マシュマロを取り返す話
真っ暗な世界に椅子が一つ。
【始まりの地】
端的に状況を説明しよう。
俺こと――京平――は走っていた。
全力で、鬼形相をして、獲物を狩る猛獣のようにして走っている。
人様には見せられない。ましてや天界にいる麗しき女神様たちには見せられない顔をしているとは自覚していた。ちなみに麗しき女神たちの中に、彼女は含まれていない。
「だけど!! 俺は!! このアホ女神に奪われたマシュマロを取り戻す!!」
【マシュマロ】:メレンゲにシロップを加え、ゼリーで固めて粉をまぶした菓子。理由はよくわからないが、天界では不老不死の力が詰まっているらしい。そういう一品。(この天界では下界の人々が信仰する世界とは全くの別物であることをご了承願いたい)
なんだ今の注釈!?
気にしたら負けだちくしょう……あのアホ女神! 俺が大事に取っといたと知っていて盗みやがった! 理由は言えねぇが今の俺にはマシュマロが必要なんだ!だけど俺の心の叫びなんて無視して、愉快にステップを踏む金髪ロリ貧乳生意気女神は高笑いしてきたやがった。
「フハハハハ! 京平もしつこい男になったもんだね! いったいこのマシュマロがどうしたというんだい? ホラホラ、ボクに言ってみなよ! そうしたら返してあげるよ!」
「だぁ! うるせぇ! 死んでも言うか! はぁはぁ……いつまで逃げるアホ女神」
いや、無理だ。
やっと己の限界を悟った……というかアホ女神のやつ、神の力を使ってやがる。神にのみ許された神意の顕現。そんなのを使われたら、従者の俺に勝ち目なんてない。小一時間追い掛け回してようやくその結論に至った俺は、足を絡ませて無様に地面へ転がった。「ぐぇっ」と間抜けなうめき声まで上げる始末だ。
真っ暗な地面に突っ伏し項垂れる。
「全く、京平は困った奴だよ。いったいどうしてボクに話してくれないんだい? それに京平はボクの従者なんだから必然的に不老不死じゃないか。今更マシュマロを食べたところで何も変わりないだろうに」
頭の上で、アホ女神がそんなことを言う。
そうじゃない。そんな不老とか長寿とかじゃないんだ。そのマシュマロにはもっと大切な意味があるんだよ!
もっと具体的には、天界で偶然出会った銀髪褐色巨乳の色香マシマシ女神様に見惚れてたら「あら、かっこいいお兄さんね。どう? 私のマシュマロに興味ない? (意味深)(おっぱいの隠語)(妖艶)(誘ってきている)」って言われたんだ。
本当にマシュマロが渡されて、自分の勘違いなのに意気消沈しつつ、もらったマシュマロを後で食べようと大切にとっておいたのに……その楽しみすら奪うのかよぉ。
――などと言える訳もなく。
小声で「男には言えない秘密の一つや二つだってあるんだい」とこぼすしかなかった。
「ん? 何か言ったかい京平」
「なんでもねぇよ……っておい」
不貞腐れてぶっきらぼうに返事していると、うつ伏せの俺の背中にアホ女神が腰をかけてきやがった。椅子なら暗闇の中に贅沢な装飾がされたやつがあるだろうが。その小さい尻よりも銀髪褐色巨乳の女神様のお尻がいい。ようするにどいて欲しい。
アホ女神はそんな俺を無視して、マシュマロが入った皿を器用に指先で回す。
「ど~しても京平が、ボクに話してくれないって言うんなら、その心の準備が出来るまで仕事を与えてあげよう」
アホ女神の言い方に、俺はなにかめんどそうな空気を感じ取った。
「今日は非番のはずだが?」
「フハハー! 天界に休日などないのさ。平日もないけどね☆ ボクが仕事だと言ったら、京平は仕事をしなければならないんだよ」
「ブラックすぎる!」
「うんうん。文句はマシュマロの件と一緒になら聞いてあげるよ」
「人権侵害だぁ!」
「何を言っているんだい、恭平に人権なんてあるわけないじゃないか~。おかしなことを言うようになったね……っていつもか」
呑気に笑っているブラックアホ女神は、そのまま続けてきた。
「いつもの仕事さ。転生だよ転生! 今日はこの子……【乾 司】ちゃん! 転生させる手段は君に任せるから、パパッとすませてきちゃってよ!」
言うやいなやアホ女神は俺の後頭部に手を当てる。
転生の魔法をかける気か!?
「ちょ! 俺はまだ行くとも何とも……」
文句を言う暇も無かった。
暗闇が真っ白の光に覆われて浮遊感に襲われる。背中からアホ女神の重力が消え、周囲の景色が加速する。いつまでたってもこの感覚は慣れない。
気が付けば、田舎とも都会とも言い難い地方の街に立っていた。
****
季節は冬。身を切るような冷たい風が俺の頬を撫でる。
下界に来ちまった。俺一人の力では、天界に帰れない。帰るためにはノルマを達成しなければならなかった。
だがここで一つ問題がある。
「……肝心の乾司ちゃんはどこにいるんだよ……」
普段なら、転生に選ばれた少年少女がどこの誰だとか、転生の手段はどうするかとか……いろいろ考えて準備してから現場に足を運ぶのだが、今回は何も準備をしていない。
「というか、どんな顔かもわからねぇ……」
転生者は十代の少年少女だと相場は決まっているから、こういう場合は学校にいけばいい。幸いにも期限は指定されなかったから、多少時間をかけても問題ないはずだ。あのアホ女神も、戯れ程度のつもりで転生者を選んだに違いない。
その日履く靴下を選ぶような感覚で、転生させられる被害者たちには同情を禁じえないのだが、どこまでいっても他人事なので俺は仕事をするだけだ。
住宅街だらけで嫌になるが、手近なところに小学校があったのは僥倖だった。
そして、目的の人物を探す方法で一番楽なのがこれだ。
「あーあー、乾司がこっちに来てないか? ちょっと話があるから呼んでくれねぇかな」
高校の正門で、警備のおっちゃんにそう言ってダイレクトに呼び出す。
そうやってノコノコ出てきた少女がターゲットって寸法だ。
しかし、出てきたのは中年の男性教師だった。
「司ちゃんは?」
「はぁ、申し訳ありませんがお名前を確認させていただいても構わないでしょうか?」
「は?」
その男性教師の目には、明らかに不審者を見る眼差しがあった。くそ、この学校は外れかよ。悪態をついても始まらない。俺はさっさと撤退することにした。
だが、言い訳をしようとした直前に、ふとこんな話が飛び込んでくる。
「奥様なら先ほど懇談を終えて帰宅しまされましたよ」
その声はあとから来た女性教師だ。
しかし、俺は余計に混乱した。
は? 奥様? どうして突然奥様の話が出てきやがった?
そうしてよくよく話の流れを振り返る。
俺に向かって女性教師は、乾司のことを奥様と言ったのだ。
……もしやと、俺は一つの予想にたどり着く。
「じゃあ、娘はまだ学校で?」
「えぇ、懇談を終えたあとは元気に外で遊んでおりますよ」
「あ~、それは安心しました。ありがとうございます」
なるほど、ようやく状況が読めてきた。
つまり、乾司はここに通っている小学生ではなく、その母親だということか。最初に男性教師が不審な目を向けてきたのも頷ける。そうして笑顔を振りまいて退散しつつ、俺は頭を抱えていた。くっそ、今度は乾家の場所を探さねぇといけないのか。
「だがそれも、長年の経験で培われてきた転生加害者の俺からすれば造作もない」
フハハハハと高笑い。
くっ、アホ女神の笑い方が伝染ったかもしれねぇ。
戦々恐々としつつ、慣れた足取りで近所の本屋に突撃する。地元の地図を眺めれば、だいたいどこに誰の家があるかくらい把握できるのだ。店員のおじさんに不審者を見る目で見られながら、俺は構わず地図を広げる。もちろん買わない。経費で落ないのだ。
転生に関する隠蔽工作は神意でなんとかするくせに、こういう些事にはトンと関心がない。地図の端から端まで指さしながら舐めるように見渡して、ようやく目的の乾家を見つけた。やめろ、ストーカー行為も手馴れてそうとか言うのはやめろ! 仕事柄自然に身に付いたスキルなんだよ!
ふぅ……運良く乾家はこの地域に一軒しかない。
俺はすぐさまその場所を訪れる。閑静な住宅街にある大きな一軒家だった。
「どーもー、お届け物です」
そのへんで適当に見繕ったダンボールに、コンビニで手に入れた送り状を貼り付けて、インターホンを押す。出てきた女性にサインを貰い、乾司であればビンゴという手筈である。
「は~い、少々お待ちくださいね~」
おっとりとした声がしたあと、玄関の戸が開いてその女性が姿を現す。
「――ッ!!!!!!!!!!」
その女性を見た瞬間、次に話そうとしていた台詞が頭から全て吹き飛んだ。
なんだ? なんなんだ?
目の前には、艶やかな黒髪と透き通るような美白肌・凶悪なほどに存在を主張するたわわな乳房を持つ若妻がいた。声に似合うタレ目に泣きぼくろ……俺のストライクど真ん中だ。髪と肌の色こそ違えど、天界で出会った妖艶な女神と瓜二つの女性に完全に目を奪われた。
これが……一児の娘を持つ人妻の破壊力だと!?
というかあのアホ女神……実は俺が銀髪褐色巨乳女神に鼻の下伸ばしてたことを知っていて、彼女をターゲットに選んだんじゃないだろうな!? もしや話すまでもなくバレてたのか?
「あら、ここにサインをすればいいのかしら?」
「え、あ……はひッ! フルネームでお願い申しまする」
言語回路が死んでいた。
女性の一挙手一投足に目を奪われながら、彼女が書く文字を目で追う。
『乾 司』簡素な二文字。彼女が書くと、これほどまでに美しい響きになるのか。
惚けた頭でそんな風に考えていたが、彼女が荷物を手に取って家の中へ帰っていくと、その思考は急激に冷めていった。
「……ちょっと待て、あの人を……俺は転生させるのか?」
殺すのか? とは声に出して言えるはずもない。いままでも何人もの少年少女を異世界へ転生させてきた。星の数ほどだ。殺さないと転生はさせられない。だから躊躇なく屠ってきた。
しかし、このとき初めて俺は胸中にある刺を認識した。
「これは罪悪感か……?」
いや違う。
「これは忌避感だ」
当たり前の殺人という行為に対する拒否感情。転生のプロフェッショナルである俺が生涯抱いてはならなかった感情の一つ。転生執行人として存在したアノ日に失ったと思っていた理性という名のブレーキが、ここにきて動き出してしまった。
「くそっ……天界に戻ることもできねぇから、どこかホテルでも探すか……」
一晩休んでどうするか考えよう。
彼女を転生させるか否か……どうやって転生させるのか。
眠れない夜になりそうだと俺は陰鬱な気持ちになってしまった。
****
「ぶわっくしょい!」
それどころじゃねぇ!!
ホテルが全部埋まってやがった!
いまにも雪が振りそうな寒空だぞ!? 道路の電光掲示板では氷点下だと表示されていた。道行くカップルは「夜は異例の寒さだってさ」「うそ~ヤバくない!?」とか言って体を密着させている。俺もそこに混ざりたい。歯の根が合わないないほどに寒かった。当たり前だ、なんたって初冬に着込む程度の服装しかしていない。真冬・極寒・氷点下に耐えられるような装備は持ち合わせていなかった。
「し、死ぬ……また死ぬ。今度も起きたら天界か……」
天界にデスルーラなら死ぬのも別に悪くないか。
天界のマシュマロ女神(仮称)に癒されたい。今世での生を諦め天界に思いを馳せながら、俺は夜の街をフラフラと練り歩く。天界に仕事を完了させずに帰還できれば、乾司さんを転生させるなんてことはしないでよくなるかもしれない。地上に生まれた女神の如き美しさを持つ彼女は、このまま生き続けて幸せに暮らせばいいのだ。
「天界に帰って……また転生させろって言われたら、今度こそ断ればいい」
それほどまでに、一目惚れの効果はデカかった。
ただ一度、玄関口で顔を見ただけなのにも関わらず、俺の心は恋に落てしまっている。
そんな俺の思考が、住宅街に響くサイレンの音で現実に呼び戻された。
「ここは?」
あてもなく歩いていたため自分の現在位置がどこか確認するのに少し時間がかかる。だがすぐに判明した。目の前の家の表札は『いぬい』と銘打たれている。どうやら気がつかないうちに戻ってきていたらしい。
しかし、閑静であった住宅街の様相は一変している。
家の前には救急車が止まっており、そのランプは回転していた。
そうして遠巻きにして何事かと様子を見守っていると、信じられないものが横切る。救急隊員の叫び声が聞こえてきた。だがよく聞き取れない。
その中に一つ、目と耳を疑う光景があった。
「――!! ――乾司さん! 」
担架に乗せられた乾司が、救急車に運び込まれていったのだ。
そのまま救急車は走り出す。
「……っ!!」
俺は駆け出していた。
救急車のサイレンの光はすぐに遠ざかり視界から消える。目的地は病院か。
走りながら困惑していた。
なんだ? 何があった? 昼間に見た乾司は元気だっただろう!?
それがどうして救急に世話になる?
しかも様子がおかしかった。さっきは気がつかなかったが、彼女の周りには薄らと『死』がまとわりついている。転生させることのできない絶対的な死だ。放っておくわけには行かない。あのまま死ねば、天界では彼女を救えなくなる。
県立の総合医療センター。
自動ドアが開くまでの一瞬にすら焦りを感じ、俺は開いた隙間にねじ込むようにして飛び込む。すでに夜も深いため、ロビーには他の客がいない。俺は脇目も振らずに受付に駆け寄って訊ねた。
「彼女は!? 救急で運ばれてきた乾司はどこにいる!?」
「家族以外の面談はお引取り願いたいのですが……もしかして、旦那様ですか?」
あまりの俺の迫力に面食らったのだろう、受付はさらりとこぼしてくれた。
「あぁそうだ」
嘘をつくことも、もう慣れた。
「お部屋は五階の突き当たりにある診察室です。こちらから連絡を入れておきますので、担当医に親族だとお伝えください」
「ありがとうございます」
俺は礼もほどほどにして階段を駆け上がる。エレベーターを待ってる時間すら惜しかった。言われたとおり部屋の前まで行くと、そこに白衣の女性がいた。彼女が担当医だろうか。
「乾司の夫ですが……司は?」
「あぁ、旦那さまでしたか。初めまして看護師の羽内です」
落ち着いた彼女の口調。しかし彼女は診察室の前で
「すいません。先に妻と二人きりで話してもいいですか?」
「いえ、申し訳ありませんが診察にもう少し時間がかかりますので、旦那さまはこちらにおかけになってお待ちください。完了しだいお呼び致します」
逸る気持ちを抑えて、すすめられた椅子に腰を掛けて待つ。
それから二時間。
時計の針は天頂を超えていた。俺以外に誰も見舞いに来ないのが不思議だったが、それはそれで都合がいい。瞑想しながら彼女の安全だけを願う。
ようやく羽内という看護師に案内され、乾司にあてがわれた病室を訪れた。
俺は扉を開いて中に入る。オレンジの照明の部屋に白いベッドが一つ。そこに白雪よりも儚い女性が横たわっていた。
彼女と目が合う。
「あ……」
何を言おうか考えていなかった。というか頭の中まで真っ白だ。生きている頃に安堵して、膝から崩れ落ちそうになった。そんな俺を見ても、彼女は柔らかく微笑んでいる。闖入者に動じることなく、ふっくらとした唇を開いた。
「私の旦那を名乗っていたのは貴方だったのね。それに……郵便配達人さんでもないわね。ふふ、なぜ当てられたかわかるかしら?」
彼女はいたずらが成功した少女のような笑顔を咲かせ、言葉を紡ぐ。
「だって私、もう旦那はいないんですもの。それに郵便物の中身……空っぽだったじゃないの。最初は変な人かとも思ったけれど、この部屋に入ってきた時の表情を見て印象が変わったわ。どうして見ず知らずの私の為に、貴方はそんなに焦っているの?」
そうやって全てを包み込むような慈愛に満ちた目で見つめられた。
旦那が死んでいる? シングルマザーだったのか……。
だがそうじゃない。そこじゃない。
聞きたいのは俺の方だった。
「なぁ司さん。いったい何があったんだ」
どうして救急車なんかで運ばれた?
そんな不躾で身勝手な質問にも、乾司は話してくれた。まるでこちらが患者になってしまったかのような状況だ。
「子宮癌ですって。それが全身に転移しているってお医者さんは言っていたわ」
「癌?」
「えぇ、まだ若いから……ふふ、貴方から見ればおばさんかも知れないけれど、普通よりも転移が早いみたいなの。それで自覚症状が無いうちに全身へ……」
彼女は微笑みながら話すが、なぜ微笑んでいられるのか俺にはわからない。
「命に別状はないんだよな?」
「いいえ、話だと余命一ヶ月ですって。発見が遅すぎたみたい。もう現代の医療では助からないらしいわ。不思議よね……そうやって聞かされても、まだ現実感がないんですもの」
「そんな……あまりにも急すぎる」
「そうねぇ、一つだけ不安があるとすればお母さんに預けている陽ちゃんよねぇ……娘をひとり残していくのだけが心残りかしら」
彼女は口では飄々としているものの、表情の端々から諦観のような物が見て取れた。もうすでに、彼女は死ぬことを受け入れ始めている。
受け入れることによって、『死』が彼女の周りで成長していた。余命は一ヶ月では済まないかもしれない。二週間……いや、下手したら一週間も持たずに死に飲み込まれる。魂は二度と出てこられないあの世行きだ。
そろそろ決断しなければならない。
でないと手遅れになる。
「乾司さん。俺があんたの旦那を騙って、ここまできたのには訳があるんだ」
意を決して口を開いた。
乾司は静かに頷いて続きを促してくれる。すると自然と言葉が出てきた。
彼女を驚かせてしまわないように、転生に関することを伝える。君を殺して転生させるつもりだったと打ち明けた。何もかも、黙って聞いていてくれた。
「私は生まれ変わるってことかしら?」
「それは選べる。記憶を消して、生まれ変わって一から人生を謳歌するのもいい。そのままの体で、魂だけ転移させるっていう手もある」
「それは……とても素敵なお話ね。まるでおとぎ話のようだわ」
「あとは……司さんの判断次第だ」
最後は彼女の決断に委ねようと考えていた。
ひどい選択肢を与えてしまったというのは自覚している。
ただ『死』に殺されるのを待つのか、それとも初めて出会った怪しい男の甘言を受け入れて殺されるのか……俺だったらすぐに答えは出せない。それに加えて彼女には娘もいる。今日この日を境にして彼女の人生は最大の岐路を迎えていた。それも死と直面した形でだ。
「また明日くるよ」
ゆっくりと考えてもらおう。幸いにも俺の方には時間がある。
彼女が決められなかったとしても、それもまた一つの選択肢だ。
病室の扉に手を掛けて、もう一度彼女の方を振り返る。
最初に会った時と変わらない。美しい表情と愛おしい心の宿った顔をしていた。だがその内側では、悪性腫瘍が彼女の体を食い荒らしている。彼女が決断した暁には、俺も迷わないようにしなければならない。それが、転生執行人としてのせめてもの心構えであろう。
だが……予想していなかった言葉がかけられた。
「ねぇ、あなたの仕事を全うして……私を転生させてくれないかしら?」
乾司の力強く意思の込められた発言に俺は驚いた。
いや、そういう選択肢があるのを忘れたわけではない。
乾司がこれほどはやくに結論を出すとは思いもしていなかったのだ。むしろ俺の方が心の準備が出来ていない。俺は開きかけた扉の前で固まった。
「いいのか……それで?」
「えぇ、お医者さんが言うには延命治療も施せるって話だったけれど、私はそんな事してまで生きたくない。命が惜しくないかって言われたら嘘になるけれど、死に怯える時間が増えるだけんて嫌だもの。こう見えても私、切り替えが早い女なのよ」
両手の拳を握り締め、自慢げに宣言する彼女。
微笑むその目に釘付けとなって瞬きすら忘れる。
そんな俺に彼女は言った。
それは今まで全く気づいていなかったことで――
「だから貴方が私の為に泣く必要なんてないのよ」
――溢れ出した涙が止められなかった。
****
「おかえり京平。お仕事お疲れ様~、今日もいい働きだったから、報酬は弾んであげよう……そうだねぇ、じゃあこのマシュマロを報酬に上乗せして返してあげよう。君はこのマシュマロを随分と欲しがってたみたいだからね。ボクも一つ食べてみたけど、これは格別だよ? いったいどこで手に入れたんだい?」
【始まりの地】
暗黒の世界。
豪奢な椅子に、体格が見合っていない金髪ロリ女神が一柱。
「そうそう、京平ってば仕事が完了したあともなかなか帰ってこないもんだからさ? 転生者はもう次の異世界に送っておいたよ。それにしてもロクなヒントもなしに下界に送り込んだのに、仕事が早くて助かったよ。彼女ってばもう余命幾許もなかったでしょ? あれだけの素質がある子があの世へ連れ去られるのは天界の女神としても不本意だから、転生させられて一安心だよ」
……?
ちょっと待て、もうじき命が尽きると知っていた?
人を殺しておいて、一安心だと?
「何を不思議そうな顔をしているんだい? ボクたちは素質ある人をあの世に囚われてしまわないようにしているんだ。どのような異世界に飛ばされようとも、素質ある人間はそれだけで多次元世界の英雄になれる。まぁあの子は素質なんて一つもなかったんだけどね。それに今更何を言っているのさ、最初からボクたちは加害者じゃないか」
そんなのはわかってる。
俺たちは加害者だ。
「だからといって、そんな開き直ったみたいな言い方はないだろう!」
初めて命を奪う業を知った。
俺の独善的なエゴだと誹られようとも、俺はあの病室で変わってしまったのだ。
「フハハ! 感謝こそされる覚えはあるけど批難される謂れはないのだよ京平くん」
「いったい何を感謝しろというんだよ」
「彼女の転生先は第一番異世界理想郷。彼女の生前の善行を考慮した結果、天上界で彼女を理想郷に招待すると決定が下されてね。京平にはその手伝いをしてもらったってことなのさ。天上界が気づいた頃には、もうあの子には『死』がまとわりついていたからね。救う方法は転生の一択だったんだよ」
「つまりなんだ。それが最善の選択だったと?」
「もちろんだ。何よりあの子がそれを望んだろう? 君が直接聞いたんじゃないか。天界のことをバラした時は流石に焦ったけど、実にいい結果に終わったよ」
金髪のロリ女神は、満足げに念押ししてきた。
「もう一度君に言っておこう。これが、あの子――乾 司――が望んだ未来であり、ボクたちが与えた結果であり……京平が導いた最善の結末だったんだよ」
アホ女神だと日頃から言っていたが、この時だけはその無い胸張ってる傲慢な態度がやけに頼りになった気がする。俺の決断に無駄なんて無かった。それだけで十分な報酬だ。
マシュマロは……取られる前にさっさと食べてしまおう。
暗い世界に女神の笑い声だけが響いていた。
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