第5話
あの恐ろしい表情を見たのを最後に、父様とは顔を合わせることはなかった。衣扶由と話した晩に、また家を出たらしい。しばらく帰らないと、鉄仮面が告げた。
それから一週間ほど、平穏な日々が続いた。しかしぼくの気分は優れなかった。友達と遊ぶ気にもなれず、修行する気にもなれない。
父様は。ぼくが父様の言うことを聞くから、愛していたのだ。
言うことを聞くから、ぼくは父様の中で存在していた。修行をサボり、父様に意見し、ぼくの存在価値はゼロになってしまった。
祝福された子、と言ったが、父様がぼくに祝福を与えていたのだ。父様から手を離され、ぼくは何にもなくなってしまった。
鉄仮面はぼくを心配しているようだった。元はと言えば、奴のせいだ。鉄仮面の言うことなんて、聞かなければよかった。
彼女に悪気がなかったことは分かっている。ぼくを思いやってくれたことも。頭では分かっていても楽しく話す気にはなれなかった。
学校から帰り、ベッドで横になっていると、部屋の扉がノックされた。
例によって鉄仮面だろう。声を張って答える。
「宿題はしたよ」
「俺や、律」
衣扶由の声だった。ぼくは寝転がったまま、目をパチクリとさせる。兄が部屋を訪ねてくるのは初めてだ。彼から話しかけてきたのは、三年ぶりくらいか。
「入っていいか?」
「いいけど……」
ぼそっとつぶやく。
「え?」
「いいよ!」
扉の向こうには届かなかったらしく、叫んだ。
衣扶由が部屋に入ってきた。
何だかひどく、青白い顔をしている。
「律……」
「顔色、悪くない? どうしたんや?」
「母さんが、帰ってきた」
衣扶由の、父様に似た真っ黒な瞳が、泳いでいる。
「母様?」
「今日、退院したんや」
会いたいだろう?
衣扶由の目は、くるくると泳ぎ続けている。それが何を意味しているのか、ぼくには分からなかった。いや、どうでもよかった。母様に会えるのなら。
「会えるの?」
「……今、父様の部屋にいる」
ぼくは走り出した。背後で、衣扶由が何かつぶやいた気がするが、それももうどうでもよかった。
父様の部屋に入った。ぼくはノックすら忘れていた。
「かあ……」
言葉は続かなかった。ずっと言いたかった単語のはずなのに、目の前の光景に言葉が消え失せた。
部屋の中央に、女性が仰向けで眠っていた。
ほっそりとしており、色白で、艶のある長い黒髪が、美しかった。腹の中の臓物が、部屋のそこかしこに飛び散っている以外は、完璧な見た目だった。血で汚れた、白い薔薇の花が、彼女の周りを囲うように置かれている。
駆け寄る。ぼくは胸に耳を当ててあるはずもない脈を確認する。やはり、なんの音もしなかった。
「やっときたんだ。律様」
はっと見上げる。本棚のかげから、女が顔を出していた。体が硬直する。
顔や全身が、返り血で塗れている。女は、メイド服を着ていた。
当時と同じ。
「覚えてる?」
ぼくが辞めさせたメイドだった。鉄仮面の一つ前のメイドで、彼女もなかなかしぶとくて「ぼくに性的ないたずらをした」と父様に嘘の訴えをして辞めさせたのだ。
ぼくは答えなかったが、覚えている事が表情で分かったのだろう。
彼女は薄い笑みを浮かべながら、ぼくに近づいてきた。
「あんたのせいで、私の人生めちゃくちゃよ」
「……この人は、だれ?」
ぼくがやっと発した言葉はそれだった。
「あんたの母さんに決まってるじゃない。ああ、顔、見たことなかったんだっけ? ま、私もなかったけど……」
うそや。
言葉になっていたか分からない。
「悪霊を三体、中に入れて破裂させた」
女は得意げに言った。ーー霊を操ったのか。
「誰、に……教わった?」
ただ家で働いていただけのメイドが知るはずもない。悪霊を操る方法など……。
「あんたの兄貴よ」
兄が霊を操る方法を知っていた?
疑問を口にする間もなく、女がスカートのポケットから鎖を出した。鎖の先には三体の霊がつながれている。伊吹家に代々伝わる除霊術だ。悪霊に悪霊を「喰わせる」。そのために大量の悪霊を飼っている。
「あんたのせいよ。あんたが私を辞めさせたから。兄貴のことも見下してたでしょ。あんたのせいで、母親は死んだのよ!」
霊が、ぼくをめがけてやってくるのが見えたが、避けようと思わなかった。呆然と母様の亡骸の横に座っていた。
その時、背後で扉が開く音がした。
「律様」
鉄仮面はぼくの前に躍り出てーーそのまま、三体の悪霊は彼女の胸を貫いた。
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