斬首 【1(1)】

【1(1)】


 夢ならどんなによかったか。

 私が大切にとっておいたお菓子を、どうやら弟が食べてしまったようです。あああ私、それを楽しみに楽しみに仕事を終わらせ帰ってきたのに。いつもより多めに働いて、いつもより遅くに帰宅して、そんな自分へのせめてものご褒美だと思い出したのに。

 冷蔵庫のどこを見ても、昨日しまっておいたお菓子がないことをあきらめ悪く確認した後、私は仕方がなく麦茶の容器を取り出してコップに注ぎます。

 ああ、甘いお菓子とともに飲むから美味しいのに、とまだ未練たらたら思いつつそれを飲み干し、そうして一日の疲れをごまかします。疲れは癒されません。洗い流されもしません。とりあえず、ごまかし、ごまかしやっていくしかないのです。それが、乳幼児六年、小学六年、中高六年、大学四年、フリーターと言う名の立派な社会人を数年やってきた私の人生感想文です。まだ書きかけですが、おそらくこれからそう書き加えられるようなトピックもないと思います。


 くたくたになってクッション性というアイデンティティを失ったクッションに座り、テレビを付けようか、ちょっと迷います。遅く帰ったので家族はもうみんな眠っているご様子。夜の早い母はもちろん、宵っ張りの父も今日は床に就いているみたいです。

 私と性別が逆に産まれてきた方が良かったのではないか、とよくからかわれていた中性的な顔立ちをした弟は、リビングのソファで寝こけているのが目の端に確認できます。子供の頃は弟が「女みたい」と馬鹿にされ、大人になるほど今度は私が「弟くんの方が美人だよね」と馬鹿にされ。

 あの野郎、顔だけじゃなく食べ物の趣味まで女子っぽいし。どうせお菓子のことを問い詰めたところで「え、だって愛ちゃんのだと思わなかったから、ごめんね」なんて柔らかく謝るところがありありと想像できる程度にスイーツっぽい。なんだお前は、あれか、量産型女子大生か。合致しているのは頭の弱い大学生というところだけのくせに。


 そんな風に口に出さずに弟を毒付くことで、私は一日のストレスをごまかします。疲れと同じく、ストレスも解消なんてされません。ただ、転嫁するしかないのです。金とストレス、そいつは転嫁の回り物です。やがて自分に返ってくると分かっていつつも、私はストレスを無言で弟に投げつけます。投げつけずにはいられません。導火線に火のついた爆弾をほいほい隣の人に渡していくゲームのように。


 弟もよく眠っているようですし、気にせず私は深夜番組を楽しむことにします。リモコンで電源を入れると、一瞬間があってから、テレビが付きました。このスイッチングの間はいつも私を不安にさせます。

 あれ、壊れてるのかな?と思ってしまうのです。一瞬の間に、テレビが壊れているのか、リモコンが壊れているのか、それとも私が何か致命的に間違えてしまったのか、はたまた世界が変わってしまったのか、例えば、まだここに戦火が及んでいないだけで東京にはミサイルが落ちていて、テレビ局の電波が届かなくなっていて、そんなことがほんの十五秒ほど前に起きていて、私はそれを知らないだけなのかもしれないとか、そんな想像がざああーーっ、と頭をよぎります。まあ、よぎっている間にテレビはいつも無事付くんですけどね。


 本当ですか?


 本当にテレビはいつも無事に付きますか?


 ええ、付きました。でも音量が思った以上に大きくて、びっくりした私は焦って音量マイナスボタンを長押しします。そのままの姿勢で、ソファで眠る弟にもう一回ストレス転嫁爆弾を視線で投げつけます。ええい、お前のところで爆発しちゃえ。

 世界情勢を伝えるキャスターの声がずいぶん小さくなったところで、リモコンから指を離します。

 今日も世界では戦争が起きているらしいです。紛争、テロ、難民、局地的な戦闘、空爆、軍事行動。なんではっきり戦争って言わないんでしょう?

 私だってもちろん戦争なんてなくなればいいと思っています。殺し合いなんて、遠い国の知らない誰かであってもしてほしくありません。特に子供が亡くなったり、家族や住む場所を失ったりするのは、ニュース番組の映像であっても、顔をしかめ、嫌な気持ちになり、悲しくなります。

 でも、私は今テレビを付けるまで、そんなことは考えもしませんでした。それまでは今日一日、仕事のことや、この間読んだ漫画のことや、最近ちょっといいなと思っている人のことや、職場のトイレの芳香剤の匂いにいまだに慣れないことや、いつのまにか近所のコンビニが潰れていたことや、冷蔵庫に取っておいたお菓子のことや、明日の仕事のことや、働けど働けどお金が貯まらないことや、まあだいたい仕事のことやらを、考えていました。

 テレビを付けるまで、ここから行こうと思えば行けてしまう世界のどこかで、誰かが誰かを殺し、その家族や子供が泣いているなんて考えませんでした。だって、そんなことを考えていたら、きっと生きていけません。


 だから私は、そっと謝るように、チャンネルを変えます。

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