斬首 【1(1)(1)】

【1(1)(1)】


 夢ならどんなによかったか。


 目の前に私が立っているのです、もう一人。鏡?ではないですよね。じゃあ、あれ、ほらドイツ語ですっけ、ドッペルゲンガー?やだ、死んじゃうの?私。


 冷蔵庫のどこにもお菓子が見当たらなくって、ああこれ絶対弟が食べたわ最悪だわあいつ何なのマジで、と力無く冷蔵庫の扉を閉め、振り返ると、その視界に私。

 え?なにこれ幻覚?疲れとストレスでナチュラルにぶっ飛びましたか、私の脳みそ。私が私の服を着て、私とおんなじ疲れた顔で、私が私で私が俺で?俺があいつで私が俺で?とにかく目の前に、私が立っているのです。

 えーと、話しかけるべきでしょうか。でも、これが幻覚で、「あなたは誰?未来からきた私?」とか言っちゃった瞬間に弟が起きてきたりしたら目も当てられません。二十代にもなって人生に黒歴史を追加したくはありません。幻覚ですね、幻覚です。そう思って一度目を閉じましょう。


 さん、はいっ。


 目を開けます。


 いますね。


 やっぱり私が目の前にいます。表情は、笑ってもいないし、泣いても怒ってもいないようです。でも無表情かと言われると分かりません。私はなにせ鏡でしか自分の顔を見たことがないのです。鏡の前で笑ったり怒ったりしませんよね?俳優さんじゃあるまいし。だから、目の前にいる自分の顔を見ても、顔自体には覚えがあっても、その表情を読み取ることができないのです。あー私普段こんな顔してんのかー、くらいの感想しか出てきません。

 まあ、疲れているであろうことは伝わってきます。私、あんなに目の隈ひどいんですね。夜だしメイクも崩れてるしこんなもんなんでしょうけど、リアルに突きつけられるとけっこうな精神的ダメージです。


「「あの」」


 声が重なってしまい、思わず私も私も言葉を切ってしまいます。あ、そちらからどうぞ、と言いたいところですが、きっと私もそう思っているんでしょうね。困ったなー。これ、似たようなのを弟の持っている漫画で読みましたね、武道を極めた達人同士が向かい合うと、まったく同じ技を繰り出してしまって一歩も動けないとか、延々同じ手を打ってしまって膠着状態に陥るという。何でしたっけ?あれ。


「千日手じゃないですか」


 私が教えてくれました。そうそう、千日手だ、千日手。なんか将棋とかでも、名人同士がやるとこういうことになっちゃうんでしたっけ?


「さあ、それは私、ちょっと覚えがないというか、反則みたいなやつじゃなかったですっけ?それって」


 会話が成立しています。私は思っているだけなのに。不思議です。自分で思っているよりも私の声って細くて聞き取りにくいんですね。なんだか、常に怯えているみたいな声で、恥ずかしいというか、単純にがっかりです。

 私の声、というか目の前にいる私の声は、私にしか届いていないのでしょうか?それとも他の人にも聞こえるのでしょうか? はたまた、やっぱりこれは幻覚や妄想の類で、ただの私の脳内会話なのかしら?


「そうかもしれませんし、そうでないかもしれませんね」


 ですよね。そちらも私の声は声として聞こえるんですか?


「私からは、私は考えているだけで、そちらが喋ってくれているように見えます。あ、ていうか聞こえます」


 あ、やっぱりそうなんだ。同じですね。同じだけど逆。まあいいや、もう幻覚でも妄想でもドッペルゲンガーでもなんでもいいです。私は、て言うとややこしいな、あなたはどうしてここにいるんですか?


「こっちが聞きたいです」


 私には、あなたが突然現れたように見えるんですけど。


「私も、ていうか、あなたもそうですよ」


 ……。


 状況を整理しましょうか。私は仕事から帰って冷蔵庫開けて、お菓子を食べようと思ったら弟に食べられてて、がっかりして冷蔵庫閉めて振り返ったらあなたがいました。


「同じですよ。あいつ、マジないですよね」


 本当、ちょっと可愛いからって調子乗ってますよね。でも私からはあなたが冷蔵庫よりもテレビ側にいるように見えるんですけど、あなたの方が数秒未来の私だってことですか?


「え?私、冷蔵庫のすぐ前にいますよ?あなたの方こそテレビ側にいるじゃないですか」


 あれ?じゃあ、


「「主観の問題なのかー」」


 またハモりました。

 うわー、ドッペルゲンガーと出会うと狂い死ぬって本当ですね。すでにこれ、頭おかしくなりそうです。仕事で疲れてる時に糖分が足りないからって、まさかこんな目に遭うとは。ストレスが限界に達してるのかなあ、やっぱり仕事辞めよっかなあ。


「でも、このタイミングで仕事辞めたら、弟にお菓子食べられて、ブチ切れた勢いで仕事辞めた人みたいになりますよ」


 そうですよねー……、でもそれもありな気がするなあ……。私が辞めるから、あなたは仕事続けてもらえませんか?


「やですよ。私が辞めるので、あなたが続けてください」


 あ、やっぱりそうくるのか。両方主観だもんなー。これが脳内一人遊びだとしても、本当に起こっている現実だとしても、勘弁してほしいですね。ていうか、現実なわけがない。

 

 とりあえずそう思ってもう一度、今度は長めに目を閉じることにします。きつく目を閉じたまま慎重に部屋の中を進んで、テレビの前に放り出されているはずのクッションを暗闇の中で手繰り寄せます。発見。くったくたのそれの上に座り、深呼吸して、子どもみたいな脳内遊びはもうやめよう、と念じ、




 さん、はいっ。




 目を開けると、今まできつく閉じていたせいで、灯りがやけに強く感じます。右を向くと、この部屋から一続きになっているリビングのソファで眠りこけている弟が見えました。そして左を向くと、一つしかないはずの、同じくったくたのクッションに座った私がいます。だめか。


 えーと、私から見てあなたは左にいるんですけど、たぶん、


「あ、私から見てもあなたは左にいますよ」


 やっぱりね。幻覚だと思います?


「さわってみるってどうです?」


 全く同じこと考えてますね、さすがです。さわれる幻覚、「さわれるドッペルゲンガー」、さわれる狂気、


「「さわれる恐怖」」


 笑い合う私たち。


「「どっちかが爆発したりしませんよね?」」


 しませんでした。私と私は右手と右手で握手を交わします。もう一人の私の方も、彼女の主観としては右にいるわけですから、当然右手を差し出したわけで、でも握手ってもともと同じ側の手じゃないとできないから、お互い右手を差し出すのは主観客観に限らずおかしくないはずで……向かい合っていて、主観が入れ替わって感じているはずなのに、自然と握手ができてしまう。交差して、つながることができてしまう。


 これって何か深い意味があるんでしょうか?


「考え過ぎですかね?」


 私同士だから不思議な感覚がしますけど、他人同士でも主観はお互いに違っていて、自然と右手と右手で握手できるんですよね。今まで意識したことがありませんでしたが、それって、それぞれ一人一人の主観が中心にある世界が、同時にいくつも存在していることの証明のような気がしますね。


「難しい言い方や、ちょっと曖昧な言い方をしても、なんとなくの感覚が伝わるのっていいですね」


 私同士ですからね。ニュアンスまで分かってくれるのは便利です。あ、さわれる恐怖で思い出したんですけど。


「浦島太郎ですよね」


 そうそう。亀が浦島さんに助けてもらえなかったらどうだったんだろう、って私けっこう幼い頃から怖くて。なんだか、あのお話のイントロ部分がすごく嫌で。


「なんだか、自分がいじめられているような気がして」


 私が悪いことをしたんじゃないかって


「早く浦島さんが助けにきてほしいけど」


 亀は助けても私のことは助けてくれないんじゃないかって


「本当に怖くて」


 怖くて


「実際にはいじめに遭ったりはしなかったんですけど……って、あれ?」


 どうしました?


「何かがおかしいです。何かが。はっきりとは言えませんが、私は妙な違和感に気付きます。ああ、そうだ、」


 さっきまで私の左にいたはずのもう一人の私が、右側にいます。


 さっきまで、私は私を主観として、もう一人の私は左を向いた先にいました。右を向けばソファで眠る弟が見えました。でも今は、もう一人の私が私の右側にいます。ソファで眠る弟は、もう一人の私に隠れて見えなくなってしまっています。

 冷やりと胸に不安がせりあがり、私は喉から何かを戻しそうになります。


 ちょっと待って、何かがおかしい。


 ねえ、さっきまで話していたのに何で急に返事をしてくれなくなったの。何で、私を無視してリモコンに手を伸ばしてるの。いつのまにか右側に移動していたもう一人の私は、さっきまであんなに通じ合っていたはずなのに、まるで私など存在しないかのように、パチリとテレビを付けました。一瞬間の後、音量の大きさに驚いて、急いでマイナスボタンを長押ししながら、弟の方を睨みつけています。でも私にはその先の弟が見えません。弟が、ちゃんと眠っているのか、生きているのか、確認できません。

 そこで私は思い出します。


 弟の、首。


 世界のどこかで誰かの首が斬られ、同時に私の弟の首も、両親の首も、昔好きだった人の首も、昔私を抱いた男の首も、下戸の男の首も、Eカップの胸を誇らしく思っている女の首も、それを電車でちらちら見ていた男の首も、亀の首も、魚の首も、乙姫の首も、浦島太郎の首も、私の首も、ぜんぶぜんぶ、世界中の首が、もうすぐ飛ぶことを思い出します。


 私はそれをもう何億何兆気が遠くなる回数繰り返し、体験し、毎回はじめての嘆きとして声を上げてきたのです。


 そしてまた、もう一度それを体験すべく、この夜にやってきたのでした。


 ああ、何で今まで思い出さなかったの、何で思い出した時にはいつも私は私でなくなり、主観でなくなり、私の声は私に届かなくなってしまうの。ねえ、返事して。聞こえないの? こんにちは、Hello、Hola、السلام عليكم、您好、お願い、返事して。どんな言語で話しかければ、私は私に気付いてくれるの。どうしたら、私は編集されていない世界の言葉を伝えられるの?


 もう一人の私はきゃははきゃははと笑いながら、お笑い番組を観ています。嘘、あなたは、いえ私は、楽しんでなんていないでしょう?どうしてそんな虚ろな目をして、口だけをきゃははの形に動かして、操り人形みたいに笑えるの。鏡でしか自分の顔を見たことがない人はみんな、自分がテレビを観ている時の顔を知ったらぞっとするでしょう。笑っていても、泣いていても、怒っていても、その目は焦点が合っていない。世界と焦点が合っていないのです。画面の向こう側に確かにある世界が見えていないのです。でも、私たちはそれを知ってしまったらとても生きてはいられない。

 平気な顔で仕事をしたり恋をしたり、ご飯を美味しいと言ったり、布団が暖かいと感じたり、そんなことはもうできなくなってしまうのです。でも、ぷつん、とテレビはいつか消えます。そして残された暗闇のディスプレイの向こうに、焦点の合っていない自分を見つけ、人はそのおぞましい素顔を知るのです。


 今夜が世界の終わりです。それはミサイルでも地震でも病気でも事故でもあり、一言で言えば寿命です。


 世界の首が飛ぶのです。理不尽でしょうか?理不尽ですよね。理不尽です。でも時間も言葉も見ることはできません。さわることもできません。私たちが理解できるものは、理解した気分になれるものは、所詮見ることができるものと、さわることができるもの、聞こえるものだけなのです。悲しいけれど虚しいけれど、何度やっても私には世界を変えられませんでした。私を変えられませんでした。


 私の姿は、テレビを観ているもう一人の私には見ることができません。私の声は、私には聞こえません。手を伸ばしてもさわれず、気付いてくれません。テレビを消そうとしても、私を越えて弟のそばに行こうとしても、叶いませんでした。何も変わりませんでした。


 夢ならどんなによかったか。


 私は、いつも明日が来ると思っていたのに。信じていたという感覚ですらなかったのに。ただ漫然と、当たり前に、明日が来るかどうかなんてわざわざ考えもしなかったのに。浦島さんは結局来ませんでした。亀は打ち据えられ続け、甲羅は割れ、その下にある首は斬られました。


 浦島太郎がやってこなかった場合の亀の運命を考えたことはありますか?


 そして、自分がその亀だと考えたことは?


 私だけが気が付きました。それは神の視点でした。でもあらゆる主観ごとに世界は存在しますから、みんながみんな、別の神の視点から気が付いたのでしょう。

 私はあきらめて、あきらめきってしまって、もう一人の私と一緒になって、きゃははとお笑い番組を楽しみました。この人は本物だ、とドキュメンタリー番組に涙しました。そしてアニメ番組の主題歌を口ずさみました。私がそうして虚ろな顔でテレビを観ているのと、まったく同じ瞬間に誰かの首が、


 ぷつん。

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