第5話
さらに翌日。校内は未知瑠の噂でしばらく持ちきりになるかと思われたが、転校生の話題にかき消された。
季節外れの転校生は二年生で、山岸のクラスにやってきたらしく、一目見ようと、朝から何人もの生徒が訪れているとか。
放課後の部室で山岸から話を聞き、亘理はため息をついた。
「まったく、ミーハーなものだよね。転校生が来たからって浮かれて。違うところから来ただけで同じ人間だろう?」
うんざりとした顔で醤油せんべいを齧る。
「そういえば部活に入るのかどうか聞かれて……オカルト研究部に興味があるって、話していました」
対面して座る山岸が言う。
「素晴らしい転校生だね。男の子だったっけ。どんな感じの子? 名前は? 入部届を用意しておこうか」
野次馬を超える熱量で興味を示しはじめた。
「あっ、えっと……人当たりのいい人です。
「楽しみだね」
亘理はすっかり上機嫌だったが、二つ目のせんべいに手を出したところで、ふと表情を引き締めた。
「ところで、菅野先生の話だけど」
「はい」
「彼女が前に描いた絵ってどこかで見れる?」
「はい、SNS上で公開されてます。ハンドルネームを使ってますけど」
さすが情報通の山岸は、すでに特定済みだった。
「更新が、三年前……結婚されてしばらくしてから止まっていたようなんですが、最近になってまたアップされているようです。一昨日も更新されてます」
キャンバスに本格的な油絵を描き、写真に撮ったものを載せていた。写真を拡大すると、描いた日付とサインがキャンバスの端に書かれていた。三年前と、一昨日の絵を見比べる。
亘理は立ち上がった。
「彼女のところに向かおうか」
昨日と同じようにインターフォンを押す。返答がない。繰り返し押す。何度も何度も。
「どうしましょう。また、ベランダからーー」
山岸が言った瞬間ーー男の叫び声がした。未知瑠の住む一室からだ。二人は顔を見合わせる。声が聞こえたのか、隣人が顔を出した。
「今のって……」
不安げに二人に話しかけてくる。
「すみません、ベランダに入れてください」
隣人はすぐに頷いた。昨日と同じ要領で、未知瑠の家のベランダに入る。窓を叩くがやはり返事がない。カーテンの隙間からは今度は何も見えない。
亘理は観葉植物を掴み、植木鉢の部分を窓に叩きつけた。手が少し、震えていた。取り返しがつかない予感がした。震えのせいで手からずり落ちそうになるのをしっかりと握り直す。何度か繰り返して窓が割れた。中に入る。
「先生!」
未知瑠はベランダに背中を向けて立っていた。
夥しい量の血が、床を赤く染めている。
未知瑠がゆっくりと振り返った。足元の血溜まりの中で男が倒れている。山岸が小さく悲鳴を上げた。
「先生」
「お前ら、誰だ」
目が吊り上がり、未知瑠の顔はまるで別人だ。
「俺の邪魔をするのか?」
手に包丁を持っていた。刃に鮮血が滴っている。
「先生、もうやめてください」
亘理は一歩前に踏み出していった。
「菅野先生でしょう?」
亘理の腹あたりに切っ先が向けられる。
「先生。意識があるんですよね。あなたの意思でしょう? これはーー」
山岸が震える手でスマートフォンを取り出す。110。未知瑠はじっと、亘理の次の言葉を待っており、止める様子はなかった。
「あなたの中に、たしかに霊はいる。でも、意識までは乗っ取られていない。あなた達は共存している」
未知瑠が包丁を握りしめる。亘理は怯まない。
「先生の目的は、暴力を振るう夫を殺す事……そして、罪を幽霊に被ってもらうことだったんですよね。先生の最近描いた絵は、昔のものと変わらなかった。意識は乗っ取られていなかったんだ」
「……お見通しね」
未知瑠はつぶやいて包丁を持つ手を下ろした。刃先は地面に向けられた。
「あなたの言う通り。……お願い。罪を全て受け入れるからこの男を殺させて。まだ息があるの」
「できません」
「まあ、そうよね。あーあ、これで終わりか。殺したかったな。……でもいいかな、何だか疲れちゃった。気力がないの。この人と結婚してから」
未知瑠は微笑んだ。穏やかだが、全てを諦めたような、どこか悲しい笑みだった。そして、包丁を床に落とした。
気力や何もかもを奪われていくようだったーーと、未知瑠は天を仰いだ。山岸が床に倒れている男に駆け寄り、止血を始める様子を横目に見る。腹部から出血している。
「殴られたり、罵られたり。自分って生き物は本当に劣ってるって思い知らされたわ。要領が悪くて、オドオドしていて、馬鹿で、幼稚で」
「先生」
亘理は思わず遮った。
「……そんな時に、悪霊と出会ったの。ふふ。素晴らしい悪霊とね。ある森で私が死のうとしてたら、体を寄越せって言った。だから、夫を殺してからあげるって言ってやったわ」
二人は協力関係となった。とはいえ、基本的に霊は未知瑠の体の中で眠っていた。一つしかない身体を二人で操縦しようとするとしっちゃかめっちゃかになるからだ。
ただ、夜、未知瑠が一人になった時には起きてきて、二人でよく話をした。幽霊も未知瑠の身体を使って喋るので、はたから見たら独り言を言っているように見えただろう。
話と言っても、他愛ない話ばかりだった。
そんな調子だったから、それほど未知瑠に変化はなかった。幽霊に取り憑かれたことで身体能力などが強化されたわけでもない。しかし、なくしたと思っていた自信が漲ってきた、と話した。
「別人になりたかったの。夫に殴られる自分じゃなくて、生徒になめられる自分じゃなくて……生まれ変わりたかった。霊が入った事で別人になれた気がして、自信がわいてきた。無敵の気分だった」
未知瑠の瞳から涙がこぼれた。血まみれの手で涙を拭う。白い頰に血の跡がべったりとついた。
「いつ夫を殺そうかワクワクしていたとき……あなたの話を聞いて……亘理君の力で霊が見えるようになる、って話を聞いて閃いた。私じゃなくて、私の中の霊が、だけど。
夫を殺したあと、亘理君に祓ってもらえば、霊が可視化される。だから夫を殺したのは私じゃなくて霊だって認められるんじゃないかって。めちゃくちゃな話だけど、試してみる価値はあると思った。
私の身体をもらうのが目的だと話してたけど霊も未練を晴らせる方がいいと言ったの。もう時間が経ちすぎて生前のことが思い出せないらしくてね。なぜ成仏できなかったか分かってすっきりして逝けるなら、そっちの方がいいと言ったわ」
だから、何かに取り憑かれていると周囲に思われるよう行動を始めた。
亘理と話した翌日、前の様子に戻ったのは、日によって意識が乗っ取られている時といない時の演技をし、幽霊に体を奪われたという噂を広めるためつもりだったからだ。
霊の存在は認められなくても、心神耗弱と判断されてもよかったと未知瑠は話した。
「生徒を殴ったのも作戦の一部ですか?」
「あれは違うわ。私の中の霊が勝手に手を出したの。びっくりした。おかげで、次の日はまた強い私で登校しようと思ってたのに予定が狂った」
自身の胸をとんと叩く。まるで相棒の肩を叩くような仕草だった。霊は中で、何を思っているのだろう。
「……昨日、倒れていたのは、ご主人に殴られたということですね?」
「久しぶりに私が元の様子に戻ったから、待ってましたとばかりに殴ってきたの。抵抗しようとしたけど、幽霊が味方でもさすがに女の力じゃ武器でもないと難しかった。
DVが発覚したら私に元から殺意があったと疑われるだろうから二人にバレたくなかったの。体はあざだらけだから手当ても……。追い返してごめんね」
謹慎になったことで夫にひどく殴られ、未知瑠と霊の意思は固まった。周囲に未知瑠の異常性を印象づけることは不十分だったが、我慢の限界だと。今日、決行しようと決めたのだった。
夫を殺してから亘理に会いに行き、可能であればビデオカメラで撮りながら、除霊をしてもらうつもりだったーー。
「でも、幽霊はカメラに映らないのかな?」
「……はい。肉眼では見えますが」
「ひどい作戦だったなあ。ほんとはね、作戦なんていらなくて、私は夫を殺せれば、何でもよかったのよ。でも、彼……霊がそれじゃこれからどうするんだって言うからーー」
突然、未知瑠の全身が震え出した。
「先生?」
「うっ、うあああああああああっあっあっ……」
「先生ーー」
喉をかきむしっている。亘理が彼女の体に触れようとしたが、何か見えない力に弾き飛ばされてしまった。尻餅をつく。未知瑠は口から泡を吹いて倒れた。
「はい、悪霊退散」
声の方向を見た。背後ーーベランダの方角に男が立っていた。亘理の高校の制服を着ている。
「先輩が血相変えて出ていったから、おもろいもんが見れると思ってついてきたらこれや。なんで早く祓わんの?」
亘理を見下ろし、不快そうに顔を歪める。
「誰だ」
「山岸さんからきいてない? 転校生の伊吹です」
手に金属製の鎖を持っていた。いったいどのようにして祓ったのか分からないが、彼女の中から霊は消えてしまったのか。
「まだ、霊から話もなにも聞いてなかった。正体も分からないし……」
「必要ないでしょ。人に憑いてる時点で悪霊やん。ほんでこの倒れてる男もその悪霊がやったんやろ? 悠長に事情聞いてどうするん、減刑でもするん? 情状酌量の余地があるってか?」
「夫を刺したのは彼女の意志だ。霊は菅野先生を助けていた。彼女が生徒に絡まれた時も守ろうとしたんだ……彼女に罪を被せないように提案したり……。一度、話を聞きたかった。未練を突き止めたかった」
しかしもう遅い。彼は何もわからないままこの世から消されてしまったーー。
伊吹は鼻で笑った。
「甘いねん。霊は全部祓うべきや。どんな事情があろうと死んだくせにこの世に縋り付いてるみっともない存在やろ。そんなん早いとこ祓ってあげた方が優しさやと思うけど」
「きみは……」
亘理が下から睨みつける。
「なに、その目。亘理家の落ちこぼれが生意気やわ」
吐き捨てて、踵を返す。
「やっぱりオカ研入るのはやめとくわ。こわーい部長がおるし。ほな山岸さん、また学校で」
言いたいことだけ言って、伊吹はさっさと退散していった。入れ違いで、警察がやってきた。
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