クローズド・アイズ
古宮九時
プロローグ
第六夜・第六世
ごうごうと―――― 雨音が聞こえる。
夜の浴室は、恐ろしいまでに静かだ。
冷え切ったタイルは綺麗に並んで沈黙している。電灯の光は数秒ごとに瞬いて、一瞬ごとに違う影を作っていた。
私は、滑らかな浴槽に身を沈めながら目を閉じる。
今、ここにいるのは私ともう一人だけだ。
窓の外から雨音が聞こえてくる。その音だけは変わらない。嵐の先触れは、私を狂わせる。
「あの夜と同じ――」
「同じ? 何がだ?」
皮肉げな声に私は目を開ける。
広い浴槽に、私と向かい合って入っているもう一人。
今の『其れ』は、私よりも何歳か年上に見える端正な顔立ちの男だ。硝子に似た青い目を、私は見返す。
「最初の夜と同じだと思ったの。あの時も、こんな雨音がしていたから」
あの夜、私は一人だった。
ただ狂いそうな熱情を、何も起こらぬ世界に抱いていた。
夜の嵐に叫び出したくて仕方ない幼さを、裸の膝を抱えて嚥下していたのだ。
それが、終わりと始まりの夜だとも知らずに。
「何も同じではないだろう」
『其れ』の言葉は、雨粒よりも冷ややかだった。
私は無言のまま浴槽の底に指を這わせる。滑らかな感触―――― そこに張られているのは人間の肌だ。
誰のものともしれない、ただ柔らかな女の肌が敷き詰められた浴槽。
薄暗い中では、浸されている微温湯が血であるか羊水であるかは分からない。
それは私が望んだ瞬間に変わる。今はもう、その真実に慣れて倦んでいた。
底に触れていた指先が、閉ざされた瞼を探り当てる。
私は一つしかない小さなその瞼をそっと撫で、まだ残っている息を吐いた。
「変わらないものもあるのだと、思ってもいいでしょう」
「お前のそれは醜悪だ。気紛れで全てを変えてきたくせに」
「そう。そしてあなたの精神だけは、変えることができない」
私は全てを望んで、変えて、でも彼だけは変わらない。彼の姿形を自由に変えることはできても、精神は変えられない。
だから彼はいつも、私を忌む。私を否定するのは、もはや彼だけだ。
私は血に濡れた手で、長い髪をかき上げた。
「あなたがいるから、まだ正気でいられる」
「お前は最初から狂っていた」
「愛していると思うことが、狂っているということなの?」
「愛する対象を持たずにそう希うことが、狂っているんだ」
雨音が聞こえる。
ごうごうと鳴る嵐の中にいる。
世界に在るのは、私たちのいる浴室だけだ。
他には何もない。全て滅んでしまった。
閉塞する世界の胎内に、私はいる。
私は浴槽の縁に手をかける。
継ぎ目のない肌に爪を食いこませ、それをゆっくりと剥いでいった。
じわりと、暗いお湯に血が広がっていく。タイルの上に水滴が落ちる。
私は笑っている。
私は喜んでいる。
私は愛している。
「私は―――― 」
「また、自分のことをそう言うようになったのか」
「僕は、でもいいけれど」
「自分を変えるな。醜悪だ」
「あなたが変わらなければいいでしょう」
水面は、いつの間にか真っ赤に染まっていた。
タイルは全て罅割れて、窓の外は嵐。
私の望むように、全ては変わる。愛したいと思うように。
だが、満たされないのは今も同じだ。
私はまだ焦燥の中にいる。嵐の中に、飛び出して叫びたいと思っている。
「もう行くから、私」
私は立ち上がる。
見下した彼は、忌まわしいものを見る目で、私を見ていた。
「また、変えるのか。世界を」
「私が変えるわけじゃない。世界が勝手に変わるだけ」
未だ無い物を、愛していると叫んだ。
そんな醜悪な私に―――― 愛されたいと願ったのは、この世界だ。
だから世界は変わる。私の望むままに。
まるで健気で。
まるで愚鈍で。
まるで従順で。
ただの、ひたむきな。
だから、
この愛情が永遠に尽きぬなら―――― 私の旅するこれは、ただの愛しい悪夢だ。
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