第2話「祖母は異世界出身」


 夜。自分の部屋のベッドに寝転がった俺は、祖父から受け取った黒革の手帳を開いていた。

 病室で祖父が魔法を見せる際に使った、分厚すぎる手帳。これは祖父が先祖の魔導書を解読して得た魔法、異世界で新たに知った魔法、そして祖父が独自に考え出した魔法――それらを書き込んだ、いわば祖父の魔導書だった。

 そのページ数はおよそ250。竜の革を装丁に使い、竜の血で記したのだというその魔導書は重厚であり、なるほどそれだけの風格を放っている。

 小型の六法ぐらいの厚さがあるわりにページ数が少ないのは、紙ではなく羊皮紙を使用しているからだ。

 羊皮紙とは言っても、使用されている皮は異世界の魔物から加工したものらしい。今までの人生で羊皮紙なんてものに触れる機会は無かったので普通の羊皮紙との違いは解らないが、意外に綺麗で、紙よりも遥かに頑丈そうだ。


「【百一頁】」


 一度魔導書を閉じて、俺はそう唱える。

 するとほんの一瞬の間に、閉じたはずの魔導書は、突風を受けたかのように開き、ページが流れた。

 本は開かれた状態で止まる。開かれたページは、101ページ。

 「月光」という見出しが書かれたそのページには細々とした字で、その魔法の効果や、発動のために必要な詠唱、魔法陣、そしてその魔法の理論などが描かれている。

 昼間、祖父から簡単に魔法について解説を受けたものの、正直ここに書かれている理論についてはさっぱり理解できない。

 それも当然である。祖父曰く、魔法というのはひとつの学問でもあり、そう簡単に細かい原理を理解できるものではないとのことだ。

 だいたい、ごく常識的な勉強しかしてこなかった俺にそんなものを読み解ける訳がなかった。


 とはいえ、簡単な魔法を使うだけなら、理論を知る必要はないらしい。魔力さえあればよいのだ。あとは詠唱なり魔法陣を描くなりの手順を踏めば発動する。


 しかし、だ。ここで問題がある。

 魔法を使うための詠唱だが……何書いてあるんだかさっぱり解らない。

 まず言語が違う。祖父の魔導書は日本語で書かれているが、詠唱部分については全く知らない文字が書かれていた。聞けば、魔法を扱うための言語で、異世界の言語ともまた別らしい。

 まあ、意味が解らなくとも定型文を詠唱すれば発動はするらしいのだが、不親切なことに発音までは書かれていない。祖父自身は読めるので、必要なかったのだろう。聞いて覚えるというのも不可能ではないだろうが、難しいし時間もかかる。


 では魔法陣を描くのはどうかといえば、これも難しい。

 魔法陣は複雑な図形だから描くことは容易くないし、覚えることも大変だ。

 そもそも、実際に戦いのさ中にそんなものを描いている暇はない、とのことだ。


 じゃあどうするんだ。魔法使えねーじゃねーか、と噛みついた俺に、祖父は魔導書を押し付けて言った。

 「こいつが助けてくれる」と。


「【月光】」


 祖父がそうしたように、魔法名を呟き右手を掲げれば、ぱあ、と優しい光が寝転んだ俺を照らした。


 長年祖父が愛用した魔導書は、素材からも何となく察しはつくように、それ自体がかなりの魔力を持っている。祖父は長ったらしい詠唱を省略するためにそれを利用して、この魔導書に魔法の展開を補助する魔導具としての役割も持たせたのだ。

 発動したい魔法のページを開き、魔法名を口にすることで、魔導書から必要な発動手順を参照し、持ち主の魔力を使用して自動的に魔法を発動させる。

 ――言ってしまえばそれだけのことだが、祖父曰くそれを可能とするために、それはそれは大変な苦労をしたそうだ。

 まあ、正直どうでもいいことで、重要なのはこれで俺も魔法が使えるということである。


「……うひひひひ」


 思わず気持ち悪い声を出してしまったが、許してもらいたい。

 だってそうだろう。夢にまで見た魔法である。夢にまで見た魔法を使う術がこの手にあるのである。

 魔導書には他にも炎の球を出す魔法だとか、水の中で息をする魔法だとか、他にもロマンあふれる魔法の数々が書かれていた。

 道具頼り、といのがちょっと不本意だが、まあそこらへんは祖父お手製の魔法の教科書(B5ノート5冊)で追々学んでいくとしよう。


 本をパタン、と閉じれば、右手の光も消えた。

 魔法を消すのも、本当は魔力供給を断つというのが一番楽で一般的なやり方らしいのだが、いかんせん魔力の動かし方どころか、その存在すらよく理解できない俺は、こうやって魔法を消すしかないのである。

 ちなみに、魔力を供給することが出来るようになれば本を閉じても魔法を維持できるらしい。

 魔力を知覚できない俺からすれば、そんなことできるんかいな、という感じだが、祖父曰く「転移するときに嫌でもわかるじゃろ」とのことである。嫌な予感しかしない。


 さて――もっと魔法を使ったりしていたいのだが、祖父から明日の転移に備えて、あまり魔法は使わないように言われている。

 もうそこそこに遅い時間でもあるし、そろそろ寝ることにした。




 ――でも興奮しすぎて、寝ることが出来たのはそれから約2時間後のことだった。











「おはよう、司ちゃん。昨日は良く眠れた?」


 朝、父と母に見送られた俺は、祖父の家までやってきていた。

 ちなみに、両親にはおばあちゃんの親戚のところでホームステイをするということで話が通っていた。

 着替えやら手土産やら色々なものが俺の背負ったバックパックに詰め込まれている。


 主に心配性な母親のおかげで膨れ上がったバックパックをえっさほいさと背負って歩いてきた俺を迎えたのは、おばあちゃんだった。

「まあ……」と曖昧に答えた俺の背にあるバックパックを見て、おばあちゃんは笑う。


「またいっぱい荷物を持ってきたのね」

「流石に多くなりすぎたなとは思ってるんだけど、不味いかな?」

「そうね……基本的に着替えとかはいらないと思うわ。下着ぐらいなら良いけれど、服が違うと目立つもの」

「だよね……」


 実は途中で、要らないのではないかということに気が付いてはいたのだが、ホームステイに行くという建前上、心配そうにあれこれ詰め込む母を止めるわけにもいかず、そのまま持ってきたのだ。


「だいたいの荷物は和雄さんに言われて用意してあるから、心配いらないわ」


 「さあ、どうぞ」と家の中へ誘うおばあちゃんに応じて、背負っていたカバンを片手に担ぎなおしながら家に入った。


 ちなみに、ウチの祖父の家は結構でかい。

 いわゆる武家屋敷的な作りであり、敷地を贅沢に使った平屋建てである。

 元々はもっと小さな家に住んでいたらしいのだが、異世界で儲けた金で購入したらしい。

 素晴らしい家だ。もしじいちゃんが死んだら貰いたいものである。


「ここよ」


 と、おばあちゃんが示したのは、昔遊びに来た俺に、祖父が入ることを禁じていた扉だった。

 まあ正直、祖父の家から転移すると聞いた時点で、この部屋に来るんだろうなというのは予想がついていたんだけども。


 おばあちゃんはポケットから鍵が2つ付いた鍵束を取り出して、扉を開ける。

 長く開かれていなかったのだろうその扉は、きぃ、と音を立てて開いた。


「……なんか普通だね」


 部屋にはほとんど物がなかった。

 結構広いのだが、置いてあるのは箪笥と、人が入れそうなサイズの箱だけ。奥の方には、小さな木の格子窓がある。


「あら、普通って?」

「なんかこう、もっと異世界っぽいものが所狭しと並んでるのかと……」


 どうにも肩透かしを食らったような感じだ。


「ふふふ、がっかりさせちゃったかしら。でも大丈夫よ」


 笑いながらおばあちゃんは、入口のすぐ脇にあった大きな箱の前でしゃがむ。

 どうやら鍵がかかっているらしい。おばあちゃんは鍵束に付いたもう一つの鍵を使って、その箱を開けた。


「おおっ!」


 中には夢が詰まっていた。

 使い込まれているのだろう、沢山の傷が付いた黒い革の鎧。畳まれた白いローブ。大きな巾着袋。その他、何が入っているのか良く解らない小瓶やら何やらも転がっている。

 そして、刀。


「……って、刀?」

「ああ。それはこっちの世界のもの。元々は和雄さんのお兄様が持っていたものだそうよ」


 なるほど。俺も軍人だった祖父の兄については聞いた覚えがある。

 空襲で亡くなったが、生前は士官だったそうだ。恐らくは軍刀の類なのだろう。

 「はい」と渡されたそれは、ずっしりと重い。

 少し抜いてみると、刀身に波紋はなく、ただ金属の鈍い輝きだけがあった。

 古くからある日本刀の、美術品のような美しさを持たない、武骨な刀だ。

 だが、気に入った。


「これも持って行っていいの?」

「全部必要なものよ」


 おばあちゃんは、俺の両肩を優しく抑えた。俺の目を見つめて言う。


「昨日も話したけれど、あちらの世界は魔物が沢山いるわ。犯罪者だって少なくない。武器は必ず持ち歩いて」


 その真剣な眼差しに面食らいながらも、少しだけ理解が出来た。

 全く実感はわかないが、俺が今から行く世界では、この世界よりずっと死が身近なのだ。この刀も、きっと実際に血を吸うこともあったのだろう。

 ぎゅっと刀を握りしめた俺を見て、おばあちゃんはきちんと俺が理解したと思ったのだろう。ふっ、と息を吐いて笑った。


「さ、着方が解らないでしょう? 鎧を着せてあげるから服を脱いで」











 箱の中に入っていた装備は、全て祖父の物だ。

 この黒い革鎧も当然そうであり、使用しているの魔導書に使ったのと同じ、祖父が仕留めた竜の革らしい。

 竜を素材とするなら鱗を使った方が硬いらしいのだが、竜の鱗で作った鎧は最高級品と言っても過言ではないそうだ。

 つまり、やたらと目立つ。

 ついでに革よりやや重いこともあり、祖父は革で鎧を仕立てたらしい。

 もちろん、革とはいえど竜の素材。高級品であることには変わりはないが、竜の革で鎧を仕立てることはあまりないらしく、よほど見る目がないと解らないそうだ。

 着せてもらった感じとしては、意外と軽い。 

 もちろん、それなりの重さはあるのだが、普通に動き回れる程度であり、これで本当に剣や牙を防げるのか不安になる。

 祖母曰く「重かったら竜は飛べないでしょう? 大丈夫よ」とのこと。そういう問題だろうか。


 白いローブは、祖父の作った魔導具だそうだ。

 着用していると、着用者の魔力を使ってローブの中の環境を一定に保つ――つまり、外が暑かろうが寒かろうが、ローブを着ていれば快適だということらしい。

 実際着てみると、確かに少し涼しく感じられた。


「うん。小さいかと思ったけど、大丈夫そうね」


 俺に鎧を着せ終えたおばあちゃんは、少し離れて俺を眺めるとそう言った。


 革鎧の上に、フード付の白いローブを羽織り、左の腰には刀。

 右の腰には祖父の魔導書がぴったり入る革のポーチを下げた俺は、どこからどう見ても――不審者だった。


「凄腕の冒険者に見えるわよ」

「……だと良いんだけど」


 からかうようにそう言ったおばあちゃんにそう答えるが、正直コスプレしている気分である。

 少々本格的かもしれないが、西洋風の鎧に刀を組み合わせているあたり、コスプレとしても微妙だろう。


「大丈夫よ、若い頃の和雄さんそっくりだもの。本当に懐かしいわ……」


 そう言いながら、おばあちゃんはまた俺を眺める。若い頃と言っても、祖母と会った時のおじいちゃんは既にそこそこの年齢だったはずなのだが……それにそっくりと言われると釈然としないものを感じないでもない。

 上から下までじっくりと眺めて、感慨深そうに笑った。


「これで準備はオッケーかな?」

「え? あ、そうね。ええと……」


 いつまでも眺めていそうだったので、俺がそう言うと、おばあちゃんは何かを探すようにあたりを見渡す。

 しかし、特に必要なものはなかったようだ。


「大丈夫よ。手紙はもうポーチの中に入れてあるわよね?」

「ん……おっけーおっけー、大丈夫」


 魔導書を入れたポーチの内ポケットに封蝋がされた手紙が入っていることを確認してそう答える。

 なんでも、あちらの世界では貴族でもある祖父の紋章が押されているらしく、これを渡せば信用してもらえるだろう、とのことだ。


「必要なものは全部その中に入れてあるわ。あと、異世界の知識について書いたノートも入ってるから、街に着くまでには読んでおくのよ」

「ん、分かった」

「本当は、私が付いて行ってあげられれば一番良いのだけれど……」


 少し落ち込んだ様子でそういうおばあちゃんに、俺は言う。


「良いんだよ。おばあちゃんはじいちゃんに付いてなって」


 祖父の余命は、残り少ない。

 医者の見立てでは後半年。旅の予定は最短で2週間ほどだが、順調に行くとは限らないし、容体が急変しないとも限らない以上、おばあちゃんが祖父の傍を離れるべきではないだろう。


「さてと……行くか!」


 部屋の真ん中に立った俺は、荷物を詰め込んだ巾着袋を肩に担いで魔導書を取り出す。

 盗難防止のために繋がれたチェーンがじゃらりと鳴った。


「【一頁】【転移起動】」


 ぼう、と足元に魔法陣が浮かび上がる。

 魔法陣は大きく広がり、壁をすり抜けていく。


 転移魔法は、普通の魔法と少し手順が違う。

 それは場所を指定しなければならないからだ。

 場所の指定方法はいくつかあるのだが、簡単なのは目印を置いておくことである。

 何度も異世界に行っている祖父は当然そういった目印を置いてきており、転移魔法を起動すれば、その目印に対応した光が空中に浮かぶはずなのだが――


「……何も光らないね」


 祖父の予想通りだった。

 というのも、目印には魔力の込められた魔石を使うのだが、あまりにも長い間放っておくと魔力を消耗しきってしまうらしい。

 祖父が異世界に転移できなくなってから13年。流石に持たなかったようだ


 となると、当てになるのは最初の転移魔法――祖父が初めて異世界に転移した時の魔法だ。

 ちなみにこちらは色々な条件で場所を指定しているらしい。詳しくは知らない。


「【零指定】 じゃあ、おばあちゃん。行ってきます」


 これで失敗して行けなかったら恥ずかしいな、と頭の片隅で考えつつ、入口まで下がったおばあちゃんにそう言う。


「行ってらっしゃい、司ちゃん。気を付けてね」


 おばあちゃんは心配そうな顔をしてこちらに手を振っている。

 だから、俺は心配いらないとばかりに背を向けて、親指を立てた。


「【異世界転移】」


 魔法陣が輝きを増して、俺の周りに光の壁が立ち上がり――そして俺は、光の世界へ放り込まれた。

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