第十六回 憤怒

 目が覚めると、晴れていた。

 昨日から降っていた雨は、すっかり止んだようだ。

 朝。外に目をやると、木々の葉に残った雨粒が陽の光を浴びて輝いている。庭から吹き込む風が穏やかで、これが目覚めを優しく促してくれたのだろうと、睦之介は思った。


「おはようございます」


 睦之介の起床を察してか、紀和が部屋に現れた。


「随分と寝た気がするが」

「長旅でお疲れだったのですから仕方がありませんわ」

「惰眠を貪ったが、まだまだ足りん」


 睦之介は大きな欠伸をして、厚い胸板を掻いた。


「昨日の今日ですもの」

「まぁ、無理もないか」


 と、睦之介は一つ溜め息を吐いた。

 昨日の事である。睦之介と赤橋は、旅塵りょじんもそのままに登城し、種堅に拝謁した。

 種堅は交渉の結果に殊の外喜び、赤橋の手を直々に取って格別の恩賞を約束した。恐らく、若年寄か中老への昇格はあるかもしれない。勿論、種堅派として。それを赤橋は喜ばないだろう。彼の胸の内を知った今は、それが手に取るように判る。赤橋は、もっと先を見ているのだ。

 また種堅は、自分にも肩に手を置き、相変わらずの饅頭顔に笑みを浮かべて声を掛けてくれた。


「そちの労にも報いねばの」


 笑顔は崩してはいないが、何かを試す、そんな目付きだった。


(何を言われても驚くまい)


 そう自分に言い聞かせた。

 種堅ほど考えが読めず、何を仕出かすが判らない男は、今の怡土にいない。それが怖いとさえ、睦之介は思う。


「父のように切れ者で、それでいて剣術達者。そちの力量、大須賀家には勿体無いのう」

「そのような事は」


 睦之介は、平伏し答えた。


「謙遜するでない。そちには目を掛けておる。ようよう調べさせたのだ」


 そう言って、種堅は扇子で口元を隠し一笑した。次に何が来るのか。睦之介はそれだけを待った。


「どうじゃ、兄に代わって谷原家を継がぬか?」


 ほら来た。やはり、これか。

 想定内だが、まさか無いだろうと思っていた。その驚きもあるが、睦之介は顔を伏せたまま堪えた。やはり、この男は判らない。


「そちは上の二人より使えるからのう」

「それは勿体無いお言葉。しかしながら、私は既に大須賀家に入った身でございます」

「なぁに、大須賀など何とでもなろう。養子など明日にでも入れられるわ」

「私は兄達ほど勤勉で優秀ではございませぬ。それに、私は今の立場にいてこそ、殿のお役に立てまする」

「ふむ。そうかのう」


 興味を失ったのか、種堅は踵を返し、話はそれで終わった。

 谷原家を継ぐなど考えた事もない。自分は放蕩に耽った部屋住みなのだ。今更、家を継ぎたいとも思わない。

 その後、帰宅し風呂に入ったが、そこで眠り込んでしまった。紀和に起こされ、這うように布団に入ったが、意識は殆ど無かった。

 身体に残る倦怠感は、疲れより寝過ぎた故かもしれない。兎も角、三日の休暇を貰ったのだ。久し振りの骨休めにはなる。あの種堅が、谷原家を自分に継がせる事を諦めたとも思えない。しかし、まずは休息だ。今後の事はそれから考えればよい。


「どうかなさいました?」


 物思いに耽る睦之介に、紀和が声を掛けた。


「いや、歳かな。あと三刻は眠りたい」

「まぁ」


 紀和が、口に手をやって笑い、


「嫡男も作らずに老け込むのは早うございますよ」


 と、紀和が大胆に言ってのけた。放埓で物怖じしない。そして肝が太い。そこが、この娘の魅力でもある。


「朝餉の支度を致しますね。睦之介様は顔を洗ってきて下さいまし。ほら、折角の色男が台無し」


 紀和が差し出した手鏡を覗くと、確かに何とも言えぬ腫れぼったい顔をしている。


「今少し朝寝をしてみたいが、このような顔では女房殿に嫌われるか」

「ええ。紀和は美男子が好きなのでございます」


 睦之介は渋々立ち上がると、顔を洗い砂を撒いたような髭に当たった。そうする頃には、居間に膳の準備が整っていた。


「さ、朝餉だか昼餉だか判りませんが、お召し上がり下さいませ」


 根深汁に豆腐。粥に香の物と、身体に優しい膳立てだ。


(病人ではないが……)


 そう思いながらも箸を進めたが、これが何とも腹に染みた。旨いだけではなく、妙に力が湧いてくる。これが、女房の手製だからだろう。久しく紀和の料理を口にしなかったのだ。

 少し見ぬ間に、紀和も随分女らしくなった。出会った時は日焼けした少年のような小娘だったが、今では些か丸みを帯び、肌も白くなっている。子を成すのも、そう遠くはないだろう。


「義父上は?」


 睦之介は、給仕をする紀和に訊いた。


「もう御登城されておりますよ」

「そんな時間なのか」

「ええ」


 紀和が含み笑いを見せると、睦之介は腕を組んで空に目をやった。陽は既に高い。まるで浦島太郎の気分である。


「そういえば三日の休みを貰ったのだがな」

「父から聞き、存じております」

「二人で何処ぞにでも行くか?」

「えっ、宜しいのですか?」


 紀和の声が一段と弾んだ。


「折角の休みだ。骨休めしたい。三丈さんじょう蝮湯まむしゆという温泉がある。城下からもそう遠くない」

「そうと決まれば、早速支度をしなくてはいけませんね」

「ふむ。任せていいか?」

「あっ……」


 と、紀和はハッとした表情を見せた。


「父が一人になってしまいまいます」


 生真面目に言う紀和を見て、睦之介は鼻を鳴らした。


「構わんだろう。人は一日食わんだけでも死にはしない。それに義父上は、藩内には並ぶ者なき軍師。自分の飯ぐらいその知謀で何とかするだろうよ」

「まぁ、厳しい」

「義父上が俺の立場でも、同じ事を言うさ」


 思えば、紀和と遠出というものをした事がなかった。夫婦二人で何処かに行こうと話はするが、いつもそこで終わっていたのだ。


「紀和、今日中に」


 そこまで言った時だった。

 氣。何かが近付いて来る。庭だ。目を向けると、息を切らした男が跪いていた。

 駒の一人、次郎太じろうたである。この若い密偵は大須賀の駒で、実父である谷原織部に張り付けさせていた。


「次郎太、どうしたのだ」


 睦之介は尋常ならざる雰囲気を察し、箸を置いて立ち上がった。


「申せ」


 睦之介は、縁側まで出た。後ろでは紀和が心配そうに見つめている。


「睦之介様……」


 次郎太は、全身に大粒の汗を浮かべていた。隠してはいるが、傷を負っているのだろう。微かに血の臭いがする。


「笑えない冗談はよせよ」


 睦之介は、次郎太の言葉を聞いて笑ってしまった。しかし、その顔が引き攣っているのも、痛いほど感じていた。


「織部様が、お亡くなりに」


 声色には、強い抑制がある。それが、嘘ではないと言っていた。


「親父が。あの親父が死んだと言うのか」


 睦之介は、裸足のまま庭に下りた。次郎太が更に深く平伏する。


「いつの事だ?」

「昨夜遅く、田原の御別邸にて」

「その傷は、親父を襲った者からか?」


 次郎太が腹を押さえて頷く。その表情は更に苦しくなっていた。


「屋敷からの悲鳴を耳にして忍び込んだ所を襲われました。何とか一刀で済みましたが」

「種堅か」

「え?」

「殺ったのは原田種堅か、と訊いているのだ」

「それは」


 思わず、その名が出ていた。父が消えて最も喜ぶのは、あの男の他にはいない。種堅が、父に刺客を放ったのだ。


「死んだのか。あの親父が」


 人は容易く死ぬ。それは、この右手が一番知っている事だ。だが、あの父に限ってはと、信じられないし、信じたくはない。


「睦之介様」


 紀和が庭に進み出て、その袖を掴んだ。


「紀和。次郎太の手当てを」

「ええ、でも睦之介様は」

「すまん」


 睦之介は、紀和の手を振り払うと、跳ねるように駆け出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 鞍上の睦之介は、志布郡田原に向け疾駆していた。

 風が全身を打つ。田原は谷原家の所領だが、実際に訪れた事は少ない。普段は城下に住んでいて、領地の運営は庄屋と家臣に任せているのだ。

 城下を瞬く間に抜けた。人の視線など、気にはしない。

 本当に死んだのだろうか。落ち延びて生きてはいないか。護衛の逸平はどうしたのだ。そうした疑問が、幾度となく浮かんでは消える。

 田原に着く直前に馬が潰れた。宙に投げ出されたが、転がる反動で立ち上がると、そのまま走り出した。

 別邸が見えてきた。数名の武士が門前を固めている。


「何者だ」


 棒を突き出され、誰何すいかされた。見た事もない武士である。


「退け」

「名乗れと申しておる」

「睦之介。俺は谷原織部の三子だ」


 そう叫び、武士を押し退けた。

 屋敷に入ると、血臭と死人が垂れ流す糞尿の臭いが鼻を突いた。思わず顔を顰める。慣れたはずだが、平気というわけではない。だがそれ以上に、その視界に飛び込んだ惨憺さんたんたる地獄絵図に、睦之介は絶句した。

 屋敷が、血の海なのだ。襖や障子が、鮮血に染まり、屍が幾つも横たわっている。


「どういう事だ」


 答える者はいない。皆、死んでいる。武士だけではない。下働きの女中や下男、そして別邸に置いていた側室まで殺されていた。まさに、鏖殺おうさつである。


「おい、嘘だろう」


 父の私室。逸平が倒れていた。胴を抜かれ、眉間から鳩尾まで斬り下ろされている。しかし、父の姿は何処にも無い。

 庭に目をやると、池が真っ赤に染まっていた。


(まさか)


 駆け寄る。人が仰向けに浮いていた。顔を覗く。骸は、執事の井上久兵衛だった。


「井上……」


 父の代わりに、愛情を示してくれた老臣である。いつも自分を庇ってくれていた。博打でヤクザと問題を起こした時も、井上が話をつけてくれた。


「睦之介」


 名を呼ばれた。振り向くと、大須賀が立っていた。


「義父上」

「聞いたか」

「次郎太から。それで御家老は?」

岳元寺がくげんじに」


 そして、首を振る。その意味は判った。睦之介は、両手を握り締め、そして何度か小さく頷いた。


「行きましょう」


 何とか、声を絞り出せた。

 岳元寺は、別邸の近くにある時宗の寺院だ。住持は谷原家の元家臣が勤め、田原荘の相談役もしている。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 岳元寺まで、大須賀と歩いた。足は自然と早まるが、それを何とか抑える。もう急ぐ事はない。父は逃げずに待っているのだ。

 山門が見えてきた。胸が鳴る。この先に父がいるのだ。そう思うと、些かの怖さもある。

 山門を抜けると、境内に二十名ほどの武士が控えていた。その中に、赤橋がいた。睦之介の姿を認めると、頷いて本堂を一瞥した。


「会ってこい」


 大須賀はそう言って、赤橋の所へ歩いて行った。

 父は、本堂に寝かせられていた。側には、長兄・谷原金弥たにはら きんやと次兄の波多江主馬はたえ しゅめ。二人は駆け付けた睦之介を見て、力無く目を伏せた。


「兄上、これは……」


 父を間近に見て、睦之介は強烈な衝撃を覚えた。

 首が無いのである。


「何と……何とした事か」


 血が逆流するような憤怒が、腹の底から湧いた。父は多くの勤王派を弾圧した。こうなる結果は想像できた。しかし、だからとて首を奪われた事を受け入れられるはずはない。

 嫌いだった。権力の上に胡座をかき、はみ出し者の自分を蔑む父が。だが、実の所は好きだったと、首の無い父を前にして思う。この憤怒こそが、父への愛がなのだ。


(何故、もっと父に……)


 という後悔は、父を悲命の内に倒した賊への怒りを更に煽った。


「昨夜遅く襲われた」


 言ったのは金弥だった。


「首の所在は?」

「まだ何も判らん」


 今度は、主馬が答えた。


「恥辱の極みだ。谷原織部の子として、是が非でも仇を討たねばならん。必ずだ」


 そう言った金弥が、睦之介の顔を見た。

 その視線は、


「お前が討て」


 と、言っていた。

 睦之介は、頷いてみせた。判りきっていた事だ。金弥も主馬も仇を討つ腕はなく、今や門閥の家長だ。


(俺とて大須賀家の当主なのだが)


 そう思わくもないが、家格は谷原・波多江に比べてかなり低い。成り上がりの武家である。


「いいですかな」


 赤橋と大須賀が入ってきた。二人の兄が恭しく頭を下げる。


「お話をお伺いしたい」


 赤橋が金弥に訊いた。


「構いませぬ」

「かたじけない。ご遺体の検分は後でするとして、何やら下手人の遺留物があったとか」

「ええ」


 金弥は、書き付けを一枚取り出した。


(斬奸状か)


 と、思ったが違った。

 書き付けには、流麗な字でただ天誅とだけ書いてあった。


「天誅とは、勤王党の仕業でしょうか?」


 主馬の問いに赤橋は答えず、睦之介に視線を向けた。お前が答えろ、という事だ。


「天誅とある以上、その可能性は高いです。しかし、それで撹乱する為だという事もあり得ますので、予断は出来ません。父の座を狙って、同じ佐幕党が刺客を放った可能性もありえます」


 もしくは、藩主・種堅。そこまでは言わなかった。誰もが気付いているのかもしれないが、決して言えない言葉だ。

 赤橋の代わりに睦之介が答えると、二人の兄は少し驚いた顔をした。

 兄達は、きっと剣と酒色にしか興味のない男だと思っているのだろう。確かに、以前まではそうだったが、今は違う。曲がりなりにも、目付組筆頭与力である。

 それから遺体の検分になった。

 睦之介は、席を外された。見聞には太刀筋を読む玄人の与力がいて、赤橋と大須賀の三人とでするという。

 睦之介は、寺男の案内で別棟の庫裏に移動した。

 父を死なせた。井上も死なせた。逸平も死なせてしまった。

 許せないが、父は仕方ない。殺されても仕方がない憎悪を抱かれている。井上は、忠義を尽くした事になる。しかし、逸平は違う。自分が死なせてしまったのだ。


(俺が、逸平を父の護衛に推さなければ、死なせる事もなかった……)


 後悔しかない。そして、怒り。どうしようもない重みが、双肩に圧し掛かる。


(どうすればいいのだ)


 脳裏に、楊三郎の顔が浮かんだ。久し振りに、あの美しい相貌を思い出す。


(楊三郎に何と言えばいい)


 逸平は楊三郎をどこかで嫌っていたが、楊三郎は友だと思っていた。その楊三郎も、今は行方不明。生きていても、戻って来る事はまずないだろう。

 楊三郎は脱藩して逃げていた。父の加藤甚左衛門は切腹し、怡土は完全な佐幕政権になっている。もう楊三郎が戻る場所は此処にはないのだ。


「大丈夫か」


 大須賀が来た。


「義父上、検分は終わられたのですか?」

「いや。だが、お前が気になってな」

「そうですか」

「谷原様は、袈裟斬りにされていた。太刀筋を見るに、見事な腕をしている」

「賊は一人なのでしょうか?」

「判らぬ。しかし、別邸を襲ったのは一人だろう。次郎太もそう申していた」

「恐ろしい腕です」

「だが、そうなると絞り込みも容易い。ここまでの使い手はそうおるまい」

「そうですね。私でも出来ぬ事です」


 これほどの剣客がいるのか、と睦之介は思った。もし仮にいるとすれば、鬼神のような男であろう。


「間違っても、一人で何かしようとは思うなよ」

「……」

「紀和が悲しむ」


 睦之介は下唇を強く噛み、小さく頷いた。

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