ひきよせ女 【5】

【5】


 それから徐々に、しかし確実に、私の生活は変化を見せ始めた。

 私は早起きをするようになった。元々低血圧で朝に弱く、ギリギリに起きて最低限のメイクだけして、飲み物だけで朝ご飯をすませて会社に行っていたのに、余裕を持って起きて、バナナとヨーグルトと食パンを食べてから行くようになった。バスも一本早いのに乗れるようになった。



・早起きして一本早いバスで会社に行きました。そうするとすいていて、座ることができました。幸せです!



 仕事から帰ってからの過ごし方も変わった。これまでは彼と出かけたり電話をしたりしていたのだが、それがまるっと無くなってしまったので、最初はうろたえた。付き合っていたころだって、彼と過ごす以外にも友人と遊んだり、本を読んだりテレビを見たりしていたはずなのに、私は一体何をしていたのだろう?

 元々読書が好きだったので本を読もうかと思ったが、これまで面白く読めていたはずの小説や漫画が、さっぱり頭に入ってこない。失恋直後の何を見ても彼のことを思い出してしまうのとは違う、なんだか自分からその面白さを理解する機能がすっぽり抜けてしまったような妙な感覚だった。私、なんでこれを好きだったんだろう?そう感じて、すぐに本を閉じてしまう。テレビも消してしまう。友達に電話しようと思っても、なんだか億劫になってしまう。

 だからやることがなくて、お風呂に入る時間が長くなった。狭いバスタブに湯船をはって、ぼうっと、一時間、二時間、とりとめなく考える。その考えたちは、汗と一緒に流れ出ていき、お風呂から上がるころにはすっかり何を考えていたのか忘れてしまう。いいこともわるいことも、何もかもが液体になり、さらに蒸発して気体になり、換気扇に吸い込まれて夜の空気の中へと拡散して薄まって消えていくのだ。そのようにして私は私自身を薄くしていった。

 お風呂から上がると、肌のケアをし、時間をかけてストレッチをして、日記を付けた。お風呂で考えという考えを捨て去ってしまったから、私は空っぽで、いくらでも感謝することができた。ありがとうございます。大好きです。感謝しています。

 嫌なことでも、日記の中で上書きできた。たとえば仕事で怒られても、



・今日、仕事で新たな課題に出会いました。自分がさらに成長するチャンスです。



 ね、こんな風に。

 そして、日記を付けた後は、スイッチが切れたように眠った。もうやることは何もない。世界は幸せでできていて、私もその中にいる。目を瞑ってそう口の中で繰り返しながら自分のスイッチを切るのだ。


 ※※※


「なんかさ、飯島、最近体調良さそうだね」

 先輩がそう言って、紙コップのコーヒーを自販機から取り出した。

「自分でもそう思います。よく眠れてるからですかね」

 私は、続いて自販機に九十円入れて、ミルクティーのボタンを押した。

「そうなんだ?良かったー。実はさ、ちょっと心配してたんだよ」

「なにがです?」

 私は先輩を見ずに、しゃがみこんで、紙コップに注がれるミルクティーを見ていた。

「先月飲んだ後くらいからさ、妙にはりきってる感じだったから、最初は無理してるのかな?って思ってたんだけど、なんか、吹っ切れてきたみたいだね」

「ああ、あの時は」

 言いながら私はミルクティーを取り出した。

「あの時は、みっともない姿見せちゃってすみませんでした。でも、先輩が聞いてくれて、すっごくスッキリしたんです。めちゃくちゃ、感謝してます」

「そうかー、可愛いやつめー」

 そう言って先輩は笑ってくれた。本当に、先輩のおかげだと思う。

「はい、本当に、感謝してます」

「何、そんな神妙にしなくていーよ」

「でも、先輩がいてくれたから、毎日がんばれるんです。仕事があって、先輩や職場のみなさんがいて、そういうのがあって良かった、って思います。当たり前の日常って言いますけど、そういうのって感謝しなくちゃダメですよね」

「ん?そ、そう……」

 私が前のめりにまくし立てたせいか、先輩は少し腰を引いて、そのまま自販機の横の壁にもたれかかった。

「ま、まあ、プライベートできついことがあった時は、仕事に集中するのは良い方法だかんね」

 先輩は少しバツが悪そうに笑うと、私から目を逸らし、コーヒーを口に運んで、「あつっ」と言った。



・今日、先輩がとても優しい言葉をかけてくださいました。先輩が大好きです。先輩に感謝しています。先輩とだんなさまが、もっともっと幸せになりますように。



 ※※※


 会社からの帰り道にスクランブル交差点がある。

 そこで信号が青に変わるのを待っていると、私の斜め前で、ちょっとした騒ぎが起こった。どうやら、中年のサラリーマンが、おばあさんに難癖を付けているようだった。持っていた荷物が足に当たったとか当たっていないとか。サラリーマンは大きな声で威嚇して、おばあさんは消えそうな声で謝っていた。

 まるで自分が怒られているようで、とても嫌な気分で、でも信号はなかなか変わらなくて、注意すべきなんだと分かっているけど、男の人は乱暴そうで怖い。

 言わなくちゃ。そんなこと、やめてって。

 見ないようにしていた視線を上げて、ちら、と、斜め前を確かめる。みんな、サラリーマンとおばあさんからわずかに距離を取っていて、誰も助けに行こうとしない。


 世界は幸せでできていて、私もその中にいます。


 私は口の中でそうつぶやいて、それから、「ふぅーーーーーはあっ」と、音が分かるくらいにはっきり息を吸って、吐いた。

 そして、震えながら、騒ぎが起きている方に足を進めた。


「聞こえねえんだよ、ババア!」

 男の罵り声がはっきり聞こえるようになって、視界がぐらぐらした気がしたけど、私は無言で手を伸ばして、おばあさんの腕を掴んだ。

「はぃっ」

 間の抜けた驚きの声をおばあさんが上げた時、頭の上から、スクランブル交差点が青に変わったことを示すピーヨ・ピーヨ・ピーヨ、という音が鳴って、私はそのままおばあさんを引っ張って、信号を渡り始めた。

「おいこら!ババア!」

 背中に罵り声を浴びた。

「逃げんな!コラ、ブス!てめえも無視すんな!」

 ブスというのは、きっと私のことだろう。

怖い。怖くて、私は、おばあさんの方を見ることもできずに、でも、手を離さずに、急いで一緒にスクランブル交差点を渡った。渡り切って振り返ると、さっきのサラリーマンを二、三人の若い男性が取り囲んでいて、今度はその人たちと言い合いをしていた。取り囲んでいる男性の中の一人と目が合うと、彼はうなずきながら手をしっ、しっ、と振って、私とおばあさんに「早く行った方がいい」と伝えてくれた。

 私は男性に向かってお辞儀をしてから、おばあさんの方を振り返った。

「す、すみません、急に掴んだから、手が痛かったら、ごめんなさい」

 おばあさんは、首を振ってから言った。

「いいえ、助けてくれて、本当にありがとう」

「いえ、そんな、なにも」


 その後すぐにおばあさんとは別れ、私は家に帰った。

それから家に帰るまでの道のりは、なんだか誰かに見られているような気がして、何度も振り返ったが、私を追ってきているようなものはいなかった。あのサラリーマンが怒って追いかけてくることも、おばあさんが改めてお礼を言いにきてくれることも、私の行動を見た誰かが誉めたり叱ったりしに来ることもなかった。でも、何かの視線がべっとりと私の背中に張り付いているような心地がして、私は何度も振り返った。

 帰ってゆっくりお風呂に入ると視線は消えてしまったが、交差点で起きた出来事を日記に書くことはできなかった。


 だから「世界は幸せでできていて、私もその中にいます」とだけ書いて、眠った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る