第4章 過去

そこにいるのがあなただ。


 目を覚ましたとき、男は自分の体が軽いような感覚をもった。今まで暑くないときなど一度もなかったのに、不快感がない。

 ふわりと涼しげな風。夕方に水浴びをしたあとの気分を思い出す。こんな感覚は今までなかった。

 男は、ずっと夢を見ていた。

 村の日常だ。たとえば、村から離れた水場からバケツで水を運んでくる途中に見た、美しい夕日。砂丘から砂が崩れる音を聞きながら、ごくわずかな植物が日陰に寄り添い、歩くたびに体が弱く重くなっていくようだった。

 次に思い出すのは、彼の父親だ。

 父はラクダをさばいていた。まるで夕日を頭からかぶったかのように、真っ赤な血にまみれた父の姿が、家の麓の日の当たらない場所にいた。まるでナツメヤシを剥くように、ラクダの皮ははがされ、強烈に赤い肉がむき出しになっていた。今まで生きていたとは思えない。

 男は、父に「なぜラクダを殺したのか」と尋ねた。ナツメヤシは豊富にあり、ノネやガラも当分の間はもつだろう。母がとってきた虫も天日に干されて残っていた。それらを食べれば、家族は生きていかれるはずだった。働き口の多い男の家では、食べ物も多く回される。にも関わらず、父は生きているラクダを仕留めて皮を剥いだ。幼かった男にとって、不思議でならなかった。父は表情のないまま、小刀を振り上げた。

 夕食、男たち家族は、数年ぶりに肉を食べた。男がくんできた水をガラと一緒に煮て、真っ赤な血の塊になったラクダがそのなかへ放り込まれる。グツグツと泡を立て、肉は色を変えて行く。アクが湧き、香ばしいにおいが漂う。炎が踊るたび、父の影も踊った。

 器に盛られた肉の塊と、あの夕暮れに見た真っ赤な血が結びつく。男は、熱いスープを飲み干し、無理矢理放り込んだ肉はいつまでも口のなかに残った。父はどうしてラクダをさばいたのだろう。男は首をかしげる。答える人間は一人もいない。

 男が、次に見た夢は、母が弟の体を布で拭いているときだ。水を何度も布に染み込ませ、赤ん坊の弟の短い手足を丹念に拭いている横顔は白磁の輝きがあった。自分も昔あんな風にされたのだろうかと考えながら、母の奏でる子守唄が響く。

 振り返ると、妻が裸で寝転がっている。藁を敷いただけのベッドの上で背をむけて寝ている。一晩中焚いている火がゆらゆらと影を動かした。煙は天井まで登ると、隙間から抜けて外へ排出されていく。

「ねえ、そこにあなたがいるのね」

 男は突然、現実に引き戻された。手足が震える。相変わらず涼しい。

 少女の声だった。

 そして、男の目に飛び込んできたものは、この世のものとは思えないほど美しい景色だった。真っ赤な花が何重にも咲き誇り、葉が青々と茂っている。表面には水がはり、光を反射する。

 男は、今までこんな景色を見たことがない。砂がなかった。

 割れのない艶のある床。それが大理石という名前であることを男は生涯知ることはない。そして、男の前には大量の水があった。目の前に四角い穴が掘られていた。

「ねえ、聞いているの?」

 少女の声が反響する。

 倒れたままで男は少女を探す。口のなかで鉄の味がした。最後の力を振り絞って両腕で体を起こした。

 すると、顔を上げた先に、真っ赤な布に身を包んだ少女が座っていた。四角形の水のたまり場をはさむような形で、男と少女は対峙している。

 少女の小さな体が収まっているのは、背もたれが極端に長い優美な椅子だ。そして、椅子のすぐそばには、あの青い布の青年が立っていた。

 天井ははるか高く、空は見えない。まるでおとぎ話のような巨大な空間に、三人の人間しかいないのだ。

「あなたが長か?」男は尋ねた。

 村のなかは奇妙な住民でいっぱいだった。目を覚ましたらここにいる。そのとき、青い布をまとった青年が動いた。

「イオンが尋ねていますよ」と青年は低い声で言った。

 イオンというのがその少女の名前だと男は思った。

「お願いだ!」男は叫び声を出す。「私は、はるかな隣村から逃げてきた。もう村には誰も生きていない。父も母も女房も失って、残ったのはラクダだけ。そして、ラクダももういない。私にはもうなにもないんだ!」

 男は声を張り上げ、少女に言葉を放った。二人は全く表情を変えることはなかった。少女は顔を載せていた手を右に変える。

「村は潰れたのですか」

「そうです。だから、私はこの村へ来たのです」男は、必死で訴えた。

「では、この村もいずれ潰れるでしょうね」

 青い青年は、簡単に話した。

「どうか私を助けてください」男は意を決する。「私には、もう帰る家はありません。一人では生きられないのです。お願いですから私にひとつ家をください。願わくば、ラクダも一頭!」

 クスリと、真っ赤な少女が笑っていた。

「先ほど、あなたは、私の問いかけに答えなかった。私は、あなたが長だと直感している」

「あなたはイオンの問いかけにも何も答えていません。二人はお互いに、何も聞いていません」

「問いかけ? あなたはそこにいるかって? ここにいるから叫んいるんだ!」

 どうにも、はぐらかされているような、バカにされているような気分だった。

 青い青年が再び発言しようとしたとき、椅子に座ったまま少女は話しはじめた。

「いいえ、あなたは本当はいつでもそこにいるのよ」

「はあ! 私の故郷は、砂の町だ。こんな機械のような塔ではない」

「本当かしら? では、なぜあなたは砂の町にいたのかしら?」

「そこで生まれたからだ」

「どうして、生まれた町にいる必要があったのかしら」

「血を絶やさないためだ。村にも誇りがある。こんな機械の塔なんて、人間の暮らす場所ではない」

「血は絶えた」

「それは病気のせいだ!」

 男は目の前の四角い水に顔を近づける。水面に自分の顔が写っていた。

「四角い池のなかへ降りたら、一人ではもう上がってこれないわ」

 少女の言うとおり、四角い穴は見た目にも深く、水面が遠かった。

「私に水を与えていただけませんか?」

「そこにあるじゃない」

 少女はにっこり笑って、人差し指を四角い穴へ向けた。

「さっきあなたは言った。なかへ降りたらもう上がってこれないと。にもかかわらず、なぜそんな無茶苦茶なことを言うんだ!」

 男は自分ののどから血が出るのを感じた。渇きは痛みへ変わる。

「そこから降りたら、水が飲めるわ」少女は表情を変えずに言う。

 男は顔を歪める。少女は自分をからかっている。隣に立つ青年は静かだった。

 男はこの少女の相手をするのに疲れた。

 水が飲みたければ死ね、と言ったにも関わらず、落ちることを気をつけろと言う。男にはこの子供の理屈が理解できなかった。

 男は、少女を無視して、がむしゃらに花壇を漁りはじめる。

「お花を踏まないでね」と少女は心細そうな声を出す。男はその声にますます怒りを噴出させた。

「花の方が大事なのか!」

 男は叫ぶ。目の前の少女は、人間よりも、花を心配している。

「お前は、花の方が大事なのか? 助けてくれと言っているんだ!」

 男は花を掴んだ腕を離し、少女のいる場所へ駆け出した。大理石の上で何度も転んでしまう。少女はもう目の前だ。

 阻止してくるだろうと思った青年は、ピクリとも動かず男を見ていた。

「俺の村は病で潰れてしまった。妻も家族も死んだ。なにもほしくなかった。ただ、無事に暮らせればそれでよかった」

 少女はしばらく人形のように同じ姿勢だった。退屈しているようにも見える。

 少女が、ふと口を開けた。「そうなの」という気の抜けた返事だった。

「あなたには!」男は叫びながら、少女に掴みかかろうとする。「村の潰れた人間の気持ちなどわからない」

 真っ赤な布のはしを掴み自分の方へ引きずり落とそうとする。

 しばらくなにも起こらなかった。

 少女が笑い出した。

「わかってどうするの?」と言った。

 顔を上げると青年が立っていた。よく見ると青年は、少女とよく似ていた。もしかしたら、彼らは兄妹かもしれない。

「どうぞ」と青年が言い、男の側へ座る。彼は両手で器を持っていた。透明なガラスの、盃のようだった。

 男はしばらく青年を見つめていたが、やがて差し出された盃に目を落とす。そこには、水があった。

 どういう心境の変化だろう。やはり、道楽なんだろうか。腹が煮えくりかえるような気分だった。

「大丈夫ですよ、ほら」そう言うと、青年は盃を口元へ運び、傾けて飲んだ。

「どうぞ」と青年は繰り返す。

 男は、盃を受け取る。

 そして、彼は一気に傾けた。

 静けさ。

 冷たさ。

 自分は、本当に生きているんだろうか。

 なんだか猛烈に眠い。

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