ひきよせ女 【2】

【2】


 仕事中に私の様子がおかしいと誰かが気付いてくれるのではないか、と少し期待していたのだが、そんなことは無く昼休みになる。私はスマホを取り出し、彼から連絡が来ていないか確かめるが、もちろんそんなものは来ていない。そうか、彼も今私に連絡したいけど自分からふった手前そんなことできないよね、今から私が電話したら、考え直してくれる?ねえ、それだけ、それだけだから、電話で聞いてもいいかな。そう思って短縮でまっさきにかけられるようにしていた彼の番号を呼び出し、でもそこで思い留まる。

 私はきっと、こんなことをこれから毎日繰り返すのだろう。

 いつまで繰り返すのだろう。いっそ番号もアドレスも消してしまうべきなのだろうが、まだまだそれは先になりそうだし、少なくとも今は無理。ふられた次の日の昼休みにそんな思いきれるほど私は頑丈じゃないんだ。人間の心の頑丈さを計るもの。それは簡単に手に収まるサイズで、けれど、とても重い。どれだけの負荷に耐えられるか試すように、のしかかるもの。私は壊れずにいられるのだろうか?


 結局、仕事はつつがなく終わり、いつも通り残業までしっかりこなしていつも通りの声で「お疲れ様でしたー」なんて言って私はお先に失礼します。ついでに、人生からもお先に失礼したいけれど、死んでどうなるものでもない。だから、帰ってコンビニで買ったパスタを食べて、でも食べ切れずに半分残して捨てる。何でこんな時にクリームパスタ選んじゃうかな。気持ち悪くなるに決まってんじゃん。分かりきってたじゃん。吐きたいけど、吐けないよ。吐けない程度にしか、私は辛くないのか?あんなに好きだったのに?これまで出会った誰よりも好きだったのに?この先一生彼といると思っていたのに?

 私は未練がましくスマホをさわろうとする右手を押さえ込んで、無理矢理布団に入る。昨日あまり寝ていないせいか、すぐに眠りに落ちた。


 火曜日、水曜日、木曜日が過ぎて、金曜日の夕方になって、ようやく職場の先輩に「なんか最近元気ない?」と聞かれ、うっかり私は「いやー、彼氏とお別れしまして」と苦笑い。

「そっかあ、……うーん、飲み行く?」と言ってくれる先輩は優しいし、幸い同性なのでべろべろに酔っ払ってすがりついても間違いも起こらないだろうから甘えたいけど、「まだ無理っす」と言ってしまう。けして強がりではなく、本当にまだ無理なのだ。無理無理無理無理、まだ無理。人に言えないよ、まだ。口にするのがまだまだ辛い。だって「いやー、彼氏とお別れしまして」って言った後、びっくりするぐらい胸が冷えた。言葉が恐い。言葉にしてしまうと、その言葉に殺されそう。だから、私は意識的に失恋に関することを口にしないように注意深く生きることにした。


 何かに注意深くなるということは、その対象をいつも以上に強く見つめるということだ。そう思って生きてみると、世の中になんと恋愛に関する事柄があふれていることか。テレビを付けても雑誌を開いてもネットにアクセスしても、誰かが恋をしている。恋せよ乙女、いつかは散るマインド。散ったっちゅーねん。やかましいわ。何を見ても始終そんな感じで、どいつもこいつも私を苦しめるし傷付けるし追い立てる。毎日毎日ヤフーのトップニュースには、誰と誰が結婚するだの付き合ってるだの別れただの離婚調停中だの不倫しただのと、日替わりで報道され、それを知るたびに私はダメージを受ける。ああ、私も結婚するつもりだったのに。付き合っていたのに。別れちゃった。ふられちゃった。彼は今ごろ新しい可愛い年下の彼女と何してるんでしょうか。殺していいですか。呪っていいですか。ごめんね、あんなに君を幸せにしたかったのに、一生かけて幸せにするつもりだったのに、今は全然君の幸せを願えないよ。私って、なんて身勝手で弱いんでしょう。


 あんなに好きだった人を、なぜ呪わなきゃいけないの?


 何を見ても辛くなるので、私は本を読むのもテレビを見るのもネットを見るのもやめてしまう。かと言って、何もしていないと彼のことばかり考えてしまうので、じゃあ、どうしましょう。酒か。飲むしかないのか。でも、飲んだ勢いで彼に電話とかしちゃいそうで怖い。いまだに番号もアドレスも消せていない。スマホのロックナンバーすら変えられていない。だから、酒は危ない。せめて、飲むなら誰かと。信用できる同性の友達と。でも、言えない。まだ無理無理無理、無理。ああ、こんな風に思考がループし、私の寝付きは悪くなっていく。

 眠りは浅くなり、食欲はなくなり、本もテレビも楽しめず、誰かに電話する気にもならず、仕事だけ、そう、仕事だけが私を保つようになる。

 そのファイル、私にください。今日中にやっちゃいますんで。はい、電話ですね。折り返しておきます。ええ、ええ、お世話になっております。やだ、そんなことないです、元気ですよー。じゃ、私、コーヒーで。いえいえいいです、自分で淹れます。やだ、うちの会社そういうのが無いところがいいところじゃないですかー。あ、昨年対比ですか?ありますあります。すぐ出せます。ほら、こんな感じで……え?どうですかね。私は、その企画アリだと思いますよ。いや、売れるかどうかもですけど、なにより、楽しそう。

 そう、楽しいのが大事ですから。

 それは、未来につながりますから。

 今を、更新してくれるはずですから。


 ね!こんなにも、私は夢中。仕事に夢中。楽しいのが、未来につながるはず。


 だって、それしてないときがくるいそうにつらい。

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