掌
流酸
井戸
嫁いだ先では井戸が凍った。驚きだった。水道が通る以前は、井戸が凍るとどこからか買い付ける氷塊が頼りだったという。母屋の裏、低い石垣の手前で井戸はじっとしている。石垣の奥には落葉松が生え、微かな影を落としている。
女が嫁いだのは落葉松の花が咲く季節だった。苔と石灯籠と井戸のある裏庭を見たときのことを女は忘れていない。そのとき夫は、あの井戸で水を汲んでいたんだと言った。井戸はセメントで幾度も直された痕があり、それでも崩れそうに見えた。井戸の口には褪せた青色のトタンが載せられ封がされていた。今でも御袋は庭に水を撒くときあの井戸を使うんだ、夫は木製のサンダル突っ掛け、庭を歩いた。トタンを外し暗い穴にセメントのかけらを投げ入れると、ぽしゃんと濡れた音が響いた。
梅雨は短かった。紫陽花が鮮やかな青の花をつけた。女は僅かずつだが家のことを任されるようになった。夫はゆっくりすればいいと言ったが、姑は女を殊の外気に入り、多くを教えた。女はそれが嬉しかった。雨は少なかったが井戸に影響はないように思えた。
夏は花盛りの季節だった。舅の盆栽の松の色が濃くなった。舅は腰が悪く、しかし水は井戸のものを使うと言ってきかなかった。女は井戸が家にとって特別なものであることを知った。茶は必ず井戸の水で淹れなければならなかった。紫陽花の葉の緑が薄くなる頃、庭の百日紅の花が小さく蕾をつけていた。夏が過ぎようとするとき、女はやっと井戸の水を汲むことを許された。本当に嫁げた瞬間だと、そう感じた。
百日紅の花が散る。北からの風が強くなるに従って、姑は身体を崩すようになった。寒いのは苦手なんだ、夫はそう言った。庭の手入れは女の仕事となった。ポンプのない井戸からプラスティック製の釣瓶で水を汲む。水は冷たく手が切れる思いだったが、体の骨に沁みる温かさがあった。
釣瓶を落とすと、こつんと乾いた音が鳴った。女は不思議に思い、いくつかセメントのかけらを投げ入れたが同じだった。あぁ、その井戸は寒くなると凍ってしまうんだよ、姑はそう言った。その日の晩、茶が湧かせなくなったと言うと夫は、秋も終わるなと言った。
井戸の上、落葉松の葉に霜が降りた。そっと風が吹き霧氷が散ると、雪の降るようにも見えた。
掌 流酸 @ryuricca
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