第十一回 蝉しぐれ
城下を行きかう人々は
夏も盛りだった。蝉の鳴き声がけたたましい。目を前に向ければ、進む先に
紀和に見送られて屋敷を出た睦之介は、横浜町の丹下流羽島道場に向かっていた。
剣の師である羽島作左衛門に、稽古を見てくれと頼みがあったのだ。どうも少年剣士達の奉納試合があるらしいが、羽島は体調を崩し病床にあって、思うような指導が出来ないという。
本当は紀和と、
(仕方ない。自分が蒔いた種でもある)
と、睦之介は日差し除けの塗笠を目深に被りなおした。
睦之介が、師範代だった鴨井逸平を父の警護役として引き抜いたのである。首席家老になった父は、新たに警護役として腕利きの剣客を募集した。その時、睦之介が逸平を推挙したのだ。逸平は睦之介や楊三郎同様の部屋住みで、常々世に出たいと言っていた。そこで、友として手を貸したのだが、これが結果的に道場から引き抜いた形になってしまった。その件については、羽島に丁重な詫びを入れた。羽島は自身も父の警護をしていた経験から、これに何も言えないと笑い、逸平の為を思えば送り出してやるべきだと言ってくれた。
城下を北に進み郊外に出ると、忌々しい蝉の鳴き声が、一層激しいものになった。蝉しぐれだ。それが、暑さに拍車を掛ける。屋敷を出て四半刻も経たずに、着物は汗でじっくりと濡れた。
今年の夏は、特に暑く感じる。そして雨も降らない。毎日、猛烈な日射だった。
こうも暑い日が続くと、米の作柄が悪くなるという。粒が小さく、色も悪い。米だけでなく、野菜の出来も悪くなるらしい。農業が藩の主産業である怡土藩にとって、それは痛恨事なはずだ。岩礁が少なく良質な港湾はあるが、商業はそれほど発展していない。作柄が悪くても、商業でそれを補えればと思うが、怡土藩には農業に代わるものが無かった。
(夏に良い事など一つもないな)
夏は嫌いだ。暑さが心地よく好きだ言う者もいるが、睦之介には正気の沙汰とは思えない。暑さは人の気持ちを蝕むものでもある。事実、夏に犯罪は急増する事は、目付組に上がる事件の数字が証明していた。
(だとて、逃れられぬものでもない)
睦之介は自嘲し、先を急いだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
横浜町は城下の北側、海に面して東西に展開している。中級武士の屋敷が多く、屋敷と屋敷の切れ目からは、
相変わらず、磯臭い町だ。海風が涼しければいいが、生温い風が吹くばかりで、おまけに魚の腐ったような悪臭を運ぶ。怡土という地を嫌いではないが、これだけは慣れない。
道場の門前に到ると、既に竹刀が打ち合う心地良い音がしていた。それを耳にすると、つい少年の頃を思い出す。淡く、懐かしい日々だ。楊三郎がいた。始めは何度も負かせたが、いつの間には追い付かれ、そして追い抜かれた。
訪ないを入れると、出て来たのは羽島の老妻だった。一通りの挨拶をし、着替えの為の一間に導かれた。羽島に挨拶とも考えたが、今は眠っているというので遠慮する事にした。
道着に着替えて道場に出ると、二十名ほどの少年達が竹刀の手を止めた。
「谷原様」
「馬鹿、今は大須賀睦之介様だぞ」
などと、小声が聞こえる。
睦之介が、話していた少年に目をやる。空気が凍りつくのが判った。
「この稽古を仕切っているのは誰か?」
一番年嵩であろう少年が、スッと手を挙げた。
「今日は私が稽古を預かる。いいか?」
「勿論です。私達は、大須賀様と……そして加藤様に憧れております」
楊三郎の名を挙げたその少年は、そう言って目を輝かせた。加藤家の名を出す。甚左衛門や楊三郎がどうなったのか知らないのだろう。その穢れない純真さが眩く思える。
「ほう、『羽島道場の龍虎』に憧れてくれるか」
一同が、頷く。何処かこそばゆくなり、睦之介は鼻を鳴らした。羽島道場の龍虎。今もそう呼んでくれるのは、この道場の子ども達ぐらいだ。
「だが、そこで鴨井の名を挙げぬと、後で絞られるぞ」
「そんな、私は」
「ま、今回は黙っておこう。これは貸しだぞ」
そう言うと、道場内の雰囲気が弛緩した。睦之介も笑みを見せる。
だが稽古が始まると、睦之介は厳しい声を何度も挙げた。一人一人と立ち合い、隙がある場所を、容赦なく打つ。少年達は悔しさで顔を滲ませるが、最後に褒めるとその顔に花が咲いた。
道着が汗を吸い、重くなっていく。だが、それが妙に心地よかった。
(この方が、自分に合っているかもしれんな)
目付組での日々は、陰謀と猜疑の中にある。藩士を監視し、非法があれば取り締まる。友人のみならず一族からも忌み嫌われるお役目で、それは精神を摩耗するものだ。それよりも道場を開き、後進を育てる方が人間らしくいられる。
そんな事を考えながら稽古を眺めていると、急に道場が静かになった。
「どうした?」
傍の少年に問うと、少年は入り口を指さした。
父、谷原織部と数名の護衛が立っていた。
(何事か)
清々しい気分の時に見たくない、陰険な顔だ。
「あれは、首席家老様だ」
「え」
流石に少年達は騒然とし、竹刀の手を止める者もいた。
「なあに、有難くするほどの男ではない。稽古は続けろ」
睦之介は傍の少年に耳打ちし、父の所に向かった。父は睦之介の姿を認めると鼻を鳴らし、
「羽島殿の見舞いに来たのだ」
と、父は言った。
「お前が稽古をしていたとはな」
「ええ。先生の代わりに」
「なるほど。お前も義理を理解出来るようになったか」
「色々ありましたからね。僅かばかりのご縁は大事にしたいのですよ。何分、嫌われやすい稼業ですので」
「皮肉か? 目付組に入るように仕組んだ私に対する」
「いや、まさか」
睦之介は、そう言って誤魔化したが、これは皮肉だった。目付組での役目は充実した日々だ。だが振り返ってみると、心の清らかさなど、無くしたものも多い。
「まぁいい。どうだ、最近は。紀和殿は達者か?」
「ええ。お陰様で、義父共々つつがなく」
「そうか。元気ならば良い」
「父上は?」
「儂か。儂はお前から心配されるまでもない」
そう言った父の表情が、何処か冴えなかった。今年に入ってから、どうも
「首席家老としての職責は重い。しかも、あの殿様だ。しかし、これが一国の宰相たる責務だ。……まあ、呑気なお前には判らんだろうがな」
父は冷たくも、力なく応えた。
(父上は厳しい立場にあるのかもしれぬ)
日々、種堅の藩政介入が強くなってきていると、大須賀に聞いた。怡土藩では、四代で原田嫡流の血筋が絶えて以降、〔藩主は君臨すれども統治せず〕を伝統としてきた。政事は、藩主に承認された執政府が成す。その体制が、先日の政変から崩れだしている。種堅主導で佐幕に藩論を転換させたと思えば、直々に軍を率いての討伐。父としては、旧来の体制を維持しようと苦心しているのかもしれない。
父が奥に下がると、護衛の中で鴨井逸平だけが残った。
「よう」
逸平が、白い歯を見せた。四角の顔を真っ黒に日焼けさせている。
「久し振りだな」
会うのは紀和との婚儀以来か。あの時逸平は飲めぬ酒を飲んで泥酔し、裸踊りを見せてくれた。
「外で話せるか?」
逸平が顎で外をしゃくり、睦之介は頷いた。
道場の外は、広い庭になっている。そこでも時に稽古をするのだ。
「お前が稽古をしているのか」
青々とした銀杏の木を背にして、逸平が訊いた。
「まぁな。お前を引き抜いた負い目もあって断れん」
「すまん。だがな、お前には感謝している」
「何がだ?」
「部屋住みで燻っていた俺に、出世の機会をくれた。改めて礼を言いたい。本当は会って礼を言うべきだったが、何分忙しくてな。今までの不義理を許して欲しい」
頭を下げた逸平を、睦之介は手で制した。
「気にするな。友としてもだが、お前の腕を見込んでの事だ。技量は確かだし、何より信用出来る。父の命を預けるのだからな」
「そうか。そう言ってくれると有難い。ところでだが、楊三郎の事は聞いたか?」
「勿論。俺は目付組だぞ」
「そりゃそうだ。あいつ、京都で人を斬りまくったらしいが本当か?」
「……」
「沈黙が答えか」
楊三郎の事は目付組の機密である。幾ら同門で親友だとしても、話す事は出来ない。
それから逸平は、楊三郎の噂について幾つか話した。睦之介は何も答えす黙って聞いていたが、逸平が発する言葉の端々からは、楊三郎に対する落胆と嫌悪が感じられた。
(やはり嫌いなのだな)
楊三郎と逸平は、剣も性格も水と油。仲良くしろという方が無理なのかもしれない。
「もう起きた事だ。それより親父の様子はどうだ? どうも疲れているように見えるが」
「織部様か。俺は見ているだけだが、大変なご様子だ。早朝から夜中まで働いている。休む暇も無いほどだ」
「お役目が生き甲斐だからな。だが、もう若くない」
「尊敬するぜ、俺は。男は働いてこそ価値がある」
「他人様が見ればそうだろうよ」
「少しは仲良くしろ。織部様はお前の事を大切に思っているのだ」
「冗談はよせ」
睦之介は肩を竦め、逸平に背を向けた。
「冗談なものか。今日だってお前が稽古に出ると知って、わざわざ見舞いの予定を入れたのだ。忙しい中でね」
逸平が言うのだから嘘ではないだろう。だからとて、今更父と仲良くも出来ない。面と向かって喧嘩などした事は無いが、父との間には冷たくて深い心の溝を作ってしまっている。大須賀家に婿入りと決まった時、ほっとした事が何よりの証拠だ。父を憎んではいない。しかし、嫌悪してきた存在には違いなかった。
「それより相手をしてくれないか? 小僧共では相手にならん」
「よかろう。織部様もそれをお望みだ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
道場に戻ると、逸平と手合せすると告げた。少年達は嬉々として脇に控える。使い手同士の試合は、中々見れるものではない。それが嬉しいのだろう。
お互い素面素手の三本勝負。その話を何処からか聞きつけたのか、父と門人に支えられた羽島が現れ上座に座した。
上座に一礼し、向き合う。審判をする立会人はいない。逸平との間には、そうしたものは必要なかった。
父に見られている。その意識は振り払い、下段に構えた。
逸平は上段。相変わらず圧力は強い。力の剣は変わってないようだ。
先に踏み込んだのは、逸平だった。猛烈な打ち込み。それを竹刀で受けると、重い衝撃が全身を襲った。
(なるほど)
逸平は自らの剣を貫き、ただ一途に伸ばしている。一本気な逸平の性格そのものだ。
竹刀で受けた後、後方に飛び退くと追い打ちが迫った。剣風が凄まじい。それを躱した所に突き。迫る斬撃から逃れながら、睦之介はある違和感を覚えた。
それは、逸平の動きが読めてしまうのだ。次にどんな剣が来るのか。それが微妙な氣の揺れを察する事で読めてしまう。つまり、逸平との差が開きすぎているのだ。
それは嬉しくもあり、悲しくもあった。自らの成長は喜べるが、友人との差が広がってしまった事と、それが人を斬り過ぎた事に起因している現実が悲しい。
それに気付くと、この試合をどう終わらせるかに思案は及んだ。三本、その全て取ると警護役としての面目を潰してしまう。そして、父の信頼も失うだろう。父は無能と判れば、容赦なく切り捨てる男だ。
(仕方ない)
睦之介は幾つかの攻撃を凌ぐと、いよいよ追いつめられた形で、小手を受けた。少年達が歓声を挙げる。逸平の力強い攻めは迫力があり、見栄えがいい。
「見事だ」
睦之介が左手を抑えて言うと、逸平は幾筋もの汗が伝う顔を緩ませた。
「どうした。お役目ばかりで鈍ったのか? 逃げていては勝負にならんぞ」
「ああ。次は楽に行かせん」
二本目は、一転して睦之介が前に出た。何度か力み過ぎて逸平を圧倒してしまう所があったが、結局上段から打ち下ろす一撃を変化させ、胴を抜いて勝ち得た。三本目は、長い膠着の後で同時に踏み込み、肩と小手で相打ちという形で勝負を分けた。
「一勝一敗一分け。互角だな」
逸平が歩み寄って、睦之介の肩を叩いた。
「ああ。次は勝負を決してやる」
そう言ったものの、睦之介は心疚しい気持ちに陥っていた。逸平に全勝すれば、警護役としての信頼も自信も失う。そうはなって欲しくないが、親友の一人を
(嫌な奴になったもんだ、俺も)
これも、目付組の弊害だ。人を謀る事ばかりを考え、それが上手くなってきている。
勝負を終えると、父は辞去すると告げた。睦之介は見送りに出たが、別れ際に二人で話したいと、父は門前で人払いをさせた。
「相変わらず、お前は甘い」
「甘い?」
「儂は剣が嫌いだ。詳しい事は判らん。しかし、お前が手を抜いている事は見抜けた」
「私は手抜きなどしておりません」
図星で一瞬驚いたが、何とか動揺を噛み殺して平然を装った。
「儂を舐めるなよ。これでもお前の父だ。我が子の心など、手に取る様に読める」
「……」
「お前は優しさのつもりだが、その優しさは鴨井に向けたものではない。自分への甘えだ。鴨井を傷つける事を怖れたのだ。もし奴を友と思うなら手を抜くべきではなかった」
「しかし、父上」
「儂はかつて、それで友を失った。妙な同情を見せたばかりに、友の誇りを傷付けてしまったのだ。そして関係を修復できず、結局は敵となり死なせてしまった」
父は、天を仰いで遠い目をした。友とは、楊三郎の父、加藤甚左衛門の事だろうか。そうに違いないと思ったが、聞ける雰囲気ではなかった。そして聞くものではないとも。父の胸にしまい、そして死と共に消えゆくべき記憶なのだ。楊三郎との思い出のように。
「では、儂は帰る。精々励めよ、放蕩息子」
その言葉を残し、父は逸平達を引き連れて道場を後にした。父の背中が小さくなり、そして蝉しぐれの中に消えた。
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