第6話


 ーー神様。神様どうかお願いします、神様。

私に死ぬ勇気をください。



 未知瑠はあてもなく森を進んでいた。帰り道は分からない。分からなくていいのだ、帰る気がないのだから。

 死のうと思っていた。毎日罵られ殴られ、未知瑠は限界を迎えていた。身体の痛みもあったが、なにより自尊心が根こそぎ奪われていた。馬鹿だのノロマだの人としてつまらないだのーー夫に言われた言葉が未知瑠を蝕んでいた。何をする気力もなくなり大好きだった絵も描けなくなった。


 どこで死のう。なるべく人に迷惑をかけたくない。しかしどう死んでも、迷惑はかかるだろう。周りに何も影響を与えずに人ひとり消えるのは難しい。

 でも、もういい。自分は夫が言うようにクズで価値のない人間なのだから、生きていても迷惑をかけるのだ。早く楽になりたい、クズはクズらしく自分のことだけ考えようと、未知瑠は森の奥へ向かっていた。


 死んだ後、できれば誰にも発見されたくない。早く自分を消してしまいたいと、心の中で唱えながら歩き続けた。


 一日以上は歩き続けただろうか。足が動かなくなり、その場で横になった。草木が顔に当たる。家を出る前に殴られてまだ痛む腹を押さえた。

 もう少し、奥に行きたい。誰にも見つからない場所へ。少し寝て、また起きてから移動しようか。簡単には死ねないものだ……冬なら、よかったのだが。


 瞼を閉じた時、「おい」と耳元で声がした。


 未知瑠は飛び起きた。


 未知瑠の目の前に、男が座っていた。いやーー座っているのではない、腰から下がなかった。上半身だけしかなかった。その上半身に、後ろの風景が透けていた。まだ幼さの残る顔からして、二十代前半くらいだろうか。


「……なに?」

「反応わりぃなあ、あんた。怖くないのか?」

「どうでもいいよ。もう死ぬし」


 ふーん、と興味なさげに言った。自殺の名所と言われている森だから、慣れているのかもしれない。それに幽霊が自殺を止めるのもおかしな話だ。もう自分も死んでいるんだから。


 男は自分が見える人間は久しぶりだと言った。未知瑠は彼に背中を向けて寝転び、返事をしなかったが、勝手に話し始めた。退屈していたのだろう。

 男はもう何十年もこの山にいるという。死んでから時間が経過したからか、そろそろ身体を保てなくなったきた。元々は透けてもいなかったらしい。足から下が徐々になくなっていっている、と話した。恐らく山で死んだとは思うが、もう記憶がないとも。


「……あんたさ、死ぬくらいなら身体を寄越せよ」

「え?」

 思わず振り返る。

「俺に取り憑かせろ。この山から出たいんだよ。幽霊に憑かれる方が、辛気臭え顔してこんな森で死ぬよりはマシだろ。死ぬなよ」


 まあ俺は身体がほしいだけだけど、と男は笑った。


 死ぬなよ、か。まだ死なない選択肢が自分にあるのか。生きていてもいいのか?

 未知瑠はぱちぱちと目を瞬かせた。命を絶つという思いだけがここ半年ほど彼女の頭を占めていたので、目が覚めた思いだった。


 もし死なないなら何をしたいだろうか。

 死なないならーー。


「いいけど。その代わり、手伝ってほしいことがあるの」

「何でもやるぜ」


 夫を殺すのを手伝って。

 口にした瞬間、自分の本当の望みはそれだったのだと気付いた。

 幽霊は悪い顔をして頷き、未知瑠の身体に入ってきた。






 未知瑠は殺人未遂の現行犯で逮捕された。センセーショナルなニュースは学校中を駆け巡り、その場に居合わせた亘理と山岸も注目の的となった。

 浴びせられる質問、好奇の眼差し……山岸は休み時間のたびにオカルト研究部に避難していた。亘理は近付いてきた野次馬を呪うと脅し、藁人形片手に追いかけ回したので誰も寄らなくなった。


 転校生が来たという些末な出来事は忘れ去られ、伊吹は山岸のクラスで難なく過ごしている。しかし、オカルト研究部の他にも、彼の存在を気にしている人物が一人だけいた。


「失礼するよ」


 東雲紫だ。昼休み、オカルト研究部にやってきた。


「何の用だい? 取材なら未来永劫受けないよ」

 亘理が出迎える。山岸はまだ来ていなかった。


「伊吹のことだよ」


 亘理のまとう空気が変わる。ピリついた雰囲気の中で、東雲は勝手にソファーに座った。


「何だかきな臭いだろ? あの転校生。家が祓い屋をやってるらしいから、何か知っているかと思ってね」

 扇子を広げて自らを扇ぐ。

「知らない。ぼくが聞きたいくらいだよ。何だか目の敵にされてるみたいだったけど」

「すでに接触したのかい。詳しく聞かせてもらおうか。調べたい」

「いい。山岸くんに調べてもらう」

「まだ彼女を巻き込む気か?」

「……オカルト研究部の一員だよ」


「分かるがね。あまり、危険な目には遭わせてやるなよ。山岸は普通の子だろう?」

「ぼくの助手だよ」

「亘理は生まれついての祓い屋だろうが、彼女はいずれ身を引いた方がいい。腐った世界からーー」

「卒業したら会わなくなるさ。それまでだよ」


 それまではいいだろう?


 と、亘理が眉を下げる。許しを乞う表情に見えて、東雲は思わず顔を逸らした。


「オカルト研究部って場所を、亘理は思った以上に気に入ってるんだな」

「……最初で最後だからね。こうも自由にやれるのは」


 扉が開いて、山岸がやってきた。


「あ、東雲先輩……こんにちは」

「久しぶり、山岸」

 ニッコリと笑い、顔の前で手を振る。未知瑠に向けていたのと同じ必殺スマイルだ。


「今、お茶を出します」

「いいよ、もう出るとこだから。ありがとう」

 東雲は立ち上がった。


「考えておけ。アタシはいつでも祓い屋同士のいざこざに、巻き込まれてやるからな」


 すれ違いざまに亘理に囁き、帰っていった。




「部長、少し落ち着いたら菅野先生のところに面会へ行きませんか……」

「うん」

「先生の話を聞きたいです」


 彼女にどんな苦しみがあったのか。今何を思っているのか。ニュースで知るだけではなくて、きちんと未知瑠自身の言葉で聞きたいと、山岸は言った。


 亘理は唐突に疲労を感じて、ソファーに倒れるように腰掛けた。もっと早く真相に辿り着いていれば彼女が犯行に及ぶ前に止められた。幽霊の話も聞きたかった。成仏させたかった。目を閉じる。こんな思いは二度としないと、誓って……。

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