第5話

 アスリートが「ゾーンに入る」という表現を使うことがある。

 周りの音や景色が消え去ったり、他の選手の動きがスローに見えるなど、極度に集中した際に入るという「ゾーン」。超集中状態だ。今まさに伊吹は、ゾーンに入っていた。


 波が立ってから、その波の中に女がいることに気付き、彼女を観察したのは、およそ十秒にも満たない時間だったが、伊吹の中では三分ほどに感じられた。


 女の顔は左右で表情が違っていた。顔の左半分は涙を流しており、右半分は眉や口が醜く歪み、獲物を見つけた肉食獣のようにぎらぎらした目で伊吹を睨みつけていた。

 伊吹は動かなかった。先程は命の危機に瀕して動揺したが、本来、霊への恐れはない。


 ここまで来いと、頭の中で念じる。


 伊吹に向かって女の手が伸びた。


「こっちにおいで」


 優しい声だった。子供を呼ぶ、母親の声だった。脳が、己の母親の声と認識してしまった。両目から涙が溢れ出る。それが契機となり、集中がぷつん、と切れた。

 彼女の手を取りたくなった。彼女の胸に飛び込み、お母さんと呼びたくなった。伊吹は彼女に向かって手を伸ばしたーー。


「我は時を統べる者」


 その時、亘理の声が聞こえた。


「暫し汝の針を戻す。元の汝に還るがよい」


 紫色の光があたりを包んだ。伊吹を、波を、そして女を。光の中では強い風が吹いており、女の顔に長い黒髪がかかって表情が見えなくなった。


 どれほどの時間が経ったのだろう。光が消え、砂浜に女が現れた。しばらく地面に顔を埋める形で臥していたが、亘理が声をかけて、顔を上げた。彼女の表情は左右非対称ではなくなっている。


 顔色も、生きた人間の色だ……亘理は本当に霊の時を戻したのか。これが亘理家の人間が持つ能力なのか。


「私は……なんてことを……」


 悪霊化していた時の記憶があるらしく、女は震えていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……最初は、息子を探してたんです」


 息子は無事だろうか。どこにいるのだろう。長い間彼女は、海の中をさ迷っていたという。なぜ自分はここにいるのだろう、と思いながらーー息子を探している事だけ覚えていた。

 記憶はどんどん薄れていき、息子の顔がわからくなり、いつの間にか、何を探しているのかも分からなくなった。


 ただ、小学生か中学生くらいの子供を見つけると、胸騒ぎがした。何となく、姿を見守るようになった。それからまた月日が流れて、頭の中でどんどん悲しみが膨らんできた。大切なものを思い出せない事が悲しかった。誰にも認識されない寂しさも、彼女を蝕んだ。


 やがて、耐えられなくなった。彼女はとうとう人格を手放した。


「それから翔吾と同じ背丈の子供を襲うようになりました」


 まるで本能のまま動く動物のようだったと言う。そばに来てほしくて、足を引っ張ったと。


 彼女の息子は、翔吾という名前らしい。涙でいっぱいになった瞳が、伊吹を見つめていた。


「騙して悪かったな」

「いえ、違うんです……翔吾は、顔も貴方に似ていました……さっきあなたの顔を見て、息子の顔を思い出して……少しだけ、人間だった頃の記憶を取り戻せたんです。ただ、やはり、連れて帰りたいという気持ちは失せませんでした。殺して、ずっと一緒にいようと」


 だからあの時、半分の顔は泣いていたのだ。理性と本能の狭間で彼女は揺れていたのだろう。女はまた、罪悪感に押しつぶされたように背中を丸めた。

 伊吹はその小さな背中を見つめる。これが先程まで、人を襲っていた悪霊か……。


「あの……こ、これを見ていただきたいんです」


 山岸が女の前にスマートフォンを差し出した。


「大活躍中のサッカー少年に密着……」


 画面に写った文字を読み上げ、山岸の顔を見た。山岸が頷く。


「翔吾さんが、テレビ番組で取材された時の映像です」


 山岸は動画の再生ボタンを押した。華やかなスタジオで、女性アナウンサーと、男性お笑いタレントの二人が並んで、「ミライイネ」とコールした。

 たしか、スポーツやアートなどさまざまな分野で活躍している少年少女を取材する、15分ほどの番組だ。本編を視聴したことはないが、CMを見かけたことがあった。


 スタジオから場面が変わり、校舎が映った。校庭で、翔吾らしき少年が、ボールを追いかけている。たしかに、口元のあたりが少し自分に似ているかもしれない。


「翔吾……サッカー、続けてるのね」


 女の表情が和らいだ。普段の練習内容や、チームメイトからの評判などを紹介し、番組が進んでいく。女は翔吾が映る度に鼻を啜っていた。


 番組が終わりに近づき、彼の人生について、過去の写真を混じえながら言及するシーンとなった。女手一つで育ててくれた母親を亡くし、彼は現在叔父の家で暮らしていることを、ナレーターが伝える。

 母親に何か言いたいことはないかと、インタビュアーが聞く。チープな質問だと、伊吹は眉をひそめた。しかし、翔吾はまっすぐカメラを見て答えた。


「天国にいるお母さんにも届くように、もっともっと活躍したいです」


 女性は涙を流しながら、ごめんね、天国に行ってなくてごめんね、そばにいられなくてごめんねと画面に向かって何度も言った。スタジオに戻り、アナウンサーが締めて番組は終了した。山岸が再生を止める。


「すみません、息子さんに会わせられたらよかったんですが……」

 亘理が言った。

「いえ、いいえ。十分です。こんなによくしていただいて。成長した息子が見れてよかったです」


 女性の体は少しずつ透けてきている。時を戻しても肉体は戻らない。あくまで除霊のための時戻しということだ。その情報はすでに得ていた。もし肉体まで戻せるならそれはもう蘇生術だ。もしそんなことが出来るのであれば、この世の常識を覆す事態になるだろう。


 周りの客から見えてしまわないように、伊吹と亘理は彼女を体で覆うように立った。


「天国から息子を応援します」


 女性は微笑みを浮かべて消えた。最期はもう泣いていなかった。


 これが亘理家の除霊か……。三人とも何も言わず、彼女のいたところを見つめていると、


「おーい!」


 仙堂がクラスメイトを率いてやってきた。隣の春子があっ、と声をあげる。


「亘理先輩!」

「やあ、金田くん。元気そうだね」

「おかげさまで。エルも元気ですよ。どうしてここに?」

「ん? まあ、いろいろ事情があってね」


 亘理が彼女と話している間に、伊吹はその場を離れた。少し一人になりたかった。

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