無事
無事
何事も無かったかのように、分かった?
そう言われて、自信は無かったけどひとまず頷いておいた。
こくん、こくん。
頭の中で、自分の首の動きに擬音を付けながら、二度、頷いておいた。
その時点でもう私は演じてしまっているわけで、これではとても
「俺がドアを開けて先に出るから。そんで、依子にちゃんと言うから」
ちゃんと、って何だろう。
仕事でもそれ以外でも、定さんが「ちゃんと」と言って、ちゃんと、しっかり、理路整然と話しているところなんて見た覚えが無い。そもそも何を伝えれば「ちゃんと」になるのだ。たとえば、私と定さんの間に肉体関係や恋愛感情が無い事を伝えればよいのか?
あのね、定さん。事実、私たちにそういった絆はないし、まかり間違ってもあなたとそんな関係になりたくないけれど、事実を事実として伝えることほど難しいことはないんですよ。こと、女の思い込みにおいては。
それを「ちゃんと」なんていう曖昧な、口内でうっかり粘ついた白い唾液のような言葉で何とかなると思っているなら、きっとタダでは済まない。そんな人だからこんな状況に追い込まれてしまうのだろう。でもそれを私が教えるには時間もやる気も、なにもかもが足りない。
ドン、ドン
外からマンションのドアを叩く音がして、定さんは靴をはきかけた姿勢のまま動きを止める。それからゆっくり重心を移動させて前のめりになり、音をたてずにドアにはりつく。そして、壁を這うスパイダーマンみたいに、ひたひたと上体をすべらせ、のぞき窓からドアの向こうを視る。
ひたひた、という擬音を頭の中で書き加えながら見る定さんの背中は一層情けなく、どこか可愛く、やはり私はどう間違えてもこの人を好きになったりしないな、と確信する。
でも、だから別にいいのかもしれない。何事も無かったかのようにしてあげられるのかもしれない。何事も無かったかのように、ちゃんと。
のぞき窓から顔を離し、定さんはゆっくり振り返って何か言おうと唇を動かしたが、外の依子さんに聞こえないよう気を付けているせいで、何を言っているのか全く分からない。
その顔はいよいよ情けなく老けていて、本当にこの人どうでもいいな、と私に思わせる。その顔を見ていると、ドアの外にいる依子さんのことまで何故だか健気に思えてきて、彼女、何でそんなにこの男の人のことが好きなんだろう、と私は思う。友達になれないかな。なれたら、こんな風に押しかける前に私が話を聞いてあげるのに。面倒な人たちだな。
「やっぱり」
ドアの向こうに聞こえないように、ほとんど息になった薄い声で定さんは言った。
「やっぱり、
聞き取りにくかったので、危ないから、のところから耳を寄せて聞いた。この期に及んで、この人は危険がドアの外にしかないと考えているのか。
私は耳を寄せた姿勢から顔の向きを変え、そのまま定さんの情けない顔を正面から見る。互いの息がかかる距離で私が何も言わずにじっと見るから、定さんは焦って、どうしたの、と声は出さずに唇だけを動かす。彼はせわしくまばたきをするけれど、私は一度もまばたきせずにじっと見つめ続ける。
そして、そのまま右手を彼の身体の向こう側に回し、わざと大きな音を立ててチェーンロックを外し、ドアノブを回した。
定さんは驚いて振り向いたが、もう扉は開かれてしまって取り返しはつかない。最初にぬるい外気が流れ込んできて、次に、彼の肩越しに依子さんのシルエットが見える。
その数秒をスローモーションで感じながら、私は何事も無かったような顔をして、頭の中で鳴らす擬音を考える。
本当に何事も無かった時に聴こえてくるのは、どんな音なのだろう?
(「無事」了)
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