第十四回 隈怡盟約

 隈府城は、天下の名城。

 そう言ったのは、博多の豪商・谷屋啓哲たにや けいてつである。一方で俳聖として名高い笹沢虚撰ささざわ きょせんは、大きさだけの侘びも寂もない代物だ、と評していた。

 どちらが正しいもない。感じ方の違いだろう。と、猥雑にひしめく町屋の奥に聳える隈府城を仰ぎ見て、睦之介は思った。

 隈府城下、旅籠が多く建ち並ぶ堀北町ほりきたまちである。昨夜遅くに城下に入り、宿舎として藩に用意されていた〔やさご屋喜兵衛〕方で一泊した。この〔やさご屋〕は、北部諸藩の定宿として隈府藩に定められた旅籠の一つである。

 遅寝の後に朝餉を摂り、二階にある部屋の窓から、屹立する黒塗りの大天守を眺めていた所だ。

 昨夜は闇夜に隠れて城塞の威容を目に出来なかったが、今は晩夏の陽浴びて光り輝いている。


(にしても、大きい)


 遠目でも、その大きさに圧倒されてしまう。特に、黒塗りの三層六階の大天守の迫力は、筆舌に尽くし難いものがある。土台となる石垣も、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなり、その反りの美しさは見事なものだ。

 名城である事は疑いない。しかし、この城には侘び寂び、言い換えれば哀愁というものが無いのも確かである。故に谷屋も笹沢も、正しい。感じ方の違い、求めるもの違いなのだ。


「睦之介」


 赤橋に名を呼ばれた。彼もまた、並んで城塞を仰ぎ見ている。


「大きければいいものではない。君はそう思わんか?」


 どうやら、この怡土の俊英は笹沢虚撰と同意見らしい。


「どうでしょうか。私には判りませんが、赤橋様はお気に召されないのですか?」


 そう訊くと、赤橋は大きな眼をジロリと向けた。


「大天守と、二基の小天守。四十九の櫓と、二十九の城門。これを維持するのに、どれだけの銭を要するのか、考えただけでも寒気がする」

「はぁ」

「しかも、虎の子の大天守に小天守。民草を監視するような威厳を備えているが、戦になれば大砲のいい的ではないか」


 余程気に入らないのか、この藩を全否定するような口振りである。それが妙に可笑しく、睦之介は笑い声を挙げた。


「何が可笑しい?」

「いえ、赤橋様は隈府藩が余程お嫌いなのだと思いまして」

「ああ、嫌いさ。どうもな、武士が偉そうなのが気に入らんのだよ。あの隈府城は、その気風を表す最たるものと思わんか」

「確かに、人を見下すような印象はありますが」


 隈蘇台では、隈府藩士の気高さや傲慢に鼻白む心地がしたが、此処に至る道々、或いは城下に入ってからも、その精神の土台にあるものを嫌というほど目にした。

 野道で、百姓が武士に出くわすと、脇に逸れ土下座をするのだ。また、許可されるまで直答を許されておらず、睦之介が声を掛けても、ずっと黙っていた。赤橋が言うには、乱暴狼藉を働かれても、百姓は耐えなければならない。そう藩法に定められているらしい。それほど、武士の権威は制度として保護され、百姓は虐げられている。


「人を見下す。まさにそうだ。隈府の武士は、民百姓の事を何とも思っていない」

「私にもそう見えます」


 この世で、武士が一番偉いと思っている。だから、隈府城などという巨大な城を造れるのだろう。確かに、武士は政事を成す。その責務は重い。だからと言って、武士が偉いという事にはならない。米を作らない武士は、民百姓に支えられてこそ存在できるのだ。


「武士とはな。そもそも大した身分ではないのだ、睦之介」

「……」

「私は、武士を監督する目付組に籍を置いて以降、武士の体たらくを嫌と言うほど目にした。自制心も堪え性もない愚か者を、時に取り締まり、尻拭いもした。嫌になるほどだ」

「ええ、確かに」


 睦之介もそうした武士の姿を、この僅かな間に幾人も見た。博打で敗れ、丸裸にされた武士。町人に喧嘩で負けた腹いせに、放火した武士。商家の玄関で喚き散らし、金品を要求する武士。用心棒として、盗人の片棒を担ぐ武士。百姓の娘を手籠めにする武士。睦之介は、そうした者は身分に限らずいるものだと思っているが、赤橋のようにうんざりする気持ちも判らないではない。


「そうした日々の中で、私は気付いたのだ。このまま武家の世が続けば、この国は滅びると」


 睦之介は耳を疑った。今の発言は、武家政権ひいては幕府そのものを否定するものである。


「何を仰るのですか。それではまるで」

「勤王党と同じだと言いたいのだな?」

「ええ」

「だがそれは違う。私が思うに、奴らは朝廷と結びついて新たな武家の政治を成したいだけだな」

「では、赤橋様はどのような仕組みがよいと思われているのでしょうか?」

「判らん。だが武士の世が続けば、この国は命旦夕めいたんせきに迫るという事だけは判る」

「赤橋様、あなたは」

「……冗談だ、聞き流せ」


 と、赤橋は一笑に伏した。


「さて、こんな所で世の不満を言っても仕方ない。さっさと用件を済まして、愛すべき故郷に戻ろうではないか」

「そうですね」


 睦之介は、気を取り直した。赤橋が何を考えているのか。気にはなるが、その事に思案を及ばしても答えは出ないだろう。それに訊いても笑って流されるだけだ。




 睦之介は、赤橋と共に旅籠を出た。

 目指す先は、臨済宗の寺院。名は泰林寺たいりんじという。そこを訪ねるといいと、石倉善兵衛に言われていた。何でも、菊池丹弥と深い関わりがある寺院らしい。そこまでの道順は、昨夜のうちに旅籠の女中から聞き、地図も用意してもらっている。勿論、その為に心づけも余分に与えた。

 入り組んだ町家を抜け、武家地に出た。道は更に入り組み、迷路のようになっている。地図を見ながらでも、何度か袋小路に行き当たってしまった。


「隈府藩は、心底戦が好きらしいな」


 地図を手にした赤橋が、皮肉交じりに吐き捨てた。赤橋には珍しく、発する雰囲気から些かの腹立ちを感じる。


「忌々しいものです」

「だが見事だ。隈府攻めの一番手は遠慮したいほどだ」


 こうした町割りは、戦を見越しての事だろう。城下の迷宮は、町家のような猥雑さではなく、計算し尽されたかのような統一性がある。戦時には罠を仕掛け、また屋根などから矢弾を打ち込めば、相当な打撃を見込めるはずだ。


「もしや」


 背後から、声を掛けられた。

 振り向くと、そこには見たくない顔があった。紋付の羽織袴。大小の鞘の朱色が目立つ、村野忍太郎だ。

 村野は頭を下げた後、睦之介に一瞥をくれた。


「やはり、赤橋様でございましたか」

「これは村野殿。どうして此処に?」


 赤橋が怪訝な表情を見せると、村野は苦笑し、


「此処は鞍上小路あんじょうこうじと申しまして、御馬組の組屋敷がある武家地。つまり、拙宅の近所でござる」


 と、応えた。

 それから奇遇だと何度か口に出したが、それを額面通りに信じられるほど、怡土藩の目付組は純真ではない。


「驚きましたな。まさか城下でお会いできるとは。隈蘇台勤めではないのですか?」


 睦之介は、正直に疑問をぶつけた。


「公用で戻った所でござる」

「なるほど」


 村野の反応には、何処にも不自然な点が無かった。嘘を吐く人間は、それとなく〔らしい〕反応を見せるものなのだ。


「しかし、何故に斯様かような場所におられるのですか? 確か、泰林寺に行くようにと石倉様に言われたはずでは?」

「それが情けない話ではあるが」


 赤橋が、泰林寺までの地図を広げてみせた。村野はそれを手に取ると、得心したように大きく頷いた。


「つまり、道に迷ったのですな」

「早い話が」

「いや、それは仕方ありませぬな。隈府城下は迷うように造られております故」

「ほう。ならば、慣れぬ我らが迷うのも無理はない」


 と、赤橋は苦笑いを浮かべた。


「泰林寺は、藩庁の西。ここからもそう遠くありませぬ。これも何かの縁、拙者がご案内いたしましょう」


 村野が言うには、どうやら道順を記した地図が雑だったらしい。蝉しぐれを浴びながら、睦之介は案内をしてくれた女中の顔を思い出した。


(心づけを、無駄にした)


 いや、額が足りなかったのかもしれない。どちらにせよ、何か一言でも言ってやりたい腹立たしさが残った。


「お願いしよう」


 赤橋が言うので、睦之介はそれに従った。

 村野に救われるのも癪だったが、こう迷っては是非もない。結局村野に先導され、四半刻も経たずに泰林寺の入り口に到着した。

 二階建ての立派な山門。看板には、〔護国鎮護勅願所〕と記されている。村野曰く、この寺院は隈蘇随一の名刹という。開山は、唐土もろこしからの渡来僧である千竺梵壽せんじく ぼくじゅ。千竺は、僅かな間だが怡土の寺院で住持を勤めていたとされるので、その名は睦之介も知っていた。


「では、これにて」


 村野が去り、睦之介達は山門を潜った。

 訪ないを入れると、庫裡くりから現れたのは意外にも武士だった。白髪交じりの、陽に焼けた初老の男である。寺侍だろうか。気難しそうな老武士は、言葉少なに二人を中に招き入れた。


「暫し待たれよ」


 寡黙な老武士に導かれたのは、一丈ほどの弥勒菩薩立像が鎮座する本堂だった。冷厳とした氣と、線香の香りが漂っている。外の暑さが嘘のようだ。

 暫く待たされた後、あの老武士が現れた。


「お待たせした。菊池丹弥様の御成りである」


 睦之介は、赤橋と共に平伏した。




「楽にされよ」


 声がして、顔を上げた。目の前には巨躯。その顔を見て、睦之介は目を丸くした。


(この男は……)


 石倉善兵衛、隈蘇台で会ったその人だったのだ。筋骨逞しい体躯と、猪首に支えられた髭面。間違いない、この菊池丹弥と名乗る男は、石倉である。

 睦之介は、赤橋に目を向けた。怜悧な顔に、薄ら笑みを浮かべている。驚いているというより、呆れているという印象だった。


「まずは謝罪せねばならんかな」


 と、丹弥は快活に笑った。その巨躯の背後には、家臣と思われる数名の武士が居並んでいる。そこには、村野の姿もあり、こちらを見て黙礼した。


「石倉……いや丹弥様。我々は謀られたのですかな?」


 赤橋の声が、その表情とは裏腹に冷たいもので、睦之介は驚いた。相手は藩主の舎弟。不遜な態度は、交渉を失敗させてしまう。

 無論、その気持ちは判る。睦之介も腹立たしさを覚えている。特に、今まさに自分達を騙した村野には、だ。


「まぁ、謀ったと言えば、そういう事になる。俺が交渉する相手が、どんな男か見たかったのでな。だが、大須賀は兎も角として、お前は余り驚いてはいないようだな」

「驚いております。ですが、そうであっても不思議ではないとは思っていました」

「ほう、その理由は?」

「後ろにおられる村野殿が、隈蘇台で私達を見付けた時『我が主、菊池丹弥の使い』と申されました。御馬組は列記とした藩のお役目。ならば、主は菊池隈蘇守様のはず。そこを隈蘇守様ではなく丹弥様の名を出されたのは習慣というものでしょうか」

「これは鋭い。のう、忍太郎」


 すると、控えていた村野が、


「ええ、全く」


 と、微笑んだ。この男、どうやら口調まで変えていたようだ。


「しかし、俺と酒を飲んでも身構えるだろう? 男が男を知るには、酒を飲むか拳を交えるか。それが、隈蘇の慣わしでな。これも腹を割って話したい故の事。許してくれ」

「なんの。そういう事であれば」

「それにしても、俺の演技も見事なものだろう?」


 本堂が笑いに包まれた。笑っているのは、村野らの家臣達である。睦之介は笑ってよいものか迷ったが、赤橋は呆れるように苦笑している。

 これが、菊池丹弥。


(大きい男だ)


 と、思った。

 その大きさは、体躯だけではない。器、或は懐と言うべきか。この男が、藩主に代わって京都や江戸で暗躍し、今や幕府軍の参謀方頭取になっている。それは乱世だからだろう。世が乱れれば、このような男が現れるものだ。


(どうしても、うちの殿様と比べてしまうな)


 あの饅頭顔が、脳裏に浮かんだ。睦之介は、種堅から何一つ美点を見出していなかった。怡土の武家に生まれたから、仕方なく仕えている。それほどの気持ちしかない。だが、村野達はそうではないのだろう。丹弥という男に惚れ込んで仕えている。それは表情を見れば、一目瞭然と言うものだ。隈蘇台での事も、嬉々としてした事だろう。村野らに対し、多少の羨ましさが、睦之介の胸に去来した。


「だが、お前達の演技も俺に劣らず立派なものだ」

「さて……演技と申されますか」

「隠す事はない。隈府藩をどう思う?」

「尚武の気風篤い」

「嘘だな」


 と、丹弥は赤橋の言葉を遮った。


「嫌いなのだろう? 武士が偉そうだと。しかも、虎の子の大天守と小天守は大砲のいい的だとも」


 睦之介は、背筋に冷たいものを感じた。

 迂闊だった。今朝の会話を聞かれていたのだ。あの旅籠には、密偵が潜んでいた。そもそも隈府藩が公認した旅籠である。そうした可能性を考えておくべきだった。


「丹弥様は、御耳の利きが良いようで」


 だが、赤橋はさも平然と答えた。その声には些かの乱れもない。


「ああ。耳が良すぎて聞きたくない事も入ってしまう。困ったものよ」

「申し開きはいたしません。丹弥様が、腹に二物を抱えたまま阿諛追従する者を好むのならば、腹を切り詫びますが」

「強気だな。動揺すらしておらん。命知らずでもある」

「私は怡土の大目付。藩士を監視し、忌み嫌われる存在。この命は大目付になったその時に棄てております」


 丹弥が目を細めて一つ頷いた。


「そもそも、人が抱く想いは勝手というものだ。お前達の目に映る隈府も、また真実なのだろう。俺が許す許さないという話でもないわ」


 その言葉を聞いて、睦之介は脱力した。どうやら、不問になったようだ。それにしても、自分の迂闊さに腹が立つ。あの時、赤橋を諌めるべきだった。今回は豪放磊落な丹弥に救われたが、皆が広い度量を持つわけではない。今後、他国で本心を語るべきではないだろう。


(にしても、赤橋様だ)


 自分は兎も角、赤橋が迂闊なヘマをするだろうか。文殊のように知恵深い男である。もしや、わざと聞かせ、破談にしようとしたのではないか。赤橋は種堅に対し、良い感情は抱いていない。しかし、破談になれば赤橋とて無傷ではいない。睦之介は、澄ました赤橋の横顔を一瞥した。鼻梁が高く、怜悧という言葉を具現化したような、涼しげな顔。しかし、その内心には、計り知れない深みがある。その存在を、睦之介はこの旅で知った。


「では赤橋、交渉に移ろうか。原田右近将監様から有難い品々を贈られている。なので、当藩としてはその御厚意に対し、出来るだけ報わねばとは思っておるが」


 それが口火となり、本題である交渉が始まった。まずは、互いの権限について。赤橋も丹弥も、藩主から全権を与えられている事を確認し、交渉が成った際は、誓紙を交わす事が定められた。


「して貴藩は何を望む。遠慮なく申せ」


 丹弥が、冷ました茶を口に運びながら言った。


「我が怡土藩は、弱兵揃いでございます。先の叛乱では、賊徒に手痛い逆撃を受けた始末。未だその傷も癒えない今、いずれ行われるであろう荻征伐の矢面に立ちたくはございません。つまり当藩を後方に配置していただきたく、参上した次第でございます」


 単刀直入に赤橋が言った。流石に、失笑が漏れる。それもそのはずだ。自分だって、このような情けない話を笑いたくなる。だが、丹弥がそれを制した。


「大胆不敵だな。その声色には、一切の迷いも羞恥もない」

「腹を割って話される、と丹弥様は申されました。なので、私もそれに応えたまででございます」

「面白い。弱いので戦わせないでくれ、と言うのだな。しかも、その為に賂まで贈る。言葉は悪いが、右近将監様は狸よのう」

「……」

「俺は面白いと思う。しかし、他はどうであろう。参謀方頭取であるから、陣容などは思いのまま。しかし、最終的には幕閣の許可を得ねばならぬ。これが如何にも難しい」


 そもそも、幕府軍への参加命令があったのは、怡土藩の勤王党を掃討した実績と、北部九州という立地からである。なので、戦わない事を認めさせるのは、非常に難しい話だ。


「幕府としては、外様の力を使いたい所であろうし」


 それから丹弥は、顎髭を撫でながら暫く沈思した。


「無論、難しいお立場はご理解しております。それ故に、隈府まで馳せ参じました」

「だがな。この征伐の先鋒は、北部九州勢と決定しているのだ。その中にあって怡土藩十二万石は大きい。実に大きいのだ」

「十二万石と申しても、腰抜け揃いでございます」

「赤橋、自分の藩をそう悪し様に言うものではない。それに弱いとは言え、死に兵には使えよう」


 死に兵。つまり囮の事だ。挑発だろうと思ったが、赤橋の表情に変化はない。焦らして、挑発。そうした印象が、丹弥から伝わって来る。これが交渉と言うものなのだろう。


「死に兵と。そう申されると、我が藩としては何も申す事は出来ません。死に兵にもなれぬ弱兵揃いの怡土藩が出来る事は、賂を贈り御慈悲に縋る事だけでございます」

「むぅ。そうは申しても、難しい話なのだ。怡土藩の御厚意には報いたいのだが、事は幕府も関わる話。そう簡単には」

「今の大老は幕権の回復、強化に躍起と申します。此度の征伐も外様同士に戦わせ、消耗させるのが目的かと存じます。怡土も隈府も、外様大名。むざむざとその思案に乗せられてよいものかと、私は道すがら考えておりました」

「……赤橋」


 そこで丹弥の言葉が切れた。重い沈黙が漂う。赤橋は、開け放たれた雨戸の外に見える、境内に目を向けた。

 木槿むくげの花が咲いている。淡い桃色。その花弁を揺らすように、清らかな風が吹いた。


「もう秋はすぐそこでございますね」


 赤橋が沈黙を破った。丹弥は、ジッと怡土の俊英を見据えている。


「秋は、『とき』とも読みます。貴藩のときとは、どのようなものでございましょう」

「何が言いたい?」

「殿が申しておりました。『貴藩に一朝事あらば、怡土十二万石は無条件に協力する準備がある』と。私には貴藩の〔事〕が何であるか判りません。しかし、此処で助けて下さいましたら、貴藩のときが到来したその時、十二万石は粉骨砕身の努力を惜しみませぬ」


 丹弥は驚いたのか、一瞬目を見開き、そして瞑目し腕を組んだ。

 睦之介は、息を呑んだ。種堅が、これで決まると言い渡した一言である。これを受けて丹弥はどう出るか。


とき、か」


 丹弥が、そう零した。


「よし」


 と、括目する。力強い眼光に、睦之介は一瞬だけ怯みそうになる自分を見付けた。しかし、隣りの赤橋は動じない。丹弥を見据えたまま、真剣な面持ちである。


「今や世は乱世。どんな事が起こるか判らん。それでも怡土藩は、我が藩に協力すると言うのだな?」

「如何にも。殿はそう明言されておりました」

「お前は?」

「先程述べました通り」

「この世の天地を覆す真似をしてもか?」

「無論」


 赤橋は即答した。この世の天地。それが何を指しているのか、考えずとも判る。天は、この二百年余り君臨し、その下に地は同じ時だけあった。その天地を覆す、その行動に赤橋は協力するという。これには流石に驚いた。睦之介は慌てて赤橋に目を向けたが、微笑み返されただけだ。


(もしや)


 武家政権を否定する、あの一言が耳に蘇った。


(やはり、赤橋様は……)


 武家政権、その象徴としての幕府に対し、二心を抱いている。勤王派であるか、そこまでは判らないが、少なくとも幕府を絶対とは思っていないはずだ。


「……」


 だが、丹弥は沈黙したままである。風の音。本堂にまた吹き込む。そこには、秋と木槿の香りが含まれていた。


「こいつは重畳」


 丹弥は腰を上げると、赤橋の手を取り、固く握った。


「西洋の挨拶でな。交渉が成立した時に使うものらしい」

「それでは」

「よかろう。幕閣には俺が認めさせてやる」


 赤橋が、力強く頷く。睦之介は、全身の力が一気に抜け、額には思わぬ汗が噴き出した。


「これより、隈府藩と怡土藩は盟友である。十二万石の助力を得た事より、赤橋頼母という男と友を得た事の方が、俺には嬉しいがな」


 赤橋が平伏するのに続き、睦之介も平伏した。


「しかし、『一朝事あらば』とは、とんだ殺し文句だな。これを言われたら御仕舞いよ。右近将監様は狸だ。いや鯰だな。ぬるりぬるりとした。勤王党の政権を倒し、佐幕に転換したと思えば、裏では幕府に協力したくないと言う。家臣にしてみれば大変な殿様だ」

「全くでございます。普通は『そんな事はない』と言うべきでしょうが」

「おう。なら赤橋よ。いっその事、隈府に来い。家老の席を用意してやろう」


 この申し出を、赤橋は笑顔で固辞した。理由は、隈府武士は気性が荒く、新参が家老になれば何をされるかわからない、からだとした。それに本堂は笑いに包まれた。


「大須賀殿」


 と、声を掛けたのは村野だった。村野は笑顔で、手を差し出した。主人に倣い、西洋の挨拶をするつもりか。睦之介は鼻を鳴らし、癪だがそれに応えてやった。

 その後は、場所を料亭に移して酒になった。盟約を祝して豪華な宴になった。だが相変わらず、強い酒は性に合わない。また村野が妙に絡んでくるのが煩わしかった。あの男は、剣について色々と聞きたいらしい。面倒なので、いずれ立ち合って教えてやると放言すると、案の定と言うべきか、翌朝律儀に〔やさご屋〕まで迎えに来た。

 立ち合いに選ばれた場所は、隈府藩の藩校である。そこで村野と立ち合い、五本の全てを取った。その結果に、見学をしていた少年剣士達は唖然としたが、当の村野は素直に負けを認め、勝者に賛辞を贈った。


(悪い奴ではない、かもしれん)


 それは、竹刀を実際に交えて思った事だった。


「剣は時として、口より物を語る」


 とは、よく言ったものだ。

 真っ直ぐで、そして技で攻めてくるような剣である。卑怯な所は微塵もない。それは、かつての親友を想起させるものであった。思えば、歳も同じ二歳下である。


(鼻に突く男ではあるがな)


 隈府に、友が一人。睦之介はそう思う事にした。

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