第十五回 雨に滅びぬ
雨が降っていた。
逢魔ヶ刻に降り出し、夜半になっても止む気配はない。むしろ、雨足は強まるばかりだ。今も、雨戸を、激しく叩いている。
その私室。百目蝋燭の下、織部は雨音の喧しさを感じながら書類に目を通していた。
一人だった。周りは誰もいない。時折、宿直の家士が邸内を見回る足音が聞こえるだけだ。
この静寂さを、織部は好んだ。元来、人嫌いである。一人こうしていると、ふと妙案が浮かぶのだ。二ノ丸家老屋敷を離れ、遥々田舎までやって来たのも、妙案を求めての事である。
その奇癖と呼ぶべき行動は周知されたものであり、執政府の誰もが認めていた。あの種堅とて、その一人。城下を離れる前に拝謁し許可を得たが、
「また難しい問題でもあるのか」
と、珍しく心配する素振りを見せた。それに対して織部は、
「いえ、殿の宸襟を騒がすほどでは。全ては私の非力故の事でございます」
とは答えたが、怡土藩が抱える難題は山積していた。
田原の別邸に来て二日。未だ織部には妙案が浮かばなかった。内政。財政。外交。軍事。そして、藩主との関係。その全てに於いて、追い詰められている。まるで真綿で首を締められているような、そんな息苦しさが藩内には漂っていた。このまま手を拱いていると、藩政停滞を咎められての失脚もありえる。
(どうにかせねばならぬ)
そのような気持ちで、田原の別邸に足を向けた。無能揃いの執政府で、織部が相談するに能う者はいない。解決策は自らの内にあり、それを引き出すには、
だが、書類を読み進める織部は、
「愚か者めが」
と、吐き捨てた。
(一体何を考えておるのだ)
その書類は、中老・深江大炊助から提出された意見書で、軍制改革に関わるものだった。
深江によれば、
「今や世は乱れ、兵備の有無が幕府内、ひいては日本での発言力に繋がっている。しかし、先の合戦で我が藩軍の脆弱さが白日の下に晒された。これを改善する為には、常備軍の創設と最新式の鉄砲の導入が不可欠である云々」
と、続いている。
(そんな事は判っている)
織部は、更に舌打ちをした。
判っているが、出来ない。その理由は一つ。銭が無いのだ。
財源。それさえあれば、軍の一つや二つ作ってくれてやる。
意見書には、軍制改革の重要さを説いただけで、それを行う為の財源確保、或いは財政政策には言及していない。つまり、理想を並べ立てただけの画餅である。
(大炊助は銭が湯水のように湧くとでも思っているのか。度しがたい馬鹿だ)
織部は苦虫を噛んで、無知蒙昧の徒を侮蔑した。
大炊助は、名門・深江家の若き当主である。大炊助の父は、かつて織部が世話になった元上役であり、その恩返しとばかりに息子を中老に押し上げた経緯がある。無能なだけならまだ可愛げがあるが、最近では中老に抜擢した恩を忘れ、種堅に接近しているという。種堅が避暑していた雁ノ首別邸に度々呼ばれていた事を、織部は密偵を使って掴んでいた。
(所詮は家柄だけの男よ……)
自分とは違う。
かと言って、他に中老に相応しい者はいない。強いて言えば大目付の赤橋頼母とその軍師たる大須賀要蔵ぐらいのもので、後は似たり寄ったりの小役人ばかりだ。人材の欠乏もまた大きな問題であり、それがこの藩が末期である事を如実に表している。
いっその事、藩など無くしてしまえばいい。最近、そう思う事がある。幕府が、この国の全てを統治するのだ。武士が役人として登用されるには、
(少なくとも、家柄だけの無能者が幅を利かす事はなかろう)
思い返せば、織部が藩の政権を手に入れるまで、この藩は無能者ばかりであった。今でも似たようなものだが、当時の執政府は特に酷かった。
緊迫した財政難に対して効果的な政策を打ち出せず、むしろ数度に渡る改革はその傷口を広げるだけの無意味なものばかり。政局を優先した政事は、盛夏の
「我らならやれる。執政府を覆さないか」
と、甚左衛門を誘ったのは、織部だった。
織部は当時勘定奉行で、殖産方頭取だった甚左衛門の俊英さは噂に聞いていた。密偵を使い甚左衛門の
夜な夜な、二人で議論を重ね、
・生糸・
・
・再検地による年貢見直し
など十二ヶ条からなる財政再建案を打ち出した。当然執政府からの猛烈な反対はあったが、そこは賂を使って押し通した。弱味を握って脅しもした。自分も甚左衛門も、成り上がる為なら穢れる事もいとわなかったのだ。結果として財政は少しずつ好転の兆しを見せ、何とか上方商人への借財返済の道筋が立つと、二人は中老に取り立てられた。二人で功績を別けあっても、得られた名誉は莫大なものだったのだ。
今思い返せば、甚左衛門との関係が切れたのは、その頃からだろう。そもそも、友ではない。寧ろ出世を競う相手で、共闘するまでは口を利いた事も無かった。それでも手を組んだのは、絶望的な財政難という問題が目の前にあり、これを解決すれば計り知れない功績を得られるという野心と、その為に手を組める有能な者は、甚左衛門しかいなかったからだ。
目的の為に、一時的に手を組んだ。故に、中老になって縁が切れたのは当然の帰結だった。
それまで藩の閣内では、譜代家臣を中心にした保守派と、新参家臣を中心にした改革派が争っていた。中老になると、甚左衛門はいち早く改革派に身を投じたので、織部はごく自然な流れで保守派に属した。
「一つの群れに、二頭の頭はいらぬ」
甚左衛門が、そう言ったのを覚えている。
暫くすると黒船が来航し、保守派は佐幕、改革派は勤王と転じ、血臭を伴った政争が始まった。
財政が再び悪化したのも、その頃からである。これについては、織部に苦々しい思いがある。政争にかまけ過ぎて、財政再建の手が緩んでしまったのだ。甚左衛門も同じ思いだったに違いない。皮肉にも、自分達が蔑視した、改革前の執政府に戻ってしまっていたのだ。
(結局、儂と甚左衛門ぐらいだったか。藩の宰相を任せられる人材は)
しかし、その甚左衛門は死んだ。種堅と共謀し、勤王派を排除した上で、切腹を命じた。そうしなければ、いつか自分が殺されていただろう。それだけ、瀬戸際の争いをしていたのだ。
切腹には、直々に立ち合った。甚左衛門は一言だけ、織部にこう言った。
「託す。これからの正念場を」
と。その時は、言葉の意味が判らなかった。ただ、今では判る。好敵手がいなくなり代わって現れたのは、理不尽なまでに巨大な権威だった。甚左衛門は、種堅の野心を看破していたのだ。
「託す」
その言葉が、いつまでも胸のしこりのように残っている。
殺すべきではなかった。そう後悔し、長い夜を過ごす事も一度や二度ではない。
(今更、詮無き事を)
織部は、上申書から顔を上げて深い溜め息を吐いた。甚左衛門を頭の隅に追いやった。藩の大事は、今後の人材である。
(だが、そうなれば儂の息子達も危ういな)
織部は内心で苦笑した。
息子は三人いる。嫡男の
(結局、睦之介ぐらいか)
勿論、あの放蕩児に家老の才覚があるとは思えない。だが、少なくとも、独力で道を切り開いた。それも、自分が忌み嫌う剣を以てである。父に対する皮肉にも感じられたが、それが返って睦之介らしく、また二人の兄よりは見所はあると評価していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「織部様」
襖の外で声がした。
井上久兵衛の声だ。井上は、織部より二十も上の、谷原家執事である。父の代から仕え、未だに奥向きの事は万事差配していた。
「入れ」
許可すると、井上は織部の前に
「今、
「うむ」
井上は執事の他に、密偵の頭として諜報を取り仕切っている。その事実を知っているのは、織部ただ一人。家中は元より、三人の息子も知らない。
「睦之介様が、隈府よりお戻りになられました」
「
「本日の夕刻。海路での帰国であったそうです」
「海路?」
「
「紺屋というと、博多の廻船問屋だったか」
「ええ。ただ、その実は隈府藩の御用船と思われます。紺屋は隈府藩と深い関わりがございます故」
「なるほどのう」
御用船での帰藩。つまり、隈府藩との交渉が成功したという事か。
(難しい交渉だったであろう)
隈府との交渉役を任されたのは、赤橋頼母。今の藩内では、数少ない使える男である。その赤橋に睦之介が随行したのは、交渉の助役というより護衛の為に違いない。
「睦之介様は赤橋様と共に、その足で種堅様に拝謁なされました」
「ふむ」
隈府藩との連合について、織部は何も聞かされていなかった。藩主の独断である。その報告を、藩主の小姓として潜ませていた密偵から得た時、取り乱すほどの怒りと衝撃を覚えた。どうして外交上の大事を、何の相談もせずに決めてしまうのか。しかも内容は、幕府に対して背信行為とも取られるものである。井上に止められなければ、雁ノ首別邸に怒鳴り込もうとさえ思ったほどだ。
だが、手としては悪くなかった。隈府藩は、九州で最大の雄藩である。藩主の菊池隈蘇守は、蘭癖とも呼ばれるほど開明的な人物で、幕府を支える賢公として名高い。また実弟の菊池丹弥は、幕閣とも深い繋がりがあり、今回の荻藩征伐では、参謀方頭取を勤めている。つまり、隈府藩は極めて佐幕色が強い藩なのだ。その藩と手を結ぶのは、悪い事ではない。それ以上に、織部には種堅が勤王ではないという事実を確認できた事は、思わぬ僥倖だった。
怡土勤王党を瓦解させ、藩主との間に緊張関係が生まれた時、藩主が勤王に回るのではないか? という懸念が生まれた。荻藩征伐を前にして、藩主が勤王を標榜し、荻藩の助命周旋をしようものなら、幕府軍の矛先は怡土にも向いてしまう。しかし、隈府藩と結んだ事で、その芽は無いに等しくなった。
「種堅公は何と仰せになった?」
「さて、そこまでは。しかし、睦之介様達の帰りを心待ちにしていたご様子だったとか」
織部は脇息にもたれ、一つ息を吐いた。
この連合を聞いた時以上に織部を怒らせたのは、睦之介だった。
(何故、儂に一言も言わなかったのか)
睦之介とて、怡土藩士。大須賀家の当主である。藩主に口止めされれば、親とて秘密を明かす事は出来ない。それは判る。理解できる。理屈では受け入れられるが、心では裏切られたという思いが強い。
親なのだ。睦之介は嫌っているだろうが、自分は親である。成り上がったのも、自らの名誉欲だけではない。三人の子を安寧に暮らさせる為でもあった。だが、あいつは……。
(いや、よそう)
睦之介が、種堅陣営に取り込まれたとは限らない。それに危惧すべきは、睦之介が自分と藩主の対立の〔渦〕に巻き込まれはしないか、だ。種堅の野望の為に、親子が
「睦之介は、お前のお気に入りだったな」
「怖れながら、三人のお子の中では見所がございます」
「お前は常々そう言っていたな。儂はそれを信じなかったが」
「谷原家の名跡は睦之介様に継がせるべきでしたな」
「ふん、またそれを言うか。あいつは谷原家の名跡など欲してはおらんよ」
井上を下がらせると、織部は
中には、葉巻が詰められていた。長崎から流れて来た舶来品である。長崎会所の役人から得た代物で、所謂袖の下というものだ。
織部は、葉巻が好きだった。酒はしない。煙管煙草も趣味ではなかったが、西洋の煙草は妙に気に入った。始めて葉巻を知ったのは、中老になった頃だ。城下の商人に贈られた。これも袖の下だった。
吸い口を小刀で斬り落とし、百目蝋燭にその先端を近付けた。舐めるように、火を着ける。すぐには着火しない。焦れずに待つ。すると、濃く重い煙が出た。
口に含み、頬に煙を溜め、吹き出さないように口を開けた。煙管のように、吹き出してはいけない。これが葉巻を愉しむ肝だそうだ。慣れるのに時間が掛かった。
鼻に抜けるような、甘い香りが傍に漂う。これが西洋の匂いというものか。暫く目を閉じて香りの中に漂っていると、考え事をしていた頭の中が、整理されるように軽くなっていく。
この香りが好きだ。そして、この瞬間だけは、西洋との交易を有難いと思える。
織部は、開国に対して慎重的だった。勿論、西洋が持つ先進技術は必要だと思う。怡土藩にも、銭さえあれば取り入れるべきであろう。しかし、開国し貿易を始めると、この国の商人や百姓はどうなるか。それが読めない以上は、慎重でいるべきと考えている。
織部は、葉巻を片手に立ち上がると雨戸を開けた。相変わらず、外は雨だ。少し肌寒い。雨気の中に、秋の色が含まれていた。
庭は、枯山水。
庭を溶かす闇の中に、顔が浮かび上がる。白く、身の詰まった饅頭のような、種堅の顔だ。薄ら笑みを浮かべている。
あの男の、暴走を止めねばならぬ。それが、織部の使命になっていた。
(種堅は、いずれ怡土に大きな禍根を残す)
暴君ではない。そう言う者もいる。次男の主馬は、
「むしろ、政事に興味を示し、民を思う名君ではないでしょうか」
などと、戯けた事を言う。
確かに、今の所は暴君のような仕置きはしていない。干拓工事も民の生活を考えての事。隈府藩との連合も、手としては悪くない。だが、あの男は、藩政に介入してきた。それが、問題なのだ。
怡土藩では、その藩主は代々権威だけの存在として君臨してきた。藩政には関われず、執政府の決定を承認をするだけの役目と言っていい。そうなったのには、理由があった。
四代藩主・
種堅は、その伝統に挑んできた。それは全力で阻止せねばならない。たった一人に、権威も権力も集中させる事は危険なのだ。種堅が名君ならばいい。だが、その次が名君とは限らない。また種堅とて、いつ種綱のような暴君になるか判らないのだ。現に、あの男は今まで〔暗君の仮面〕で正体を偽っていた。
正直、今の種堅は何を仕出かすか判らない怖さがある。隈府藩との連合も、織部の想定外の事だった。
(種堅は何を目指しているのか)
それはいずれ訊かねばなるまい。今の種堅からは、思想や志は感じられず、ただ乱世を掻きまわそうとする
(あの男の稚気によって、累々とした屍を怡土の平野に晒す羽目になるやもしれぬ)
そうなる前に、種堅をどうにかせねばならない。
藩主押し込め。いや、後々の事を考え始末するか。その後釜は他家から養子を貰えばいい。血筋的な後継者はいくらでもいるし、仏門に入った種堅の実弟を還俗させる手もある。
(これは謀反だな)
織部は座に戻り、葉巻の灰を煙草盆に落とした。葉巻は既に半分ほど無くなっている。
味も香りも逸品である。しかし、今はその味わいは感じない。織部の心底に、叛心という最高の嗜好品が生まれてしまったからだ。これ以上の美味はない。
知られれば、死罪。藩内の混乱を避ける為に、刺客を放たれるかもしれない。そうなれば、種堅は睦之介に命じるだろう。あの男のは、そうした狂気がある。
(種堅が睦之介に斬れと命じれは、あいつは儂を斬るかな)
そう思うと、織部は自嘲した。
睦之介には、随分と厳しく接した。恨んでもいるだろう。その時は、息子の出世の為に斬られるのも悪くない。親らしい事は、今まで何もしていない、その罪滅ぼしにはなろう。
(では、誰を共犯に引き込むか)
織部は、文机に向かった。
すると、頭が駒のように回り出した。名前と顔が浮かぶ。織部は、その面々を取捨選択しながら、筆を走らせた。
御舎弟、
御一門、
中老、
若年寄、
大番頭、
大目付 赤橋頼母。
(いや……)
そこまで書いて、赤橋の名はすぐに消した。赤橋を筆頭に、目付組は怡土の秀才が集まっている。同志には欲しいが、失敗した時には怡土の人材はいよいよいなくなってしまう危険性がある。それに、睦之介には出来るだけ陰謀に関わらせたくない。赤橋が加わるとなると、睦之介が引き込まれる可能性がある。
◆◇◆◇◆◇◆◇
表が騒がしくなったのは、それから四半刻後だった。計画案が具体的な形になってきていただけに、織部は忌々しく顔を上げた。
慌ただしい足音。その次の刹那、女の悲鳴と男の断末魔が耳を突いた。
織部は書付けを引き出しに仕舞い、刀掛台に手を伸ばした。
「何事だ」
叫ぶと、井上が駈け込んで来た。
「殿、曲者でございます」
「曲者だと? 何人だ」
「それが、今の所は一人」
「なんと」
そうしている間にも、闘争の気配は確実に濃くなってきている。
「殿」
襖が乱暴に開いた。若い武士。護衛の鴨井逸平だ。睦之介に頼まれて登用した、丹下流の剣客である。
「鴨井か。どうなっておる」
「刺客でございましょう。一人ですが、凄腕です。もう数名斬り殺されております」
「小賢しい真似を」
脳裏に種堅の、饅頭顔が浮かび、織部は苦虫を噛んだ。あの男は、いよいよ藩政を掌握しにかかったか。それも、最も効率的で愚かな策でだ。
「大胆な奴め」
「お怒りも詮索も、逃げ延びた後にして下され」
「馬鹿者。相手は一人ではないか」
「並みの者ではないから申しておるのです」
逸平は井上に目配せをすると、織部は忠実な老僕に袖を掴まれた。
「足止め致しまする」
そう鴨井が言ったが、逃げるには既に遅かった。
廊下が軋む音。近付く。既に闘争の気配はない。どうやら、家士は残らず
「来たか」
息を呑む。血臭と共に、その男は現れた。
全身が黒。脚絆や手甲に至るまで、全てが黒装束だ。片手には血刀。返り血も浴びている。
「怡土藩家老屋敷と知っての狼藉。誉めてつかわそう」
「……」
「名乗れ」
男は答えない。返事の代わりとばかりに、その切っ先を織部に向けた。
「お下がり召されい」
織部の前に、逸平と井上が庇うようにして立った。
得物を抜く。逸平は刀だが、井上は二本の小太刀である。
「殿は怡土にとって無くてはならぬお方。どうかお逃げ下され」
井上の目には、有無を言わさぬ強い意志があった。長い間、この老僕を傍に置いていたが、このような鋭い眼光は初めてだった。
「お逃げなされい、勝四郎殿」
数十年振りに、本名を呼ばれた。それが井上の決意を表している。
「すまぬ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
織部は、駆けていた。
雨が降っている。身体はすぐに濡れた。
別邸を出ると田畠が広がり、農道がまっすぐに伸びている。
雨の中を、駆けた。打ち付ける粒が痛いが、構わない。生きねば。それだけを、一心に念じた。井上や鴨井、家士が必死に足止めしてくれている。ここで死ねば、犬死になってしまう。
それにしても、息子を伴わずによかった。それだけは不幸中の幸いだ。金弥には留守を守れと言い付けていた。凡才だが、我が子はやはり可愛い。
不意に視界が暗転した。泥濘に足を取られ、転んだようだ。息が苦しい。胸が破裂しそうである。日頃、鍛練と言うものと無縁の所にいた。武術を野蛮なものと、卑下さえしていた。頭の悪い者は身体を動かせ。そう思っていた自分に歯痒さを覚えた。
(だが、生きねば)
泥を掴み、立ち上がる。全身は泥に塗れ、膝が笑うように震えている。怡土藩十二万石の宰相とは思えぬ成りだ。
視線を前に向けると、黒装束の男が立っていた。
「新手か」
呟く。無論、男は何も答えない。
追い付かれたのか、待ち伏せされていたのか。この絶望的な状況下でも、そうした事に思考が向いてしまう。
「誰だ、お前は?」
「……」
男は、鯉口を切り前に進み出た。
「種堅の刺客か?」
「……」
「甚左衛門の倅か?」
「……」
男は、織部の目の前に立つと、漆黒の頭巾に手を掛けた。
「やはりな」
露わになった相貌を見て、織部は呟いた。
「驚かないのですか」
刺客の問いに、織部は頷いた。
「想定内の事だ。儂は頭が切れるのでな」
「流石でございます」
悔いはある。が、恐怖は無い。むしろ、これで舞台から降りれるという安堵感すら覚えた。
夜空を仰いだ。雨。だが、不気味に雲の隙間に月が覗いていた。雨月は不吉だというが、迷信もあながち間違いではないのかもしれない。
「やれ」
織部は目を閉じた。
「御免」
その言葉と同時に、何かが身体を貫いた。視界が暗転する。痛みは無く、すぐに白い世界が眼前に広がっていた。
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