2.少女と双子の少年

 魔女は唄うよ 永遠の唄を


 朝に眠り 夜に目覚めて始まる 魔女の一日

 支度が済めば 今日もどこかの地に降り立ち 儚き人達の命をもてあそぶ

 魔女の姿は死の象徴 けして見てはいけない 敵う人もいない

 夜が明けるまで 息を潜めてやり過ごそう


 魔女に目を付けられたら終わりだよ 君の命はもうおしまい

 だから静かに 静かに生きていこう

 今日もちゃんと眠れるかな


 ――それは今から一年と少し前のお話――


「兄さん。なんだっけ、その唄」

 相変わらず画布に向かったまま、弟のヘリオトが幾分苦しげな口調で尋ねてきた。

 それだけで、それこそ魔女の手で心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚える。だが、兄のエリクスはなるべく平静を装って静かに答えた。

「……『魔女の一日』だ。忘れたのか」

「そっか。そうだったね。ごめん、なかなか思い出せなくてさ……」

 弟の返事を聞きながら、エリクスは舌を巻いた。夕食の準備をしながら知らず知らずのうちに唄ってしまっていたらしい。

 『魔女の一日』とは、どの地方にも伝わる有名な童謡だ。聞いての通り、あまり楽しくない――というか、不吉な歌であるにも関わらず、時折自然に唄ってしまうほどエリクスの脳裏に強烈に残っているのは、結局のところ、病気で早くに他界した両親からそれ以外に聞かされた事がなかったからだ。

 市場で買ってきた芋を適当な大きさに切り分けて、火にあぶられている鍋へばらばらと落とし込む。その間に青菜を盛った皿をテーブルの真ん中に置いて――そのついでに、ヘリオトがずっと向かっている画布を肩越しに覗き込んだ。

(ふぅん……)

 自分でも感心しているのか呆れているのか分からない溜め息を吐いた。多分、両方だ。前者は画布に描かれている少女のあまりの美しさに。後者はよく同じ絵を何度も何度も、二年以上も描き続けられるなと。弟の絵の才能は誰しもが認めるところだ。エリクスもそれを疑わないが、最近はずっと少女の絵ばかりを書き続けている。

「よく飽きないな――って、また思ってるでしょ」

「え、ああ。いやまぁ……」

 突然心を読まれたように言われたものだから、歯切れの悪い返事を返すエリクス。

「この女の子だけはね。忘れたくないんだ」

 普段より力がこもっている言葉だった。その時にヘリオトは一目惚れしたのだろう。ずっと弟が描いている少女は銀髪で、肌は白くて、幼い顔立ちをしている。目は穏やかで、程よい形の鼻に、きゅっと引き締まった愛らしい唇。それらが全てバランス良く並べられた顔は、多分に入っているであろう弟の美化を差っ引いたとしても、とても可愛らしい。

 そう、まるで天使のような――

「何言ってんだか。もうすぐスープが出来るぞ。晩ご飯にしよう」

「うん」

 ヘリオトは少女を描いている画布の上に布を掛けて木製の丸椅子から立ち上がり、食卓へ移動する。それを見送ってエリクスも煮立つ鍋の前に立った。

 いつものやりとりだった。何気ない、いつもの日々。大病を患っていて働けない弟と、街の工場で生活費を稼ぐ自分。朝早くに家を出て、夕刻近くに家路を辿ると決まって絵を描いている弟。食事の前後に会話を交わす貴重な時間。それらの繰り返し。いつまで自分達はこの生活を続ける事が出来るのだろうか。そんな不安が常に心の中に小さな影を落とし続けているが、ふとしたきっかけで大きくなる時もある。

「昨日……昨日、何食べたんだっけ。僕達」

「昨日はボア肉のステーキ食べたろ。俺の給料日だったから、月に一度の贅沢」

「そっか。お肉食べたんだ」

 例えば、こんな時に。

 ヘリオトの病気とは、平たく言えば記憶障害だった。それもかなり重度の。老人の痴呆にも似たそれは、あまりにも速い勢いでいろんな事を忘れていってしまうのだ。あと、高熱を出して数日寝込む事も珍しくはない。明日目覚めたら、兄である自分の事さえ忘れてしまってたら。明日仕事から帰ってきたら、絵を描く事すらも忘れてしまっていたら。そんな風に考えると怖気だって走る。医者にも見離されていた。命もそう長くは持たないだろうとは、ついこの間言われた事だった。もうそれは、明日に来る事も否定できないらしい。

「あれ、美味しかったね。いつもありがとう。兄さん」

「ああ」


 エリクス・ヴィルナ。ヘリオト・ヴィルナ。共に十七歳。双子なのだから当然だが。身内はいない。いや、いないと思っている。二人は元々この街の貴族の跡取り達で、両親が健在の時にはそれなりに裕福な生活を送っていた。だが両親が揃って病で他界した後、二人を待っていたのは、両親の遺産を巡る親戚中の醜い争いだった。あれほど優しかったおじやおばは豹変し、自分達には見向きもしなくなった。気が弱いヘリオトは一晩中泣き続けていた事もある。そうして、エリクスが兄として取った行動は争いの元となる遺産を全て捨て、兄弟二人きりで暮らしていく事だった。なので、今あの家が、そして、自分達の両親が残してくれた遺産がどうなっているかも知らない。

 以来、二人きりのこの生活はずっと続いているが、ヘリオトの病気が発覚したのは、今から三、四年前の事。食べていくのにも一番大変な時期だった。もうあまり詳しい事は覚えていない。とにかく、エリクスはリュリアーサ一小さなリケーション工場――ポーション(薬)などを製造する会社だ――で働き、二人分の生活費を稼いでいる。工場の人達はみんな優しくて、親切で、何度世話になったか分からない。

「ふぅ……」

 就寝前の湯浴みの後、姿見を前にしながらエリクスはそんなつまらない事だったり、感謝すべき事だったり、悲しむべき事だったりを考えていた。

 短く刈っているスレートグレイ色の髪は濡れて、あちこちに撥ね立っている。瞳の色は黒色なのだが、人にはよく覗き込むと青色にも見えると言われたりする。大人に近付いてきたせいか、三日か四日に一回は顔を剃らないと無精髭が目立つようになってきた。つまりは何処にでもいるような平凡な男。それが鏡の中の自分。弟のヘリオトも少し髪が長いぐらいで、全く同じに整えたとしたら、他人には容易に見分けはつかないだろう。

「明日も無事に過ごせますように」

 一日の終わりに鏡の中の自分に向かってそう言う事が、エリクスの日課となっていた。

 だが、いつも通りの平穏は今日が最後だった。


 翌日。

 エリクスの朝は早い。時間に正確な奴――仲間内ではそういう位置付けになっていた。エリクスの誇りでもある。誰よりも早く工場に入って、また今日も一日世話になる場所を磨き抜く。子供の頃からここで雇ってもらってたので、それなりに古株となったエリクスは更に目上の人達から、そういう事は新人に任せておけばいいのにと言われるのだが、そうしようとは思わなかった。これがいつも苦しい時には助けてくれていた人達へのささやかな恩返しだったから。

 掃除もあらかた済むと、ちらほらと人がやってくるようになる。自分の次に早いのは、四十、五十代の年配の人達だ。

「おはよう」

「おはよう、エリクス。今日も早いな」

「おはよ、エリクスちゃん」

「おはよーございます!」

 男女関係なく入り乱れて工場に現れる。それが収まると、ようやく朝に弱い若者達の登場だ。言っても、定刻にはみんなきちんと集まるのだから、この工場の従業員は優秀だと思う。

 定刻の鐘が鳴る少し前、床を拭いたモップを水洗いしていたエリクスは後ろから声を掛けられた。振り返ると、茶褐色の髪を肩の辺りで綺麗に切り揃えている丸顔の少女が立っていた。

「おはよう、エリクス」

 アリアドネ・リーズベリー。このリケーション工場で働く、唯一の若手女性だ。エリクスと同い年の少女。今日は今から作業着に着替えるので地味そのものの格好だが、たまの休日に会うと、年相応のおしゃれには気を使っている。そんな可愛らしい外見とは裏腹に、結構気は強い。それが同世代の男にウケるようで、彼女を狙っている者もたくさんいる……ようだ。

「おはよう、アリア」

 アリアドネとは、両親が健在だった頃から家族ぐるみの付き合いで、その時から彼女と彼女の両親にはとても世話になっていた。おそらく、他の誰よりも。

「毎日ご苦労様ね」

「そんな事ないけど。今度私も手伝うわって言ってた誰かはいつまで経っても来ないしな」

 にやりと笑ってアリアドネを見上げると、少女はばつ悪そうに笑って、

「え、えーと。きょ、今日は来ようとしたのよ! で、ででもさ、お昼のお弁当が――」

「嘘だって。早く着替えてこないと、間に合わなくなるぞ」

 言うと、アリアドネは工場の中心に立つ一番大きな柱に備え付けられた壁時計を見上げて、顔を引き攣らせた。

「きゃあっ! ご、ごめん。後でね!」

 ばたばたと更衣室に駆け込んでいくアリアドネを見送って、ふと呟く。

「あ、壁時計磨くの忘れてたな。そーいえば」

 その時、今日一日の作業開始の鐘が工場中に鳴り響いた。

「――今日も一日よろしくお願いしますっ!」


 エリクスの今週の受け持ちは、様々な工程を経て完成したポーションを適切に梱包する事。製造段階の工程はある程度仕事に慣れてくると、週替わりにローテーションが組まれる。なので、エリクスの今週の受け持ちは、製品の最終段階の工程。手馴れた手付きでコンベアを流れてきた瓶を箱詰めにしていく。手にとった一瞬で、瓶の中身を確かめなければならない。この作業は直接工場の信用にも関わる部分でもある。この作業が出来るのは、エリクスを含めて年配の人達が数人、許されているだけだった。

「エリクス!」

 出来上がったポーションを箱詰めされた大きなダンボールを両手いっぱいに抱えているアリアドネが声を掛けてきた。それだけで、工場中の若い男の視線がぎろんとエリクスに集中する。普段は気のいい連中なのに、アリアドネの事に関しては一歩も譲らない彼らだ。本当になんでもないと言っているのに。少なくとも男女の仲でお付き合いしているという事は今のところ、ない。エリクスの方がいいなと思っているのは事実だけれど。

「なんだい、アリア」

 次々とポーションが流れてくる為、後ろに回ったアリアの方を向く事は出来ない。背中で答える。

「お昼一緒に食べましょうよ。今日朝来れなかった訳を見せてあげるから」

「あ、ああ……」

 エリクスにとってもっともありがたい事のひとつなのだが、お昼の弁当はアリアドネが作ってきてくれる。だが、いつもはそれをこっそり渡してくれて終わりなのに、今日に限って一緒に食べようとはどういうことだろうか。とにかく訝りながらも返事はする。すると、アリアドネは鼻歌交じりに倉庫の方へ歩いていった。名前を呼んだ後、彼女が声を潜めてくれたおかげで助かったが、もし一緒に昼ご飯を食べようというところまで同僚に聞かれていたら、後でどんな仕打ちを受けるか分かったものじゃない。未だジト目でこちらを見ている彼らに愛想笑いを振り撒くと、向こうもにやりと笑って視界を散開させた。

(……うぅ、あの笑みにはどんな意味があるんだか)

 もちろん、そんな事を考えている間も手を休める事は出来ない。我ながら器用になったものだ。

 そんな風に午前中の作業が終了し、昼休みの鐘が鳴る。エリクスはアリアドネに連れられて、工場の屋上へと出た。今日は快晴で、雲ひとつない澄み渡る青空。今年も暑かった夏が過ぎ去り、もうすぐ底冷えの冬がやってくる。そのせいか、とても空は遠くに感じられて――

「あそこに座りましょ」

 と、アリアドネと並んで腰を下ろしたのは、屋上の端の柵沿い。ここからだと、リュリアーサの東区画が良く見える。東区画は大きな公園が点在していたりして、最も緑の多い場所だ。

「はい」

 あまり高くはない工場の屋上から街を見下ろしていると、アリアドネが包みから取り出したお弁当をこれ見よがしに突き出してきた。

「いつもいつも悪いな――お、今日のは凄いな」

 なるほど。これが朝来れなかったのと、いつものようにお弁当を渡して終わりではなかった理由らしい。いつもより推定三倍ほど気合いが入った中身は、エリクスの大好物ばかりが取り揃えられていて、古くから付き合っているアリアドネならではと言えた。

「いつもはサンドイッチだけとかなのに、今日は一体どういった風の吹き回しで――あ、いつも手を抜いてるって意味じゃないぞ。俺は用意してもらえるだけで御の字だから」

「別に。ただ作ってみたくなっただけよ。さ、食べて」

「いただきまーす!」

 エリクスの箸が一番最初に掴んだのは、見た目変哲もないただの卵焼きだった。だが、侮るなかれ。アリアドネが作る卵焼きはどれだけ時間が経ってもふんわりと柔らかく、そして美味い。神業ともいえる味だ。エリクスはアリアドネの卵焼きが大好きだった。

「やっぱり、アリアが作る卵焼きは最高だな」

「そ、そう?」

 照れたように笑みを浮かべ、アリアドネも自分の分の卵焼きを頬張る。

 その後は無言で二、三品摘んでいると、この季節にしては暖かくて、心地の良い風がリュリアーサの街中を駆け抜けていった。横を向くと、アリアドネの髪が綺麗になびいている。

「気持ちいいね」

「ああ」

「ずっと、こんな風にして、過ごしていけたらいいのにね」

「そう、だな」

 ずっと、こんな風に。

(ずっとか……)

 重苦しくも聞こえた。アリアドネはそんなこちらの心境を読み取ってくれたのかどうか分からなかったが、すぐに話題をすりかえてきた。

「あ、そうだ。野外コンサート、行かない? 今週末、リュリアーサの東区画の広場でやるものなんだけど」

 そういって、作業着のポケットから青いチケットを二枚取り出す。風にひらひら揺れるそれを数秒眺めて――申し訳ないと思いつつ、首を横に振る。

「ごめん」

 途端にアリアドネの表情が沈んでいった。いそいそとポケットにチケットを戻して、こちらの顔を覗き込み、恐る恐るといった言葉が最も似合う様子で口を開く。

「やっぱり……ヘリオトの調子はあまり良くないんだ」

「ああ。医者もそろそろだって言ってる」

 はっきりとは言えなかったけれど、その言い回しでアリアドネは察してくれたようだった。

「そんな……」

「あの日からいつか来るだろうと覚悟していた事さ」

 多分、嘘だ。今まで病気の弟を抱えて今日まで頑張って来たのに、もし彼がいなくなった時、その瞬間から自分はどうなるのだろうと心密かに脅えている。弟を守る。それ以外の生き方を知らないから。

「――自分の為に生きるってのは、どういうことなんだろうな」

「え?」

 アリアドネが目を瞬く。

「いや、なんでもない。早く食っちまおう。短い昼休み、急がないと全部食い切れない」

 エリクスはまた卵焼きを口に放り込んだ。

 最後に、アリアドネがもうひとつだけ尋ねてくる。

「まだ、アカシック・クロニクルを探そうと思ってる?」

「……そうだな。そう思うよ」

 僅かだったけれど、アリアドネの表情は更に沈んで、

「そうね。その為にエリクスはずっと剣の練習もして来たんだから。立派な冒険者になって、アカシック・クロニクルも見つけられるよ」

「ああ。でも、やっぱり、ちゃんとした人見つけて教えてもらわないとダメだと、最近良く思うよ。我流じゃあな」

「例えば、英雄シャロウ・ヴィンにとか?」

 シャロウ・ヴィンとは、冒険者でない一般庶民の間でも名が通ってる有名な剣士の名前だ。このリュリアーサの街を拠点に各地で活躍を繰り返し、めざましいほどの功績を上げている。たまに工場で読む朝刊で、その一面を飾ってる事も。実際見かけたことはないが、聞いた話によると、とても気さくな好青年らしい。今はカルサスとかいう遺跡を探索中だと、どこかのニュースで知った。

「シャロウ・ヴィン……そうだな。どうせ習うなら、そういう人だよな」

 空はやっぱり青くて、どこまでも澄み切っていた。


 午後は特に何もなくて、それこそ与えられた仕事を淡々とこなすように一日を終えた。何もないとは言っても、珍しく残業はあった。先週から入った新人がポカをやって、それの後始末に追われたのだ。申し訳無さそうに何度も何度も頭を下げる後輩を見ていたら――とはいえ、向こうの方が年上だが――なんだかおかしくも思えた。ここで雇ってもらって間もない頃の自分もよくミスをしたものだ。あんな風だったのだろうか。

(……憮然としてて、あまり謝ったような記憶が無いな)

 苦笑する。さぞかし自分は礼儀知らずの子供だったのだろう。目上の人から言わせれば、まだまだという声が聞こえてきそうだが。

「おや、エリクス」

 唯一明かりが灯っていた事務室から長身の中年男性が姿を見せた。アリアドネも含めて、共に働く同僚達はもう定時で上がっている。残っていたのは自分と、そしてもう一人、このリケーション工場の取締役ハウド・バウエル。もちろん、その名で呼ぶ者は滅多にいないが。

「社長。お疲れ様です」

「ああ、お疲れ。遅くまで残ってるんだな。俺はもうそろそろ上がるが」

「あ、俺ももう上がります」

「そうか。なら俺は奥の部屋の明かりを落としてこよう。お前はここの片づけを頼む」

「はい」

 火の点いてない煙草をくわえながら、再び事務室に戻っていくハウド。エリクスも汗をたっぷり含んだ作業着を脱いで、定時後からずっと座っていた机の上を整理し始めた。ばたばたとファイルを机の上に並べ立てるだけで片付けを完了したと思い込み、更衣室へ急ぐ。黒のパンツに、白いシャツ。おしゃれに気を使っている余裕もないエリクスは大体いつもそんな格好をしている事が多い。着替えて外に出ると、ハウドが鍵を手にしてずっと待っていてくれた。

「すみません。お待たせしました」

「いや」

 ハウドが鍵を閉め、工場を後にする。

「どうだ。新人は。今日はその後始末で残っていたんだろう」

「はい。まだまだ若いですね」

 そう言うと、ハウドは夜中にも関わらず、急に大声を張り上げた。笑い声が夜空に響き渡る。

「はっはっはっ! 何言ってやがる。お前だってまだまだ若いだろうが。そりゃあ働かせてください!――ってうちに飛び込んできたときから比べりゃ、大きくなったかもしれないが、まだまだひよっ子だ」

 奇しくもさっき自分が思ってた事を言われて、おかしな気分になった。乾いた笑いを見せながらエリクスはハウドを見上げる。そういえば、ハウドと二人きりになった事はあまり無かった。年は確か三十六だっただろうか。社長と呼ばれるにはまだ早い気もする。それでも工場をここまで育て上げるのに想像を遥かに上回る苦労を重ねたのだろう。黒い髪には、少し白髪が混じっている。だけれど、顔の造詣はむしろ誰しもが認める所で、細長く、何処となく野性っぽい魅力さを匂わせていた。ちなみに無類の女好きで、休日にばったりと会う度に違う女性を連れていたり、歓楽街を渡り歩いている現場をよく部下に目撃されているどうしようもないおっさんだ。

「で、弟さんの具合はどうなんだ」

「あまり……良くないですね」

「ふむ」

 ハウドはひとつ頷いて、ぷっと短くなった煙草を地面に吐き捨てた。小さくなった赤い光を踏んで、それをもみ消す。

「俺らが働かせておいてなんだが――早く帰ってやらなきゃまずいんじゃないのか」

「はぁ、まぁ。でも仕事は仕事ですし、弟も今日一日でどうにかなるって訳じゃないと思いますから」

「そうか。まぁなんかあったら遠慮なく言えよ。じゃあ俺はこっちだからここでな。また明日も頼むぞ」

「はい、お疲れ様でした!」

 一段と暗くなった夜の闇の向こうに消えていく長身の男の背中に一礼して、エリクスも反対の道へ入る。市場へ向かう道だ。今からでは時間ぎりぎりだろう。急がないと、今晩の食事の材料が買えなくなってしまう。小走りに人通りが少なくなった通りを抜けて、まだ街灯が灯ってて明るい大通りへと滑り出た。店じまいを始めている屋台に押しかけ、必要なものを買い込む。それらを手早く済ませて、エリクスは街の南に向かう。

 気分は急いでいたが、仕事の疲れからか、なかなか足は言う事を聞いてくれない。気ばかり焦っても仕方がないので、そのペースに合わせて、エリクスはとっぷりと暮れた夜空を見上げた。夕刻頃から雲が多くなってきて、今はそれが薄っすら全面に掛かっているせいか、星はちらほらとしか見えなかった。急に昼間のアリアドネの言葉が蘇る。

 ――ずっと、こんな風にして、過ごしていけたらいいのにね。

 重い言葉。

「それは無理だよ。アリア」

 認めたくはないけれど、ずっとこのままでという思いは近い将来に踏みにじられるのだろう。エリクスがヘリオトという爆弾を抱えている限りは。破綻という名の影は確実にこちら側へ染み込んできている。なんとか止める方法は無いのだろうか。エリクスは工場で働く傍ら、ずっとその方法を模索してきた。

 そして、辿り着いたのは、おとぎ話。本当に実在するとも言われている。しないとも言われている。つまりはそれは不確定で、あやふやな話。


 アカシック・クロニクル。

 それは書物とは言われているが、書物の形をしているとは限らない。

 世界中のあらゆる出来事、あらゆる思想、あらゆる知識、あらゆる個人の感情。それら全てを過去から未来に至るまで、隅々まで細大漏らさずに綴られた巨大なライブラリである。人間達の間ではその名が伝説混じりに伝わっているだけだ。ビヴロストと呼ばれる世界一の橋を見つける事が出来れば、アカシック・クロニクルのありかに辿り着ける――そんなおとぎ話と共に。


「アカシック・クロニクル――宇宙の記憶、か」

 思いながらエリクスが見上げている空の向こうには、宇宙と呼ばれる広大な空間があるらしい。光が射さなくて、暗闇で、人が住めない場所。詳しくは知らない。ただ、それはこの広い空でも比べ物にならないほどの大きさなのだとか。ならば、その記憶と呼ばれているアカシック・クロニクルには、どれほどの膨大な量の情報が詰め込まれているのだろう。

 それがあれば、弟だって――

「助かるかもしれないのにな」

 仕事の帰り道、市場で買ったものをまとめて入れた茶色の紙袋を持ち直す。かさかさと紙特有の音が鳴り、中に入っているもののひとつ、丸い芋が袋の中で転がったようだった。

 家は遠い。エリクスが働いている工場は、リュリアーサの街の西区画にある。エリクスの家は南区画に広がる森を抜けたところにある、小高い丘に続く緩やかな坂道の途中にあった。

「うぅ、さむ! そろそろ冷え込む時期になってきたんだな」

 周りの人気はすっかり失せ、森の入り口に立った所で歩を速める。白い吐息が早くに消えていく。残業のせいで、すっかり遅くなってしまった。帰りに寄った市場もそのほとんどが閉めようとしていた所で、間際に滑り込めたのは良かった。多分、今日も弟は絵を描いているだろう。腹を空かして待っているはずだ。

 ふと。

(人……?)

 どんどん後ろに遠ざかっていく木々の隙間に見た。金糸のようなブロンドの髪の、壊れてしまいそうなほど華奢で白い肌の少女を。相手もこちらの存在に気付いたようだった。木々の向こうにいた少女は次の瞬間、今自分が歩いている獣道の上に現れ、そしてまた次の瞬間には自分の目の前にいた。それはまるで連続する自分の意識を強制的に切り落とされたような感覚でもあった。

「やっと見つけた。貴方ね」

「はい?」

 唐突に話し掛けられ、返答に困った。

 何が自分なのだろう。

 日頃からあまり女性との接点がないエリクスは少しどぎまぎしながら、だがそれを悟られないように顔中の肉を張り詰める。そしてそれ以上に、

(あれ、どこだろ。毎日見てるような気がするんだよなぁ……)

 思い出す事に専念していた。自分はこの少女を知っているような気がしてならない。

 枯れ枝のような少女の腕がすっと宙を撫で、彼女が着ている、細い肩が剥き出しになっていた黒いビスチェの中に潜り込む。そして、再び引き抜かれたその手に握られていたものを見て、エリクスは一瞬だけ喉を引き攣らせた。

「今日はアンタを殺しに来たのよ――」

 物騒な事を友達との会話のように言い放つ。

 少女の手の中にあったのは、黒い刀身の短剣だった。少し変わった形をしていて、刀身から柄の先端まで同じ太さで統一されている。どこからどこが刀身で、どこからどこが柄なのか、明確な境界線はないようだ。手に持つ部分は布が何重にも巻かれている。昔、図鑑か何かで見たことがあった。アサイミーと呼ばれる魔女の短剣だ。

 すると、この少女は魔女……?

 夕闇より深い黒が不気味にエリクスの顔を映しだした。

「……あの」

 別の事を考えてしまったせいか、エリクスは危機感が持てないでいた。機を逃すとこんなものである。

「君、魔女?」

「そうよ!」

 ――何を分かりきった事を。そんな表情で、彼女。

(魔女に知り合いなんかいないな。てゆーか、魔女って本当にいたんだ)

 いつまでも黙っているこちらに痺れを切らしたのか、魔女、いや少女は地団太を踏みながら、どうしてか怒り混じりに吐き捨てた。目の前の彼女は「魔女」という言葉より、「少女」の方が良く似合う。

「もー少し怖がったらどうなのよっ! アンタを殺すって言ってんだからさ!」

「いや、だって殺される理由が分からないから」

「『魔女の一日』知ってるでしょ!」

「ああ、あの童謡ね」

「そう! その中にもあるでしょ。魔女の姿を見た者は殺される運命にあるのよ!」

「いきなりそんな事言われても」

 かきんっ!

 アサイミーが小石ででこぼこした地面に転がった。憤怒のあまり、少女が叩き付けたのだ。

「いきなりじゃないわよ! ちょうど二年前の今日ここで! 確かにアンタはここであたしの姿を見たんだから! しかも裸! 水浴びしてた所を!」

「この先の小さな湖で?」

 彼女はがくがくと頷く。いちいち仕草が激しい少女だ。

 エリクスの家の手前で脇にある横道を入っていくと、とても綺麗な森の湖がある。確かに水浴びでも出来そうな場所だが――

「それってさ。童謡に倣ってるんじゃなくて、ただの私怨じゃないの?」

「どっちでもいいのよ! 結局見たんだから!」

 げしげしと今度は地面に転がったままのアサイミーを踏み付けながら、なおも抗戦の構えを取る少女。エリクスはがしがしと頭を掻き毟って、

「多分、それ俺じゃないと思うけど」

「なっ!」

「だってここ数年、仕事が忙しくって湖に近付いた事ないし。君みたいな可愛い子が水浴びしてたんだったら、そりゃあ残念だなぁって思うよ」

 可愛い――の所で、少女はうっと詰まって、咳き込んだ。

「さぞかし絵になる光景だったんだろうけどさ――」

 言葉を止める。

 咳き込んだ少女を気に掛けたわけではない。自分の言葉が何処かに引っ掛かったのだ。

 絵。

 ……絵?

 …………絵!

 それは、靄に包まれていた視界が急に晴れて、はるか彼方まで見通せるようになった時に良く似ていた。

「あーっ!」

 突然エリクスは大声を張り上げる。

「君、あれだろ! 俺の弟が描いてる絵の少女にそっくりじゃないか!」

「お、弟?」

 今度は少女の方が目を白黒させた。

「そう、双子の弟。俺にそっくりなんだけど。君の事を見たのって、弟のヘリオトじゃないのかな。いや、きっとそうだ!」

 消えかかっていた悪戯な殺気が急に蘇る。少女は自分で叩き付けたアサイミーを拾い上げ、口からの吐息と手の平で丁寧に土を取り払い、こちらに掴み掛かってきた。

「どこ! アンタの家はどこよ!」

「この森の先――」

 言い切る前に、少女は脱兎の如く駆け出していた。

「あの」

「なによ!」

「今、魔女の姿を見た俺は殺さないの?」

 正確に言うと、見たのではなくて、見せられたのだが。

 ところが、

「アンタは後回し!」

 少女の声はどんどん遠ざかっていっていた。小さなその背中も然りだ。結局、童謡の中の言い伝えよりも私怨の方が重要らしい。二年越しにやってくる魔女ものんきだと思うが。

「……あ、やべ! 思わず家を教えちゃったよ、俺ってば!」

 エリクスも少女の後を追いかけ、いつもの家路を全力疾走した。仕事疲れももう何処かへ行っていた。


「ヘリオト!」

 家の中に飛び込んで、まずヘリオトの姿を探した。が、弟の姿は何処にも見えない。代わりに魔女らしき少女はヘリオトが描いている絵の前でぼっと突っ立っている。絵の傍を離れる時はいつも布を被せているのに、どうしてか今日に限って絵は剥き出しのままだった。

 そして、彼女はゆっくりと振り返ってきて、震える指先でヘリオトの絵を指す。

「これ。あたし……?」

「そ、そうなんじゃないのかな」

 エリクスは返答に困っていると、急に少女はくねくねと体を動かし始め、両手を頬に添え、照れたように顔を赤らめる。

「いやぁん。ちょっと照れるじゃないのっ!」

 エリクスはますます返答に困った。

「この微妙に丸みを帯びた頬や顔のライン、きゅっと引き締まった美しい唇。そして、この愛らしくてつぶらな瞳! まさに美少女たるあたし! カンペキ!」

 熱に浮かされたように、少女は絵に噛り付いている。

「……ヘリオトも見る目落ちたな」

 あるいは病気のせいかもしれない。

 聞こえないようにぼそりと呟いたつもりだったのだが、どうも少女の耳には届いてしまったらしい。

「今、なんて言ったの」

「別に」

「ちょっとアンタの弟君って何処よ、会わせなさいよ!」

「嫌だよ。会ったら殺すんだろ」

 口ではそう言いつつ、いつもいるはずの弟がいない事に非常に焦りを覚えていた。何処に行ったんだろう、あいつは。

「このあたしは芸術に携わる者には寛大で有名なのよ。殺すのはアンタだけで我慢しておいてあげるから弟君を紹介して」

「あのさ。夜ももう遅いし、家に帰ったら?」

 聞かぬふりをして、とりあえず告げる。

「むっかっ! 魔女たるあたしがこんなにも下手に出てお願いしているのに、アンタは無下にも突っぱねようというのね! そう、そういう事! それじゃああたしにだって考えがあるわよ――!」

 どだんっ!

 少女が脅しの言葉を口にして、何か行動を起こす前に家中に大きな物音が響き渡った。エリクスは一瞬で背筋を凍らせた。物音は奥にある弟の部屋からだったのだ。少女を突き飛ばして、今まで半開き状態だった扉を蹴破り、明かりも点いていない部屋に転がる。

(まさか――!)

 少女の罵声が聞こえたが、それも別にどうでも良かった。ベッドから転がり落ちたヘリオトを見つけたのだ。自分の帰りを待っている間に具合が悪くなって、部屋で休んでいたのか――

「ヘリオト!」

 弟の背中と床の間に腕を差し込み、なるべく揺すらないように持ち上げる。寝巻きは汗でじっとりと濡れて、荒い息が部屋中の空気を乱していた。体はぞっと冷たいくせに、顔だけが林檎のように赤い。

(まさか、まさか――!)

 同じ言葉だけを狂ったように繰り返す心を抑え付け、ヘリオトの体をベッドに戻す。そして枕元の瓶を掴み取るや否や、栓をもぎ取る。リケーション工場で作られている熱冷ましのポーションだった。

「止めなさいよ」

 扉の向こうから少女の声がした。まだいたらしい。

「見ての通り、弟はこんな状態だ。医者だってもう命は長くないって言ってる。君がわざわざ手を下さなくたって弟は死んでしまうんだ。頼むからそっとしておいてくれないか」

 少女が嘆息するのを背中で感じた。もう相手をしている余裕は無いんだ。さっさと帰ってくれ――そう言おうとした瞬間、事もあろうに少女は部屋の中にずかずかと入り込んできた。何をするのかと問い詰める間もなく、彼女はまたもや黒いビスチェの中に手を突っ込む。今度はエリクスも身構えたが、その手に握られていたのはアサイミーではなく、エリクスが手にしていたものよりも一回り程小さい瓶だった。そして、それを素早く自分の口に流し込んだ少女はごく自然に弟の唇に口付けをする。口に含んだ薬を流し込む気だ。

(――毒殺っ?)

 悲鳴を上げるよりも早く、エリクスは弟の傍から少女を引き剥がした。軽い少女の体はくるりと一回転し、タンスにぶつかって止まる。

「ぃいったああぁっ! 何すんのよ!」

「お前こそ何するんだ! 何の毒を飲ませた、魔女め!」

「毒を飲ませるのに、わざわざ自分の口に含む馬鹿がどこにいるってのよ!」

「えっ……」

 言葉と、少女の指先が指す弟を見て、エリクスははっと我に返った。よくよく見れば、変わらずうなされてはいるが、さっきまでの荒い呼吸は波が引くように止まっていた。顔色も幾分静けさを取り戻している。

「どう。魔女印の秘薬は。人間が作るしょーもない薬よりよっぽど効くでしょ」

 打ち付けた背中を擦りながら立ち上がった少女は、やや――どころか、かなり――機嫌悪そうに吐き捨てた。


「えぇと……」

 テーブルに客人用のティーカップを置き、なんとか取り繕おうと声を上げる。が、言葉にはならない。ティーカップの前に座っている少女は膨れっ面のまま肘を立て、頬杖を突いたまま、弟の絵の方にしか視線をくれない。エリクスも自分のカップを手にテーブルを挟んで座るが、どうにも居心地が悪かった。自分の家なのに。

「あーあ。弟君は大人しそうであたしの好みなのに、兄貴は聞く耳すら持たない乱暴者とはね。げんなり」

(げんなりって)

 もう一度、弟の部屋の方を伺う。今は静かに眠っているようだった。こうも辺りが静かだと、静かな寝息も良く聞こえる。

「あ、あの、さっきはすまなかった。どうも気が動転してたらしくて」

「それでレディを投げ飛ばすんだ。ふぅん」

 何が辛いって、興味なさそうな表情をして、ぐさりと来る言葉を簡単に吐き捨てるのが一番痛い。エリクスは容赦なく苛まれる。

「ううぅ、本当にすまなかったってば!」

「ふん。どーだか」

 ここで黙ってしまえば、更に状況が悪化すると思った。エリクスは何とか話を続ける。

「でも本当に魔女が持ってる薬って凄いんだな! 俺びっくりしたよ!」

 ぴくりと少女の睫毛が揺れる。そうなのだ。森で最初に会った時に思ったのだ。この少女はもしかして誉め言葉に弱いのではないのかと。それが例えお世辞とか、別の魂胆が丸見えのものだったとしても。案の定、彼女は表情こそ変えずとも、体だけはこちらに向けてくれるようになった。

「ふ、ふふん。まぁそんな事あるけどね」

 怒りたいのか喜びたいのか分からない複雑な表情が同居する結果、口元辺りがぴくぴくと揺れ動き、かたかたと震える手でティーカップを持ち上げ、一口含む少女。そして、一言。

「なかなか人間にしては美味しいお茶を入れるじゃないのよ」

「そりゃどーも」

(分かりやすいコだ)

 まあ視線を合わせてくれないが、それでもまともに話が出来る空気ぐらいは出来た。それとなく聞いてみる。

「それで……なんで、弟を助けてくれたんだ」

 ややうんざりしたようにカップを置いた彼女は溜め息混じりに呟く。

「アンタ。本当に魔女の姿を見たら、魔女が殺しに来るって思ってるの?」

「『魔女の一日』ではそういうことになってるけど」

「魔女の姿を見たら殺されるなんて、時代錯誤な話よ。あたしのひいおばあさんぐらいの代までは本当にあったらしいけど、今のあたしには関係ないし」

「ひいおばあさん?」

「そ。ざっと三千年ぐらい前のお話」

「君は一体いくつなんだ!」

「今年でついに四桁突入よー。もうそろそろ若者の街も歩けなくなってくるねぇ」

 気軽に言う魔女を前に、愕然とエリクスは椅子の中に深く沈みこんだ。

 今年で四桁突入……?

「せ、せん、さい?」

「そう、ちょうど千歳。人間なんか足元にも及ばない存在。敬ってへつらえ」

 どう言われても、信じられなかった。時折、色が微妙に変わっているようにも見える金の長い髪は艶やかだし、黒のビスチェから覗く肩も腕も、赤いスカートから伸びる細い足もとても白くて、お世辞抜きに言っても綺麗だった。どことなく病的なものを感じさせないでもないが、皺はひとつも見られない。そして、顔。多分に幼さが残る顔立ちは、どれだけ多く見積もっても自分やアリアドネと同年代。もしくは下にしか見えない。それに――魔女が永遠に生きるって話は本当だったのだろうか。

「ま。本当の所を言うと、本当は裸を見た弟君を少し懲らしめてやろうと来たんだけどね。すっかりその気も削がれたよ」

「殺しでも懲らしめでもいいけど、君は二年越しにやって来るのか」

「うぐっ」

 言葉に詰まって、あからさまに仰け反る少女。反動で椅子の前足が浮き上がり、彼女は椅子と共に背中を打ち付ける。今度は自業自得だから謝らない。当然だ。気遣う事ぐらいはするけれど。

「大丈夫かよ」

「……いたた。実はね。二年前ここへ来た時にさ、大切なペンタクルを無くしてしまって」

「ペンタクル?」

「見た目は金貨なんだけれど、大きさは――そう、拳の大きさぐらいはあるかな。あたし一人の力では行使できない難しい魔法とかを使う時に用いるのよ。平たく言うと、魔力の増幅装置ね。それが無いと、あたし、瞬間移動の魔法使えないの」

「ほう。んで、自分の家までアサイミーを取りに帰ったら、二年も掛かったのか」

「そう。ウィッチクイーンにはさんざんどやされるわ、道中海で溺れかけるわ、カラスにはついばまれるわ。そりゃあもうあたしの大冒険は長らく続いたのよ」

「ペンタクル、ねぇ……それってもしかして、ヘリオトが絵の具のパレットに使ってる奴かな」

「え」

 少しは慣れたところにある戸棚を指差してやると、少女は弾かれたようにそちらを振り向いた。今の話で思い出したのだが、弟がこの少女の絵を描くようになった頃、なんだか硬貨にしては大きな金色の円盤を拾ってきた事があった。森の方で拾ったと言っていたが――

「窪みがちょうどいいからって」

「のおおおおおおっ!」

 パレットと化した魔女の大切な道具には、青色と赤色の絵の具が付着したままだった。ヘリオトのパレット――もとい、ペンタクルを両手に抱え、彼女は床の上で悶絶している。

「魔女って面白いな。ところで君はなんて名前なんだ?」

「リ、リピカ……」

「リピカか。俺はエリクス。エリクス・ヴィルナ。よろしく」

 童謡の中で唄われている恐ろしい魔女の姿を連想させる事もなく、リピカと名乗った少女はしばらく床の上で寝転がったままだった。

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