ひきよせ女 【8】
【8】
お正月休みが明けてから、私は会社でよく横田くんと話すようになった。とは言っても部署が違うので、お昼休みなどに顔を合わせる程度なのだが、忘年会をきっかけにして距離が近くなったのは間違いない。
別に特別好きになったりなられたりというわけではなかったけれど、私は会社で彼を見かけると安心するようになった。温かい場所で、肯定されていると感じることができた。視線を感じて振り向くと、横田くんを見つけるということも何度かあった。
話す内容は仕事に関することくらいだったが、ある時、横田くんが何かの弾みでこんなことを言った。
「飯島さんなら、余裕でできるでしょ」
「なにが」
「いや、彼氏」
「へ?できないよ。別に、モテないし」
言った後で、モテると言った方が本当にモテるようになるのかも、とちくりと後悔した。
「いやいや、けっこう男連中から人気あるけどなあ」
「そんな話、聞いたことないけど」
「そりゃみんな直接本人に言ったりはしないけど。でも高橋チーフとか、かなり気に入ってるよ。仕事面でもすごく評価してるし」
「仕事で評価されるのは嬉しいけど、高橋チーフ結婚されてるでしょ」
しかも、けっこうな年上だ。お子さまもいらっしゃるし。チーフの「気に入ってる」はきっと娘に対するようなものだろう。
「チーフだけじゃなくて、もっと若い連中にも隠れファンが多いよ」
「なに、隠れファンって」
私は鼻で笑ってみた。横田くんの話は面白半分だろうと分かってはいるけれど、悪い気はしない。人によってはこういう話はやたらとベタ付いて気持ち悪く、セクハラみたいになることもあるけれど、彼の言いようはさらりとしていて、上手に気持ちを持ち上げてくれる。
その横田くんが言う。
「だけど、運命の人が戻ってくるのを待ってる、と」
「そうだよ」
飲み会以来のその話題に対して、私は自信満々で答えた。横田くんと話すのは楽しい。誉められて悪い気だってしない。私が男性社員から好意的にみられているというのも、ある程度は本当なのだろう。だけど、そのすべてが与えてくれる自信は、誰か違う人を好きになるという可能性でなく、再び彼が戻ってきて幸せになるという可能性につながっていく。目の前の大切な人たちに愛されれば愛されるほど、私は目の前にいない、連絡すら途切れたままのあの人のことを愛してしまう。
お互いに少し黙った後、横田くんが言った。
「俺も、今の飯島さんは魅力的だと思うよ。その人が戻ってくるのを待つことが、プラスになってるんだろうね」
彼はそう言うと立ち上がって、飲んでいたコーヒーのカップをゴミ箱に捨て、「お先に」とオフィスに戻っていった。
私はもう少ししてから戻ることにして、一人で休憩室に残った。
先輩が忘年会で言っていたように、誰か新しい人を好きになる方が普通なのだろう。だって、こうして日常にはちゃんと私を見てくれる人がいるし、その中から新しく素敵な人が見つかることはあるだろう。
でも、私は日記に「新しく私にぴったりの、一緒にいたいと想える男性が現れました!ありがとうございます。とても幸せです」とは書けない。だってそれは嘘。私はそんなことは望んではいないから。それは、ある意味で敗北ですらある気がするから。始めてしまったら、続けなくてはいけない。彼が戻ってくる未来にたどりつくまで、迷わずに進まなくてはいけない。それを求めている間は、私は世界に感謝できる。
彼のことはあきらめなさい、と言われてしまったら、もう世界に、周りの人たちに優しくできない気がする。感謝できない気がする。すべてを呪ってしまいそうな気がする。彼が離れていってすぐの、「どうして私がこんな目にあわなくっちゃいけないの」と先輩に泣きついた自分に戻ってしまって、そのまま冷えて固まって石のように動けなくなってしまう。嫌だ。呪いたくないし、冷え切ってしまいたくない。
少しでも善いことをしてから戻ろうと思って、私は休憩室を掃除してからオフィスに戻った。
※※※
イベントが多いせいか冬は十二月のイメージが強いが、実際に一番寒いのは一月後半から二月前半だと思う。
会社帰りのスクランブル交差点では、誰も彼も大きな外套に包まれて、それでもなお身震いするように縮こまっている。
ピーヨ、ピーヨ、ピーヨ、という歩行者青信号の音が流れて、のそのそと外套で膨らんだ人々が動き出す。私もその中にいて、ここを渡るたびに思い出してしまう、いつか助けたおばあさんのことを今日も考える。あのおばあさんは元気だろうか。あの時絡んでいたサラリーマンはどうなったのだろうか。あの人も、家族や恋人の前では善人なのだろうか。それとも愛する人の前ではさらに凶暴な面を見せるのだろうか。ピーヨ、ピーヨの音が鳴るたびにそんなことを考えてしまい、渡りきると、いつも背中に誰かの視線が張り付いているような気がしてしまう。
それが嫌でこの交差点をいつからか避けていたけど、時々無性にここを渡って視線がまだ張り付くのか試したくなってしまう。まだ、誰かが私を見ていてくれるのか、確認したくなる。それが善いものでも悪いものでも、ちゃんと見ていてほしい。私の姿に引き寄せられてほしい。
それが邪悪なものであっても、誰かが見ていてくれないと、きっと私は死んでしまう。
世界は幸せでできていて、私もその中にいる。私の在りようを肯定してくれる人が身近にいる。もっと感謝すべきで、もっと与えるべきなのに。
それなのに、背中に張り付く視線を感じている時にこそ、私は自分の中の何かが満たされるのを感じる。固く冷えた私の中のバターが溶かされていくような気がする。
※※※
帰宅してゆっくりとお風呂に入り、二時間かけて日記を付けた。ネイビーのノートは終わりに近付いていて、これを書ききった時に願いが叶うような気がしている。
でももし、叶わなかったら?
RRRRRRRRRRRRRRRRRRR
電話が鳴った。
直感的に横田くんではないかと思い、スマホを手に取った。
しかし、そこに表示されていたのは、四ヶ月半前に私をふった彼の名前だった。
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