第二十回 菊花の約
白無垢のようだった。
純白の着流し。大小を落とし差しにした楊三郎と、睦之介は向き合っていた。
一貴山の山頂。不動尊の傍である。
かつて、御前試合の勝利を願う為に、この不動尊を二人で訪れた。その帰り道で人を初めて斬り、そして楊三郎を初めて抱いた。
ここしかない、と思った場所だった。そして、楊三郎は思った通りに待っていたのである。
だが楊三郎は、この場に相応しくない、花嫁を思わせるような姿だった。唇には紅すら差している。まるで女。怡土にいる時でも、今のような格好を目にした事がない。
それ以外は、何も変わっていなかった。月代も綺麗に剃り上げていて、長い流浪を感じさせない、かつての美貌はそのままである。ただ、ハッとするほど蒼白く、手足は悲しいまでに痩せていた。
一方の睦之介は、下げ緒で袖口を絞り股立ちを取って鉢巻という、まさに決闘に挑む姿である。
「菊か」
睦之介は、最初にそう言った。
楊三郎が、菊を手にしていたのだ。淡い桃色の菊。好きな色なのだろう。
「
と、楊三郎が語りだした。口元は綻び、妖艶な色気がふうっと浮かび上がる。
「多くの人を斬りました。幕吏に追われもしました。この世の地獄とは、京師の事かもしれません」
「それは判る。だが何故、怡土に戻った? 何故に逃げなかった? 勤王党が粛清された事は耳に入っていただろう」
楊三郎は、微笑で応えた。何を今更。そう言われた気がした。
「潤惟文から、お前が死んだと聞かされた。どうやらそれは嘘だったようだな」
「潤先生はそう申されたのですか」
「ああ。頭から信じてはいなかったが」
「あながち間違いではありませんね。私は既に死んでおります。今こうしているのは、私の魂魄です」
「戯言を申すな」
楊三郎は一度目を伏せ、そして口を開いた。
「睦之介さんは、所帯を持たれたようですね。相手は大須賀様のご息女だとか」
「知っていたのか?」
「京屋敷で聞きました。ご祝儀など贈ろうかと思いましたが、そんな暇もなく申し訳ないです」
「責めないのか、俺を。お前を待たずに他家の養子になったのだぞ」
「いいえ。恨みませぬ。私は妻になれませんし、いつかは終わりにしなければならなかったのですから」
「……」
「そう思っても、私の気持ちは変わりませんでした。伸びるに任せた月代を剃り、危険を冒し、城下で着物を
返す言葉が無かった。自分は楊三郎を棄てたのだ。批判は覚悟していたが、謝る以外に言葉が見付からない。
「おめでとうございます」
「すまん」
睦之介は、一つ大きな息を吐いて三之平兼広を抜いた。
「私を斬るのですね」
「そうだ。お前は、俺の親父を斬った。そして逸平も」
「……織部様と逸平殿を斬ったのは私ではございません。私が怡土に戻ったのはつい先日の事ですから」
「この期に及んで何を言う」
「本当です。その証拠に、織部様を斬った者を捕え、この先に縛っています」
と、楊三郎は不動尊の裏手にある小道を指で示した。その道は、鬱蒼とした山中へと続いている。
「本当か?」
「嘘など申しませぬ。ですが、この先に進むのは私を斬ってからにして下さい」
「楊三郎」
睦之介は声を荒げたが、楊三郎は首を振り、立ちはだかるように両手を広げた。
「その者に指図をした黒幕の名だけは、今教えますよ」
「誰だ」
「原田右近将監種堅」
その時、目の前に菊が迫った。楊三郎が投げたのだ。その奥。眩い白刃の閃光が見えた。
楊三郎の抜き打ちだった。慌てて躱したが、左の
「貴様」
叫んだが、また次の斬撃が迫り、睦之介は必死にそれを払った。
「卑怯だぞ」
左鬢から流れる血を右腕で拭いながら言うと、楊三郎は低い声で笑った。
「卑怯でなければ、地獄で生き残れませぬ」
「何を。大体、お殿様が何故に親父を斬らねばならぬ。お殿様は親父が殺された事に激昂し、お倒れになったほどなのだぞ」
睦之介は、敢えて本心を隠して言った。そうする事で、何かを引き出せるかもしれない。咄嗟の判断だった。
「演技でしょうね。右近将監は藩主親政の為に、織部様に私の父を殺すように仕向け、その後で織部様を。現に今は着々とそれに向かっているのでしょう?」
「では、何故お前がそれを知っているのだ」
「……」
「答えられぬ所を見ると、それは虚言であろう」
「どうでしょうね」
「真実を言え。頼む。言ってくれ。右近将監が父を斬るように命じたのか」
楊三郎は、是とも否とも取れぬ表情を浮かべるだけで、何も答えず、すうっと片足を一歩引いた。
そして、再びの対峙になった。
睦之介は八相。楊三郎は下段である。
距離は三歩ほどか。楊三郎は、下段に構えてこそいるが、ただ立っているように見えた。力みを身体のどこにも感じない。ふと、そこに佇んでいる。そう思える構えだ。
風が吹いた。草木が騒ぐ。昨夜の雨は止み、今は昼前の陽光が強い。
楊三郎が、刀を正眼に変えた。自然な流れだが、そこで楊三郎の眼光が変わった。
痩せた身体から発せられた氣が、全身を覆い被さってきた。それは、黒く重い闇。純然たる殺気だった。背中に冷たいものが伝わる。これが人斬りというものなのか。
(捕縛など考えたら死ぬ)
睦之介は、心気を落ち着かせた。出来る限りの準備をしたのだ。相討ち覚悟。身を捨てる事で、勝機が生まれるかもしれない。
氣が満ちず、潮合いを待った。だが、楊三郎の圧力は凄まじく、腹に力を込めなければ、そこで失神してしまいそうになる。
楊三郎の剣だけを見た。
銘は
殺気に潰されそうになる。抗うように氣を放つ。それでも意識が遠くなる。
楊三郎はどうだろうか。俺の圧力を感じているのか。或は、歯牙にも掛けず笑っているのか。
氣を振り絞った。楊三郎の氣も大きくなる。
動け。斬り込んで来い。楊三郎の声が聞こえる。幻聴だ。焦れるのを誘っているのだ。
お前が動くなら、俺も動いてやる。そう意を決した瞬間、ほぼ同時に踏み出していた。
猛然と走り寄る。楊三郎の顔。まるで獣の形相だった。
斬光が交錯する。楊三郎の斬り上げを躱しながら、睦之介は斬り下げた。
斬った。と思った。が、そこには楊三郎はいなかった。
足の指で土を掻き、振り向く。目の前には、抜身の白。蛭川歌仙丸。だが、それは眼前で止まった。
長い、一瞬。目が合う。楊三郎。口元が緩む。白い肌に映える、紅を差した唇。笑っている。お前。と、言おうとした。しかし、振り下ろす手が止まらなかった。
三之平兼広が楊三郎の首筋に食い込む時、楊三郎は初めて抱き合った時に見せた、恍惚とした表情を浮かべていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
楊三郎を不動尊の傍に寝かせると、睦之介は裏手にある小道に向かった。
山中にある一本道である。倒木が往く手を遮り、乗り越える度に道が険しくなる。
人が倒れていたのは、拓けた場所に出た所だった。
骸の数は、十二。格好だけ見ると百姓や猟師だが、刀や鉄砲を手にしている所を見ると、刺客の類であるのは間違いない。
(楊三郎の仕業か)
全て一刀で始末されている。鬼神のような太刀捌きだったのだろう。斬り口からでも、その光景が見て取れる。
不意に、笑い声がした。声がした方へ目を向けると、巨木の根本に男が座っていた。
「貴様は」
村内壮之丞。書院番士で、種堅の側近を務める男だ。縄で戒められ、身動きが取れないでいる。
「お前が勝ったのか」
村内が、睦之介を見て言った。睦之介は、それに首を横にして応えた。勝ってはいない。勝ちを譲られたのだ。その意味が判らず、睦之介の心に重く沈殿している。
「だろうな。お前の腕では加藤楊三郎を斬れぬ。私ですら何も出来なかった程の相手だ」
そう言って、村内は鼻を鳴らした。
「訊きたい事がある」
「何だ?」
「この死体は何だ?」
「俺の手下だ。お前と楊三郎が斬り合い、生き残った方を襲って始末しようと思ったのだがな。逆に楊三郎に襲われてしまった」
「何故俺たちを?」
「邪魔だからさ。楊三郎を殺すのは口封じ。お前を殺すのは危険を排除する為だな。お殿様はお前を気に入っておられるが、谷原織部を父に持つお前は、お殿様にとって危険な存在だ。それに、私の出世の邪魔でもある」
「口封じと言ったな。お前が俺の親父を斬ったのか?」
「私ではない。楊三郎だ」
「だが、楊三郎はお前と言った。どちらかが嘘を吐いているという事になるな」
「私と楊三郎、二人で斬ったという選択肢もあるのではないか?」
襲ったのは一人。それは今までの探索で導き出された答えだった。勿論、それが間違っているという可能性もある。
「では、お前は誰に指示したのは誰だ?」
そう訊くと、村内は堪え切れないように吹きだした。
「誰だと? 誰だと訊いたのか? そのような事を言えると思うのか」
「右近将監か?」
その質問に、村内は破顔した。そこに潜む狂気の色を微かに感じた。
「俺は江戸で浪人だった。三代前からな。浪人というものは、世間の屑さ。その身分から引き上げてくれたのがお殿様だ。言わば恩人だ」
「屑が屑を引き上げるとはな」
「己の主君を屑と呼ぶか」
「俺は好んで怡土に生まれ、右近将監の家臣になったのではない」
「そのような事を言っていいのか? 私が今の言葉をお殿様に言えば」
「その心配は無用だ。お前はもう二度とこの山を下りられぬ」
そう言って、睦之介は脇差を抜いた。
「ほう。私を殺すのか?」
「いや」
この男には、訊かねばならぬ事が多い。怡土を巻き込んだ陰謀の真実を、残らず吐いてもらう。ただ、それは口で訊いても無駄な事だろう。ならば。躊躇いはない。この手を穢す覚悟は、既に出来ている。
「まさか。やめろ。それでも貴様は武士か」
「何を今更」
睦之介は村内の髷を掴み上げると、脇差の切っ先を左眼にあてた。
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