ひきよせ女

ひきよせ女 【1】

【1】


 バターだ。


 私は溶けかかったバター。そう思って、腰の後ろから溶けていくイメージでリラックスしてください。いつだったか整体師はそう言った。でも私がイメージしたのは、冷蔵庫から取り出したばかりの、かちこちに冷えた固いバターのブロックだった。バターナイフは歯が立たず、フライパンの上に落とせたとしても全然溶けてくれない不感症のバター。それが私の体だ。それが、喪失した私の体だ。


 布団の中で、冷えて固まった自分の体を抱く。


 失恋ごときで、と人は言う。私だってそう思う。でも、世の中には失恋で病気になる人もいれば、死ぬ人も、殺す人もいる。病気になって殺してさらに死ぬ人もいる。病気になって、殺して、死んで。お願い。私は私をふった彼に対してそう思う。お願い、病気になって。お願い、殺して。お願い、死んで。お願いだから、死んで。死ね。

 そんなことを考えて私はますます眠れなくなってしまう。お願い、死んで。ついでに、私から彼を奪っていった可愛らしい顔をしたあの女にもそう思う。死ね。お前は特にひどい目に遭って死ね。事故とか、顔に傷が付いたりとか、火傷をしたり、何より、彼に嫌われるようなひどい目に遭ってほしい。彼が惹かれたあなたの魅力が徹底的に損なわれるような、ひどいひどい目に遭ってください。

 レイプとか。と考えて、私は思い留まる。それは駄目だ。最低だ。いくら自分の恋人を奪った女だからって、その女を呪う権利が私にあったとしたって、考えていいことと駄目なことがある。駄目だ、レイプは、たぶん、駄目なやつだ。「不慮の事故に遭って死ね」は、ギリギリ願っていもいい呪いで、「レイプされろ」や「殺されろ」は、ギリギリ願ってはいけない呪いだ。その基準が何に拠ったものなのかは私にも分からない。ただ分かることは、きっと呪いは自分にも跳ね返ってくるってこと。

 その晩、最後に見た時計は午前四時を指していた。


 朝になり、ひどい顔に化粧を施し、ごまかせているだろうかと考える。果たして私はごまかしたいのか?とも。

 だって、私が彼を好きだったのは本当だし、結婚を考えていたのだって本当だし、彼だって、私となら結婚したいと言ってくれていたのに。だってだってだって。それは全部本当だったでしょう。なのに彼は突然いなくなって、他に好きな人ができたって沈痛な面持ちで簡単に口にして、私の人生からそそくさと退場してしまった。私はおかげで身体の七割くらいを突然の衝撃波に持っていかれたような加減で、眠れない夜を過ごしたのだ。それをごまかしていいのだろうか?ごまかさずに腫れた目とよれた服と色を失った顔で会社に行って、誰かに慰めてもらいたいのが私の本音なのではないだろうか。

 今日は会社休みます、と電話したくなってスマホを握りしめたが、さすがにもうすぐ三十なんだからそれはできない。

 その時、スマホのロックナンバーが彼と付き合い始めた日付になっていることに気が付いたが、その番号を変更する力すら、今の私には、無い。


 どうやってバスに乗ったのだろう。気が付くと、いつも通りの時間にバスに乗って職場に向かっていた。頭の機能がオフになっても、自動操縦で私はちゃんと身支度をし、家の戸締りをし、バスに乗ることができる。人間、すげえ。ドローンみたい。って今の私、どよーん、って感じなんですけどHAHAHA。ちょうおもしれえ。

 そんなことを考えているとバスに彼が乗ってきて、ごめん、気の迷いだった。やり直そうって言ってくれないかな。私はそんな情けない彼を許すのだろうか。きっと許すのだろうな。だって想像しただけでそれはとてもとても嬉しい。でも同時にそれが絶対あり得ないことだとも分かっていて、バスの中で泣きそうになる。真剣に、こらえる。俯いて、目をぎゅっと閉じて、おなかを抱えるようにしてこらえていたら、目の前に座っていたおばあさんが、「どうしたの、あなた、具合が悪いの?」と席を譲ってくれようとした。私は「いえ、大丈夫です。大丈夫ですから」と言って断ったのだが、おばあさんは余計に心配して私を座らせようとする。大丈夫ですから。とても辛いですけど、大丈夫ですから。ただの、失恋なんです。ええ、きっと、ただの。

 そのやりとりを見ていたのであろう、おばあさんの隣に座っていた四十代くらいの男性が立ち上がり、「私、もうすぐ降りますから。どうぞ」と言って、有無を言わさぬ様子でバスの前の方へ移動してしまう。こうなると座らないわけにもいかなくなって、私は男性が座っていた席に腰を下ろし「……どうもすみません」とつぶやいた。おばあさんはほっとしたように笑い、私はお尻にさっき座っていた男性のぬくもりを感じて、それがなんとも言えず居心地悪さを加速させる。

 ああ、バスが事故って私だけ死んだらいいのに。


 私が死んだら、彼は後悔してくれるだろうか?

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