引分なんて綺麗なものはこの世に存在しないから

 どっちも負けているのかもしれないし、どっちも勝っているのかもしれない。






 廃学校で、ギルベルトの最期の能力――だと思われる何か――と対峙する、クラン達。

 満身創痍のヘンリーとヴァルナル、そして切り札を切り終えてしまったクラン……状況は芳しくない。クランはシャハールを横目で見る。彼が一番の戦力だ。


「……クラン、ヘンリー、ヴァルナル、遠隔魔法を頼むよ。攻撃は全て俺が防ぐ」


 初めて彼は、ゆっくりと黒い霧の方へと歩き出した。三人を守るように。

 対する『何か』も、黙ってはいない。黒い霧がひと際大きく蠢き、凝縮し、気体は固形へと再構成される。そしてシャハールへと、四方八方から怒涛の黒い棘が迫る。


「ではご照覧!! 君の刃は、届かない!!」


 シャハールは、笑った。

 それは楽しんでいると言うよりは、嘲笑に近く――何処までもふてぶてしい、そんな笑い方に見えた。そして。


 クランは思わず、息を呑む。

 シャハールの足もとから光が溢れ出るかのように氷が地面を覆い、その輝きを空へと伸ばし、続く、続く。棘を一つ一つ相殺し、撃ち砕く。

 光あふれる氷の中には、棘の一つたりとも、侵入を許さない。それだけではない、クラン達の方へと飛んでくる棘も、全て彼の氷は喰らい続ける。

 幻想的で。それでいて、強い。


 中心の彼は、氷の粒子を纏い、鎧となす。

 一秒ごとに氷は形を変え、生き物のように脈を打つ。恐ろしいまでに柔軟に。氷の魔法をここまで繊細に使いこなす人を、クランは初めて見た。時に鞭のように、剣のように、それらは黒い霧を相殺するのだ。


「クランさん! ぼーっとしてないで!! 師匠が止めているうちに本体を!!」


 はっとした。ヘンリーの言葉で、我に返る。

 シャハールは一人であの得体の知れない攻撃を全て凌いでいる、が、攻撃には転じられないようだ。だとしたら、後ろの三人のやるべきことは決まっている。

 クランは炎を投げつけ、ヘンリーは破裂する泡を、ヴァルナルは爆破を、遠隔魔法で目の前の黒い霧へと発生させる。が――。


「ちっ。こいつ、手応えがねえ」


 毒づく。何もない。空気の中を飛んでいくように、その霧を、クランの投げた炎弾はゆるやかに素通りする。


「爆破も駄目だ。霧が散った様子すらない」

「……こちらもです。あの泡には精神攻撃の作用もありますが、何も」


 三人は立ち竦んだ。


「ヘンリー! 分析を!!」


 シャハールが叫ぶ。その声音は決して楽観的とは言えなかった。彼と霧の棘の撃ちあいは途切れることなく続いている。シャハールは魔法に長けているとは言え、その魔力には決して限界がないわけではないだろう。

 ヘンリーは、必死の形相で虚空を睨む。


「あれは実体が存在しません。それは確か! 恐らくは可視化された悪意か、或いは投影か、すなわち、実体化しているのは攻撃する瞬間だけ!!」

「……なるほどね! つまり今触れられる部位はこのほっそい棘だけってことかい!!」


 確かにシャハールが撃ち返している棘には、実体がある。だが、そこだけだとしたら――目で追うのがやっとのその応酬、クランには手が出せない。ならば。

 クランが思ったことを、先に発したのはヴァルナル。


「ならば、面で攻撃させるしかあるまいな!」

「その通りです。師匠、思いっきり、押し返してください。相手の大攻撃を誘って!!」

「全く、無茶言うよね!! 師匠に無理言う君たち、だーいすき!」


 クランは思わず、笑ってしまった。

 スリルに酔っている時とは、また違う形で。


「それじゃ、やっちゃうよ!!」


 シャハールが力を籠める。その氷の広がりが大きくなり、霧を呑みこまんばかりに成長していく。それを操るシャハールの頬には、汗が伝う。


「っ……く……!!」


 それこそヘンリーが先ほど操ったプールの水を、全て凍らせても及ばないほどの量の氷。それが縦横無尽に伸び、跳ね、貫く。氷の枝が八方へと広がりゆく。

 霧は動いた。その氷に危機感を覚えたか、それとも、撃ち砕こうと躍起になったのか。いずれにしろ悪意と言う感情を持つその塊は、決してただ黙って安全圏から消耗させるだけで満足する何かでは、いられなかった。


「来た!」


 端的なヘンリーの叫び。

 振り上げられたのは、棘などとは比べ物にならない質量の、黒い刃。


 この時を、待っていたのだ。


「爆ぜろ!!」

「燃えろォ!!!」

「貫水――ッ!!」


 三つの声と、三つの大魔法。この短時間に籠められるだけ籠めた魔力を、放つ!

 ヴァルナルの渾身の遠隔魔法が剣の刃を爆破し、ぐらつかせる。――実体が、ある。魔法が、当たったのだ。

 続いてクランの炎と、ヘンリーの水が怒涛に押し寄せ、吹き飛ばす。刃が穿たれる。確かに、手応え。当たった部分の黒い霧が、文字通り霧散して穴から青空が覗く。


「行けるっ!!」

「追加だ、喰らえ!!」


 シャハールもその瞬間、攻めた。

 同様の大きさの氷の剣が、大きく撓り、穴が空いている弱い部分へ向って容赦なく振り抜かれる。

 そして、互いの刃は、砕けた。

 氷の欠片が降り注ぐ中、確かに四人は見た。分離した剣の部分が、霧消するのを。


「よしっ!!」


 明らかに、霧の量が減っている。具現化した部分を叩けばダメージが入るのだ。それが分かっただけで、疲れきった身体には活力となる。

 霧もそんなことでは怯まない。四人の希望を打ち砕こうと、その黒い何かが収束する。


「また来るよ!!」

「今度は更にでかい」

「つまり打ち消せたら儲けもんだ!!!」


 更に巨大な刃が、重力任せに四人へと堕ちてくる。こちらには先ほどまでの火力はない。




 それでも、撃ち返すものがあるなら、頭を空にして、最高の一撃で返すのだ。




「一点集中!!」

「おう!!!」


 誰ともなく叫び。

 シャハールが氷の楔を撃ち込む。鋭いそれが突き刺さり、小さな罅。

 ヘンリーが水流を叩きつけ、押し込む。

 そして、クランとヴァルナルの爆弾が、その一点へと収束。同時に爆発する。


 刃の動きが、鈍く。

 一つのひび割れが広がり、がらがらと刃が崩れ落ちる。


「――ッしゃあ!!!」


 崩れ落ちた黒い刃は、そのまま色を無くし、消えていく。霧はもう、半分以下。

 勝てるかもしれない、などとは思わない。

 ただ、充実していた。こんなに何も言わずとも意図を汲んでくれる魔法使い達と、肩を並べて戦うのは、生まれて初めてだった。


 霧が蠢く。先ほどまでとは違う、怪しげな動き。そして、その中心部に黒い塊が出来ていく。

 全員がその様子を見守っていた。具現化しない限り、手は出せない。ただ、残り少ない魔力を溜める。練り上げる。


 が、その時、予想もしなかったことが起きた。

 霧の残り、四分の一程度が収束した、その漆黒の塊が、突如消えたのだ。


「何――」


 それが、己の身を削る大技だと気付いたのは、次の刹那。

 その悪意の『何か』は、吠えた。


 世界への呪いを。地上への毒を。人の幸福に捧げる不運を。人の反抗への抑圧を。怨嗟の声を巡らす連鎖を。復讐の刃を。過剰なる防衛を。攻撃的な本能を。腹に煮えたぎる怒りを。悪意を。殺意を。敵意を。狂気を。

 ――異教の徒に向ける、絶望という波動。


「――――!!!!!!!」


 空気が震える。

 聞こえないはずの声が、聞こえる。

 耳を塞いでも、聞こえる。

 言いしれぬ不安に高揚感が撃ち消され、全ての意志が反転し、戦意を軽々と削る。悪意が、自分自身を波動に乗せて撃ちこんできているのだ。下手をすると乗っ取られそうな、強力な精神干渉。


「ぐ、あ……ぁあ……!!」


 呻きながら、クランは四つん這いになり、胃の中のものを吐きだした。周囲の三人もほぼ同様の状態だった。

 霧は容赦がない。クランは、視界の端にもう一度収束する黒い塊を見た。――久しぶりに心が弱った彼は、絶望した。もう一度受ければ、恐らくは、無事ではいられない。


「させ、るか――」


 響いたのは、力強いシャハールの声。

 何をするつもりだ。クランはそう言いたかったが、声にならない。喋ろうとするとまた吐き気が生じ、胸が詰まる。

 それでも、せめてその姿を見ようと、顔を上げた。

 そしてその光景に目を見開く。




 シャハールは、一人で、飛び込んでいた。精神が乱され、魔力も練れない状態で、よろめきながら。

 それでも、黒い波動が拡散するその瞬間、そのタイミングを的確に狙った。

 そして、まだ拡散する前のそれを。放たれたその時の、凝縮された『叫び』を。


 一身に受けた。

 三人を、庇った。




「師匠―――ッ!!!!」


 ヘンリーが、掠れて裏返った声で叫ぶ。

 シャハールは何も答えなかった。その体が人形のように地面に無造作に倒れる。


「あいつ、くそ……なに、してやがる……!!」


 いや、意図なら分かっている。理解は、している。

 二度の必殺技を撃ち終えた霧は、もうあと僅かになる。三人を庇えば、倒せる。彼はそう踏んだのだ。そしてクランは、その期待に応えねばならない。殺される前に、立たなければならない。それがシャハール含む四人が五体満足で帰るためのたった一つの条件だ。


 なのに。頭では分かっているのに。

 身体は、動かない。

 絶望が身体を蝕んでいる。何をしても無駄だと囁いている。


 ぽつり、と、

 ――なんで俺なんかに期待したんだよ。

 クランは、そう呟いていた。


 堕ちて、いく。


 ……。

 ………。

 …………。


 眠気が襲う。

 きっとこのまま眠ったら、気持ちいいだろうな。

 暖かい、しかし恭順してはいけない感情に呑まれかける。


 ――意識の水底。

 クランは人の気配を感じて、隣を見た。

 それは、クランを現実に繋ぎとめる最後の鎖。

 そこに誰かがいる気がして、そして、大切な影を見た。




『クラン。負けないで』




 沈みきった静かな世界を破る、声が聞こえた。聞こえるはずない声が、届いた。

 その快活な声に、脳裏を優しい笑顔が過る。


 視界が晴れる。




***




 クランは立ち上がった。

 それは端的な勝利の合図だった。

 全ての痛みが、精神の傷すら、死と隣り合わせのスリルへと変わっていく。再びの高揚が、背筋を粟立たせる。魔力が巡りだす。


 霧にはもう、クランを倒せる余力はない。

 しかし、悪意の塊はそれでも、最後にその身全てを武器に変えた。具現化し、黒い槍となり、クランへと、向う。


「じゃあな」


 クランは一言笑いかけ、爆破した。


 消えかける霧の粒。至近距離の爆破により、消える前の儚いそれが、少しだけクランの掌に触れる。思念が入り込んでくる。最後の最期に残ったのは、悪意ではなく、純粋な献身と、それを果たせぬ悔しさ――クランには、そう感じられた。

 能力によって構成された悪意ではなく、ギルベルト本人の感情。ある意味何よりも真っ直ぐで、決して歪まない歪んだ心。死してなお創造主に尽くそうとする執念。


「……お前は、本当に凄い奴だったんだろうな。俺じゃ及ばない。でも、俺“たち”の、勝ちだ」


 拳を握りしめる。


 黒い霧はその姿を消す。最後の一握まで、音もなく霧散する。静寂が訪れ、クランは一人、その場に立って戦闘後の余韻に浸ることを、許された。

 どれくらい、そうしていただろう。


「クラン!!」


 夢うつつの中で聞いたのと、同じ声。

 駆けよってきたオルクスに、クランは、満面の笑みで振り返った。


「終わったよ、オルクス。ありがとう」




***




 ――それから。

 完全に沈黙したギルベルトの魂は、オルクスの手によって消滅した。


 ヘンリーもヴァルナルも同意の上だった。オルクスの力を使い、魂を魔法の使えない身体に入れ、尋問することも物理的には不可能ではなかったが、彼と一番接触したヘンリーとヴァルナルは、『何も喋るわけがない』『入れた先の人間の舌が犠牲になる』と笑い、それを拒否した。

 やがて医務班が駆け付け、四人は病院へ運ばれた。個室でオルクスや、第一部隊の治癒が使える隊員からの治療を受けた。

 クランは一番回復が早かった。精神の傷は殆ど残っていなかったし、解錠を使っていたおかげで肉体も万全に近い。だから、数日後には暇を持て余していた。たまにオルクスや、彼に連れられたガドガ、或いはシャーリィは来てくれていたが、それだけだ。他の三人――特にシャハールがどうなったのかも、気になっていたが、情報はなかった。


 そんな時、部屋にティベリオが現れた。第一部隊隊長、ヘンリーとヴァルナルの上司。

 時刻は夕暮れ。夕陽に照らされたティベリオの顔は、妙に懐かしい。


「やあ、クラン」

「ティベリオじゃねーか。見舞いか?」

「勿論さ。……その様子だと必要なさそうだが」

「果物置いてけ」

「ははは、仕方ない奴だ」


 言いながらも、鞄の中からタッパに入ったカットフルーツを机に置く。使い捨てのフォークも完備。

 その様子を眺めながら、クランは、なんとはなしに言う。


「そういや、あんときお前何処に行ってやがった。加勢に来てくれてもよかったんだぜ?」

「……すまない。出張でな、今帰ってきたところなんだ。その場に居合わせていれば、師匠は――」


 茶化したつもりだったが、ティベリオはそう言って俯いてしまった。

 予想外の反応に驚く。まさか、そんな。


「おい。おい、待てよ、ティベリオ。まさか、シャハールは――」

「死んではいない」


 ティベリオは、クランの気持ちを抑えるように、厳かにそう言う。しかしその言い方は、引っかかる。


「死んで……『は』……?」

「……ああ。………」


 彼は、言い辛そうに目を逸らした。


「……師匠は今、酷い状態だ。私は、かける言葉が見つからなかった」

「……」

「会ってやってくれないか。そして、もし、何か励ますことが出来るなら……師匠に、少しでもいい。声を、かけてやってくれ」

「分かった。……俺でいいなら」


 ティベリオに連れられ、病院のベッドを下りて、廊下に出る。

 シャハールの個室の場所は知らなかった。ティベリオの背中を見つめながら、静かな病棟を歩いた。彼は一言も喋らない。

 やがて辿りついた、他となんら変わりない個室。その扉をノックし、返事を待つこともせずティベリオはドアを開けた。


「……クラン。ここから先は、お前が」

「ああ」


 クランは一人で、中へ入る。

 シャハールは静かにベッドに座り、布団を膝にかけ、窓の外を見ていた。その意識はしっかりとしており、特に外傷も見受けられない。しかし、何処か雰囲気が違う。暗いのだ。飄々としたあの大魔法使いの面影が、ない。


「シャハール……?」

「クラン」


 彼は振りむいた。

 泣きそうな顔をしていた。


「ど――どうしたんだよ」

「……クラン、助けてくれ」

「な、何を」




「魔法が使えないんだ」




 たった一言の告白。

 クランは、恐らくティベリオがそうであったように、言葉もなく立ち竦んだ。

 ――強力な精神攻撃、悪意による汚染。それを一身に受けたシャハールは、ショックで、魔法を失っていた。


「うそ……だろ」

「本当だよ、クラン。魔力はあるんだ。何も俺の身体に異常はないんだ。なのに形にならない。思い出せない。氷が、いない。俺の中に、いない――!!!」

「………ッ」

「ごめんね。ごめんね、クラン。こんな師匠で、ごめん」

「いいんだ、そんなことっ……お前が、庇ってくれなかったら、俺たち皆死んでた……!!」


 泣き笑うシャハールの手を取り、握る。

 でも、なんと慰めてあげればいい?

 命が助かったからといって、命の次に大事なモノを失って、平気でいられるわけがない。

 シャハールがあの素晴らしい魔法を使えるようになるまで、どれだけの苦労と努力を重ねただろう。彼の人生はずっと、魔法と共にあったはずだ。その人生の全てが、あの一撃によって、否定されたのだ。


「ごめんよ……俺は、……俺は」

「……」


 ひたすら謝るシャハールに、クランはただただ、首を振ることしか出来なかった。

 何か言葉を発したら自分ももらい泣きしてしまいそうだったから。


 また明日来るとだけ告げ、部屋を出ると、ティベリオが待っていた。クランの表情を見て、彼の顔は、申し訳なさそうになる。


「すまない。……無理を言ったな」

「……俺も、あんなシャハールに言えることなんかねえよ」

「そうだろうな……」

「ヘンリーとヴァルナルには、伝えたのか」

「一応は。……まだ、会わせてはいないが」

「そうか」


 二人は無言になり、そのまま、クランの個室へと戻る。

 ようやく次の会話を始めたのは、部屋に入ってからだった。


「……なあ、ティベリオ。治る見込みはないのか?」


 言ってから、なんて虚しい言葉だろうと思った。そんなものがあるなら、シャハールは絶対にもう動き始めているはずだ。ないからああして、ただ黙って、暗い影を落として外を見つめているのだ。

 案の定、ティベリオはゆるやかに首を左右に振る。


「殆ど、ない。同種のショックがあれば、もしかしたら――とは思うが、師匠が喰らった精神攻撃と同等の精神干渉を引き起こせる術者は、人間の中には存在すまい」

「……」

「そもそも、魔法を失った症例というもの自体が記録に存在しないからな。どうしようもない。お手上げだ。……いつか、奇跡的に取り戻すのを祈るしかない……」

「……くそっ。そんなの……あいつ、何のために今まで……」


 ティベリオは、大きく息を吐く。

 それから、独り言のように、こぼす。


「……師匠が、私に謝るんだ」

「……」

「何度も、何度も、謝るんだ。一番辛いのは、両腕の代わりを無くして、人生の一部を失った、師匠本人なのに……『もう加勢してあげられなくてごめん』『これから死神と戦うのに、こんな時に戦線離脱なんて、師匠失格だ』……って、そんなことばかり」

「俺にも……謝ってた。何度も……ごめん、って……」

「あんな師匠、見てられない。――見てられないよ」


 乾いた病院の床に、一滴、涙が落ちた。

 堰を切ったようにティベリオは年甲斐もなく泣き崩れた。その美麗な顔がぐしゃぐしゃに歪むのを、クランはただ黙って見ていた。クランはティベリオに対してすら、かける言葉を持たなかった。


 やがて二人は、カットフルーツを分け合った。


「しょっぱい」

「知るか」


 クランのも少し塩気が多い。




 死神――ギルベルト・カイネスヴェークス。消滅。

 人間――シャハール・フェリエ。戦闘能力喪失。


 結果だけ見れば痛み分けかもしれない。いや、人間側は死者が出ていないのだから、勝利と言ってもいいのだろう。

 だが、クラン達の負った傷は、深かった。




***




 一方、死神たちはというと。

 ギルベルト・カイネスヴェークス。死してなお戦える『狂信の贄』という能力を持つ第三位の一角の消滅には、死神側も並大抵ではない衝撃を受けた。

 報を聞いた第三位の残り三人は、目を丸くして、それから叫んだ。


「「「仕事量1.33倍じゃねーか!!!!」」」


 ……並大抵ではない衝撃だった。これでも。




 ギルベルトが倒れたことの不幸中の幸いは、彼と親しかった死神がいなかったので、誰一人として仕事に支障が出るほどには悲しまなかったことだろう。これがもしアダムだったら、第三位が機能不全に陥っていたであろうことは想像に難くない。

 勿論、同僚として悲しむことはしたが、ギルベルトの残した仕事を片付ける方に忙殺され、感傷に浸り続ける余裕などなかった。


 そして、俄かに死神の歪城は騒がしくなった。

 第三位が空席になった時は、一年の選考期間ののち、第四位の中から一人が昇格する。つまり、一年間のアピール期間が始まるのである。第四位たちは、功績を求め躍起になる。アダムたちにとっては、頭の痛い期間が始まったのである。


 それから数日後。第一位、ファラリス・オーバーロードに呼び出され、ほぼ徹夜状態の三人はいつもの場所に集合した。今日限りは、ファラリスよりも三人のほうが顔色が悪い。とはいえ、創造主への信仰が強いイスカとララベルは、少しハイになっていてなんとかなっているのだが。


「……大丈夫か」


 ファラリスの第一声がこんなに優しかったのは、イスカの知る限り初めてだ。


「大丈夫です、なんとか。イスカ・コーネル、参上いたしました」

「ララベル・オーガ、どうにかこうにか無事ですわ」

「……」


 最後の一人は胃痛で喋れていない。

 なに、気にすることはない。


「お前たちを呼んだのは、ほかでもない。……ギルベルトを倒した奴のことだ」


 全員が一斉に、顔を上げた。


「彼が死んだ時の情報はありますの?」


 答えたのは、部下に調査を依頼していたイスカだ。


「全てギルベルトに任せきりにしてましたから、彼が死んだとあっては、あまり多くはないですよ。但し、……戦闘場所の跡から見て、複数人がギルベルトと戦ったことは察せられます。一人はクラン・クラインとみて間違いないでしょう」

「ふむ。クランが仲間を増やしているか、或いは――クランの他に敵がいるか」

「クランの他に……」


 ファラリスの言葉に、メイラの護衛者を思い出す。一度第六位の死神を撃退した、ティベリオという要注意人物。そして、その仕事仲間。

 あの男たちは魔力を持っていた。素性を調べた時は全員別の警備会社からの出張という結果だったはずだ。だからイスカは、ティベリオが最初護衛にいたのは悪い偶然で、その後魔法の実在を知って怯えた首相が急遽魔法使いをかき集めたのだと思っていたが、もし彼らがまた関わっているとしたら、話は変わってくる。

 所属が捏造ならば、捏造できるという事実だけで素性が分かろうというもの。


 そこを起点に調べてみるか、と、イスカは一人頷いた。……仕事が落ち着いたら。

 ファラリスが咳払いしたので、意識を戻す。


「とにかく、この件をどうするか、お前たちに意見を聞きたい。クラン・クラインを相手にする余裕は」

「ない」

「ないわ」

「ありません」


 全員綺麗な即答だった。


「だろうな」

「ですよ」

「微塵も暇がないし胃も死んでる」

「ギルベルトったら、厄介な裁判ばかり残していきましたのよ!!」

「あいつは裁判という事象そのものに向いていなかったからな」

「引き継いだ案件の中にギルベルトに体罰されたという魂がいてねえ!! もう頭痛いんだよ私は!!!」


 このあとは四人による愚痴会だった。

 死人に口なし。

 四人は知っている。どれほど執念深いあの男でも、魂が消滅してしまった今、彼はもう帰ってこないということを。何をどう悪く言おうが、自由なのだ。死後の世界はここであり、この世界からすらも消えた以上、それは完膚無き消滅なのだから。

 ――だけど四人は理解しない。

 だから誇張表現の末、ギルベルトについてあることないこと思い出を語ったあと。彼ら彼女らは、一度だけ、三位の居住区へ続く階段を見たのだった。

 何かを、在りもしない奇跡を、期待して。


 ……ともかくも、長引いた会議の結論は、こうだ。


 クラン・クラインおよびオルクス・マヴェット、シャーリィ・ライト。この三人への干渉、そして処刑を、一カ月の間凍結する。その間に、第三位はギルベルトの担当していた仕事を分担し、引き継ぎ、この先一年間の選考期間に備えること。

 以上。




***




 シャハールは、二週間の入院の末に退院した。

 何かが変わったわけでもないが、彼は、帰りたいと言った。それで、急な出発となった。


 クランは既に退院し、ティベリオの頼みで、オルクスやシャーリィらと一緒にシャハールの家の片付けをしていた。これから、彼は本当に、両腕なしで生きていかなくてはならない。出来るだけ不便なく過ごせるようにレイアウトを変え、工夫を凝らし、模様替えをする必要があったのだ。

 急な退院の知らせに触れ、なんとか皆で体裁を整えると、三人はシャハールを迎えた。ティベリオの運転する車に乗せらせ、シャハールは、魔法を失ってから初めて己の家に帰ってきた。


 扉を開けようとして、その手が止まる。いや、正確には、肩が。その先にあったはずの氷の腕は、もうない。


「………」

「僕が開けるよ!」


 オルクスが甲斐甲斐しく扉を開ける。

 シャハールは彼に微笑みかけて、ゆっくりと中へ入った。


 中はとりあえず整頓してあったので、シャハールを座らせ、シャーリィがお茶を入れる。……その姿を羨ましそうに彼は見ていた。


「師匠。暫くはクランたちがいてくれるそうだから、安心してくれ。私も、出来る限り様子を見に来るから」

「……ありがとう、ティベリオ。ごめんね」

「言っただろう、謝らないでくれって。じゃあ、私は午後の仕事があるから、また」


 お茶も飲まずに、ティベリオは去っていく。


「……そうだ。あと、師匠。私から見舞いの品を用意しておいた。もうすぐ届くよ」


 そう、言い残して。


 彼が去った後、シャハールはぼんやりとお茶を飲む。シャーリィの手で、少しずつ流しこまれ、ただ黙って飲み干すと、首を振る。現実を拒否するかのように左右に何度も。


「ああ……参ったなあ」

「……本当に、魔法、使えなくなっちゃったの?」

「うん、そうみたい。ずっとね、感覚が消えてるんだ。一般人ってこういうものか」

「そっかあ……」


 クランにはやはり、言うべき言葉は出てこない。

 すると、オルクスが、てちてちと寄って行き。


「ねえ、シャハールおにーさん! 僕ね、答え見つけたの!」

「……え?」


 すっかり忘れていた、と言わんばかりに、シャハールは驚いて振り向く。

 オルクスに出していた、あの宿題。――クランが本当にしてほしいことは、何か。クランがオルクスに望んでいることは何か。

 オルクスは、シャハールにきらきら輝く瞳で伝える。


「ただ駆け付けただけの僕に、クランがありがとうって言ってくれた時、分かったの。僕は、弱くて、足手まといかもしれないけど、クランの力に、ずっと……今でも、なってるんだって」

「……」




「だから、僕がクランにしてあげられる一番のことは。……クランの傍で、笑っていることだよ」




 その答えを聞いた時。

 思わずクランは、オルクスを抱き寄せた。


「わ。わわ!?」

「ありがとうな、オルクス」

「……えへへー。正解?」

「勿論」

「やったー!!」


 きゅっとその目が喜びに細くなる。


「あのね、だからね、シャハールおにーさん! 僕はいつでも、笑って皆の傍にいるから! 安心して! シャハールおにーさんもね!」


 じたばた。クランに抱きつかれながら、彼はシャハールに矢継ぎ早にそう伝える。

 その様子を見て、シャハールが、笑った。久しぶりに、そこはかとなく明るい笑みを見せた。


「……ありがとう、そしておめでとう、オルクス。君は、気付くことが出来たんだ」

「何言ってるのさ、ししょー! これはまだスタート地点でしょ! まだ、シャハールおにーさんに特訓してもらってないよ、僕!」

「え、でも、俺はもう……」

「別に、魔法が使えなくなっても、知識はあるんだろ? せっかく面倒見てやるんだ。ちょっと練習に付き合ってくれよ」

「……そう、だね。うん、そうしよう」


 シャハールは、躊躇いがちに頷く。

 魔法の練習に付き合わせるということが、果たして彼の精神に良いのかどうかは分からなかった。ただ、羨望させてしまうだけかもしれない。しかしだからといって、毎日毎日ベッドに横たえておいては動く心も動くまい。


「わーい、決まりだね! 僕頑張るよ! 強くなって、精神面じゃなくて、肉体面でもいっぱい力になるんだから!」

「はいはい、はしゃがないでくださる、オル。お茶そこにあるんですから……」

「きゃー!!」


 シャーリィの忠告はフラグとしての機能しか持たなかったようだ。

 案の定、オルクスの手がクランのお茶に当たり、零れる。


「あーあーあー……」


 玄関へと溢れたお茶が流れていく。どうもこの家、微妙に傾いているらしい。

 ……と。皆が目で追っていた時、その先、玄関のドアが叩かれた。


「……ん? なんだろう」

「もしかしてティベリオの言ってた見舞いじゃねえか」

「私、出ますわね。クラン、拭いておいてくださる?」

「炎でガッと乾かせばいい?」

「……やっぱりオル、拭いておいてくださる?」

「はあい!!」


 理不尽。……でもない。オルクスがしゃがんでお茶を拭き取る。

 そして、シャーリィが扉を開ける。


 そこには、メイドさんが立っていた。




「失礼いたします。オランジェ・ハーチェイス。ティベリオ様のご依頼で、今日から使用人としてこちらに働きに参りました」




 シャハールがお茶を吹いた。

 クランが火を噴いた。


「見舞いの品って……人かよ!!!」

「ははは! こりゃいい、分かってるなあ! 私のドストライクだ!」

「ふふ、誠心誠意働きますので、宜しくお願いいたしますね」


 ぺこりと頭を下げるオランジェ。

 ティベリオの大胆なサプライズ見舞いは、かなり効果覿面だった。オルクスの励ましのせいもあるだろうが、シャハールはそのあと、とても明るく笑えるようになった。オランジェは派手ではないが素朴で明るく、クラン達とも直ぐに打ち解けることが出来た。


 こうして。

 新たな住人のオランジェを加え、五人はそれから一カ月の間、何事もなく鍛錬の日々を送ることになる。少しずつ、日常を取り戻しながら。


 つかの間の休息。

 水面下では、功績を取ろうと躍起になった第四位たちがクラン一行に目をつけ始めていたが――それは、これからの話だ。




(第十三話 了)

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