第一世 2

息の出来る水中に落ちていくのは、こんな感じだろうか。

私の体は、夜の空気の中をふわりと落ちていく。

豆粒みたいだった人々が近づく。アスファルトの上の、薄汚れた白線が見えた。


「……楽しい」


黒いヒールが、軽い音を立てて街灯に着地する。遅れて広がったドレスの裾が元に戻った。

青白い光を吐く灯りの上に立って、私は通りを見回す。

夜の繁華街は、どこもかしこも煌びやかだ。

人はあわただしく行き交い、あちこちの窓には乏しい明かりに照らされた酒棚が見える。

地下へと降りる細い階段。街角に立って人を探す女性。高い笑い声を上げる男。

目にする光景は、私にも手が届いただろう非日常だ。いつかはこんな中に、何か探していたものがあるのではないかと思っていた。

でも、今こうして見ると、ただの雑多だ。

私は体を折って、長い髪を垂らし通りを覗き込む。

街灯の上に立つ私を見上げる人はいない。


――誰も私に気づいていない。


それは不思議な感覚だった。私一人だけ、何もかもからずれている。

向かいのビルのガラスに自分の姿が映っているのに気づいて、私は首を傾げた。降りてきたイタチに問う。


「他の人には見えてないのかな」

「お前が、そう望んでいるからだ」

「自覚ないけど」


けど、見えていないならいないで別に構わない。

私は、かん、と街灯を蹴る。

それだけで、私は数メートル先のビルの窓ガラスに届いていた。

誰も人が残っていない暗いオフィス――そのガラスに映る自分を、私は宙に浮いたまま凝視する。


「……私、こんな顔だっけ」


表情のない、綺麗な顔。

目を瞠る美少女というほどではない。

ただ、黒いクラシックドレスや一房だけの銀髪が似合わないわけじゃなかった。

形の整った眉に、大きな瞳。唇だけが異様に赤い少女の顔は――ひどく不吉なものに思える。

元の顔とは違うだろう。でもどこが違うのか、毎日、鏡を見ていたはずなのに、よく思い出せない。

髪を伸ばしたせいで余計にそう思うのか、私はそっと右瞼を撫でてみた。

少し重めの瞼が滑らかな二重になり、睫毛が長く伸びる。

「っと……顔も変えられるんだ」

夢らしい不安定さだ。何だか、自分があやふやになりそうだ。

私は窓に触れて、顔を近づける。

もっとよく見ようと思った――その瞬間、ガラスの中で、少女が美しく微笑んだ。


「……っ」


思わず飛びのく。ガラスに映る私は同様に遠ざかった。


「何、今の……」


あれは私じゃ、なかったんだろうか。

――分からない。

冷水を浴びせられたようだ。胸の鼓動が早まる。

そのまま通りの上に浮いている私に、隣からイタチが言った。


「満足したか?」

「満足って言われても……」


そう言われるほどのことはしていない、と思う。

まだ自分の姿を変えて、宙に浮いているだけだ。

これだけでも十分な気がするけど、まだ試してみたい。これが夢なら尚更で――現実だとしても、そうだ。

私は首を横に振った。


「もっとあちこち見てみたい。私のこと、みんな見えないみたいだし」

「今はそうみたいだな」

「今は?」

イタチは答えない。

何だっていうんだろう。私はかぶりを振った。

「なら、いいでしょ」


私は次の街灯に向かって、宙を蹴る。

夜の中を、そうして重力がないように跳ぶ。

こんな風に、空中をずっと散歩してみたかったのだ。

街灯から街灯に飛び移りながら、私はイタチに手を差し伸べた。


「ほら、行こう。案内してくれるんでしょ」

「俺は――」


イタチが何かを言えたのは、そこまでだった。

白いふわふわした体が、くるりと回って一回り小さくなる。それは毛皮のシュシュになって私の手首に収まった。手触りのいい白い毛に、私は目を丸くする。


「これも、私がやってるの?」

『お前は……』

「あ、もういい。なんか小言言われそうだし」


それより、今はこの感覚が楽しい。

街灯を蹴る度に、私にしか聞こえない靴音が響く。

夜の海を泳ぐ、渡る、旅する――それはただ、楽しかった。




何処の街かも知らない大きな夜の街を一通り散歩していた私は、そうして小さなビルの屋上に上る。

少し休憩しようかと思った。そんな時、細い路地から小さな悲鳴が聞こえてきた。


「何?」

『構うな』


シュシュから聞こえる声を無視して、私は真上から路地を覗き込む。

そこにいたのは、何か揉めてるみたいな三人だ。

女の人が一人に、男の人が二人。どうやら女の人が二人に絡まれてるみたいだ。無遠慮な男の手が細い肩をつかむのを見て、私は眉を寄せた。

イタチの声が、また言う。


『放っておけ』

「やだよ」


せっかくの非日常に、嫌なものを見て我慢したくない。

私は再び宙に飛び出す。細い路地を、ゆっくりと降りて行った。

男たちの頭上が近づく。聞くに堪えない罵声が聞こえて――一人が拳を振りかぶるのが見えた。


「っ、ちょ……」


止めなければ、と思っても遅い。

私が降りていく鈍重さよりも早く、男の拳が女性の腹に突き刺さった。

「ご…ッ」

体をくの字に折って、女の人は胃液を吐き出す。その体を殴ったのとは別の男が抱き取った。

戦利品を持ち帰るような、手慣れた手つき。

それをする男たちの下卑た笑いに――かっと、頭が熱くなった。


「この……!」


もっと早く。

そう思うと同時に、落下スピードが上がる。

立ち去ろうとする男の頭が近づく。

もっと早く。

もっとだ――。


『やめろ』


爪先が、男の頭に届く。

かつん、と軽い音が、私の頭の中に響いた。

そして、実際に聞こえたのは――ぐしゃり、と人の体が潰れる音だった。


薄汚れた壁に、血肉が飛び散る。


「え?」


私は自分の足元を見下ろす。

そこにあるのは、人間から作られた肉溜まりだ。

溢れ出した血が、みるみる辺りに広がっていく。


で作られたそれは、細い路地を疑いようもないほどに塗装していた。


黒いヒールにこびりついた肉片を私は食い入るように見つめる。


「どうして……」


私は震える手で顔を覆う。


『お前は――』


苦々しい声から耳を塞ぐ。


これが夢なら、きっと悪夢だ。

そして現実なら――


「あああああああああああああああああっ!!」


意味のない叫びを上げて、私は立ち尽くす。


脳を焼く、生まれて初めての絶叫。

非日常を体現するようなそれを、私は心のどこかで――心地よく感じていた。

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