1.「俺の家で何やってんだ」

 朝、目覚める。

 リピカは何度か目を瞬き、上半身を起こしてはゆっくりと背伸び。部屋中に満たされた冷気に身震いをする。冷たい床に素足を下ろし、ベッドに手をついて立ち上がった。ギシリと床が鳴く。いつも通りだ。

 今日は十一月十日。確か、この日の朝は窓を小突く小鳥が二羽。対面の窓に近づき、そろっとカーテンを開けると、窓の桟に張り付いた小鳥がやはり二羽。どちらも褐色のあまり目立たないタイプだ。鳥類には詳しくないので、未だになんという種か知らない。そろそろ暖かい地方へ旅立った方がいいぞ、と毎回思うのだ。

 今日は十一月十日。別に自分までがこのサイクルにあわせる必要は無いのだが、この日の朝食はシンプルにバタートーストとベーコンエッグ。卵は二つ落とす。理由は卵が好きだから。それだけ。ひとつはベーコンと絡ませて味わい、もうひとつはトーストの上に乗せていただく。美味い。あとは拘りの豆から挽いたコーヒーで流し込む。食事もつつがなく終わり、洗面所へ。まだ半分寝惚けている顔を冷水に浸す。それから右耳の後ろ辺り、強烈に跳ねた寝癖を苦心苦労の末、元に戻す。化粧はしない。そんな事しなくても、自分は十分に可愛い。

 今日は十一月十日。仮住まいはリュリアーサの中心から少し外れた人気の無い森の中にある。街の中心に出る為には、一時間ほどの徒歩を要する。あらゆる意味で歩き慣れた道だ。確か七回目ぐらいまでは、あの地面から飛び出した大きめの石に足を取られ、躓いていた。さすがに今となってはかわす事など造作も無い。

 今日は十一月十日。

 それは、破滅まであと一週間と迫った何気ない一日。


 リュリアーサの朝はとにかく早い。

 街の住人全員がご老体かと思うほど早い。どうしてご老体は朝が早いのか。リピカはそんな問いにさえ答えを持ち得てはいない。ここで知り合ったとある老婆は「残り短い余生を無駄なく過ごしたいからかもねぇ」と笑いながら答えてくれたが、それはこの街においては非常に無意味だ。

 幸いにも、十一月十日という日は雲一つない快晴で、機嫌がいいらしい太陽は街中に光を下ろしていた。街の中心には市場がある。朝揚げられたばかりの新鮮な海鮮物やもぎたての果物の卸売りが主立っていたが、中には朝食抜きでやってくる客目当てに弁当を販売したり、売れるかどうか分からない日常品をバザーする個人の姿も珍しくはない。

 リピカもまたそのうちのひとりだった。中央広場を囲う塀は高くもなく低くもなく。無駄に元気な子供なら容易に乗り越えることが可能なぐらいだ。当然それが作り出す東西南北のゲートもまた便宜上のような所がある。そのうちの一角、南ゲートのすぐ右手に樹齢何百年も思わせる巨大な木があった。残念ながら今の時期、葉はほとんど落ちてしまい寂しいばかりの姿。その袂で、赤い下地に金の刺繍が誂えられた派手派手な風呂敷を敷いて、その上に色や形がまちまちなガラス瓶を並べ始めるリピカ。

 そして、

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 魔女のポーション売りだよ! そんじょそこらの市販の薬とは訳が違う!」

 澄み渡る空の下に突然響き渡った少女の声。

 べんっべんっ。

 取り出したハリセンを風呂敷の上に叩き付けるリピカ。

 ずっと前に「今時、叩き売りなんて聞いた事もないぞ。しかも、薬」と、愛しい人にそう言われた事がある。けれど、バザーを始めて、ものの十分もすればこの半月で仲良くなった常連客を皮切りに、あっという間に人だかりが出来始めた。「ほら見てみろ」と馬鹿にして大笑いする記憶に向かってほくそ笑みながら、表情は営業スマイル。そして、毎朝のご挨拶。これも変わらない。

「リピカちゃん。この間のお薬、よく効いたわ。風邪なんか一発で治っちゃって。本当、ありがとうね」

「いえいえ、お役に立ててよかったです」

 魔女が調合した薬なのだから、それも当然だ。人間が作る薬などとは訳が違う。いちおう魔女の薬だって言ってるのに、常連客らは一向に信じてくれない。魔女の存在自体、人々の間ではもう風化しかかっているからかもしれないが。

 いの一番に話し掛けて来てくれたこのご婦人は、この街で一番最初の客だった。カーマイン婦人。確か、旦那が仕事ばかりで家庭を顧みないと愚痴られたのが最初。子供が発熱して、その時リピカのポーションが役立った。この街で顔が広い方なのか、半ば彼女の口コミでリピカの薬の評判が広がったような所もある。

「カーマインさん、今日も変わらずお綺麗ですね」

「もう、やだわ。リピカちゃんったら。乗せなくたって、ちゃんとリピカちゃんのお薬買わせてもらうわよ」

 まるっきりお世辞と言うわけでもない。カーマイン婦人は本当に綺麗な人だった。魔女のリピカがそう認めるのだから間違いない。リュリアーサから随分離れた片田舎町から嫁いで来たそうだが、都会特有のあか抜けた感じが無いのがまた良い。

「じゃあ、これなんてどうです? ベランドナって言うんですけど」

 リピカは風呂敷の隅っこに置いてあったピンク色の液体の小瓶をちらつかせる。

「ベランドナ?」

「媚薬です。び・や・く。今夜辺りどうですか? 旦那さんともご無沙汰なんでしょう」

「リ、リピカちゃん……」

 カーマイン婦人は顔面を紅潮させながら、一方で憤怒を押し殺しているようにも見えた。

(あ、やべ。これでもダメか)

 今回もどうやら失敗らしい。

 あの頃の自分はどうしてそれを薦めたのか分からなかったが――まぁ、いい。どの道、この日カーマイン婦人とはこれっきりになる予定だった。かつての自分はこれだけ親しくなれば、ちょっとぐらい踏み込んでもいいだろうと、彼女に売れ行きいまひとつだったベランドナを薦めた。一番最初は「魔女の張り型もオマケに付けるよ」と太っ腹サービスをした――つもりだった。が、頬を引っ叩かれ「馬鹿にしないで」と肩を怒らせて去っていかれた。今ではさすがに頬を引っ叩かれる事は無くなったが、やはりベランドナを薦めると、翌日からは姿を見なくなり、それっきりになってしまう。面白いもので、どうにかしてカーマイン婦人にベランドナを売りつけたいと思っていた。

(またよろしく……)

 去っていく婦人の背中を見送り、リピカは嘆息する。もう少し売り文句を改良する必要があるらしい。いや、時期尚早なのだろうか。リピカは他の客そっちのけで、頭の中でシミュレートを繰り返した。どうにかしてこの十一月十日にカーマイン婦人にベランドナを買ってもらう、そんなどうでもいいシミュレートを。

(いや、こんな事だからダメなのか)

 そのシミュレートが役立つ時が来ない方がいいに決まってる。もう一度、カーマイン婦人と話す事があるのなら、それはまた世界が巻き戻った証明なのだから。

「はっ」

 何か背中にぞくりと来るもの――絡みつく粘着質な視線を感じ、リピカは大仰に背後を振り返った。まず最初に目に付く大木の陰、右半身を隠し、残りの左半身だけこちらに覗かせた女が亡霊のように突っ立っている。気付かれた所で、その女――サシャが左手をしゅたっと胸元まで上げた。

「おはようございます」

「……気味悪いんだけど」

「そうですか」

 何の感慨もなく平淡に言い放つサシャ。会話はぶつ切りにされ、唐突に終わる。リピカはこれ見よがしに嘆息すると、客らを一瞥してサシャの方へ足を向けた。金も払わない引ったくりの客が初めて現れたのは、今日から二日後、十一月十二日の事だ。少しぐらい目を離した所で、今日は大丈夫。

「なんというか、涙ぐましいまでの努力ですわね。わたくし感動しました」

「馬鹿にしてるでしょ」

「いえ」

 また沈黙が降る。この女とまともに会話が続いた試しがない。自分が悪いのか、サシャが悪いのか。未だに判断しかねるが。

「しかし、ベランドナですか」

 見られていたらしい。

「いやぁ物寂しそうなご婦人だったから、つい。でも、昔は魔女ってみんなそれで自分を慰めてたって、みんながそう思ってたでしょ。それで背徳者とか罵ってさ。ひっどい偏見だと思わない? あたしはあの時の人間の目を一生忘れないよ」

 弁解するつもりはなかったのだが――そもそも何に対しての弁解だか――、リピカはやや早口にまくし立てた。忘れないよと言いつつ、今はこうして人間達の世界に溶け込んでいる。永い永い人生、本当に何処で、どのように転ぶか分かったものではない。

「いつの話ですか、それ」

「推定二百歳の頃のあたし」

 すると、サシャ。ぽむっと手を打って、

「ああ、わたくしはまだ生まれていない頃のお話ですね」

「嘘つけ、この年増」

 軽薄に揺れる瞳を睨み返しながら、彼女の頭を拳骨で小突くが、これといって際立った反応はなかった。代わりに意味の分からない事を呟く。

「――そろそろ客人が来そうですわよ」

「ん、え?」

 一瞬、自分の店の話の事かと思った。だが、どうやら違うらしい。踵を返したサシャの背中に問う。

「何の、話?」

「いえ、なんでもありません。それよりも――」

 サシャは肩越しに頭だけ振り返って続ける。

「危ないですよ」

 彼女が顎で促した先はリピカの背後――風呂敷を敷いた露店。危ないと言われても、今日は引ったくりの類は現れない日のはずだった。鼻で笑いながら振り返ろうとした時、リピカの耳にきゅぽんっと瓶の蓋が開けられた音が届く。

「あ、お客さん! それはゾンビパウダーだから――って、あーっ!」

 その客は香水か何かと勘違いしたのだろうか。リピカが説明を終える前にそっと鼻の近くまで持っていたその客は、次の瞬間、ふっと気を失うようにして仰向けにばったりと倒れてしまった。

「うわわわっ!」

 その客の手から零れ落ちたゾンビパウダーを受け止め、素早く瓶の蓋を元に戻すリピカ。

(しまった!)

 胸の中で毒づく。確かに今日は引ったくりは現れなかったが、ゾンビパウダーを嗅いで気絶する客が現れる日だった。それと同じぐらいに、客から悲鳴が上がり、何事かと思った人達が更に集まり始めて、瞬く間に大騒ぎとなる。

「まぁ、同じ事繰り返していると、色々試したくなるものなのでしょうかね」

 騒ぎを尻目に、サシャは飄々と中央広場を後にした。


 今日は十一月十日。

 それは、破滅まであと一週間と迫った何気ない一日。のはずだった。



 昨日は峠を越えた所にある街道沿いの宿屋で一夜を過ごした。

 日中太陽の光を十分に吸ったであろう布団や、家庭的な味付けの食事に歓喜した。値段の割には、と感じる所が多々あり、いい宿だったと思う。機会があれば、また是非利用したい。

 リュリアーサの市壁はまだもうちょっと先なので、正確にはここは街と呼べないのだが、街道沿いの宿を境に民家がちらほら増え始める。街と称する為の条件とは、たったひとつ。街を囲う市壁があるか否か。逆に言うと、どれだけ規模が小さくても市壁があれば街として認められるし、どれだけ規模が大きくても市壁が無ければ街とは呼ばれない。いたってシンプルだ。

 街道はやや上り坂調子になっている。小高い丘をまたいで、向こう側へ下ればリュリアーサだ。半日もあれば着けるだろう。

「一年ぶりか」

 帰郷である。

 だが、故郷リュリアーサの街が近付いて来ているというのに、その男の足取りは一向に軽くはならなかった。まだまだ汗ばむ厳しい残暑の中、エリクスはばたばたと上着を扇ぎながら道を辿る。

 必要最低限にまとめられたバックパックに、皮の紐で吊り下げた中古の剣。マントも世話になった人のお古だったし、身を守る為の鎧といえば、胸だけを覆うのみのお粗末なブレストプレート。街を出て人里離れた危険な場所を旅してきたとは、到底考えられない装束。彼――エリクス・ヴィルナは街の何処にでもいそうな、ありふれた青年だった。癖の無いスレートグレイの髪、やや丸みを帯びた愛嬌のある顔。中肉中背。平凡という言葉が良く似合う。街で学生をしていれば、きっと可愛いガールフレンドも作れた事だろう。そのまま就職して、ささやかながらも幸せな家庭を築けたかもしれない。しかし、エリクスがそうしなかったのは、街を出るきっかけとなった一年前の出来事が大きく関与していた。

 上り調子の坂は緩やかになっていた。この辺りは市壁外とはいえ、実質的には既にリュリアーサの管轄内だ。街道は丘の起伏に沿っており、エリクスが今居るのは丁度頂点辺り。落差はそれほどでもないが、それでも足を滑らせれば命に関わりそうな崖下からゆっくりと視線を地平に向けると、リュリアーサの街がすぐそこに見える。何人かの旅行者とすれ違ったが――ここに来て、奇妙な声を聞いた。

「魔女めー」

 ぼこっ。

「魔女めーあっちいけー」

 どかっ。

(……魔女?)

 心臓が跳ね上がる。魔女。それはエリクスが追い求めた仇。

 声はエリクスが向かう先、身の丈倍ほどもある岩に隠れた右に折れてる街道からだった。眉を顰めながら、エリクスは岩陰に身を潜め、そっと向こうを覗き見る。

 いろいろ理解しかねる光景がそこにあった。年端もいかない子供達がいた。街の子供だろうか。いくら危険な魔物が人里やそれに近い場所には出没しないとはいえ、こんな所まで遊びによこす親の神経が窺い知れない。と、そこまで思って、子供が親の目を盗んで自主的に遊びに来たという方が現実的かもと考え直すエリクス。子供達は全部で三人。男子ばかりで、彼らが取り囲んでいたのは、赤い少女だった。

(……あれが、魔女)

 少女は無抵抗で少年達の叩き手や蹴り足を受け入れている。

 肩肘が力なく垂れ下がった。あれではない。エリクスが追う相手は確かに見た目同じ年頃の少女のような姿をしていたが、奴は目も覚めるようなブロンドの髪を持っていた。いや、それよりも、

「こら、お前達っ!」

 エリクスは声を荒げて止めに入った。

 赤い少女がもし本当に魔女ならば、危ないのは少年達の方だし、違うのであれば、いくら年上とはいえ、寄って集って女の子を苛めるだなんて風上にも置けないという理由から。少女を含む四対の瞳が一斉に集まる。悪意だけは感じられない真っ直ぐなその視線にどうしてか引け腰になりながらも、

「こんな所で何をやってるんだ。ここは遊び場じゃないぞ」

 少年達は互いに顔を見合わせながら、何かをぼそぼそ呟きあっている。少女の方はあれだけ殴られ蹴られしながらも、傷ひとつ無いように見えた。どこか、嘘っぽく感じる瞳が丘に吹く風に合わせて、ゆらゆらと揺れている。とても軽そうに。偽者っぽく。

「だって」

「魔女だよ、魔女」

「そうだよ」

「魔女はセイバイしなきゃ」

「うんうん」

「セイバイ! セイバイ!」

 やがて、少年は口々にそれを言い出した。

 エリクスほどの年齢ともなれば、この世に魔女などもういないと考えている連中が大半だ。きっと彼らが言う事も笑って受け流し、言い包めて街に返そうとしたに違いない。しかし、幸か不幸か、エリクスにはそれが出来なかった。少女を見やり、

「君は――」

 少女は呼び掛けに応じない。彼女もまた無感動な視線でこちらを見ているだけだ。

「ほらみて、お兄ちゃん!」

 少年らはスカートめくりの要領で、少女が着ていたこれまた赤いドレスのスカートをばっとはたき上げた。注目すべきは少女の下着――ではなくて、その太股に巻かれたベルト。下がっていた黒い短剣。アサイミーと呼ばれる魔女の証とも言うべき武器。スカートを捲られてもまだ動じない少女は、ひょっとして口が利けないのではと疑いだした頃、ようやく言葉を発した。

「ええ、わたくしは魔女ですが」

 と、端的に。

 そうあっさりと白状されても受け応えに困る。少年達は「やっぱり」「ほら見てみろ」と喚く。彼らの攻撃が再開され、少女はまた袋叩きにされるが、石像のように身じろぎひとつしない。痛覚が無いのだろうか。それにしたって変な話だ。あの華奢な体が一切傾がないなんて。エリクスはどう対処すべきか、完全に調子を失っていた。

「いやまぁ――」

 再び少女が言葉を口にする。いきなり爆発する事はないだろうと思ったが、身構えるエリクス。

「とても気持ちの良い朝です。思わず彼らを捻り殺してやりたくなるような、ほのぼのとした衝動に駆られますね」

 それは全然ほのぼのとしていないだろう――!

 そんな突っ込みさえも忘れて、エリクスは駆け出していた。少年達と少女の間に割ってはいり、無理矢理彼らを遠ざける。

「お前達、命が惜しくないのか!」

 少年達は身の程を弁えていない。また互いに顔を見合わせて、ぼそぼそと呟きあう。その間にも背後の少女の殺意はどんどん膨れ上がっている――ようにも思えた。

「君が魔女ってのも良く分かったから。子供のした事だ。いちいち目くじら立てるなって。何も殺したりするほどの事じゃないだろ」

「そうですわね。わたくしとした事がガキんちょ如きに心乱されるとは。まだまだ修行が足りませんね。では、半殺しで」

 まだ物騒な事を言ってくる。何が「では」なのかも分からない。

「いや、あまり変わってないから」

 どうしてこの少女といい、アイツといい、魔女と名乗る連中は変なのばかりなんだ。エリクスは胸中頭を抱えながら、再び飛び掛ってくる少年達を体で受け止める。

「お前らもいい加減にしろ! 殺されるぞっ!」

 駄目だ。少女が生半可に無抵抗だった分、その恐ろしさが少年達に伝わらない。既に空気は変わっているというのに、なおも遊び感覚で蹴ったり殴ったり抓ったりしようとする。もみ合う内、彼らを押さえつける手に思わず力が入った。

「いったい、お兄ちゃん! もしかして魔女のなかまかっ!」

「なっ! 冗談じゃない。何で俺が――」

 慌てて手を離し、一歩後ずさる。

「あやしいなぁ」

「あやしいぞぉ」

「あやしいねぇ」

 少年達を挟んで、その背後。魔女が初めてくすりと微笑んだ。まさか、こうなる事まで予測していたのか。信じられない思いが去来した。すっかり魔女と同じ立場に立たされてしまったエリクス。自分を見る彼らの目は、既に半信半疑となっている。

「待て待て、危ないから。よせ!」

 三人に囲まれて、行き場を失う。背後には崖が迫っていた。覗き込めば、眩暈ぐらいは簡単に覚える事が出来る。じゃりっと足元が鳴って、小石が吸い込まれるように落ちていった。まだ青々とした枝葉を付けた木々がわさわさと踊っている崖下に。

「危ないですよ」

 魔女の一言。分かっている。お前が言うな。

 確認の意味で、エリクスはもう一度背後と確かめる。歩数にしてあと二歩。もうこれ以上は駄目だ。

「――ほら」

 どんっ。

(どん?)

 少年達の頭上を越えて、魔女の細くて白い腕が伸びた。エリクスの胸元を軽く押す。しかし、その一押しは容易くエリクスのバランスを崩し――

「お、お前っ!」

 前へ、後ろへ。何度かエリクスの体は傾ぎ、結局勝ったのは。

「う、うわああああああああああああっ!」

 一瞬だけの浮遊感。

 続いたのは、足場を失った体が無理矢理下層へ押し込められていくような、徐々に勢い付いていく落下速度だった。視界が前後左右、縦横無尽に入れ替わる。がっと何かが響いて、目に赤いものが飛び込んできた。岸壁か何かにぶつけて、額でも切ったか。覚えているのはそこら辺りまでで、あとは体中に走る痛みを子守唄に、意識を手放してしまった。

(ああ……俺、死ぬのかな)

 上の方から子供達の声が聞こえる――


 春、新しい季節の到来を動物達と分かち合い。

 夏、燦々と光が降り注ぐ珊瑚礁の海を魚達と共に泳ぎ。

 秋、深まる山の色々に物悲しさを覚え。

 冬、厳しい寒さの中、皆と身を寄り添い、新しい季節を待ち焦がれる。

 そんな自然を感じるほど、もう小さな村でもなかったが、そこは人の心が残った優しい場所。大陸の西南に位置する海に程近い街。世界の発展に遅れもせず、かといって、急ぎすぎもせず、緩やかなその街は人の過去にも拘らない、本当に住み良い街。他に住む場所なんて知らないせいもあるけれど、リュリアーサはそんな所だと、エリクスは思っている。

 言葉にすると照れくさいので、誰に言った覚えもないが――言った事は無いと思うが。


 病気がちだった弟ヘリオトがいて、気立ての良い幼馴染みの少女がいて、両親が病で他界した後、何かと面倒を見てくれた職場があって。必ずしも順風満帆とは言えなかったけれど、自分の人生はこうしていつまでも続いていくものだと信じて疑わなかった。

 あの魔女が自分達の前に現れるまでは……


 いろんな景色が入れ替わり立ち代り、いろんな笑顔が一瞬で通り過ぎ去って。

 最後に宙を舞ったのは、忌まわしき魔女リピカ。

「本当のあたしは、もう消えちゃっているのかもね……」

 消え去りそうなその言葉。

 エリクス――!


(やべ、これって走馬灯っ!)

 どこかにある意識がそう認識した。

「おーい」

 誰かに呼び掛けられている。

「もしもーし」

 知らない女の声だ。いや、つい今し方聞いた声かもしれない。

「おーい、もしもーし」

 その声の大きさは徐々に増し、やがて我慢の限界に達して、エリクスは跳ね起きた。

「うるせーだろがっ!」

「ああ、ようやく起きてくださいましたね」

 傍らでその抑揚の少ない言葉を呟いたのは、赤い魔女だった。ひっとうめいた後、エリクスは形振り構わず四つん這いで距離を取ろうとするが、目の前は切り立った岸壁だった。だらだらと冷や汗を垂れ流し、体を反転させて岸壁に背を預ける。

「お前、俺を殺そうとしたな!」

 そう。まだエリクスは生きている。死んだと思われたが、まだ生きていた。その事を時間の経過と共に強く実感しながら叫ぶ。

「滅相もありません。様々な事象が重なって偶発した不幸な事故でした」

「何が偶発だ! お前が俺の胸を突いたからだろ!」

「――まぁ。そうとも言いますけどね」

 しれっと認める魔女。

 エリクスは本気で眩暈を覚えた。

(あれ?)

 眩暈と言えば、あれだけあちこちぶつけながら転落したはずなのに、体中何処を探しても打ち身のひとつもない。目に入ってきた流血の跡も見られない。不審に思って、体中に手を這わせてみる。本当に痛みなど無い。

「ああ」

 再び魔女が口を開いた。

「傷でしたらわたくしが治させていただきましたわ」

「む。案外親切な魔女だな」

「いえ。治したというか壊したというか――」

 エリクスは立ち上がって軽くストレッチをしてみるが、転落前よりもどうしてか体が軽く感じられた。まるで自分の体ではないみたいに。

「いちおう礼は言っとく。いや、元はと言えばお前の仕業なんだから、礼は必要ないのか。ともかく――俺は先を急ぐからな」

 嘘だ。別に急ぐ必要も無い。

「あの」

 だが、これ以上こんな変な魔女に関わる理由も無い。まだ何か言いたそうな彼女を黙殺し、エリクスは足早にその場を離れた。丘を下る手間が省けたのは、不幸中の幸いだったと言えるかもしれない。



 午後は、のんびりと往来を見つめていた。

 リュリアーサの名物ともいえるこのバザーは、特に時間など決まってはいないものの、実質的にはその日揚げられた海鮮物の切れ目が広場を訪れる客の切れ目とも言えた。新鮮な掘り出し物を得る事が出来た者は自分の店で、あるいは家庭で、それの調理や保存に取り掛かっている頃だろう。リピカも薬売りの風呂敷をたたむのは日によってまちまちだったが、そんなに長居はしない。

(十一月十日……いつもは、何時に帰ってたかな)

 この街に合わせる必要は何処にもないのに、極力目立つような事はしないでおこうという考えがリピカにそう思わせるのか。すっかり客が引いた店先でぼんやりと空を眺めながら、深々と嘆息した。

 それすらも、無駄だ。リピカはすぐに思い直した。昨晩、突如現れたサシャによって既に十三回目の「いつも」からは外れてしまっている事に気付いたのだ。

「――なぁんだ」

 例えるなら、せっかくぱりっと皺のひとつもなく、完璧に仕上げる事が出来たシャツを一瞬にしてくしゃくしゃにされたような、そんな気持ちで彼女は暗く呟いた。なぞっていく事に意味など無かったが、それでもだ。

「何が、なぁんだ、なの? リピカちゃん」

 面白いもので、外れていたんだと分かった途端、今までにはあり得なかった事象がまた起こる。いや、意外と自分が気付いていなかっただけかもしれない。なんだかそれが滑稽で、急に笑い出したくなった。人前だったので、本当には笑わなかったが。

 店先に現れたのは、栗色の髪を肩まで伸ばした女性。名は、アズライト。みんなからはアズと呼ばれていたはず。クリーム色のセーターに、褐色のフォーマルなスカート。すっかり秋色のファッションに身を染めたこの街の学生だった。十一月九日――つまり、昨日を最後に姿を見せなくなるはずだった彼女が今日も来たとは、何がどう変わったのだろう。

「いらっしゃいませ。どうしたんですか?」

 とはいえ、営業スマイルは忘れず、リピカ。すると、アズライトはやや苦笑して「今日はお客さんじゃないのよ」と前置きをし、紙束を取り出す。リュリアーサの街新聞だった。

「見てこれ、見てっ!」

 まるで少女のように瞳をきらきらと輝かせながら、彼女。

 そうだった。アズライトのミーハー癖は結構有名で、リピカも度々あの映画がどうだの、出演している俳優がどうだの、日が暮れるまで語られた覚えがある。今度は誰だろうと彼女が差し出した新聞の一面を見て、思わず肩がずり落ちた。

 一番最初に飛び込んできたのは、でかでかとした「シャロウ・ヴィン」の文字だった。

「シャ、シャロウ……ヴィン……」

 苦渋の呟きを漏らすリピカを他所に、アズライトはそれはもう微に入り細に入り、シャロウ・ヴィンの素晴らしさを延々と語っている。前にも聞いた事あるものも。新しく彼女の口から聞くものも。だけど、リピカは知っている。今更彼女に言われずとも全部知っているのだ。

「知ってるよ。そんな事」

 ぼそりと呟くと、アズライトは小首を傾げ、

「なんだリピカちゃんも素知らぬ振りして、実はファンだったのね」

「違います!」

 勘違いしている彼女を横目に、リピカは今一度、新聞に目を通した。

「……先日カルサス遺跡で古代聖遺物のひとつ、聖剣レッドレイを発見したシャロウ・ヴィン氏はリュリアーサに凱旋し、住人達の暖かい歓迎を受けた。聖剣レッドレイとは、古代イシュカーサ帝国の皇帝が所持していたとされる影を切る魔法の剣で、赤いクリスタルで作られた透明の刀身が特徴。同剣はリュリアーサ博物館に寄与される予定である。また、今回のこの働きによって、冒険者ギルドはヴィン氏に何らかの栄誉を与える事を検討している、か……ふぅん。相変わらず、すごいのね」

「そうよ、すごいのよっ!」

 とは、アズライト。そして、

「――いやぁ、それほどでも」

 男の声だった。

 有り体に言って、今朝サシャに感じたものと同じ悪寒のようなものを感じ取り、その声がした方を見やるリピカ。

「見つけましたよ、リピカ様」

「げ」

 真っ先に、そして素直にその一言が漏れた。

 視線をやった先、南ゲートにその男が寄り掛かるように立っていた。一瞬だけ目を点にしたアズライトは、即座にそこいら中にハートマークを飛ばして、きゃあきゃあうるさく喚きだす。

 男は艶のある黒髪で、目に入って邪魔にならないように短く刈っていた。その色が、既に彼を異邦人だと決定付けさせている。自由の街リュリアーサでは、それもさしたる問題ではないが。切れ上がった目の端は鋭くも、中の瞳は非常に優しい様相を見せている。高い鼻と唇も文句の付けようがない程に整ってて、薄く焼けた肌は非常に健康さを表わしていた。服装は街の若者の流行りを良く押さえていて、彼が着たのなら他の誰よりも着こなすであろう。ただひとつ、腰に帯剣している様だけが異様と言えば、異様だった。とにかく――それら全てが、彼をシャロウ・ヴィンだと告げている。

「えーと。今日はもう店じまい。帰りますね、アズ」

 と、手早く風呂敷をたたみ始めたリピカ。アズライトは形骸化した疑問符をその表情に浮かべても、やはりシャロウから視線は外さない。今の彼女にとって、彼以上に重要な問題は無いのだろう。

「今日という今日は逃がしませんよ、リピ――」

「シャロウ様! はじめまして、私、アズライトといいます!」

 足早に駆け寄ってきたシャロウの前に、すっかり周りが見えていないアズライトが立ち塞がる。リピカは心の中でガッツポーズを作りながら、密かにアズライトを応援した。店の品物が全てリピカの鞄に収まっても、まだ乙女の猪突猛進を体現するアズライトを振り切れずにいるシャロウ。

「じゃ、おつかれシャロウ・ヴィン! 頑張ってね、アズ。あたしは帰ります!」

「ちょ――待って下さい、リピカ様!」

「私シャロウ様に出会えるなんてちょー感激です! 友達に自慢しちゃいます! いや今から呼ぼうかしら! 今お暇ですか良かったら、あの、あのお茶でも――」

 アズライトの猛攻は広場出てもまだリピカの背中に届いていた。

「き、君! 僕はあの人に用事がってうおわあああぁぁっ!」

 シャロウの悲鳴も。

 そのうち、黄色い歓声が爆発的に増えたので振り返ってみると、シャロウの存在に気付いた他の客らがわらわらと彼に詰め寄っている様がありありと窺えた。黒山の人だかりは既にシャロウと見えなくしてしまっている。あれでは、アズライトも押し潰されているのではないか。まぁ彼女の大声が周りを呼び寄せたようなものなので、自業自得といえばそうなのだが。

「人気者は辛いね」

 少しだけ皮肉か嫉妬か何かを詰めた声で呟き、リピカは家へと急いだ。


 仮住まいが近くなると、街の喧騒も何処へやら。それはリュリアーサの南区画に広がる森の中にある。街を一望とまではいかないが、そこそこ見渡せるようになる小高い丘に向かう途中にひっそりと建っていた。

「リピカ様」

 朝、躓きそうになった石ころを力いっぱい蹴飛ばして、家路を急ぐ。

「リピカさん」

 木々の隙間にリュリアーサの住人ですら滅多に知らないという小さな湖が見えた。

「リピカちゃん」

 ここまで来れば、家まで後少しだ。

「リピカ殿」

 だんだん敬称のランクが低くなって、あまつさえ最後は「殿」なのが気になった訳ではないが、無視すると決めたのに根負けしてしまった。いつの間に後ろを取られていたのか知らないが、背後を振り返って叫ぶ。

「何よ」

 不機嫌そうに。

 シャロウが追い付いてきたわけではない。声の主は午前中に行方を晦ましたサシャだった。挙げ句、彼女は胸に手を当てて「らーらららー」とソプラノ歌手よろしく発声練習を始める。

「何の真似よ」

「いえ。泣く子は更に泣き、飛ぶ鳥さえ射落とすこのわたくしの七変化オーロラボイスがリピカの耳には届きにくかったようで。衰えたのかと心配に」

「ああ、私。生まれつき耳が不自由なの。ごめんね」

 耳たぶを引っ掴んで、直にオーロラボイスとやらを吹き込もうとするサシャを張り倒し、リピカは踵を返した。

「――それはそうと」

 地面に倒したつもりだったのに、何故か同じ歩調で後ろから付いて来る彼女がいる。本気で分からなくなってくるが、こういう奴なのだ。それを咎めたって、今更どうしようもない。

「今晩。来ますわよ」

「朝も言ったわね。何が来るのよ」

「貴女が最も恐れてるものです」

「まさか」

 心当たりはある。だが、そんなはずはない。それは一週間後の話だ。今日はこのまま帰る。バスタブで温まっていた最中、上に思いっきり背伸びをして背骨がびきびきっと嫌な音を立てるといった事故はあったものの、それ以外はつつがなく終える日のはずだ。いや、

「……既に筋書きは変わっている?」

「ええ」

「アンタがこの街に来たからじゃないの、ねぇ」

「違います。わたくしは呼ばれただけですから」

「誰に」

 確信を得ない押し問答をしているうちに、仮住まいに辿り着いたリピカ。その玄関の扉に手を掛けて、自分とサシャ以外の、第三の気配に気付いてはっと手を止める。違う。それはサシャが言う「自分が最も恐れているもの」ではない。安堵して、しかし次の瞬間には、奈落に突き落とされるような、そんな虚無感を得た。

「彼です」

 とは、サシャ。

「お前――」

 頬が引きつる。鏡が無くたって、自分の表情がどんなものか容易に理解できた。

「俺の家で何やってんだ。魔女リピカ!」

 丘の方から降りてきたその男――

 エリクス・ヴィルナはありったけの憎悪を抱いて、強くリピカを睨み付ける。愛する男のその視線は、再びリピカを凍り付かせるのに十分すぎる威力を放っていた。

 夜更けまでは、まだ遠い。

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