第十二回 濁流

「お殿様が、お召しである」

 そう伝えに来たのは、御使番おつかいばんと呼ばれる藩主直属の使者だった。

 怡土城二ノ丸、目付組の御用部屋である。睦之介は、赤橋・大須賀と共に御使番の口上を受けると、恭しく平伏した。

「驚きました。私までお召しとは」

 御使番が去るのを見届けると、睦之介は口を開いた。

「そうだな」

 赤橋が手を組んで、一つ頷いた。

 赤橋や大須賀は判る。そこに自分の名が連なっている事が意外だった。

(父に何か関係があるのかもしれぬ)

 何しろ、自分は谷原織部の息子である。そして、その織部は今や藩主親政を阻む最大の障害なのだ。

(臭うな)

 呼び出された場所が、怡土城ではなくがんノ首にある藩主別邸というのも気になった。雁ノ首は、城下から西に遠く離れた場所にある。何故そのような僻地に態々呼ぶのか。

「何かしらの密議であるのは間違いあるまい」

「私もそう思います」

 そう言った睦之介を、赤橋が一瞥をくれた。

「目付組へのご下命は、執政府を通して発せられるもの。それを越えてのお召しとなれば、執政府を通せない事情を含んでいるものと察します」

「では、『執政府を通せない事情』とは何か申してみよ」

「藩主親政。その為の計略でしょうか。御下問ならば御城府で事足るはず。それを雁ノ首まで呼び出すというのも、執政府に知られたくないからでしょう」

 睦之介の答えに、赤橋が少し顔を曇らせた。

「子としては、やはり気になるか」

 睦之介は、憔悴した父の相貌を脳裏に浮かべ、小さく頷いた。

 藩政介入の姿勢を日々強くする種堅に対し、父がそれを阻止しようとしている。表立って対立はしておらず、二人の仲は一見して良好らしいが、見えない暗闘は行われているという事は、駒が掴んでいる。

岩津いわつの干拓工事の件もあったばかりだからな」

「……はい」

 それは先日の事だった。種堅が何を思い付いたのか、岩津干潟の干拓工事を言い出し、郡奉行と勘定奉行を呼びつけて、工事の算段を申し付けた。それを耳にした父は、岩津の干拓工事を執政府の衆議に掛けて、財政面から時期尚早という結論を出し、執政府の意見として種堅に申し上げた。

 種堅は、

「やはりそうか。ならば仕方ないのう」

 と、一笑し計画を取り下げたらしいが、父の行為に内心では穏やかではなかった事だろう。

「そう娘婿が申しているが、大須賀はどうだ?」

 聞かれた大須賀は、渋く顔を横に振った。

「そうした可能性がないわけではありません。しかし、係る密議に睦之介を招くでしょうか? 藩主親政の障害になっている者は、睦之介の実父でございます」

「私もそう思う。しかしあのお殿様は、親子を相争わせるという事をしかねん」

「そこを私も懸念しておりますが、織部様も相当の切れ者。お殿様が何かしらの陰謀を企てていると知れば、生き残る為に無策ではおりますまい。わざわざ手の内を明かす事をするとは思えませぬ」

「そうだといいが。兎も角、全ては明日。ここであれこれ考えても仕方がない」




 その夜は眠れなかった。父の身に何かが起きるのでは。そう思うと心が騒いだ。父は多くの勤王派を殺した。その報いはいずれあるはずだが、出来るだけ避けて欲しい。その為には、自らの剣を奮う事に躊躇はしない。

(いっその事、隠居してくれればよいが)

 そうは思っても、あの父の事。頼んでも応じる事はないだろう。

 雁ノ首までは、馬で向かった。歩くとそれなりに距離があるのだ。

 久し振りに馬を駆り、身を打つ風が心地良かった。赤橋は流石と思うような手綱捌きを見せたが、大須賀は苦手なのか何処かたどたどしい。

 雁ノ首別邸は城下の西、黒潮灘と船津湾ふなつわんに突き出した岬の森にある。建築したのは放蕩の限りを尽くした前藩主・原田長種はらだ ながたねで、それを二年前に種堅が改築した。

 蝉しぐれが降り注ぐ森を抜けると、屋敷が見えてきた。

「此処だ」

 そう言って赤橋は馬を下りた。

 睦之介はその造りを見て目を丸くした。別邸と言うので風流なものを想像していたが、見掛けは堅牢な陣屋だったのだ。

「二年前、お殿様が風流な屋敷から堅固な造りへ改築された」

「屋敷と言うより、城館ですね」

 屋敷には狭いが堀もあり、石垣もある。

「当時は酔狂だと呆れたが、その時に気付くべきだったな。お殿様が隠している本性に」

 来たるべき動乱を見越しての事か。しかし、こうした備えを幕府隠密に見つかると、色々と面倒ではないだろうか。

 そうしていると、若い武士が二人現れて誰何された。赤橋が名を告げると、若い武士達は頷いて待つように言われた。

 この二人は、藩主の親衛隊なる御小姓組の面々である。目付組稼業をしていると、藩士の事情に詳しくなってしまう。

 暫くして、中年の武士が現れた。背が高く、寡黙そうな顔付きをしている。

(確か、村内壮之丞むらうち そうのじょうだったか)

 書院番士を勤める男だ。江戸生まれで、千葉派壱刀流の免許を持つ。昨年の春に、浪人だった身を種堅に登用されたという。

 その村内に案内され、三人は広間に導かれた。

 そこには、五人の武士が脇に控えていた。一同の顔を睨める。誰もがそれなりの立場にある五人だ。

 側用人、浦志源内うらし げんない

 中老、深江大炊助ふかえ おおいのすけ

 郡代、小田部七右衛門こたべ しちうえもん

 町奉行、笠備前りゅう びぜん

 蘭学者、瀧田了哲たきた りょうてつ

(なるほど……)

 と、内心で頷きながら、座した睦之介は黙礼した。

 これが、種堅の側近。藩主親政を目論む者達か。つまり父の敵。しかし、小姓上がりの浦志と長崎から登用した瀧田以外は、父の子飼いとも言える佐幕党の面々である事に気付くと、睦之介はしたたかな衝撃に襲われた。

 父の家臣ではないのだから、種堅のお召しを受けても不思議ではない。しかし噂されていた対立が現実味を帯びてきた今、深江・小田部・笠の三人がこの場にいる事が、父の苦境を表している。




 種堅の御成りを告げる声がして、一同は平伏した。複数の足音が聞こえると、睦之介は更に頭を低くした。

 緊張していた。始めて種堅に拝謁するのだから、無理もない。思えば、つい先日まで種堅を優柔不断な暗君と馬鹿にしていた。それは自分だけではない。皆がそう思っていた。だが今では暗君を装っていたと知り、父に立ちはだかる障害として種堅を見ている。主君として忠誠を向ける対象ではあるが、崇拝も心服してはいない。

 だが緊張はしている。手の震えを抑える事で必死なほどに。それは主君に拝謁する喜びからではない。そうした感情は微塵も湧かない。敢えて言うなら、何が出るか判らぬ恐怖だろうか。藩主親政を阻む男の息子を呼んだのだ。ただの茶飲み話であるはずではない。

「面を上げよ」

 些か歯切れの悪い曇った声が聞こえ、睦之介は恐る恐る視線を上げた。

 そこには、白く肥えた丸顔があった。まだ若い。歳の頃は、自分と同じか少し上だろう。目が細く吊り上がり、口は小さい。まるで饅頭に顔を書いたようで、噴飯ふんぱんものだった。体格も丸く、肉が付き過ぎている。そう思うと。恐れや緊張など吹き飛んでしまった。

「此処は城ではない。堅苦しいのは無しじゃ」

 と、種堅は足を崩し、脇息に身を委ねた。

「あそこは息苦しくて適わんからのう」

 睦之介は、種堅の砕けた物言いに驚いた。睦之介は並んで座る赤橋や大須賀を横目で見たが、その表情に変わりはない。つまり、こうした男なのだろう。

(それにしても……)

 脇息にもたれ掛る種堅の姿は、まるで豚である。この男が今まで周囲を欺き、天雷山党討伐では自ら軍を率いた男には見えない。

(いや、だからこそ欺けたのかもしれぬ)

 何しろ、あの陰謀家の父を追いつめているのだ。

「すまんのう。態々遠く離れた雁ノ首まで呼び立てて。だが、あそこでは自由に話せんのだ。不思議であろう? 儂が藩主であるのにだ」

 と、種堅が一笑すると、脇に控えた五人もそれに追従した。睦之介は、どう反応するべきか一瞬迷い、結果目を伏せて逃れた。

「で、目付組は相変わらず忙しく働いておるのか?」

「以前に比べ幾分か落ち着いてまいりました」

 種堅の質問に応えたのは赤橋だった。こうした場合、指名されない限りは上位者が応えるものである。自分が何かを応えるという事はないだろう。

「ほう。それは良い。目付組が忙しいのは、藩内が荒れている証拠じゃ。他にも訊きたいのだが」

 と、種堅の質問は幾つか続いた。藩士の風紀の乱れはないか? 勤王党の残党の動きはどうか? それについて、赤橋は端的かつ要領を得た返答で応えた。

「なるほどのう。さて、今日はそち達を呼んだのは他でもない。怡土の俊英が集まる目付組にたっての頼みがあるのだ。しかも内密である故、雁ノ首まで来てもらった」

「密命でございますか」

「そうだ。城では、何処に耳があるか判らぬのでな」

 そう言った種堅の細い目が、睦之介に向いた。

 息を呑んだ。種堅の目が、

「お前の親父が聞いているから言えぬ」

 と、言わんばかりである。しかし、ならば何故この場に自分を呼んだのだろうか。

「今幕府は、荻藩の征伐を計画している。武力を以て禁裏に攻め入った誅伐じゃ。その幕府軍に我が怡土藩軍も加われという幕命を内々に受けた。勤王党を掃討した実績と、北部九州という立地からだろう。勿論、それは名誉な事だ。大樹公の御恩に報えるのだからのう。この怡土一二万石を挙げてやらねばならぬ」

「ええ……」

「だがのう。先の討伐で怡土藩軍の弱さが白日の下に晒された。参謀方を勤めたお前達なら判るはずだ」

 流石に答えにくいのか、赤橋は返事の代わりに苦笑いを浮かべた。

「我が藩は弱い。揃いも揃って弱兵ばかりだ。幕府軍に加わっても、歴戦の荻藩軍相手に醜態を晒すだけだろう。そこでだが、お前達には隈府藩へ行ってもらいたい」

「隈府へですか?」

 隈府は九州の中央、隈蘇くまそ国にある六十五万石の雄藩である。代々菊池家が大名を勤め、藩主の菊池隈蘇守久武きくち くまそのかみ ひさたけは幕府を支える賢公として名高い。

「今回の荻藩征伐の中心に隈府藩がいるのだ。特に軍容は、隈蘇守殿の御舎弟であり幕府軍参謀方頭取の菊池丹弥きくち たんや殿に一任されておるそうでな。お前達は丹弥殿に会い、怡土藩を後方に配置してくれと頼んで欲しいのだ」

「なんと」

 思わぬ言動に、流石の赤橋も驚きの声を挙げた。

「武士の一分も無いが、無様に藩士を死なせとうはない」

「しかし、丹弥様は申し仕入れを受けるでしょうか?」

 赤橋の問いに、種堅は微笑んだ。

「大丈夫だ。それなりのまいないは既に用意しておる。それに、丹弥殿にはこう言えばよい。『貴藩に一朝事あらば、怡土十二万石は全力で協力する準備がある』と。これで全ては終わる」

 それから赤橋と種堅のやり取りは幾つか続き、目付組が使者として引き受ける事が正式に決まった。

 その間、睦之介は種堅が言った、

「隈府藩に協力する準備がある」

 という言葉の意味を考えていた。何かを隠しているという雰囲気は十分にあるが、それが何なのかまで考えが及ばない。

「重ねて申し付けるが、この話は内密である。喩え首席家老であっても他言無用ぞ。のう、大須賀睦之介」

 不意に名を呼ばれ、睦之介は視線を上げた。種堅の饅頭顔。厭らしく笑んでいた。肌が粟立ち、背中に冷たい汗が伝う。

「谷原織部のドラ息子が、今や目付組の出世頭か。人はどこで変わるか判らぬものだのう」

 睦之介は、慌てて平伏した。内心ではお前もそうだろうと思ったが、言えるはずもない。

「よいよい。褒めておるのだ。これからも励めよ」




 雁ノ首別邸を出た睦之介は、着物の下にしたたかな汗と疲労感を覚えた。

 菊池藩との交渉。藩主親政の謀議と思ったが、思わぬ話に驚かされた。だが、これは執政府を通さぬ外交。つまり、藩主の親政と言えるだろう。

「何故引き受けたのか。そう訊きたそうな顔だな」

 厩まで歩いていると、赤橋が睦之介の肩に手を置いて言った。

「赤橋様、何故にお受けしたのですか。これは目付組の役目ではないはずです。命令ならば執政府から下されるべきでしょう」

「私もそう思う。しかし、それを言えばお殿様はこう言ったはずだ。『お前達の主君は儂か? 執政府か?』とな。明言してしまえば、目付組もこの濁流に巻き込まれかねん。佐幕党と勤王党の内訌ないこうのように」

 赤橋邸に戻ると、隈府藩出張について深夜まで話し合った。出発は二日後。使者は赤橋と睦之介で、大須賀が留守を守る事になった。

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