ひきよせ女 【9】
【9】
願いが叶った。
彼から、電話がかかってきた。
日記に書いていたことが現実になろうとしている。
・私は彼と幸せに暮らしています。
・彼はすぐに戻ってきて、ちゃんと私がやはり大切だったと気が付いて、私もそれを受け入れます。二人の絆はさらに強くなり、もっともっと深く愛し合っています。そうした試練にも感謝しています。ありがとうございます。
そんな風に書いていたことが、現実になろうとしている。
電話に出ても悪い知らせかもしれない。結局あの可愛らしい新しい彼女と結婚するとか、そんな報告かもしれない。それか、もっとくだらない用事かもしれない。貸していた本を返してほしいとか。
でも何でもいい。彼の方から、私に電話をかけてきてくれた。
それだけで、それをきっかけに昨日までと全然違う世界に変わるのだ。
手の中で光り続けるスマートフォンを見つめ、手が震えていることに気が付く。
だけど、大丈夫。私は彼を許し、すべてに感謝して、受け入れることができる。
やっと、この時が来たのだ!
「もしもし」
「………………あ、久しぶり。あの、ユウキです」
彼の声は固かった。
「えっと、元気にしてる?萌花」
「うん」
「うん、そっか、……うん。良かった、です」
できるだけ何でもない風な声で、「どうしたのー?」と聞いてみよう。そう思って息を吸って言葉を吐いた。
「……久しぶりだね。どうしたの、急に」
でも、思ったより明るくはならなかった。
「あ、いや、元気かなと思って」
「元気だよ。ユウキは元気なの」
「うん、まあ元気……ではないかな」
「そう」
私はなかなか温度の上がらない自分の声に少し苛立った。
たくさん、シミュレーションしたのに。
彼から電話がかかってきたら、明るい声で優しく受け止めようって、思ってたのに。
元気?私は、うん、普通かな。あ、でも元気だよ!仕事、がんばってるし。ユウキは仕事どう?ご飯もちゃんと食べてる?
そんな風に言えるはずだったのに。そこから、離れていた間どんなことを思ったのか話して、許し合って、また会う約束をするはずなのに。
「あのさ、萌花」
全然シミュレーション通りできない私は黙って彼の声を聞く。頭の中では、小学生の頃ピアノ発表会で全然練習通り弾けなかったことを思い出していた。あの時本当に嫌だったのは、練習通り弾けなかったことではなく、全然ダメだったのに母と一緒に見に来ていた近所のおばさんに「萌花ちゃんは、すっごく上手ねえ!」と誉められたことだった。その横で、目を伏せてすまなそうにした母の顔が忘れられない。
電話の向こうで彼が続ける。
「あの……、本当、ごめん」
え?何が?
(ごめんって何)
「すごくムシがいい話だってわかってるけど、俺、もう一度ちゃんと萌花と話したくて」
話したいと思ってくれただけで嬉しいよ。だから、ちゃんと話して。ちゃんと聞くから。
(本当にムシがいいよね。私はもう話せないよ話したくないよ)
「別れた時、すごく俺は身勝手でテンパってて、それを言い訳にできないって分かってるけど、やっぱり冷静な判断ができてなくて」
うん、いいよ。そういうところも全部、正直に話して。
(言い訳に言い訳を重ねるのか)
「時間が経つにつれて、やっぱり萌花とちゃんと話さなきゃと思って。向き合わなきゃと思って。それで、あの人ともちゃんと別れてきて、今日電話した」
うん、分かった。私もちゃんと聞く。もう一度、向き合おうと思ってくれたことが嬉しい。
(今更何言ってるの馬鹿なの)
「俺はやっぱり、萌花が好きで!……今すぐじゃなくていい、許してほしい、もう一回会ってほしい。そこから、もう一回始められないかな?無茶苦茶身勝手だって分かってるけど、謝らせてほしい。……ごめん!それで、聞いてほしい。もう一度言います。俺は、俺は萌花が好きです」
本当に死ねばいいのに。
(私、ユウキがそう言ってくれるの信じて待ってた。今すぐ許せるか分からないけど、ここからもう一度二人で始めてみ)
おかしいな。
私はちゃんと彼が戻ってきたことに幸せを感じて許して、二人でまた愛し合ってもっともっと強い絆で結ばれた未来を手に入れるはずだったし、電話がかかってきたら、そんな風に彼を受け止めてあげられるはずだったのに。
彼が一方的に話すだけで、私は頭がぐるぐるして何も言えない。
ああ、本当に、本当に。死んでください。
死ね。死ね。死ね。私がどれだけ苦しんで無理矢理前を向いて、毎日毎日日記に希望を書いて自分を殺して人に感謝してたと思っているの。その間に君は新しい彼女と楽しく過ごしていたのでしょう?たった四ヶ月半。永遠のような百日ちょっと。その間君は楽園にいて私は地獄にいたんだ。地獄でずっと楽園を想像していた人間によくもまあそんなことを言えるね。
「……萌花、俺にもう一度だけ」
「どちら様ですか?」
言いかけた彼の言葉を私の声が遮る。
私はその声を、まるで自分の声に聴こえないその声を、無声映画でも観ているようにぼうっとして聴く。
「どちら様ですか?」
「私、あなたのこと知りません」
私はスマートフォンを切った。
そして、さっきまで書いていたノートを全ページ破り捨てて、ゴミ袋につめてマンションを出て、夜中のごみ収集場へ走り、思いきり投げ付けた。
叫びたかったけれど、叫べなかった。
だから私は、夜空を見上げて、そこにある月と星を認めて、そこに何も思うことができずに部屋に戻った。
ねえ、何で私は自分から願いをドブに捨ててしまったんですか?
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