ひきよせ女 【10】

【10】


 朝早く起きられなくなり、私はまた朝食を抜いて遅いバスで会社に行くようになった。誰かに感謝して、毎日に幸せを発見して、ということに憑りつかれなくなった。

 そうすると何故だか立て続けに悪いことが起きるもので、仕事で大きなミスをした。受注していた案件の納期変更を伝えるのを忘れていたのだ。納期変更の伝達ミスは問題だが、そこまで大きな問題になるまいと高をくくっていた。

 しかし、私を評価して気に入ってくれているはずだった高橋チーフに「お前みたいななあ!ちやほやされて何となく生きてきたような奴は、自分の行動がどれだけ人に迷惑かけるのか分かってないんだよ!小学生じゃないんだから、もうちょっと想像力を働かせろよ!」と、普段から考えられない形相で怒られた。後で、私のミスで社内だけでなく、高橋チーフと長年お付き合いがあった取引先にまでご迷惑をかけていたことを知った。そのトラブルをチーフと横田くんで、とりなしてくれていたということも。

 何となく生きてるわけじゃありません。と言いたかったけれど、とてもそんなこと言えなかった。私は何となく生きている。流されて生きてしまっている。初めて会社で泣いてしまい、遠くから誰かの舌打ちが聴こえた。


 ※※※


 ミスがあった次の週に家の鍵を失くした。

 マンションに着いてから気が付いて、鞄をひっくり返して、どこにもなくて、管理会社に電話したけどつながらなかった。友達に電話したけど、泊めてくれる人も見つからなくて、仕方なく夜の街を歩いた。週末で、次の日休みだったのがせめてもの救いだった。明日は土曜日だけど、管理会社には電話はつながるだろうか。


 あの晩以来、ユウキから連絡が来ることはなかった。


 どちら様ですか?


 何で、あんな言葉が出てきたのだろう。自分でも分からない。

 普段、飲みに出歩いたりしないので、夜の街は久しぶりだった。思い返してみると、あの青いコートを買ったクリスマス前以来かもしれない。結局、あのコートは全然袖を通していない。

 とりあえず、嫌になるまで歩こうと思って、特にお店にも入らず、だらだらと歩いて繁華街へ向かった。途中で居酒屋やホストクラブの客引き、水商売のスカウトっぽい人とかが声をかけてきたが全部無視した。

 ざわざわした雑踏の音はやがてキーンとした耳鳴りに変わった。それとともに背中にべったりと、あの交差点を渡るときに感じる視線が張り付いてきた。


 誰かが私を見ている。


 それが善いものでも悪いものでも、それこそが、私が引き寄せたもの。私があまねくすべてに感謝し、未来の幸せを願い、日記に願いを書いて、毎晩布団の中で口に出し、思い込み、引き寄せたものだ。

 それが私に言わせたのだろう。「どちら様ですか?」と。

 歩いても歩いても視線が背中に張り付く感じは消えなくて、私は何度も何度も振り返った。もちろんそこには誰もいない。何度振り返っても、誰もいない。

 だけど、何十回目かに後ろを振り返ったときに、私は視線の先に知った顔を見つける。



 横田くん。



 振り返った先に、横田くんがいた。

 彼は、コンビニの前で電話をしていた。私には気が付いていないようだ。

 思わず、走り寄ってしまいたい衝動にかられ、私は歩を速めるが、同時に私と逆方向からも彼に向かって女性が近付いてくるのに気が付く。横田くんも女性に気が付いたらしく、軽く手を上げて、彼女を迎える。それを見て、私は足を止めてしまった。そして、あちらから気付かれないように、お店の陰に隠れて二人を盗み見た。

 横田くんと女性は手をつないで、こちらの方向に向かって歩き出した。私は慌てて、見つからないようにさらに身を小さく隠す。人が多かったせいもあるのか、二人はまったく私に気付いた様子もなく、目の前を通り過ぎていった。二人が通り過ぎてからも、身を縮めてじっと二人の背中を見ていた。

 見間違えようがなかった。

 それは、横田くんと先輩だった。


 ※※※


 横田くんと先輩が逢っているのを目撃した後、どっと歩き疲れがきて、どこかお店に入ろうかと思ったのだけれど、居酒屋は一人で入る気がしないし、今ちょっといいものを食べる気なんてしないし、でもファミレスは悲しすぎるし、カフェは閉まっているしバーはお腹にたまらない。散々迷って私は生まれて初めて、一人でカラオケに入った。

 どうせ今夜は家に帰れないのだから、このままここで時間を潰してしまおう。漫画喫茶でもよかったけれど、なんだか、大きな声を出してしまった方がいいのではないかと思ったのだ。歌い疲れたら、もしくは歌う気になんてならなかったら、おとなしく漫画喫茶か安いホテルを探そう。

 最初は曲を入れずに、インターフォンで飲み物と食べ物を頼んで、カラオケのアーティスト紹介を眺めながらそれを食べた。



 ジョイサウンドにお越しのみなさん、こんばんはー……


 ついに僕らのニューシングルが発売になりました……


 カラオケで盛り上がること間違いなしのナンバーになっています……



 その声は、耳鳴りに阻まれて、遠くなっていく。

 一人カラオケでピザとビールを頼む二十八歳独身女。彼氏にふられて、引き寄せの法則にはまって、職場の先輩と男の子の不倫を目撃して、仕事でひどいミスをして家の鍵を失くした。カラオケの画面に映るアーティストたちはほとんどアイドルグループばかりで、私には全然分からない。

 世界は幸せでできていて、私もその中にいます。

 つぶやいた言葉はひどく滑稽で、ああ、生きることはなんて恥ずかしいことなのだろう。こんなに嫌なことはない。こんなに恥ずかしいことはない。こんなに痛々しいことはない。それを全部引き受けなくてはいけないのに、それを私は感謝だとか幸せだとか未来だとか願いだとかそういう言葉でごまかして、失恋した恥ずかしくて情けなくて痛い自分を、そうじゃない自分に飾り立てようとして、挙句失敗して、その終着駅がここだなんて。

 こんなことなら、もっとちゃんと誰かに慰めてもらえば良かった。

 そんな心底プライドのないことを思って、私はビールをあおる。

 空になったビールグラスを置いて、私はインターフォンでお代わりを頼む。店員さんがやってきて、ビールを取り替えて、まだ二切れ残っていたピザも下げてもらう。

 そして、店員さんが確実に廊下の向こうまで遠のいたのを確認してから、私はカラオケのリモコンをペンタブレットでピッ、ピッ、と操作して曲を検索する。最近の曲は全然分からない。だけどここには私しかいない。世界には私しかいない。幸せでできていない世界に、私しかいない。だから、何を歌ってもいい。

 私はまず、椎名林檎の「正しい街」を歌って、「歌舞伎町の女王」を歌って、「丸の内サディスティック」を歌う。次に東京事変の「群青日和」を歌って、Coccoの「強く儚い者たち」と「樹海の糸」を歌った。さすがにメンヘラが過ぎるし古過ぎると思って、最近の曲を入れなきゃという使命感に燃えて、ももクロの「怪盗少女」を入れるがうろ覚えな上に難しくて途中でやめる。その次に「恋するフォーチュンクッキー」を入れる。これは歌えた。踊れないし踊らない。トイレに行って帰ってきて、ウーロン茶を頼んで、店員さんが来て去るまで曲を入れずに待って、店員さんがいなくなったら今度はPerfumeを入れる。ももクロよりAKBより好きだしiPodにもたくさん入っているから余裕で歌えると思って臨むのだが、なんか実際に歌うとあまり歌いがいがなくて、結局二曲だけ歌ってやめる。こっちならどうだと思ってきゃりーぱみゅぱみゅを入れるが、しまった、よく知らない。もう別に昔の曲でも構わないじゃないかと開き直って、中学生の頃大好きだったラルクを入れる。レディステディレディステディゴー!興に乗ってきて宇多田ヒカルを歌う。難しい。キーが高すぎるなら下げてもいいよ。って余計なお世話だ。セーラームーンを歌う。エヴァンゲリオンを歌う。窓辺からやがて飛び立つ。二番になると全然歌詞を知らなくて焦る。ひとりアニソン祭になる。色々リモコンをさわっているとやたら初音ミクが多くて、これなら知ってると思って「メルト」を歌う。大学生の時にDVD借りて全部観たマクロス・フロンティアの「星間飛行」も歌う。ランカちゃんのキラッ☆という振付けも、一人だから大胆にやってみる。キラッ☆

 そして私は、マクロス・フロンティアでランカちゃんが歌っていて初めて知った、昔のマクロスの「愛・おぼえていますか」も歌う。



 おぼえていますか 目と目が会った時を

 おぼえていますか 手と手が触れあった時

 それは始めての 愛の旅立ちでした

 I love you so



 その歌詞がカラオケの画面に流れた瞬間、私の両目から涙がこぼれる。

 私は泣きながら歌うことをやめない。

 画面に映る文字は、メロディーに沿って白から赤に染まっていく。


 歌いながら私は思う。呪いは生きている、と。


 私が彼を呪い、彼の新しい彼女を呪い、自分を呪い、人を呪い、物を呪い、世界を呪い尽した日々の呪いはまだ生きているのだ。

 私は、祝福を、願いを、未来を、感謝を、世界に与えるつもりで、ただただすべてを呪っていたのだ。いや、祝福と呪いはきっと同じものなのだろう。それは誰の手によって放たれるか、誰の声帯から発せられるかで、呪いにも祝福も変わるものなのだ。

 だから、祝福もまた生きている。

 私が人に、物に、光に、水に、自分に、彼に、あまつさえ彼の新しい彼女にまで、あまねく感謝を表明し、その幸福を願うことで、何とか自分を保ち、生き永らえたこの数ヶ月間の祝福もまだ死んでいない。それは確かに生きているのだ。



 もうー、ひとりー、ぼっちじゃー、ないー

 あーなたがー、いるからぁー



 最後のリフレインを、しつこくしつこく、カラオケの伴奏がフェイドアウトしていっても私は歌い続ける。演奏が終わり、完全なアカペラになってしまっても、何度もリフレインを歌い上げ、満足したところで私はマイクのスイッチをオフにして、フロントに電話をかけて「もう出ます」と告げる。グラスに残っていたウーロン茶を一気に飲み干し、上着をつかんで部屋を出て、会計を済ませ店の外に出る。

 冬の寒さが最も厳しい二月の初め。夜はことさらに寒い。私は上着のボタンをしっかりと留め、マフラーを巻き直す。


 何も変わっていない。

 私は何も変わっていないし、世界も何も変わっていない。天啓のように歌に救われたりしないし、私の行いが巡り巡って救ってくれることもない。私はまだ失恋のダメージをひきずっていて、さらに嫌なこともたくさん起こる。いくら自分が善いものであろうとしても、それが本当に『善なる側』なのか判断することはできない。何かの行いが果たして誰かに【与える】行為だったのか、誰かから【奪う】行為だったのか、判断することはできない。


 地獄の中で天国を引き寄せようとしても駄目なのだ。

 まずは、地獄の中で立ち上がらなくては。


 行き先をどこにしようか考えながら、私は夜の繁華街を泳ぐように進む。冬の寒さが最も厳しい時期だが、同時に春へと変わっていく時でもある。それが二月の夜。

 カラオケに行っている間に道行く人は少なくなっていて、スペースができた二月の夜を、私はさっきより早足で進む。息は白く、頭の中では最後に歌った曲の歌詞がリフレインする。私はそれを口ずさむ。



 おぼえていますか 目と目が会った時を

 おぼえていますか



 いつの間にか、耳鳴りと背中に張り付いた視線は消えていて、私は自分の体がほんのわずかに軽くなったことを知る。



(「ひきよせ女」了)






(※)作中にて、以下の楽曲のタイトル・歌詞を引用いたしました。


「正しい街」椎名林檎

「歌舞伎町の女王」椎名林檎

「丸の内サディスティック」椎名林檎

「群青日和」東京事変

「強く儚い者たち」Cocco

「樹海の糸」Cocco

「行くぜっ!怪盗少女」ももいろクローバーZ

「恋するフォーチュンクッキー」AKB48

「READY STEADY GO」L'Arc~en~Ciel

「Wait & See ~リスク~」宇多田ヒカル

「残酷な天使のテーゼ」高橋洋子

「メルト」supercell feat.初音ミク

「星間飛行」ランカ・リー=中島愛

「愛・おぼえていますか」飯島真理

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