第五章 教師の変貌

第1話


ーー神様。神様どうかお願いします。神様。








 緑の油絵の具をナイフに乗せる。


 白色のキャンバスには、頭に天使の輪をつけた、大量のカエルが鉛筆で描かれていた。絵のテーマは、「最近の思い出」と決められていたので、亘理亘わたりわたるは梅雨の思い出を選んだのだった。

 美術鑑賞は好きだが、残念ながら絵の才能はない。亘理が描く絵は、小学生の頃から変わらない。


 美術教師が席を外したらしい。亘理は集中していたので、扉の閉まる音でそのことに気付いた。なぜ出ていったのかは聞いていなかったのでわからない。


 まあいいと、イーゼルに向かう。


 二時間ほどかけて下書きを作成し、四時間で色塗りを終えて提出ーーという流れだと、最初に説明されていた。美術の授業は火曜日の午後に二時間続けてある。大体三週間ほどかけて課題が終わる計算だ。


 今日が課題提出の日だった。亘理は部活動で授業を抜け出した日があり、その日が火曜日だったため、製作に大きな遅れが出ていた。

 下書きを終えて、色塗りにかける時間が一時間しか残されていなかったのだ。つまり、この授業中に完成させなければ、どこかの放課後を使わなければならなくなる。


 キャンバスの中のカエルに緑色の絵の具を塗り重ねていく。


 教師がいなくなり、しばらくしてから、亘理の近くにイーゼルを並べて座っている女子達がひそひそ声で話し始めた。


「絶対雰囲気変わったよね」

 緑。緑。緑。

「別人だよね」

 緑。緑。緑。

「なんか、男っぽくなった」

 緑。緑。緑ーーー。


「何かに取り憑かれてるんじゃない? 冗談抜きで」


 亘理の手が止まる。隣に座る女子に顔を向けた。


「何の話?」


「えっ? えっとぉ……」


 突然会話に入ってきたので、面食らった様子だ。亘理はオカルト研究部の部長を務めている。幽霊好きの彼が、「何かに取り憑かれてる」という言葉に反応しないわけにはいかなかった。


「ミチル先生の話」


 隣の隣の女子が助け舟を出した。


「美術の?」


 先程出ていった教師だ。たしか菅野未知瑠すがのみちるという名前だった。


「うん。雰囲気変わったってみんな言ってるよ」

 さらに隣の女子が相槌を打つ。

「今まですっごいオドオドしてたのに、別人みたいに堂々としてる」


 言われてみれば、そんな気がする。前は声が小さくて聞き取りづらかった記憶があるが、今日はハキハキと大きな声で話していた。


「スカートばっかり履いてたのに今はパンツだけだし」

「服の趣味変わったよね」

「化粧もしてない」


 へぇ、なるほどーー。それはたしかに変わっているね。

 亘理が興味深そうに頷く。でしょ、と三人の女子達が勢いづいた。


「双子の妹だとか言われてるよ」

「あたしは取り憑かれてる説を推すね。こっくりさんみたいなさあ」

「いやいや、二人とも漫画読みすぎ。旦那とうまくいってないんだってーー」


 教室の扉が開いた。噂の菅野未知瑠が立っていた。教室が静寂に包まれる。


 聞こえていた?と不安そうな顔で、女子達はお互いを見合っている。


「亘理くん」


 未知瑠は亘理に真っ直ぐ近づいてきた。


「それ、間に合う?」

 亘理のキャンバスに目を落とす。

「難しいかもしれないですね」

 もう、この授業中に完成させる気はさらさらなくなっていた。

「今日の放課後なら残れますよ」

「じゃあ授業が終わったら美術室にきて。鍵は開けておくから」

 未知瑠に近づくいい口実ができたと、亘理は微笑んだ。まだ噂話の範疇だが、探ってみたい。

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