第4話

 帰りの馬車の中。ぼくははじめて父様に嘘をついた。メイドの行き先を見失ってしまった、と。

 亘は、自分の存在をバラされても構わないかもしれない。ただ、短い間だが、心を通わせた(とぼくは思っている)相手を売るような真似はしたくないと思ったのだ。


 父様に、嘘をつく。しかも、自分の失敗を打ち明けるという内容だ。とても勇気のいる行為だった。しかし、亘の言葉がぼくの背中を押した。


「……そうか」


 父様は表情を変えず言った。それだけだった。いつも兄にしているように、なじられ、責められると思っていたので、拍子抜けした。


 役に立たなくても、父様はぼくを愛しているんだ。やっぱり、ぼくと兄は違うのだと、安堵感が胸を満たした。


 ぼくは口を抑えた。今にも笑い出してしまいそうな気分だったのだ。父様はそんなぼくの顔を、何も言わずじっと見ていた。





 でも、兄は落ちこぼれなのだろうか?


 パーティーの数日後、学校からの帰り道で、ふと思った。亘は、幽霊が見えないから劣っていることはないと言っていた。彼が言うように本の中でもそうだし、学校でも、幽霊が見えないからと言って、落ちこぼれの烙印を押されることはない。


 今までは、父様の言うことが全てだと思っていた。ぼくの世界は家だけだった。学校の連中は霊も見えないし、幼稚だから関わろうともしなかった。


 しかし、今……放課後、同級生が友達と並んで帰る姿がなぜか眩しく見える。

 はしゃぎながら歩く様子を横目に、通学路を一人で歩いていると、背中のランドセルがひどく重い。


 亘と話して、新しい感情が芽生えたのか。それとも、心の奥底にあった感情が溢れ出したのか。


 ぼくが本当にほしいものはなんだろう。兄への扱いは正しいのだろうか。父様は正しいのだろうか。兄のせいで母様は不幸になったと思っていたけど、本当に兄が悪いのだろうか。


 段々と、不安になってきた。今までは父様の言うことを聞いて、褒められたら満足だったのに、自分の信条がぐらぐらと揺らいでいる。



 母様なら何て言うだろう。父様のことを世界一愛しているだろうから、母様に会えば、このぼくの迷いも吹き飛ぶだろう。

 もう一度ぼくは、父様のことを心から信じたかった。亘は「父親の言うことばかり聞くな」と言ったけど、やっぱりぼくは父様が好きなのだ。



「母様に会いたい……」

「え?」


 学校から帰って、鉄仮面にランドセルを渡した瞬間に、心の声が漏れてしまった。


「何か学校であったんですか?」

 鉄仮面が聞く。


「なんもない。ええから早く着替え用意して」

 ランドセルを押しつける。


「律様」

「早く、修行しやな……」


 学校から帰った後は、夕食の時間まで除霊術を磨くのが日課だった。毎日欠かさず行う事が、父様との約束だ。


 鉄仮面が、膝を曲げてぼくと目線を合わせる。


「律様、今日はサボりませんか」

「何言ってるねん。父様に叱られる」

「バレなければいいんです。しばらく家にいませんし言わなければバレません」


 いつもと同じ真面目腐った顔をして、とんでもない事を言い出す。


「でも、ぼくは……」

「律様、何かしたい事はないんですか?」


 したい事。


「そんなん、いっぱいあるよ……」


 テレビだって見たいしゲームもしたい。公園でサッカーしたい。学校のみんなと放課後に遊んでみたい。ぼくは言った。なぜだか泣き出しそうになり、ぐっとこらえた。


「しましょう、全部」


 鉄仮面が、初めて微笑んだ。



 夕食の時間までずっとテレビゲームをしていた。明日はサッカーをしに公園へ行く予定だ。クラスの子が集まるところを知っている。

 仲間に入れて、と言えば入れるはずだと鉄仮面は言うが、子供の世界は案外複雑だし、大人が考えているより排他的だ。受け入れられるか分からない、とぼくは思っていた。まあ、大人に言っても分からないだろう。


「律様のお母様については、私もよく知らされていないのです」


 テレビゲームを片付けながら、鉄仮面はつぶやいた。


「体が弱ってて、ずっと退院できひんのやろ」

「ええ、そう知らされていますが……」


 鉄仮面は少し間を空けて、意を決したように言った。


「私も会ったことがないんです。面会もずっと出来ないなんて……」

「それくらい母様は弱ってるんや」

「律様。あなたのお母様はーー」


 鉄仮面が何かを言おうとして、やめた。代わりに、


「……明日、公園に行きましょう」


 と、何度も約束したことを改めて言った。


「うん」


 鉄仮面が言いかけた先は知りたくない気がしたので、追求せずにうなずいた。



 それからぼくは週に何度か、修行をサボるようになった。意外にもクラスの子たちにあっさり受け入れられたこともあって、放課後、一緒にサッカーをしたり駄菓子屋に行ったりと、「普通の子」のように遊んでいた。


 それから何週間か経って、父様が帰ってきた。いつものように父様の部屋で膝の上に乗る。しかし、いつもと違ってぼくの心は曇っていた。


「律。しっかり修行してるか」


 父様は言った。それは、ただいまの代わりの挨拶のようなものだった。毎度聞かれている。しかしぼくは、答えることができなかった。


「律?」

「父様、ぼく……サボって友達と遊んだりした。ぼく、修行以外のこともしたい……」

「ーーそうか」

 父様はぼくの頭を撫でた。


「今まで我慢させて悪かったな、律。好きにせえ」


 怒られると思っていたので、ほっとした。優しい手だった。


「ありがとう、父様」


 父様の顔を見ようと振り返った瞬間、部屋の扉がノックされた。鉄仮面が部屋に入ってきた。


「失礼します。……衣扶由様が、進路についてご相談があるそうです」

「まだ言うか。諦めろ言うたのになあ」

「ですが……」


 鉄仮面は前回と同じように父様を説得しようとしている。父様は渋っている。

 二人の話は徐々に耳に入らなくなってきて、亘に言われた言葉が、ぼくの頭の中で響いていた。

「父親の言うことばかり聞くな」と。


 兄は落ちこぼれなのだろうか。兄のせいで、母様は不幸になったのだろうか。兄が生まれなければよかったのか?もしそうなら、同じ立場の亘も生まれなければよかったということになる。

 違う。それはきっと、違う気がする。


「父様……あの」

「なんや」

「衣扶由の話を聞いてあげてほしい」


 鉄仮面がぼくの顔を見る。驚いた顔をしている。最近、鉄仮面の『鉄仮面』は崩れることが増えた。もう、彼女に対して嫌がらせはしていなかったが、スープに虫を入れても足を引っ掛けても何をしても変わらなかった表情が、今は動くようになっている。

 ぼくは鉄仮面が表情を変えるたびになぜだか嬉しくなっていた。しかし、今はそれどころではなかった。はじめて父様に口出ししたのだ。


「そうか、分かった。お前がそう言うなら……」


 ぼくは背中を押され膝から降りた。ありがとう、と振り返った時。


 父様は見たことない顔をしてぼくを見ていた。目を細め、睨んでいるような、顔。


「父様?」

「すまんな、律。仕事の疲れが出とるみたいや。あいつのところに案内してくれ」


 父様は、自分がしていた顔に気付いたのだろう。ぼくに一言謝ってから、顔を逸らした。そして鉄仮面とともに部屋を出ていった。


 さっきの父様は、いつも衣扶由に向ける顔と、同じ顔をしていた……。ぼくは鳥肌の立った己の腕を抱きしめた。


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