第3章 現状
誰もが目の高さにいるとは限らない。
上
男は歩いている。唯一の財産であるラクダを引き、ボロ布をまとい、骨と皮ばかりの体で、砂をすり、足の裏の灼熱を感じながら、口の中は砂鉄のように乾いている。
彼が向かうのは、天に届きそうなほど高い塔だ。太陽よりも明るい光を放ち、見るものを釘付けにするまばゆい人工物。一方、この村の家といえば、地面を掘って砂に穴を開けた、ほら穴のようなものばかり。色はもちろん、形までもどれも同じだった。
しかし、男は、擦るように歩きながら疑問に思う。あの塔はどのくらい大きいのだろう。道はまっすぐに伸び、その先に塔がある。そのため、男は迷うことがない。弟を失い、愛する妻も失い、家を失い、一人で広野を歩き生き延びた。
おそらく長に会えば、男の不幸な境遇を聞いてくれるだろう。村のほら穴のひとつが男のものになるかもしれない。ひとまず飢えに苦しむこともなく、与えられた仕事に従事すれば、楽ではないだろうが安定できるだろう。もし、あの美しい女を妻に娶ることができれば、子どもをもうけて幸せになれるかもしれない。死んだ妻よりも何倍も美しいあの娘を。
男は、一通り身勝手で気分のよいことを考えると、喉の渇きが癒える気がした。この長い道のりを想像するだけで気疲れする。水の気配はなく、人もまったくいない。
さきほど出会った、目も足もない老婆は、「雨が降る」と言っていた。ポツリと冷たい水滴が額に当たる。このまま口を開けていれば、きっと神が菓子を放りこんでくれると真面目に信じている。
待ち望んだ雨。男は大きく背を反らせ、限界まで口を開ける。目を見開き、灰色の雲を見た。ラクダも地面に座り込む。噛み合わない口をもごつかせアクビをする。
男は、両手を開いて恵みが大地を叩く音を待つ。やがて、雨が降り出した。水滴が体を包む。生ぬるい感触。黄金色の地面に影が差し、風がやむ。
「これで生きられる」とうわ言のようにつぶやき、土の家の軒下に置かれたタイルを叩く雨音に耳をすませた。
あの三人の女たちも、村の入り口にいた少年も、今ごろ男と同じように口を開けて喉の渇きを癒しているのだろうか。
男は二本足で自分の体を支えながら、全身の感覚器官を研ぎ澄ませる。
雨はすぐにやんでしまった。ラクダの革服はじっとりと濡れた。気の遠くなるような長い歳月。そうしてまた、あの光の塔が顔を出す。まるで空から差し込む日光が地面へたどり着くまでの道程のようだ。
あれは一体なんなんだろう。穴ぼこだらけの町のなかで明らかに異質な銀の塔。たとえば、あれが人の住む家だとして、こんな砂と岩ばかりの土地で、あんな建物が建てられるんだろうか。
男は当然の疑問を持つ。人の作ったものとは思えない。滅んでしまった故郷にあったのは、ここと同じ土で作っただけの簡素な家屋だけだ。土壁で囲み、家畜たちも囲いのなかへ放逐した。
振り払うように、男は歩き出した。天空から熱が降ってくる。
中
「持っていないか」
男は突然聞こえた声に驚く。そこには干からびた老人が立っていた。髪が真っ白で、頭頂部が禿げ上がっている。ボロ布をまとい、屈めた腰でようやく立っている。老人は、曲がった背中の下から、ギロリと男へ視線をさす。
「私は旅のもの。滅んだ隣の村からやってきた。荷物といえば、せいぜいこのラクダくらい。あなたがなにを欲しがっているかはわからないが、たぶん、私には協力できない」
老人は、空気が抜けるように笑った。
「隣の村がつぶれたか。あそこにはオシの孫も住んでおったのに」
老人は、何度も繰り返した。頬が垂れ、口が見えない。目は水色に濁っている。
「病のせいだ。女も子どもも老人も家畜も死んだ。命からがら逃げてきた」
老人は腰を曲げたまま口のなかで何かを唱える。
「オシの孫は、三つ目のときにそちらの村へ行った。オシも行くべきだった」
「変わらない。村は滅ぶ」
男は、しばらく震える老人を見ていたが、塔の方へ歩き出す。すると、後ろで風よりも凄まじい叫び声が聞こえた。
「持っていないのか」
老人は、男の背中に追いつくと、再び同じ質問をした。
「何をだ? 持っていない。私が持つのは、私だけだ。あなたも長に会えばいい」
男は眉を寄せて、この迷惑な老人をはねのけようとした。
「泣いてもオシの孫は戻らない。死んだらもう終わりだ」
「持っていないか」
「何を? 私は持っていない。長に頼め。あなたが仕えるのは長のはずだ」男は老人の腕を振り払って歩き出す。
「長はいない」
やがて、老人が大きな声を上げた。
「そうか。しかし、子どもも女たちも老婆も、長はいると言っていたぞ。なぜ長はいない?」
男は、腕を組んで老人に対面する。ラクダが何度も立ったり座ったりを繰り返している。
「女は本当のことを言わない」
その言葉は、男を惑わせた。
「長はいない……、ならばいったい誰がこの村を収めている?」
老人は言葉を発しなかった。男は不信感を募らせながらも、喉の渇きに導かれ歩き出す。
「オシが行けばよかった、オシが行けばよかった」
男は目をつむる。
下
乾風が吹き、露出した顔がヒリヒリと痛み、布の下の体は汗まみれだった。男は息を吐き、夜がくることを願う。
夜がきても塔へたどり着けなければ、いったん、どこか屋根のある場所で休まなければならない。ラクダも疲労の極みにあり、よだれをたれ流していた。しかし、歩けど歩けど塔は近づかない。まるで、砂の果ての揺らめきのようにおぼろげだった。
「いったい、あの塔はどこにあるのだろう」
男はつぶやき、自分の言葉のおかしさに笑う。村のなかに決まっている。
男は歩き続けた。しかし、突然刺すような痛みで、その場に崩れる。ラクダの紐を持ったまま丸まって、荒い呼吸を繰り返す。
足をめくると、そこには肌が剥け、真っ赤な肉が露わになっていた。男に不安が生じる。村には人がいる。彼らに助けを求めれば命を落とすことまではないだろう。
すると、早速、家と家のはざまに、1人の男が通りすぎた。真っ青な布を頭からかぶっていた。背が高く、精悍な顔つきだ。歳は男よりも若く見えた。
「おーい、そこの人」男は大声で若者を呼んだ。
「おーい、ちょっと助けてくれないか」
男は、さきほどよりも幾分大きめの声を出す。しかし、青い布を着た若者は家と家のはざまを何度も行き来するばかりで、こちらを見ることはなかった。
もしかして、耳が聞こえないのではないか。男は片方の腕で体重を支え、必死でもう一方の腕を振った。「おーい、おーい」と続ける。
すると、青い布の若者は、ほんの数秒こちらを見た。明らかに。
男はほっと胸をなでおろす。しかし、次の瞬間にはもう若者は姿を隠した。若者は、不信がっているのだろうか。それとも、面倒を避けようとしているのか。
砂の壁の前に若者が現れることはとうとうなかった。
しばらくして、男はその場に倒れこんだ。喉は渇ききり、頭は機能しない。周りで砂が巻き上がり、男を包み込む。
そのとき、男はあることを思いつく。
男の暮らしていた村では、東の方角にある山こそが神聖な場所とされていた。男は、彼の妻が子どもを産むときにも夜を通して祈りを捧げた。結局、子どは死んだが、男は子どもの死体を妻に見せることなく、藁で燃した。あのときに空へ上がった黒い煙。男の暮らす村では、煙には精霊がいると言われている。満点の星の下、火から立ち上る煙の行方を男は想像した。あの煙はやがて天空に達し、自分に降りかかるのではないか。
確かに、子どもを失ったことは悲しいが、妻が気にかかる。祖父が、かつて男の子だった真っ黒い塊に、引っ掻き棒を差してかきまぜる。すると、いっそう火は燃え、煙が吹き上げた。
遠のく意識のなかで、男は、目のはしにはためく布の鮮やかな色を認めた。
それは、青色だった。
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