三つ目の星

 頼んだパスタが来るまでの間も、僕らはヒントの紙片とにらめっこを続けた。


 由香里さんはヒントの文字列を、スマホの検索アプリで片っ端から検索していたが、提示される検索結果はおよそ市の企画と関係あるとは思えない内容ばかりだった。


「うーん……ヒットしないですねぇ」

「また、何かの座標でしょうか」

「十箇所もですか?」

「例えば、十箇所の点を結ぶと、本当の目的地が分かる、とか」

「……ちょっと複雑過ぎませんか」

「ですね。今回の企画のこれまでの傾向からすると……」


 そこまで言った時に二つの日替わりパスタが来た。

 僕も彼女も、店員さんに小さくお礼を言いながら皿を受け取る。


「伸びないうちに食べますか」

「そうですね」


 二人で揃って手を合わせ、小さく頂きますをする。

 日替わりメニューのスパゲティ・アラビアータは、元々辛さマークが1つ付いたメニューだったが、一口二口食べた僕らは交代で自分のパスタにタバスコを振った。


 振り返れば様々にカロリーを消費していた僕らは、自覚以上に腹ペコだったようで、二人とも割と黙々とパスタとバケットとセットサラダを平らげた。


 二人で手を合わせ、小さくご馳走様をする。


「あ、コーヒーのお代わり、持って来ますね」

 すっと立ち上がったユカリさんがそう言った。

「いいですよ、自分で行きます」

「座ってらして下さい。ブラックで良かったですか?」

「砂糖とミルク、一つずついいですか?」

「え? でも、最初の喫茶店では……それにここでも一杯目はブラックでしたでしょ?」

「舐められちゃいけない、と思ってカッコ付けてたんです」

 彼女は一瞬きょとんとした顔をして、直後に弾けるように笑った。

 うーん、可愛いな。本当に。

「分かりました。砂糖とミルク、一つずつですね」

 笑いの余韻を堪えながら、彼女が言う。

 こういう時間が、少しでも長く続けばいいのに。この企画が、「三百個の星の物語」だったら良かったのに。

 参加する前には小馬鹿にすらしていた「街コン」なる企画への認識を、僕は180度改めつつあった。

 チェックポイントをクリアする度、由香里さんと時間を重ねる度、彼女のことをどんどん好きになってゆく。

 彼女が愛しく、企画で訪れた場所が愛しく、腰ヶ谷という街が愛しく。

 そう。全く興味のない記事からなる地方のマイナーミニコミ誌「広報 腰ヶ谷 vol.19」すら愛しく──。


 ……あ! そうか‼︎


 その時、丁度由香里さんが二つのコーヒーを手に戻って来た。

「お待たせしました」

「分かりましたよ、由香里さん」

「謎が解けたんですか?」

「ヒントの文字列、各行の『P』のついた最初の数字。これはきっと『ページ』です」

「ページ? 一体なんの……ああ! そうか。ありましたね。私たちが共通で持ってる冊子が。最初の数字が『ページ』なら次の二つの数字は当然──」

「行数と文字数」

「順に辿れば10個の文字が浮かび上がる。江戸川乱歩先生の定義する所の、『媒介法暗号』ですね。なるほど」

「ペンは持ってるんですが、メモ帳か何か、お持ちですか?」

「ありますあります!」


 僕らは子供のようにはしゃぎながら、『広報 腰ヶ谷 vol.19』に隠された文字を探して出して行った。

 斯くして、次のような文字列が浮かび上がった。


 腰ヶ谷海浜公園 観覧車


「腰ヶ谷海浜公園!」

「観覧車!」

 僕らはコーヒーも冷めるままに、最後の「星」の場所を見つけた喜びに大袈裟にハイタッチした。


 ん? 待てよ。……「観覧車」……?


「私、おばけ屋敷で広報誌を見せて下さい、って言われた時、少し引っ掛かったんですよね。あれは広報誌の号数を確認して、符合するヒントの書面を間違えずに渡す為だったんですね。次は観覧車ですか。いつ以来だろう。遊園地なんて何年も行ってないから」

 由香里さんの声が、どこか遠くに聞こえる。

 僕は動揺を隠すため、それらしい返事をしようと試みた。

「あ、はい。そうですね。何年も行ってないです」

 しかしその試みは、あまり上手く行かなかった。

「どうかされました? すごい汗ですよ」

「え、あ、いや。タバスコが辛くて。パスタをかけ過ぎたみたいで」

 彼女は何かに気が付いた顔をして、控え目に質問した。

「もしかしたら和成さん……高い所、苦手なんですか……?」

 僕は三秒ばかり天井を見上げて思案した末、諦めて正直に話した。

「小さい頃に木から落ちて大怪我をしまして……それ以来、高い所は、正直苦手です。怖い、と言うより体が受け付けない、と言いますか……」

「じゃあ……」

「いえ! 大丈夫です。観覧車ならゴンドラの中ですし、下を向いて足元を見ていれば、単なる揺れる小部屋です」

 彼女は少し困ったような顔で言った。

「分かりました。取り敢えず場所に行ってみましょう。観覧車自体を見て、改めて考えましょう。でも、無理はなさらないで下さいね。さっき和成さんが言ったのと私も同じ気持ちです。星が揃わなくても、誰かに何か言われても、正直全く構いません。和成さんと楽しくこの企画をゴールできたら、それで満足です」

 そう言うと、彼女は優しく微笑んだ。

「こんなこと言うと、気持ち悪がられるかも知れませんが」

 その笑顔に促されるように、僕は少し前から感じていたことを彼女に言う決心をした。

「由香里さんと今日初めて会った、なんてことが信じられません。なんて言うか……何年も前から、あなたを知っていたような」

「奇遇ですね」

 彼女は少し首を傾げながら言った。

「私もです」


 ああ。僕は運命の人と、出会えたのかも知れない。




---------------




「結構な高さですね……」

「どうってことないですよ。はは、はは」

 僕はこの日、人間が追い詰められると笑い方を忘れることがある、という事実を体得した。

 観覧車の足元の乗り口には、また腰ヶ谷市マークのパーカーの職員がいて、広報誌の提示を求められた。

「あー! 19番のお二人。連絡来てます。ここ、三つ目ですよね?現在あなた方が最速クリア組ですよ。後は観覧車に乗るだけなので、楽勝ですね」

 ……ふ。進退窮まるとはこのことか。

「和成さん、顔、真っ青ですけど」

「気になさらないで下さい。出口はもう、前にしかありません」

 その時、由香里さんが僕の手をはっし、と握った。

「誰にでも苦手なものはあります。頼りないかも知れないですけど、私も……一緒ですから」

「頼りないなんてとんでもない。カルタゴの軍隊よりも心強いです」

「スキピオが来たら、追い払って下さいね」

 彼女はそう言って笑うと、僕の手を引いて観覧車の乗り込み階段を上り始めた。



---------------



 ヒトが、嫌な時間であればある程、体感時間として長く感じる生き物であるのなら、例えば生物が最も忌避する死の瞬間、その苦痛や恐怖を我々は永劫に感じ続けるのだろう。

 そして、観覧車が一周回る時間が僅差で二位に違いない。


 ゴンドラの真ん中の金属パイプの柱を力一杯握りしめながら、僕は血とともに体内を駆け巡る拒絶感と戦っていた。

「大丈夫です。すぐに終わります。大丈夫ですよ」

 由香里さんはそう言いながら僕の背中を取り敢えずさすったりしている。

 背中をさすられることで恐怖が薄まったりするわけではないが、その優しさは今の僕には掛け値のない文字どおりの救いだった。


 ごんごん唸りながら推定半径40mの円弧を描き、空に昇るゴンドラ。

 景色を見ながら愛を語らうカップルの乗るそれらに挟まれた僕らを乗せたその内部だけが、一昔前の体育会系新歓コンパお開き直後の地獄絵図のような有り様だった。


「すみません。本当に」

「いいんですよ。立場が逆なら、和成さんは私を責めたりしますか? ……あ!」

 彼女は手を止めて、何かに驚いたような声を上げた。

 僕も思わず恐怖を忘れて彼女の視線の先にあるものを目で追った。


 夕陽だ。


 真っ赤に。丸く。太陽という名称を体現したかのように大きく。


 冬の腰ヶ谷の海を、港を、街を照らして、視界の範囲の全て構造物の足元から長い影を伸ばせしめている。


 あっちこっち行ってすったもんだしている内に体感時間としては正にあっと言う間に、今日という日は暮れようとしていた。

 僕も彼女も、暫く他の全てのことを意識から消して、その絶景と呼ぶに相応しい夕焼けの風景に見入った。


「綺麗……」

 彼女がぽつりと呟く。

「本当に」

 僕も自然にそう呟く。彼女が見ているものとは違う対象を見つめながら。


 気が付けば高所が引き起こす僕の動悸も、息切れも、目眩もなりを潜め、彼女に対する淡いけれども力強い感情が僕を満たしていた。

 誰かといることで、無敵になれる。

 今まで人を好きになったことは何度かあったが、こんな実感は初めてだった。


 穏やかな気持ちと充足感に満たされながら、僕は観覧車を無事に乗り切った。



「ね、大丈夫だったでしょう?」

 降り口のスチール板の階段を降りながら、そう言って微笑む彼女の姿に、少し鼻に掛かる声に、黒眼がちな瞳に、僕は自分の、彼女に対する気持ちを確信した。

 そして僕らの関係に纏わるある決意に対して腹を括った。

 そこに、一切の迷いはなかった。



--------------



 僕らは腰ヶ谷パーカーの職員に笑顔で迎えられた。

「お疲れ様でした。ではこちらが最後の『星』です。第二部の立食パーティーは文化会館の一階、イベントホールで18時から。入り口で係に三つの星を見せて下さい。パーティー後半のセレモニーで表彰式と、商品券の授与式があります」

 宝石箱のようなケースを、由香里さんが開ける。

 そこには最後の星と、ストラップのコードが入っていた。コードにはメタルのプレートが付いており、そのプレートには今日の日付と、「tales of tristars」の文字が刻まれていた。

 由香里さんはバッグから先に得ていた二つの星を取り出すと、最後の星に連ねてトライスターズを完成させた。

「やった! 完成しましたよ和成さん!」

「色々ありましたけど、やり遂げましたねー!」

 僕らは力強くハイタッチする。

「それは由香里さんが持っていて下さい」

「え、でも」

「明らかに僕より由香里さんに似合うストラップです。その方がきっと、星たちも喜びます」

「じゃあ……喜んで」

「はい」

 由香里さんは嬉しそうに三つの星のストラップをバッグの持ち手に付け、それぞれの星が入っていた袋やケースを大事そうにそのバッグにしまった。

 その時、僕らの様子を微笑ましげに眺めていた職員の方が、少し声の調子を落として話しかけて来た。

「一度もヒントを求めずに最速クリアです。お見事でしたね」

「ヒント?」

 僕は思わず聞き返した。

「それぞれの担当者には質問されても良かったんですよ。あなた方だけです。全ての謎を独力で解かれたのは。他のペアは多かれ少なかれ何がしか各チェックポイントの担当に相談していて。……中には係員を買収しようとしたり、お金を払うから星を寄越せ、みたいなことを仰るペアもいて。勿論丁重にお断りしましたが」

 僕は由香里さんと顔を見合わせた。

 パーカーの職員は更に声を潜めた。

「今あそこで警備員にお説教されてるペアです」

 驚いて振り返ると、スタート地点で僕らに嫌味を言って通り過ぎで行ったセレブペアが数人の警備員の方に囲まれてくどくどと怒られている。

「何があったんです?」

「お金を積んで観覧車の列に割り込もうとしたんですよ。小さなお子さん連れの親子の前にですよ? 信じられますか? お父さんがちょっと気合の入った感じの方で大激怒しちゃって。警備員さんが割って入って大事には至りませんでしたが、まあちょっと筋が通らないですから。ああしてお説教されてる訳です」

 僕らは再び顔を見合わせて、控え目に笑った。


 笑いながら僕が彼女にだけ聞こえるように言う。


天網恢々疎てんもうかいかいそにして漏らさず。悪の栄えたためしなし、ですね」


 彼女は同じく笑いながら答えた。


「笑止、です」





 ……え?



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