だいたい叩き売りの薬なんて効き目無さそうにしか思えんだろうが! しかも毒薬混じり!」
「あ」
ぽむっと手を打つリピカ。
「そーいやそーだね。アンタ、頭良いよ」
「殴るぞ!」
「じゃあさ、エリクスがあたしから買ってよ。そのお金で昨日約束した食費を払うから」
「あほか!」
そう言ったのに、リピカは聞いていないように続ける。
「例えば、誰か呪い殺したいほど憎い相手はいないの? ゾンビパウダー買ってくれたら、血塗られたぬかみそと、殺戮の漬け物石と、邪心のダイコンをセットでプレゼント!」
「なんで漬け物なんだよ!」
「だから良いんだよ。誰もお漬け物が呪われているなんて思わないじゃん? 暗殺なんかには持ってこい」
空恐ろしい事をさらりと出てきたような気もするが、それを黙殺し、力の限り走った。自分はともかく、振り返るとヘリオトはそろそろ限界が近付いているようだった。リュリアーサの東区画まで逃げてきた三人は、そこらに点在する中でも一際大きい公園に滑り込む。そこでエリクスは投げ出すようにリピカを解放した。
「はぁはぁ。あーしんど……」
肩を落として息を切らせるエリクス。隣ではヘリオトが同じような格好で笑っている。
「あぁ、しんどいよ。久しぶりにこんなに走ったよ」
木々が乱立する公園の中央には、真っ白な円形の舞台が設置してあって、その周りには簡易ベンチがいくつも並べられていた。そこは休みの日になると、必ず何らかのイベントが行われていて、家族連れやカップルで賑わう。昨日、断ってしまったが、アリアドネが誘ってくれたコンサートもここでやるはずだ。
「ヘリオト。あそこ。あれ、覚えているか?」
呼吸も落ち着いてきた所で、その舞台を指差し、ヘリオトに尋ねてみる。
「……え、えぇと……ごめん。なんか、あったかな?」
顔を顰めて呟くヘリオト。
「昔、この街に来た頃、お前さ。街の風景画コンクールで優勝して、あそこで表彰されたんだぜ」
「そうだったかな……ダメだ。思い出せないよ。そんな大切な事を忘れるなんてね……」
頭痛に顔を顰めながらも、ゆらりと舞台に向かったヘリオトはその上によじ登り、思い出を揺り起こすように空を見上げる。その後ろ姿を見て、真っ白な脳裏を想像すると、胸が痛くなった。医者すら見離すような、稀有な重病。どうして弟のヘリオトに限って、そんなものに掛かってしまったのだろう。そう思うといたたまれなくなる。
その思いから逃げるように視線を逸らし、人騒がせな少女の姿を探した。ぐるりと周囲を見渡して――木陰で膝を抱えて座り込んでいる魔女たる彼女を見つける。
「何やってんだ、お前」
「あたしは太陽の光に弱いのよ。どっちかと言うと」
「吸血鬼か、お前は」
「違うわよ。そんな下等な怪物と同じにしないで」
「どうせ部屋にこもりっきりで、あやしげな実験ばっかやってんだろ」
「それは正解」
リピカはあっさりと肯定した。彼女はすっと視線を上げて、
「あら、もう遊んでる」
彼女が言ったのは、ヘリオトの事だった。さっきまで舞台の上で何かを思い出そうと頑張っていた彼は、もうそれを止めてしまったのか、集まってくる鳩に小さく千切ったパンくずを与えて戯れている。
「本人はあまり深刻そうじゃないね。今朝から見てると」
「ああ、そうだな。……先がないって事は本人には言ってないんだけど――」
エリクスは用心して、声のトーンを更に下げる。
「どこか、アイツ本人はもう悟っているような所があるから。悲観して何もしないよりは、一時も無駄にせず、楽しもうと考えているみたいで、俺は助かってるよ」
「……ふぅん」
リピカの気のない返事を聞きながら、改めて本当にそう思った。
失われていく記憶や思い出――そんな自分に対して、錯乱行為にでも陥っていたら、自分は弟をどうしていただろう。考えても栓のない疑問と答えは、延々頭を巡る。
そんな事を話している間に、ヘリオトを取り囲む鳩は増え続け、ついには身動き取れない状態にまでなってしまっていた。
「……動物に好かれるのは、世間一般的に良い人って相場だけど……あれは嫌だね」
のんびりと呟くリピカを尻に、往生しているヘリオトを救出しに行くエリクス。鳩達をやんわりと蹴散らして、ずかずかと舞台の上を歩いていく。弟は羽根まみれになっても、ずっと笑っていた。
「餌あげてたら、あっちこっちからいっぱい飛んできたんだよ。ああ、ビックリした」
などと、呑気な事も言ってみせる。
と、その時。
「あ、みつけた! 魔女だ、みんな魔女がいたぞ!」
「うわあぁい、魔女だ魔女だっ!」
「だ!」
無邪気なその声に、背筋を凍らせた。
振り返ると、木陰に座っていたリピカが、この公園でよく見かける悪ガキの集団に取り囲まれている。突然、我が身に降りかかった事を理解できずに、彼女はしばしきょとんとしていた。そして、
「よ、良く分かったわね。あたしが魔女だって」
――と、彼女が言うと、子供達はこぞって、
「さっき、ひちばでへんなくすりうってたもん」
「でも、魔女なんていないって、うちのかあちゃんがいってたぞ!」
「たぞ!」
「このねぇちゃん、うそつきだっ!」
「つきだっ!」
丁寧にもリーダー格の少年の言葉を復唱する周りの子供達。
「う、嘘じゃないわよ! なによ、レディに対してその態度はっ! そんなんじゃ将来女の子にモテないよっ!」
リピカが大声を上げると、子供達はびくんと一斉に静まり返り、それぞれの顔を見返しながら、こそこそと耳打ちを始める。そして、意見がまとまったのか、子供達はざんっ小さな足を踏み出して、リピカに向き直った。
「な、なに……?」
「魔女たいじだっ! みんな、ぶきをかまえろ!」
「おーっ!」
子供達は思い思いに手にしていたものを構える。木の棒切れ、パチンコ、ブーメラン、水鉄砲――どれも殺傷力なんて皆無のものだが、
「いけーっ!」
当然、方々から飛び掛ってこられれば、彼女に回避する術はない。
「あ、いたっ! 何すんの! や、やめなさいよ! こら、服引っ張るな! ああ、冷たいって! あ、あひゃはひゃははははっ! くぉんのぉ……やめんか、このくそガキどもおおおおおおぉっ!」
子供達に隠れて、リピカの姿は見えなくなってしまったが、怒声だけは一際高く公園中に木霊した。
「やべ。あのままじゃアイツやりかないな……」
リピカも救出しようとして、ふと横を見ると、ヘリオトはお腹を抱えて、大笑いしている。
その姿は、なんだか久しぶりに見たような気がした。
夜も更けて――
今、部屋にいるのは、夕食の後片付けをするエリクスと、あの大釜の上に立つリピカだけ。ヘリオトは先に自室に入って休んでしまった。空気を揺らしていたのは、洗った皿を重ねる音と、ぐつぐつと何かが煮立つ音。また、長時間その場にいると気分を悪くしそうな匂いは空気を汚していた。
「礼、言っとくよ」
「礼?」
大釜からは視線を外さないまま、リピカが尋ね返してくる。ちなみに、彼女の横顔は今日の昼、街の子供達に負わされた傷がたくさん目立って、ちょっと痛々しい。
「いや、久しぶりだったからな。ヘリオトが心から笑ったのを見たなんて」
そういう事だった。それがあったから、エリクスは今日はリピカの大釜についても何も言わず、悪臭が漂っても我慢しているのだ。
ところが、
「ふぅん。あれくらいでお礼を言われるとはね。アンタ、よっぽどヘリオト君をほったらかしにしてるんだね」
ぐさりと来る言葉だった。確かにエリクスが働き始めてから、あまりヘリオトと何かをしたような覚えがない。思い出せるのは、おはようとおやすみ、行ってらっしゃい、おかえり、ご飯を食べている時、それから、たまに絵を描いている時の横顔ぐらいだ。
「ま、誰かがお金を稼がなきゃ暮らせないわけだし。しょーがないだろけど」
「……そうなんだよな」
そうなのだが、あまりそれを理由にしたくはなかった。自分がもっと上手く時間を使う方法を知っていれば、あるいはもう少し弟に寂しい思いをさせなくて済んだかも知れないのだから。
「ま、あまり気に病む必要は無いんじゃない。あたしも特別深く考えて言ったわけじゃないし。気にしないで」
「他の街へ行けば……もっといい働き口があるかもしれないけれど」
「引越し?」
「いや、でも俺はこの街が好きだからな。出て行く事は正直考えられない」
「ふぅん」
(てゆーか、礼を言おうとして、なんでこんな話に?)
苦笑する。それは思考の隅にさておき、今日一日付き合ってみて、リピカはここに何をしに来たのだろうと改めて疑問に思った。誰それを殺すだなんて口にして、人を殺せる凶器を持ち出しても、彼女からは殺気の欠片も感じられない。別に格闘などの心得があるわけでもないが、エリクスにだって容易に感じ取れる。
「なに?」
知らず知らず、彼女をじっと見つめてしまっていたらしい。怪訝そうな声でリピカが言った。
「あ、いや……」
さっと視線を逸らすエリクス。
しまった。これでは、いかにも何か意味があるような仕草ではないか。
「ははーん」
ジト目を送ってくるリピカに、後ずさりを覚えるエリクス。
「あたしに惚れたな」
「馬鹿ですか」
「馬鹿って何よー! あたしは普通にエリクスの事いいなと思ってるのに」
「婆ちゃんに好かれてもなぁ……」
「むっか! ちょっと酷いんじゃない!」
(ホント、変な奴だな)
再び釜の淵に腰掛けている彼女を見上げた時、
「あ、やば」
リピカの素っ頓狂な声がして、ぽちゃんといういう小さな音が響いた。
彼女は急いで、しかし、慎重に梯子を使って大釜から降りてきて、止める間もなく家を出て行ってしまった。
「なんだよ。どうした」
訝った瞬間――
ばふんっ!
破裂音と共に、大釜の中にあった液体が膨張、破裂した。釜の中から勢い良く溢れ出した緑色のヘドロのような液体がどろどろと床を汚していく。もちろん釜の傍にいたエリクスは――元々小さい部屋に大きな釜を持ち込まれて、余裕などなかったが――全身まんべんなく気味悪い液体をかぶる。さほど熱くなかったのが、せめてもの幸いだった。
ようやく収まって。
ぼたぼたと粘る液体を滴らせながら、悪臭まみれになったエリクスがようやく我を取り戻し、怒りに震え始めた頃、ようやくリピカがこっそりと扉の向こうから顔を覗かせた。そして、
「だいじょーぶ……?」
恐る恐る尋ねてくる。
「――に見えるのか、これが。今朝、掃除した所だぞ。見てたよな、お前も」
「そ、そうだったっけ」
あはは、と笑って誤魔化すリピカに、ぶちんと何かが飛んでしまった。
「やっぱ、もうお前出て行けっ!」
周りに他の民家はなかったけれど、近所迷惑なエリクスの声が闇夜に響いた。
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