人魚の独白
ゴポゴポと音を立てて流れる水を見つめる。
栓を抜いたお風呂は竜巻のように水を吸い込んでいく。
音を立てて吸い込む穴からコポっと泡が浮いて弾けた。
「これはおねえさんのあぶく」
不思議な子。昼間の事が頭を過りだけどすぐに消えた。
風呂場から立ち上がり、部屋に戻る。
積み上がった段ボールに四年という歴史を感じた。
初めてここに来たのは二十五の時だ。
就職して、やっと仕事に慣れてきた時に彼と同居を始めた部屋。
お互い真剣に付き合っていたし、結婚を前提に付き合っていたから同居が上手くいけば籍を入れるつもりだった。
結局入れられなかった訳だけど。
あの野郎よりによって、結婚式の準備中に婚約解消を求めてきた。
もう少し遅かったら、招待状を出していただろうが。
そう考えると、出す前で良かったのかもしれない。
出すとなったら、もちろん職場の人間も呼ぶ事になったのだし。
幸いあたしの結婚ご破算を知っているのは友人と親戚だけだ。
……。
それでも、十分ダメージはデカイけど。
本当はもっと早く結婚するつもりだった、ただあたしの仕事が忙しくなって延び延びになっただけ。
そういう所が嫌だったのかもしれないな。
だけど、そうならもっと早く言ってくれれば良かったじゃない。
冷蔵庫を開け、乱暴に扉を閉めた。今日で何日目かになる一人酒盛り。
豪快にプルタブを引っ張り、開けた口にビールを強引に流し込む。
これもあたしのあぶくだー。
なんちゃって。
きゃらきゃらと一人で笑い溜息をついた。
子供に心配される程弱ってたなんて気付かなかった。
有給を使い、引っ越しの片づけをしていた昼間、近所の水族館のフリーパスが出てきた。
失くしたと思ってたのに。
日付を見るともうすぐ失効期限が近い。
このまま期限が切れるのも勿体ないと思い、出かける気になった。
本当言うと引っ越しの準備をしながら、昼食の準備をするのが面倒だっただけなんだけど。
あそこのご飯は絶品だし久しぶりに食べたくなった。
よし、行くか。
思い切って外出した水族館は、あたしのよく知る水族館とは大分違っていた。
今年の秋にリニューアルして外装も内装も変えたのだとテレビで言っていた。
はあ、ここまで変わるとはね。
昔は、もっとおんぼろで食堂目当ての客の方が多かったのに。
思い切ったなあ。
笑いながら、パスを見せてゲートを潜った。
踏み入れた水槽は嘘みたいに綺麗であたしがよく来ていた頃とはまるで違う。
「うわっ凄」
昔と違いごった返す人の波に面くらいながら、水槽に近づいた。
ここに初めて来たのは高校生になった時。
あたしとはまるでタイプの違う友達に連れて来られた。
その時は何が面白いんだって思ったけど、食堂のケーキが異様に美味しくてちょこちょこ来るようになった。
大学に進学してからからっきし来なくなって、暫くしてまたここに来るようになった。
隣の水槽に移動する。
動く時にカップルが目に入った。
あたしの初デートもここだったのよね。
大学に入って彼氏が出来た。
全然タイプじゃない地味な奴。
変な奴で、海洋学が好きだとか言って魚の話ばっかしてたのよね。
あたしは会話についていけなくて、適当に相槌打ってるだけだったけど。
いつだったか、魚の話に飽きて絵本を読んでたら意外に絵本に食いついた。
それが人魚姫だったわけだけど。
あの本がきっかけであいつとは付き合う事になったんだ。
あれから、十年近く立つんだから皮肉よね。
女として一番いい時期をあんな地味男と過ごすとは。もっと遊んでおけば良かったわ。
口元に手をやり、辺りを眺めた。
変わってしまった風景に少しの寂しさを覚える。
変わらないものなんてないのよね。自分に言い聞かせてまた、辺りを見回す。
周りは家族や友達、カップルばかりだった。
あたし何やってるんだろう。
急に虚しさがこみ上げてくる。
黒いどろどろした感情が靄みたいに広がって胸に押し溜まっていく。
どうしよう。
こういう時あたしどうしてたっけ?
考えても思い浮かばなかった。胸に手を当てて気持ちを紛らわす。
ああそうか、そういう時に限っていつもあいつが声かけてくれたんだ。
普段地味で根暗で家にばっかいる。
あたしと話してんのにいっつも海か魚の話ばっかで、出かけるかと思ったら海域の調査とかいって何日も何カ月も居なくなる。
そのくせ、あたしが疲れてたり落ち込んでる時良いタイミングで声をかけてくる奴だった。
腹が立つ。地味でもてない癖に生意気よ。
腹立ち紛れにずかずかと歩きだす。
後ろに居た中学生が何か言っていた気がする。
むかつく。
むかつく。
薄暗い館内をずんずん進む。
途中、視界が歪んで慌ててコートで目元を拭った。
ベージュのコートに薄らとオレンジが付いて余計にテンションが下がった。
「最悪」
小さく毒づき、顔を触る。
ほんとに嫌になる。
コートの事じゃない。
気が付いたら居たこの展示エリアの事だ。
ふわふわと浮かぶ白い水母(くらげ)はドレスを纏った花嫁みたいで気分が悪くなってくる。
どんなにふわふわ綺麗でも水母は毒を持っている。
女と同じだ。
どんなにふわふわ可愛い子でも女である以上毒がある。
もてないと思ってた地味男はあたしが知らないだけで案外もてたらしい。
婚約破棄された一週間後位に、大学の友人からメールが来た。
開いたら、あいつと見た事ある顔の女が並んで写っていた。
メールの本文は思い出したくもない。
『これ真魚の婚約者だよね? 何か、この前見かけて話すか迷ってたんだけど、伝えとく。大丈夫なの?』
と締めくくられた文面に携帯をかち割りそうになった。
あの野郎おおおおおおお。
見覚えのあるその女は、あいつの可愛がってた後輩ちゃんだった。
そういうことですか。
そうですか。
こんながさつで気の強い女よりも、そりゃあ大人しい清楚な子の方が良いでしょうねえ。
ぶちぎれそうなのを我慢しながら、見逃す事にした。
本当はたこ殴りにしたかったけど、結婚破棄の話で我が実家は揉めに揉めたのだ。
これ以上両親の傷もあたしの傷も広げたくなかった。
水母を見てられなくて場所を移る。
足は逃げるみたいに早足になっていた。
気分が悪いのが堪え切れなくて、近くのベンチに座る。
大きな水槽は沢山の魚が泳いでいた。
ここが本当に竜宮城なら良かったのに。
そしたら、ここを出ればあたしの事を知ってる人は誰も居なくなる。
__じゃないと弱音すら吐けないよ。
自分の性格が嫌になった。
強がりで強情でプライドが高くて。見た目ばっか気にしてる癖に全然可愛くない。
こんなんだから、全然上手く出来ないんじゃない。
下を向くと涙が出る気がして、前だけを見つめる。
ここに居る人間全員が魚になっちゃえば良いのに。
「魚好きなの?」
心の中を読まれたかと思って身体が跳ねた。
人が近くにいるなんて全然、気付かなかった。
声の主に顔を向ける、そこには真っ黒な女の子がいた。
「こんにちは」
物語の始まりみたいに、急に現れたその子は__
当たり前にみたいにあたしに話しかけてきた。
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