第零夜

現世

窓の外から雨音が聞こえる。

ごうごうと荒い音は、嵐が来ているのかもしれない。

浴槽で膝を抱えたまま私は、磨り硝子の窓を見上げた。それは真っ黒で、何の明かりも見えない。

ただ私の気分だけが、風で煽られる木々のようにばたばたとはためている。

それはこんな天気の時にはいつものことだ。


「…………」


私は、口の中で歌を噛みながら濡れてはねたセミロングの髪を撫でつける。

だけど癖のある前髪は少しも思い通りにならない。そんなことに少し苛立ちを覚える。

目を閉じ、嵐の音に集中する。



―――― 昔から、非日常にどうしようもなく惹かれていた。

物心ついたころから物語を読み漁り、曲を聴いてはその歌詞の世界観に囚われた。

ハレとケという言葉を知ったのは、中学に入ってからだ。

非日常と日常。私が焦がれて仕方ないのは―――― 手に入らぬ非日常だ。

祭りの夜を待つ子供のように、私はいつも待っている。

自分を変えてしまうような、新しく恐ろしい「何か」を。

だからこんな嵐の夜には、気が浮き立って仕方ないのだ。



「……馬鹿げてる」


遠足の前の日に眠れずにいる子と変わらない。

だが、落ち着かなく待っても何かが始まることなどない。いつも期待しては失望するの繰り返しだ。

私のこの焦燥が、幼い夢想であることはとっくに分かっている。

このままではきっと、ろくな人生を送らないだろう。

非日常を探して、夜の灯に惹かれ、やがてはその中で疲弊することになる。

そんな予感が、する。

無いものを欲しがって擦り切れて――――

それでも、この熱情だけは消えないのだろうか。



「―――― 愛している」



裸の腕を、私は何もない宙に差し伸べる。

ただ、そう言いたかった。どうしようもない感情に突き動かされて、私はきつく目を閉じる。

いつか何かを愛したいと思う。私の全てを捧げて、全てを懸けて。

そうなりたい。この狂える焦燥に、そんな名を与えてしまいたい。

そうすればまだ、正気でいられる。



「愛している」



雨音が聞こえる。

私の体を越えて、精神が叫び出す。

その熱に引きずられて目頭が潤んだ。ふっと涙が滲む。

明日の朝になれば、またいつも通りのどうでもいい日常が始まるのだ。

私はどこにも行くことはできない。

望んでも、運命を謳う歌のようには生きられない。何も特別なことはない。



「それでも、愛しているの」



何を、とは言わない。分からない。

言葉に、感情に力はない。ただの流行り病のような感傷だ。




だがそれが、はじまりだった。




キン、と音が聞こえた気がした。

それは、音ではなかったのかもしれない。何故なら聞いたと思った瞬間、雨の音がやんだからだ。

そして世界が無音になった。


「……何?」


気のせいだろうか。私は自分の呟きを聞いて、少しだけ安心する。

まるで停電が起きたかのように、何かの異変があったような気がしたのだ。

だが電球の灯りはそのままで、変化といえば窓の外から音がしないくらいだ。

嵐が過ぎ去ったのかもしれない。そう思う私の頭上から、知らない声が降ってきた。


「―――― お前か」


ぞっと、背筋が凍る。

私は顔を上げる。

一人きりの浴室に、何がいるはずもない。そんなことは日常には起こらない。

けれど彼は、そこにいた。


「……何これ」


うっすらと青白い、球体の光。

月のミニチュアのようだ、と思った。それが空中に浮いている。

電球よりも一回り大きいそれが何だかわからなくて、私はぼんやりと光を見つめた。


光はまたたく。


「お前がそうか」

「……喋った?」

「飲みこみが悪いな」


若い男の声だ。

そんなものが光から聞こえることに、私は不思議と恐怖を覚えなかった。

あれほどまでに浮き立っていた気持ちも凪いでいる。

それはけれど、嵐の前の静けさだ。


―――― 期待すれば、また失望するだけだ。

そう思っても、だが、こんなことは今まで一度もなかった。

あり得るはずがない。喋る光と出くわすなんて、そんなことは。


でも、これが現実なら。


私は立ち上がる。

光は目の前に、変わらず在る。


「あなたは何?」

「来い」


光は問いに答えない。

ただその言葉に、私は手を差し伸べられた気がして頷いた。


これがはじまりだ。

この夜が最初の終わりだった。

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