第6話

「ひっひっひぃ……」

 男ーー石田の口から悲鳴が漏れる。

 黒い鯉のぼりにはダニーの顔がついているのだろうか。明音には見えない。だが、奏の言っていた話を思い出す。


 眉毛の間にシワが寄ってて……舌がだらって出てる……。

 血だらけで、片方の目玉がぎょろってこぼれ出てた……。


 黒い鯉のぼりの頭部に、その顔があることを想像してしまう。


「あなた!」

 美奈子が部屋に入り、石田に駆け寄ろうとする。石田が叫んだ。

「許してくれ、ダニー!」

 予想外の言葉に、美奈子の動きが止まる。

「お前なんだろ? お、おれは美奈子を愛していたんだ……だ、だからお前を、屋上から落とす計画を立てた……」

「あなた、何を言ってるの?」

 美奈子の声に、石田がはっとする。


「違う、でも、俺は手は下してない! あいつが勝手に落ちたんだーー」

 締め付けが強まる。骨の砕ける音がした。口から血を噴き出す。

 石田は呻き声しかあげられなくなり、意味のある言葉を発せなくなった。明音と美奈子は呆然と立ち尽くしていた。足が凍りついたように動かない。


 たたただ、石田の骨が砕ける様を見ていた時ーーとんと優しく背中を叩かれ、はっとした。


「猿渡くん」

 亘理と山岸が背後に立っていた。

「よく頑張った」

 亘理は手に古ぼけた懐中時計を持っていた。

 山岸が石田に向かって突進する。そして、なんとーー学生鞄で鯉のぼりを殴り始めた。


「えっえっ」

 予想外の行動に、地面に張り付いていた明音の足が動いた。


「山岸先輩?」

「ぶ、部長の祓う準備ができるまで……時間を稼ぐんです!」


 山岸の顔色は青を越して土気色になっていた。へっぴり腰で鞄を振るい殴打する。人一倍怖がりなのに、怯えながら戦っている。

 恐怖に支配されていた心が奮い立たされ、明音も応戦した。素手で鯉のぼりを叩く。

 鯉のぼりに宿っているとは言え、幽霊に物理攻撃は効くのか。そんなことを考えている暇はない。この鯉のぼりが石田を殺せば、弟は殺人を助けたことになる。そんな罪を背負わせたくない。


「お願い、殺さないで!」


 鯉のぼりの腹部を拳で打ち、明音は叫んだ。鯉のぼりの締め付けが緩んだことが手に伝わる。

 鯉のぼりが石田を解放した。


 そして、


 しゅるりと明音の首に巻き付いた。


「ぐっうぐ……」


 締め上げられ、体が宙に浮く。


 ーー苦しい。苦しい。痛い。許せない。


 突然沸いた怒りに困惑する。ダニーの感情と記憶が流れ込んできているのだ。首も苦しいが、頭が割れるように痛む。


『俺はお前の味方だよ』

『薬なんかに負けるな!』


ダニーの肩に石田の温かい手が乗っていた。そして石田の姿が変わる。恐ろしい化け物に……。


『ヤク中が幸せになれるかよ』


それは絶命する直前に聞いた、石田の言葉だった。


 痛い。


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない。


 許せないーー。


「猿渡さん! 駄目です、悪霊化が進んで……見境がなくなってます……部長!」


「ああ、もう完了だ!」


 亘理が言った。懐中時計を握り締め、詠唱する。


「我は時を統べる者。暫し汝の針を戻す。元の汝に還るがよい」


 鮮烈な光が明音を包んだ。いや……正確には、円形の光の中に鯉のぼりと明音と、そして亘理も入っていた。紫の光に包まれ、明音の頭を支配していた怒りや憎しみが消えていく。光の中では風が吹き、亘理の白い髪が靡いていた。


 その光が消えた時ーーどすん、と明音の体がベッドの上に落ちた。


 鯉のぼりがいたところに、男性が横たわっていた。吾蓮と同じ青い目をしている。


「ダニー……?」

 美奈子が声をかける。


「少しだけ話せる時間があるはずです。長くはないですが」

 亘理が言った。髪が乱れているくらいで、いつもと変わらない様子だった。


 ふらふらと、美奈子が近づいて行く。

「sorry……ミナコ、私はずっと憎しみにとらわれてました。痛くて痛くて。何も見えませんでした」

「ダニー、あなたなのね」

「はい。貴方を愛していたことも忘れていた……悪魔になっていたのです」

 美奈子がダニーを抱き締めようとした。しかし、触れることはできず腕が貫通してしまう。


「肉体までは戻せない」

 と、亘理がつぶやいた。一瞬、悲しそうな顔をしていたように見えたが、先程の光で目がやられていてよく見えず、瞬きをしてもう一度見ると、傲岸不遜さが滲み出た、いつもの真顔だった。


「私……何も知らなかった。あの人と一緒になって……」

「いいんです。ミナコが元気でよかった。これからも私の分まで……」


 ダニーの言葉が止まる。


「ダディ?」


 寝室の扉の前に吾蓮が立っていた。奏と手を繋いでいる。奏が連れてきたのだ。


「まさか……」

「私達の子よ、ダニー」

「どうしてダディがいるの?」

「オー、知りませんでした……」

 目を覆う。

「吾蓮って言うのよ」

「ダディなの?」

「ふふふ! お空から会いに来ました、アレン」


 わああ!と吾蓮が叫んだ。ぴょんぴょんと飛び跳ね、全身で喜びを現している。


「猿渡くん、弟ーー奏くんだったかな。奏くんに付き添っていてくれるね」

 亘理に肩を叩かれる。

「はい、もちろんです……先輩達はどこかへ?」

「この男を助けないとね。救急車を呼んである、吾蓮くんに見せないようにしないと……」

 布団の膨らみに目を遣った。いつの間にか隠していたらしい。亘理と山岸がこそこそと石田を部屋から運びだしたところで、明音は弟にこつんとゲンコツを落とした。


「動かないでって言ったのに」

「ごめんなさい、姉ちゃん」

「私死にそうになったんだよ」

「ごめんなさい……」


 しゅん、と落ち込んだ顔をされてそれ以上何も言えなくなる。

 案外、この弟は大物なんじゃないかーーと思った。それにあの親子三人の笑顔を見ると、あまり強くも叱れないものだ。親子は再会を喜んでいた。しかし数分もしないうちに、ダニーは消えた。泣き出した吾蓮を、美奈子が抱きしめた。


 それほど長居はできないと言っていた通りだった。ほんのひと時だったが、美奈子の、そしてダニーの心も救われただろうか。

 時間を戻すと言っていたが……いったい亘理は何者なのだろう。

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