第一夜

第一世

世界が変わる。

初めに目に入ったのは、一面に輝く街々の光だ。

夜に広がる、建物の灯―――― その美しさに気を取られた私は、吹きつける風にぶるっと身を震わせた。


「ちょ、裸じゃ……」


いつの間にか、私が立っているのは浴室ではなくなっている。

それは、どこかのビルの屋上だ。風呂に入っていた私は、当然何も着ていない。

加えて見晴らしのいい場所とあって、夜風でまたたくまに体が冷えていくのが分かった。

がくがくと歯が鳴りそうになる私に、隣から男の声が言う。


「着るものくらい、好きに望めばいい」

「好きに望めばって……」


縮こまりながら隣を見た私は目を丸くする。

そこに浮かんでいるのは、白いイタチに似た謎の動物だ。

ふさふさのしっぽに艶やかな毛皮が可愛い。つい触れてみたくなる。

黒いつぶらな目が、私を一瞥した。


「どうした。風邪を引きたいのか?」

「風邪は、別に引きたくないけど……」

「なら望めばいい。俺の形を変えるのと変わらん」


言われて私は、白いイタチの声が、風呂場に現れた光の球と同じだと気づいた。

なんで形が変わったのか。疑問に思うと同時にまた風が吹いてくる。


「タ、タオル……!」


思わず悲鳴を上げると、腕の中にバスタオルが現れる。私はあわててそれを体に巻きつけた。

けどそれでも寒いのは変わらない。何が何だか分からないまま、私は叫んだ。


「服が欲しいの! なんでもいいから!」


そう言って私が期待したのは、バスタオルのように手の中に服が現れることだ。

でも、実際はそうならなかった。



黒いドレスの裾が翻る。

何が起きたか分からない。

でもその時には既に、私はクラシックなデザインのドレスを着ていた。

レースに縁どられた襟は、ぴたりと首を覆っており、それは手首も同様だ。

オーガンジーの裾が風を受けてたなびく。

私はまじまじと自分の格好を見て、最後にスカートを摘まみ、ヒールを履いている足下を覗きこんだ。


「何これ……すごい」

「それぐらい大したことじゃない。変えようと思えばいくらだって変わる。自分のことならな」

「自分のことなら?」



正直さっぱり分からない。

分からないことの連続だ。

それでも、その言葉には妙に魅力を感じた。


―――― 自分を変える。


それは、私がずっとしたかったことだ。

本当は、自分だけじゃない。何もかも変わってしまえばいいと思っていた。

全てが変わって、その中で、生きたいと。

なら、私は。



「髪を―――― 」


くるくると濡れてはねたセミロングの髪に、私は触れる。

次の瞬間、私の髪は腰まで届く長さになった。癖のないふわりとした長い髪。

色がそのままなのを見て、私は一瞬迷う。


「銀とか憧れるんだけど……」


そう言った瞬間、触れていた一房が、すっと銀色に変わった。

私はあわてて指を離す。月光に光る銀色は綺麗だけど、鏡も見ないで全部は染められない。

顔に似合わなかったら恥ずかしいだけだ。


私はそこで改めて、光の海を見下した。

美しい、非日常を思わせる光景に、じん、と胸が熱くなる。


「この夢、楽しい」

「そう言っていられるうちに満足するんだな」

「あなたは何?」


時々、空想のような夢を見るが、ここまで鮮明な夢は初めてだ。

宙に浮かぶ白いイタチが、苦い声で答える。


「俺は、案内人のようなものだ」

「マスコットキャラみたいね。名前は?」

「ない」

「名前がないなんてあるの?」



それは夢にしては不親切だ。私は指の節くれを撫でながら不思議に思った。

―――― もう少し、すらりと綺麗な指がよかった。

そう思うと思った通りに、指の形が変わる。白く綺麗な手。私の手じゃないみたい。でも私の思う通りに動く。

少しずつ塗り変えていくように、そんな行為に夢中になっていた私に、彼は言った。



「一応言っておくが、これは現実だ」

「なら、余計楽しい」



これが現実なら、私は今、非日常の中にいる。

気分が浮き立つ。嬉しくて狂いそうだ。このまま、踊り出せたらいい。

軽くコンクリートを蹴ると、ふわりと体が浮いた。

ゲームの中のようにゆっくりと落ちていく体に、私は目を丸くする。



「ひょっとして、飛べる?」

「何でも聞くな。自分のことなら、いくらでも変えられると言っただろう」

「そうなんだ……」



爪先が、コンクリートに触れる。

今度はもう一度。もっと力を込めて。



「……っ」


私の体は、綿毛のように宙に舞い上がる。

屋上の手すりはすぐそこだ。

かつん、と黒いヒールが、錆びて剥げた鉄格子を踏んだ。風に煽られそうな体のバランスを取りながら、私は遥か下の地上を見下す。


色とりどりの光が溢れる通り。

そこは、人の行き交う繁華街だ。

ビルの高さは十階以上はあるだろう。華やかな夜の灯を行く人は、誰も真上を見上げたりしない。誰も私に気づかない。


それは、ただ素敵な眺めだった。



「飛び降りてもいい?」

「好きにすればいい」

「私、死ぬかな」

「好きにすればいい」

「うん。死んでもいいか」



今のこの夢が歓びだ。

飲みこみ続けた叫びへの答だ。

切望し熱望したハレが、今、私の中にある。

だから、この中で死ぬなら、それでもいい。



「死んだって、いいの」


哄笑を上げる。

私は手すりを蹴って、宙に身を躍らせる。

浮き立つような夜の喧噪に、下りていく。

目を閉じずに笑う私に、彼の声が聞こえた。



「……お前は、醜悪だ」



その言葉さえも嬉しくて、私はただ落ちていった。

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